空色朝顔

田所米子

空色朝顔

 無地の空色朝顔を世間ではヘブンリーブルー、つまりは天国の青なんて呼んでいるそうだけれど、そんなのは全くのでたらめだ。指さして笑ってもいいぐらいの。裏を返せば、そんなことしかできないぐらいの。でも僕だって昔はあの花のことを、本当に天国に咲いているみたいに綺麗だと思っていた。七年前の夏休みが終わるまでは。


 成績に関わりなく全員参加を強制――というか、端から受けないという選択肢を与えられていない補修を受けながら。教え子たちにこっそり「ダイヤモンドヘッド」の称号を与えられた、古典の教師の解説に耳を傾けるのではなく、彼の小さな目を盗んで数学の課題を消化する、ごくごく平凡な男子高校生の僕。

 身長も体格も顔面も、ついでに校内の基準では成績も平凡そのものの僕は、当時小学四年生だった七年前は、落ちこぼれもいいところ。というか、僕は当時のクラスメイトにとっては幽霊と同じ存在だった。気づかない奴は気づかないし、気づく奴は気づく奴で、僕に出会うなりほんとに幽霊を見たみたいな顔して小走りで駆けて行く。

 片田舎の学校では、一学年につきクラスなんて一つしかない。言い換えれば進級に伴うクラス替えなど起こるはずがない環境では、一度「落ちた」奴はどんなに足掻いても元の場所には戻れない。そして、僕の記憶が正しければ、三年生の時まではそれなりの位置にいた僕を落としたのは、学年の女王さま。ほとんどが地元の小さな会社か市役所、その他子供の目線で見れば「ぱっとしない」職業の親を持つ同学年の子供で唯一、「グラフィックデザイナー」なるカッコいい横文字の肩書の父親に溺愛されているという一番近くのお家の女の子、彩花ちゃんだった。


 三年生までは僕の一番の友達だったはずの女の子とは違い、僕の家庭はといえば代々が農家。父が子供の頃までは、家とほとんど繋がった小屋で牛を飼っていたような家だった。

 顔も可愛くて、勉強も運動もできて明るい性格の彩花ちゃん。僕にあって彩花ちゃんにないものなんて、たった一つしかなかった。けれど、そのたった一つはそれなりどころか結構重大なものだった。――まあありていに言ってしまえば、彩花ちゃんには母親がいなかったのだ。彩花ちゃんのお母さんは、彩花ちゃんがまだ物心つかないうちに、娘を残して出て行ってしまったらしい。

 元々はこの地区の生まれで、就職と共に一旦はここから離れたけれど、また地元に戻って来た彩花ちゃんのお父さん。その夫とは違い、彩花ちゃんのお母さんは根っからの都会の女の人だったらしい。これまたあけすけに語ってしまえば、彩花ちゃんのお母さんは馴染めなかったのだ。

 いつもテレビや雑誌から飛び出てきたような、恐らくはネットで購入しているのだろうおしゃれな服を着ているけれど、母親がいない女の子。可哀そうな・・・・・彩花ちゃんを、お節介な僕のおばあちゃんやお母さんは、いつもではないけれど時々気に掛けていた。

 特におかずを多く作ってしまった時は、

「これ、彩花ちゃんちに持って行ってやって」

 と、僕の手にまだ温かな煮物や揚げ物が詰まったタッパーを押し付けていたものだった。

 午後六時半過ぎの、もうすぐ毎週楽しみにしているアニメが始まろうとしている時間。いくらお隣へのお使いとはいえ、うんわかったと了承するほど小学三年生当時の僕は聞き分けがいい子供ではなかった。お隣とはいえ彩花ちゃんの家と僕の家では、子供の足では十分ほどの距離がある。つまり、急がなければアニメの時間に遅れてしまう。

 それでも、渋々ながら結局は立ち上がり、オープニングが終わるスレスレの時間に自宅の玄関まで猛ダッシュしながら駆け込む。僕がそんな日常を何だかんだで続けていたのは、一つは彩花ちゃんが住む豪邸に、玄関までとはいえ入れるからだったと思う。

 子供が芸術家と聞いて連想する形容詞「気難しい」の多分に漏れず、デザイナーである彩花ちゃんのお父さんも気難しい人らしい。彩花ちゃんはどんなに仲が良いクラスの女の子でも、自宅に上げたことは一度もなかった。

「パパの気が散るから。お仕事のジャマだって、後で怒られるから……ごめんね」

 彩花ちゃんが大きな目を潤ませ、代わりにと缶入りのお高いクッキーを差し出せば、「あたしたち友達でしょ」とぶつくさ言っていた女子も大抵は黙ってしまう。でも、決して納得はしていない。だからこそ、夜に彩花ちゃんの家に晩のおかずを持っていくという仕事・・には秘密基地を探検するにも似た背徳感と高揚感が伴っていた。

 今にして思い返せば、僕はずっとあの、恋心に育つ前に踏みにじられた特別感で満足していれば良かったのだ。もしくは「今年獲れたスイカは甘いから」なんてお母さんの言葉は、聞こえないふりをしていれば良かった。ソーメンと唐揚げの昼食を平らげた後は、弟と一緒に昼寝でもしていれば良かったのだ。

 虫が苦手な彩花ちゃんは、夏休み期間に開放されたプールに涼みになんて絶対にこない。虫嫌いのわりには、僕が捕まえたカブトムシを見せてあげると、物珍しそうに長い睫毛に囲まれた目を輝かせていた彩花ちゃん。

 夏休みが始まって以来、めっきり顔を合わせることもなくなっていった彩花ちゃんに久々に会いたい。そんなこと、考えるべきではなかったのだ。


 こんな田舎ではなくてスイスかフランスか。とにかくヨーロッパのどこかの自然に溢れた町にこそ似つかわしい彩花ちゃんの洋館と、その他を隔てるフェンスは、夏になると真っ青に染まる。

 彩花ちゃんのお父さんが好きだというヘブンリーブルーの幕は、最初はたった一握りの種から始まったものだった。まだ幼稚園生だった頃、おばあちゃんが育てていた朝顔の種を、僕が幾つか彩花ちゃんにあげたのだ。そうして芽を出し蔓を伸ばしフェンスに絡んだ朝顔は、こぼれ種でどんどん数を増やして……。

 僕の朝顔。気難しい彩花ちゃんのお父さんを、世間の目から隠すための緑の幕を、僕はひっそり、誇らしい気持ちでこう呼んでいた。今となっては、あの青を思い出すだけで反吐が出そうになるというのに。昔の僕は、随分とお気楽な子供だったのだ。


「……僕のアイス食べないでね」

 登下校の時にちらっと見るだけだったから、たまにはあの朝顔たちをじっくり眺めてもいいだろう。そんなこれまたお気楽すぎて涙が出そうな理由で、重いスイカを片手にぶら下げて、アブラゼミの声が煩い炎天下に駆けだしていったはいい。だが、スイカの重量は片手が疲れたらもう片方の手に持ち帰る、程度の拙い策でどうこうできるような敵ではなかった。

 彩花ちゃんのお家は、アイスもきっと「お高くて」美味しいアイスなんだろうなあ。スイカのお礼に、なんてごちそうしてもらえないかな。

 愚にもつかないことで気を紛らわせながら、ようやくたどり着いた友達の家。その前では、遠目にも可愛らしい白いレースのワンピースが揺れていた。彩花ちゃんだ。嬉しくなった僕はおーいと声を張り上げかけたけど、実際に出たのは掠れた吐息だけだった。

 彩花ちゃんが朝顔を踏んでいる。将来は絶対に女優さんみたいな美人になるよ、とお母さんやお祖母ちゃんが騒いでいた顔から一切の表情をこそぎ落としたまま。開き切った大輪も、まだ開いていない蕾も。手当たり次第に毟って地面に叩き付け、都会からやってきたブランド品だろう靴の底で押しつぶしている。

 静かな蹂躙は――もちろん当時の僕は「蹂躙」なんて難しい単語は知らなかったから、これは後で当てはめた表現だ――小学三年生の手から力を奪うには十分すぎるぐらいに残酷だった。汗に濡れたビニールのぬめりもまた、半分に切られたスイカがひび割れたアスファルトに叩き付けられた一因だったのだろう。ぐしゃり、と小さな悲鳴を発して潰えたスイカは、僕の心そのものだった。

 がたがたと震える僕に彩花ちゃんが気づく様子はない。緑のカーテンが僕のみっともない姿を覆い隠していたのだろうか。それとも、門の影から彩花ちゃんの様子を覗いている僕の姿は、彩花ちゃんの死角に入っていたのだろうか。もはや答えは確かめようがないけれど、とにかく僕はあの日あの瞬間から幽霊になった。だから彩花ちゃんは、白いワンピースの裾が熱風に煽られ翻り、細い脚どころか下着が見えるままにしていたのだと思う。

 僕の朝顔を踏みにじる女の子の腿には、朝顔が咲いていた。白い肌の上に、大小も濃淡もまばらに広がる青。あれこそ、ピンクの縞々のパンツなんかよりもずっと見てはいけないものだったのだと、当時の僕にだって理解できた。だから僕は、スイカなんて放って一目散に駆けだしたのだ。けれど、残った証拠品・・・から賢い彩花ちゃんは全てを察したらしい。

 僕は幽霊になったのだと僕が理解したのは、宿題を提出するために夏休みの半ばに設けられた、登校日の朝のことだった。挨拶をしても、話しかけても先生以外の誰も何も答えてくれない。僕があの日見たことを周囲に言いふらさないために、彩花ちゃんが仕組んだのだ。


 クラスメイトにとっての幽霊になって以降。僕は学校生活において唯一の「応えてくれる」存在である先生にとっての優等生であることで、学校における自分の存在意義を確かめようとした。つまり、大人にとっての「いい子」の仮面を被ったわけだ。しかし、いわゆる「いい子ちゃん」は、子供社会では大なり小なり嫌われるものである。

 始めは僕を排斥することに多少の戸惑いを覚えていたらしき元友達たちも次第に、

「あいつガリ勉だよな」

「前のテストで満点だったの、カンニングしたからだろ」

 なんて悪口を言うようになった。僕がいるところでも、いない所でも。

 嫌いな科目はあれども、それなりに楽しかった僕の学校生活を地獄に変えた彩花ちゃん。あの子が何を思っていたかなんて、これまた確かめようがない。とにもかくにも、勉強を口実に彩花ちゃんの家へのお使いを断るという魔法の技を習得した僕と、彩花ちゃんの繋がりは急速に薄れていった。

 小学校中学年といえば、そろそろ思春期に差し掛かる頃合いだ。察しが悪い僕の家族も流石に何事かを察したのか、あらぬ曲解をしたのか。朝顔の種が獲れる頃には、彩花ちゃんのあの字も僕の家で話されるなくなった。

 何事に対してもおおらかなのは、僕のおじいちゃんおばあちゃんだけでなく、元は他所の家から嫁いできたお母さんにも当てはまる長所である。だけどそれは、言い換えれば「ずぼら」で「鈍い」ということだ。僕が急に彩花ちゃんを避け始めた理由を、お母さんなりおばあちゃんなりがもっと気に掛けてくれていれば……。こんなことを考えても、もうどうにもならない。


 僕が最後に彩花ちゃんの家を「訪れた」のは、風邪で休んだ彩花ちゃんにプリントを渡すためだった。僕が幽霊になったなんて知らない教師は、プリントよりも薄っぺらな笑顔で、僕に厄介ごとを押し付けたのだ。一番家が近いからというただそれだけの理由で。

 その頃の僕からは、心の表面からは彩花ちゃんに対して抱いていた想いなんて、すっかり消え去っていた。

 夏風邪なんてひきやがって、馬鹿じゃねえのあのクソアマ。おばあちゃんに聞かれたら説教されるのは間違いなしの文句を垂らしながら、それでも緑の幕をくぐったのは、僕が「優等生」だったからに他ならない。

 彩花ちゃんのお父さんに手渡して、ついでに風邪がいつ治りそうか聞いてきてね。と、渡されたプリントを捨てずに、郵便受けに乱雑に突っ込むだけにとどめたのも。……思えば、あの時呼び鈴を鳴らしていれば、彩花ちゃんは……。手遅れだったにしても、もしかして……。

 クソアマの家になんてこれ以上は一秒足りとも居たくない、と役目を果たすやいなや踵を返した僕の足を止めたのは、一年前と同じく彩花ちゃんだった。――家の中から、物音が聞こえる。この甲高い、透き通った声はテレビの音なんかでは絶対にない。

 背を流れる汗の冷たさを意識しながら、声を、存在そのものを殺して耳を澄ませる。目を凝らす。僅かに開いた、白いレースのカーテンは、僕が幽霊になった夏の日に彩花ちゃんが着ていたワンピースにどことなく似ていた。

 ただ一つ、決定的に違う所もあった。白いレースの間からは、白くて細い脚ではなく、毛むくじゃらのぶよぶよした脚や、豚みたいな背中――可愛らしい娘とは似ても似つかない、彩花ちゃんのお父さんの醜い姿が覗いていた。

 細い身体に巨体で圧し掛かり、腹部を中心とした服で隠れる箇所に拳を振り下ろす彩花ちゃんのお父さん。その姿は、カタカナのカッコいい名前の職業の大人に抱いていた幻想を、木っ端みじんに粉砕するには十分すぎた。

 泣き叫び、悲鳴を上げていた彩花ちゃんも、次第におとなしくなっていく。死んだみたいに。すると彩花ちゃんのお父さんは、彩花ちゃんの口に、虫の死骸でも入っていそうなよれよれのズボンのポケットから取り出した何かを放り込んだ。そうして僕には聞こえない声で許しを乞うているだろう彩花ちゃんの服に手を掛けて……。


 そこから先は詳しくは知らない。これ以上は見ていられなくて、見ていたくなくて、今度こそ彩花ちゃんの家の庭から一目散に駆けだしたから。天国の名を冠する花に囲まれた地獄から。ただそれだけで、何もしなかった。今日見た、信じがたい光景を親にも先生にも話さずに、夏休みが始まってもずっと一人で抱え込んでいた。

 ……彩花ちゃんは僕なんかよりも、もっとずっと辛い、本当の・・・地獄にいた。そう僕が知ったのは、夏休みに急に開かれた全校集会でのことだった。

「皆さんのお友達の、平村彩花さんが……」

 彩花ちゃんにとっての本当の友達なんて、ただの一人もいなかっただろう子供らの前で、眼鏡の校長は決まりきったフレーズを吐いた。ただ、次に明らかにされた事実は、「決まりきった」の正反対に位置していた。

「亡くなりました」

 彩花ちゃんの死因は、その場では詳らかにされなかった。僕が真実を知ったのは、彩花ちゃんの葬儀が行われた後。世話をする人がいなくなって枯れ果てた朝顔を指さしながら、訳知り顔で囁き合う見知らぬ顔のおばさん二人の会話を通してだった。

「朝顔の種に、そんな怖い効果があるなんて、私知らなかったわ」

 空色朝顔の種には、リゼルグ酸アミドが――リゼルグ酸ジエチルアミド、つまりはLSDに似た成分が含まれる。彩花ちゃんのお父さんは、都会のデザイン会社から独立し故郷に凱旋・・したはいいものの、流行に乗り遅れたためにか次第に仕事に事欠いて行った。そうしていつしか、枯渇したアイデアを僕の朝顔の種の粉末を混ぜたコーヒーの力で補うようになっていたのだ。

「登校日に娘さんが無断欠席して、学校が何回電話しても繋がらなくて。それで心配して訪ねてみた担任の先生が第一発見者だったんでしょ?」

 僕の朝顔でも抑えきれなかった、もしくは僕の朝顔がもたらした狂気を、小さな娘にぶつけながら。

 体育の前後の着替えで、彩花ちゃんの身体を見る機会も多かった女子は、彩花ちゃんが必死に隠そうとしていた事実に気づいていたのだろう。だけど、女子たちは何もしなかった。彩花ちゃんの怒りを買い、僕と同じ幽霊になることを恐れて、見て見ぬふりをしたのだ。……クラスメイトの女子たちを責める権利なんて、僕にはないことは分かっている。

「まだ十歳だったのに、死体は痣だらけだったって……可哀そうよねえ」

 恐らくは僕や彩花ちゃんとそう変わらない年の子供がいるだろうおばさんたち。汗が浮いた顔に厚く塗りたくったファンデーションは、おばさんたちの浅ましさを隠しきれてはいなかった。

「お金がないけど、周囲にそれを知られるのは嫌だから、娘さんの動画を売りさばいたりしてたんだってね。娘さんにそういうこと・・・・・・した動画とか、」

「嫌がる娘さんに朝顔の種を無理やり食べさせておとなしくさせて、変態動画を撮ってたって……世も末よねえ」

 どこか楽しげに語り合うおばさんたちや報道番組の特集が正しければ、彩花ちゃんは度重なる暴力ではなく、窒息が原因で死んだ。

 リゼルグ酸アミドは、服用すればある意味では天国に行けもする。しかしその反面、下痢や吐き気といった副作用に悩まされることもあるのだ。

 彩花ちゃんは、吐瀉物が喉に詰まって窒息死した。……僕の朝顔が彩花ちゃんを殺した。僕の朝顔が、彩花ちゃんを地獄に落としたのだ。周囲の大人は誰ひとり、それこそお父さんやお母さんだって気づかなくとも、僕は知っている。

 七年経っても、彩花ちゃんの面影が残る地元から県外の進学校に逃げ込んでも、忘れられなかった。だから多分この先ずっと、死ぬまで覚えている。鬱血の青の朝顔が咲いた脚で、天国の青を踏みつけていた女の子のことを。空色朝顔の種をあげた瞬間のあの子の笑顔を、ずっと、ずっと。

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空色朝顔 田所米子 @kome_yoneko

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