八月十六日
大矢
第1話
夏休みも半分が過ぎた。うだるような暑さの中、半日ぶりに自宅を出るとどっと汗が噴き出す。額を拭っていると、隣家のおばさんに声をかけられた。
「遥ちゃん、うちのタロウ知らない? 昨夜から見てないのよ」
「ごめん、見てないや……またどこか遊びに行ってるんじゃない?」
「そうね、タロウったらこんな歳になっても本当に……」
「タロウが元気なのはいいことだと思うよ。そうだ、よかったらまたタロウの散歩させてね」
「ありがとう、今度お願いするわ。真里ちゃんと遥ちゃんには可愛がってもらってたものね……真里ちゃんがいなくなって何年経つかしら」
「六年目、かな? 今日も実は会いにいくんだけど」
「あらあら、もうそんなに……真里ちゃんによろしくね。ちょっと待ってて、お菓子持ってくるわ」
そう言っておばさんはいそいそと家の中に入っていく。
遅刻したら真里に怒られるなとふっと思った。甘いものを持っていけば機嫌を直してくれるだろうか。そんなことを考えていると、おばさんが、抱え込むのがやっとというような大きな箱を持って出てきた。
「引き留めてごめんなさいね、これ、真里ちゃんと食べて」
「こんなにいいの?」
「いいのよ。ほら、真里ちゃんが待ってるんでしょう? いってらっしゃいな」
笑いながら背中をばんと叩かれ、このおばさんのどこにそんな力があるのかと考えてしまう。いつも、あのでっぷりと肥えた大型犬のタロウの散歩にも一苦労という様子なのに。でも、おばさんより鍛えてる私でも連れ出すには苦労したんだから、タロウ相手にそうなるのは仕方ないのかもしれない。
「ありがとうございます!」
「気をつけてねー」
住み慣れた住宅街から駆け出し、町の外れの山へと向かう。今日会いにいくのは、幼馴染の真里だ。彼女とは幼稚園の時からの付き合いで、遠くに行ってしまった今もこうして年に一度だけ会っている。
山の坂道を登り、急な石段を駆け上がれば、そこはまるで別世界。この小さな町には不似合いなほどの立派なお寺と、生活音も人気も何もない、ただ草木のそよぐ音が響き渡るような空間が広がっている。そのせいだろうか。心なしか、真夏だというのに肌寒ささえ感じる。
このお寺には怖くて近寄れないと言う同級生もいるが、私にとっては真里とよく遊んだ大切な思い出の場所のひとつだ。今考えると罰当たりな話だけれど。今日の待ち合わせも、お寺の裏の、私たちの秘密基地。
「真里! 遅くなってごめん!」
「本当に遅いわよ。私がどれだけ待ったと思ってるの?」
「ごめんごめん、隣のおばさんに捕まっちゃって。タロウが昨夜からいないっていうのと、ほらこれ、真里にって」
息を切らしたまま謝り、お菓子の箱を取り出す。これは結構疲れる。
「あら、これ私の好物」
案の定機嫌をころりと変える真里に苦笑を隠せない。気は強いけど、こういうところが昔から変わらなくて憎めないんだよな。
「小さい頃から真里はそれ好きだったから。おばさんも覚えててつい買っちゃったんじゃないかな」
「そうかもね、おばさんにはよく遊んでもらったし。うちの両親なんて……」
「真里」
真里の両親は、住人とほぼ顔を合わせることもなく遠くに行ってしまった。元々の行いもあって、彼らの話はこの町ではタブーだ。しかし真里に関しては町の人も稀にではあるが話題にすることもある。主に、「いい子だったのに」「かわいそうにねぇ」と。
だから、彼女のためにもこの話はするべきでないと私は思っている。
「あんな人たちのこと思い出さなくていいんだ。今更どうしようもないけど、私だって止めれてたらって思うけど。でも、真里は忘れた方がいいよ」
「そう……そうね。私はもう自由だものね。ねえ遥、お菓子は嬉しいわ。でも、あなたからのいつものプレゼントはないの? まさか忘れてたりしないわよね?」
長いまつげを伏せ、寂しげで苦しそうな、それでいて嬉しそうな複雑な表情をしたと思うと、次の瞬間にはいつものいたずらっぽい笑みを浮かべこちらを見ていた。
昔からずっと変わらないその笑顔に安堵すると同時に、辛そうな顔をさせてしまったことに胸が痛んだ。
慌てて鞄の中に手を入れると、まだあたたかく柔らかく、少し湿っぽい感触が。
「これでしょ、真里の大好物。私からのプレゼント」
私が鞄から取り出したものを見ると真里はその目を輝かせた。
「そうよこれ! ありがとう!」
「あ、ちょっと待って。ここ汚れてるから拭かないと。ほら、お水も持ってきたから。暑いし喉乾いたでしょ?」
荷物を置く前に、湿らせたタオルで周りを拭く。ほとんど人が来ない場所なので、全体的に砂埃で汚れてしまっているのだ。綺麗になったので、つるりとした石の端に腰掛けて、改めて荷物を取り出して広げる。昔好きだったキャラクターのマットの上に、真里の好きな花、可愛いキャンドル、いい香りのお香、お菓子、ジュース、そしてパンから手作りしたホットドッグ。
今日は真里の誕生日。六年ほど前に約束して以来、私は毎年、こうして真里の好物のホットドッグを作ることにしている。毎年同じ内容だというのにこうして喜んでもらえるのはとても嬉しい。
「今年もすっごく美味しそう。遥の作るものはいつも美味しいけど」
「お眼鏡に叶ったようでなにより。実はね、今年のは特に頑張ったんだ」
いくら受験の気晴らしとはいえ、小麦粉を挽いたり、親戚の家でキャベツを収穫したりと、材料の調達まで頑張りすぎた気もするけど。
「そうなの? ありがとう、楽しみ! あっでも、遥は受験生よね……? 大丈夫なの?」
「それを言われるとね……でも、勉強ばかりじゃ気詰まりだし。むしろちょうどよかったよ。そうそう、私も食べるね」
やっぱり、痛いところを突かれた。これを作っている時、母も仕方ないわねぇといった呆れた目で私を見ていたんだよなぁ。私にとっては本当にいい気晴らしにもなったんだけど。
嘘はついていないはずなのに誤魔化すように早口になってしまい、自分のぶんのホットドッグを口にくわえる。なるほどこれが受験生の自覚だろうか。あっこれ、やっぱり美味しい。
「それならいいけど。……ねえ、遥。これで何年めになるの?」
その声がワントーン下がったことに気付かないほど、私も鈍感ではない。ゆっくり咀嚼して、なんと答えるべきか少し迷って。
「これでって、いつから?」
「私たちがこの約束をしてからよ。こんな時期でもこうして毎年私のためにいろいろしてくれて、会ってて。遥にも、おばさんとかおじさんとか、遥の周りの人にも申し訳ないじゃない」
「大丈夫だよ、今日はお盆で友達はみんな家とか実家に帰ってるし、ただでさえ滅多に会えなくて、今日が大事な日なのは私の周りはみんな知ってるよ。それに、私だって好きでやってるんだから」
「そう……? でもやっぱり、遥はこの町で生きてるのよ。私みたいに遠くに行っちゃって、家族も知り合いも全然いなくて、こんな、私だけずっと変わらないままで……遥を私に縛りつけてるみたいで、遥に悪いなって思うのと、単純に自分がそう思われたくないっていうか、」
「うん」
「遥は優しいし、こうしていろいろしてくれて、私がいなくなる時でも、それに今も、お花とか贈ってくれて、嫌われてないってわかるの。遥とずっとこうしていたいなって。でも、いつかいなくなっちゃうんだなってね、私がね、なんか、すごく、辛くて」
涙こそ流れていないものの、泣きじゃくるように話し続ける真里に、私はなんと声をかけるべきかわからない。本人も何が言いたいのかわからなくなっているのだろう。
一通り吐き出した後、真里はどこかすっきりしたような様子で、恥ずかしそうな顔をしていた。
「ご、ごめんね? なんだかいろいろ言っちゃって……ごめんね」
「大丈夫だって。真里と私はずっと一緒にいて、もっともっといろんなこと言い合ったじゃない。気にしなくていいの。真里はずっと真里でいて。変わらなくていいから」
むしろ変わられても困る、とは言えなかった。そうだ、それより大切なことがあったんだ。忘れるところだった。
ところで、と前置きして話を続ける。
「聞きにくいんだけど、真里、お父さんとお母さんは?」
そう問いかけると、目を伏せて首を横に振る。やっぱり。彼女の両親は、未だに彼女に会いにきてはくれなかったみたいだ。
「そっか、仕方ないね。いやいや気にしないで! さっき忘れていいとか言ったのに、ごめん」
「いいの。それも私のためなんでしょう?」
うん、とは言いにくかった。彼女の両親、特に父親が来たところで、どのツラ下げて、といった話だし。これは私個人の気持ちもあってのことだし。
「遥、考えてることが筒抜けよ。チビのまんまの私をおいてそんなににょきにょき伸びたのに、全然変わらないのね!」
ころころと笑う真里を見ていると気持ちが軽くなった。気付くともう空も赤みがかってきている。そろそろお暇しないと、そう思って腰を上げた瞬間だった。
「ワンワンワン!」
「え?」
「あら」
鳴き声をあげながら、私たちの間に茶色い大きな物体が飛び込んできた。
「タロウ!」
名前を呼んだ瞬間に飛びかかられる。昨夜からいないと言っていたが、どうしてこんなところに。
「タロウ、遥にそんな風にあしらわれるサイズだったの? 昔はもっとこう、遥がばーんって倒れこむくらいに大きかったような……」
「あの時から大きかったけどそんな変わってないって。私が大きくなったからそう見えるだけだと……あっもうほら大人しくして!ステイステイ!」
もう老犬と言ってもいい歳なのに、相変わらず落ち着きのない犬だ。真里の方には見向きもせず、ひたすら私にじゃれついてくるタロウを見て、真里は頬を膨らませている。
「タロウってば、やっぱり私のこと忘れてるのね。もう、ひどい」
「さすがに時期開きすぎてるしねー。ほらタロウ、真里だよ、覚えてる?」
タロウを体から引き離し、真里の方を向かせる。何唸ってるのよあんた。よく遊んでもらったでしょうに。
「いいのよ、わかってることだし冗談だって。もう、遥ってば真面目なんだから!」
けらけらと笑いだす真里に、今度は私が頬を膨らませる番だ。なんだか真里に遊ばれている気がする。
「あら、もうこんな……日が沈んできたし、遥はもう帰らないと。今日は楽しかったわ。ありがとう」
「本当だ、そろそろだね」
「ええ。勉強、頑張って」
「ありがとう。じゃあまた。来年は絶対、何があっても来るから」
「無理はしなくていいのよ。またできれば、来年の今日に。また近いうちに、私は来れないけど、結果報告してくれると嬉しいわ」
「うん、もちろん。じゃあまたね!」
「ワンワンワン!」
そのまま風景に溶け込むように真里は去っていった。
今までいた場所、つまり、お寺の裏の古い墓地。そのほとんどが風化し崩れた中で唯一真新しい墓石に背を向けて、タロウを引きずって帰路につく。もう空は真っ赤に染まり、感じる肌寒さも昼よりいくらか増しているような。
ずっと話していたいのも山々ではあるけれど、本来ここはあまり長居するべき場所ではない。たいした距離でもないはずなのに、降りている間にも赤い空は藍色に変わりつつあって、寒気は一段とひどくなってきていて。なんだったっけ、そうそう、逢魔時だ。いつもうるさ……元気なタロウも、頭を下げながらも長い脚をさかさかと動かし、緊張したような様子を見せている。
山を下りきり住宅の灯りが近付くと、その空気の生暖かさにむしろほっとした。家に帰るついでにタロウを送り届けるべく、人通りのない、少し煙ったさのある住宅街の中を歩き続ける。
「タロウ、もしかして昨日からずっとあそこにいたの?」
「ワン!」
「ダメじゃない。ほらもうこんな時間なのに。あそこの山の、よりにもよってお墓なんて。一番近寄っちゃダメな場所でしょ?」
「クゥーン」
「真里のことはわかっても、そもそもその辺りがねぇ……動物の本能、大丈夫なの?」
「ワンワン!」
成立しているようなしていないような会話らしきものを続けながら、今年も手掛かりがなかったことに溜め息をつく。真里の糞親父、早く捕まらないかなぁ。
真里の両親はこの町にはいない。 母親は覚えていないが随分と前に、父親は六年前、真里がいなくなった後、この町から姿を消した。
私と真里は幼稚園の頃から仲が良かった。真里は当時からお嬢さんで、私はガキ大将のようなものではあったが不思議と気は合い、小学生になってもその関係は変わらず、お互いの家にもよく遊びに行ったものだ。おじさんとおばさんーー真里の両親もいい人たちで、第二の両親のように思っていた。
四年生の時、真里の母親がいなくなった。誕生日のごちそうを作り、書き置きを残し、詳しい理由は知らされていないが、自分の意志で家を出たたようだった。
それから真里の家庭は荒れた。正しくは、真里の父親が。後から聞くと、ほぼ帰宅せず、帰宅すると真里を怒鳴りつける生活だったらしい。真里は家事を自分でどうにかこなし、放課後は私の家で一緒に過ごしていた。
その中で真里は、私の拙い料理がお気に召したようだ。来年の誕生日は私の料理が食べたいと言っていて、来年でも再来年でもいつでも、言ってくれれば作るよと請け合った。そして、私の母お手製の余り物ホットドッグに、家で食べたことない!と感動していた真里は、ホットドッグは絶対に入れてね、と言っていて。それが、六年と少し前の約束。
だから私は真里の誕生日、母とたくさんの料理作って真里の家に向かったのだ。夏休みなので真里がうちに来ることも減っていて、それでも二日ぶりの待ち合わせのはず、だった。
「まりぃ、寂しいなぁ」
タロウを送り届け、帰宅してすぐに自室にこもった。飲まなきゃやってられない、とはこういう気持ちなのだろうか。少なくとも今日は勉強なんてしてられない。
ベッドの上に何冊ものアルバムを広げ、その中にたくさんある真里と私の姿を追う。真里に泣かされる私、私に泣かされる真里、頬をつねりあってる写真、手をつないで昼寝している写真……七五三に入学式、夏休み、お正月まで、二人で泣いたり笑ったりできた頃の姿がたくさん残っている。そして真里が迎えられなかった卒業式の卒業証書も、私のものと一緒に飾ってある。
今日は真里の誕生日であると同時に、お盆の送り日。親戚の家では昨日までにほとんどを終わらせたけれど、本来は今日が死者の霊を送る日だ。そして、彼女の命日でもある。 だから私は毎年こうして真里を祝い、見送り、悼むのだ。
第一発見者は私と母だった。真里の父親は逃げたまま未だに見つかっていないらしい。母親も新しい人生を始めているそうで、振り返りたくもないのだろう。母が説得して、なんとかはずれの山のお寺にお墓を建てもらうのが精一杯だった。だから真里には悼む家族はいない。
それに比べて我が家では、あのトラウマで母は未だにビール瓶に触れないし、父も断酒を始めた。でもリビングには真里と私の写真がたくさん飾られ、形見もいくつか置いてある。
人は肉体が滅んだときに一度目の、人に忘れられたときに二度目の死を迎えるというのは誰の言葉だっただろうか。だからというわけではないが、辛くても彼女に関してのあれこれを、忘れたいことさえも忘れることができない。大切な親友の、娘のような存在の、真里の死を目の当たりにした私たちは、心のどこかであの時から動けていないのだろう。
今日は楽しかったけど、今頃になってどっと疲れたような気がする。明日からまた頑張らないとな、ああ、これも片付けなきゃ。ベッドに倒れこみぼんやりした頭で考えながらも、起き上がる気力はもうなくて。
明々と灯る電灯の下、私はゆっくり目を閉じた。
八月十六日 大矢 @ayanoya
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