少女は鍵を三度失くした

名取 雨霧

二人を繋ぐもの

「壮平、昨日私が頼んだ本、ちゃんと持ってきてくれた?」

「あ!ごめん、完全に忘れてた......」


 それを聞くなり、成海は頰を膨らませながら僕の腹を何度も小突いた。甘んじて彼女のジャブを受け続けていると、やがて拳の動きは止まり、諦めたように溜息を吐き出す。


「忘れるのは私だけで十分なのになあ」


 それは彼女なりの冗談、僕に対する柔らかい皮肉、そして精一杯の強がりなのだろう。尤も、僕はその言葉に笑って返せるほど余裕はなかったのだが。



 彼女の記憶消去が決まったのは今から一ヶ月前、ちょうど高校が夏休みに入った日のことである。成海が入院したと聞き、部活を切り上げて慌てて駆けつけた病室には、病衣の似合わない元気な成海がいた。


「過去の記憶が変異して、苦しい思い出に作り変えられる病気にかかっちゃったそうです。どうしよう」


 成海はいつもと変わらないおどけた表情で、他人事のように説明した。


「どうしようもなにも、医者はなんて言ってたんだ?」

「一ヶ月後に悪性の記憶を取り除く手術をするみたい。まあ私もまだよく分からないんだけどね」


 その時一番取り乱していたのは僕かもしれない。とにかく医師から事情を聞こうと僕は病室を飛び出し、白衣を着ている人に片っ端から声をかけていった。そういうことは担当に聞いてくれ、仕事が忙しい後にしろ、待て俺は医者じゃない等、何度も門前払いをされたのは言わずもがなのことである。


 慌てる僕に声を掛けたのは彼女の担当医、長身のメガネ男であった。彼はまず僕をなだめてから相談室に案内し、安心するような声で説明を始めた。


『精神癌』


 医師達は成海を蝕む病をそう呼んでいる。


 発症が確認されたのはつい最近で、成海もまだ世界で二人目の患者らしい。


「彼女の手術は八月三十一日、それまで成海ちゃんの心のケアを君に頼みたい」

「もちろんそうするつもりです。ご説明ありがとうございました」


 僕はどこか懐かしい雰囲気のメガネ男に深々と頭を下げ、再び成海の病室に戻った。


 ドアを開けた先には、つまらなそうに窓の向こうを覗く成海が一人。僕が声をかけると、彼女の表情は色が戻るように明るくなった。


「おかえり壮平」

「ただいま、って別に家でもないけどな」

「いいの、どうせここで一ヶ月暮らすんだから。それにここが私の記憶の墓場みたいなものだし」


 こう見ると、成海はどこまでも落ち着いて自分の状況を把握しているようだ。しかし僕は知っている。彼女は誰にでも強がるが、内心は寂しがりで、たまに言動が一致しない時もあるのだ。


「成海」

「うん?」


 こういう時こそ、成海の支えにならないと。


「僕は一ヶ月毎日ここに来るから、何かあったらいつでも言ってくれ」


 成海は少し困ったような表情で僕を見つめる。


「そしたら壮平の夏休み終わっちゃうよ?」

「心配ないよ、夏休みはどこで過ごしたって夏休みだし」


 僕がそう返すと、彼女は安心したように笑って呟いた。


「変なの」


 ややあって、成海は僕の胸に顔を埋めて堰を切ったように泣き出した。


 彼女の空元気を見破れて本当に良かった。僕はそっと成海の後頭部に触れ、病気が出て行ってくれるよう祈りを込めて優しく撫で続ける。



 それから一ヶ月の間、僕は病院に通い続けた。彼女は僕が来るといつも嬉しそうに手招きし、僕を丸椅子に座らせて検査の愚痴やあのメガネ男先生とした話を伝えてくれた。


 彼女の話が尽きたところで、僕は彼女が好きそうな食べ物やゲーム、本などを取り出し、検査の時まで休憩室で時間を潰すというのが僕たちの日課である。


 一度彼女に「外出届はもらえないの?」と尋ねたが、「貰えるけど、流石に三十七度の地獄に飛び込む体力なんてないよ」と外に出るのを拒んだ。


 成海の記憶を消す日が刻一刻と迫り、焦る僕とは違い、彼女は病院での日々を楽しんでいるようだった。


 そして、今日は八月三十日。手術の前日である。昼食の後、成海が珍しく外に出たいと言いだしたので、許可をもらって僕らは散歩することにした。気温は二十六度。まだまだ涼しいとは言えないが、一ヶ月前よりもだいぶましだ。


 成海は久々の外出に張り切っているようで、軽くスキップしながら僕の前を歩いていった。



 しばらく歩くと、蝉の鳴き声が大きくなってきた。あたり一面は木で囲まれていて、懐かしい風景が広がる。


 この公園はたしか......


「ねえ覚えてる?私はここで壮平と初めて会ったんだよ」


 そうだ。中学の頃、この公園でこの子の自転車の鍵を探したのがきっかけだった。


「結局鍵は見つからなくて、二人で自転車を担いで帰っていったよね」

「そうそう!」


 近くにあったブランコに立ち乗りし、彼女は懐かしそうに目を閉じた。彼女の脳裏では、十三歳の成海と十三歳の僕が草むらをかき分けて失くなった鍵を探しているのだろうか。


「何年も前なのに意外と覚えてるもんだね!」

「何年も、って言っても五年前だよ」


 五秒くらいのちょっとした沈黙があった。少し違和感を抱いたと同時に彼女の声がそれを掻き消した。


「よし、じゃあ次の場所行こっか」


 そう言った彼女はブランコから飛び降りた。その刹那、彼女の目から離れた透明な雫が光を帯びて宙に舞ったのを僕は見逃さなかった。


「成海!」


 彼女は振り返らず、さっさと公園の出口の方へ歩いていく。



 成海はその後も僕の方を振り向かず、一時間ほど歩き続けた。なんだかきまりが悪くて僕からは話しかけづらかったが、いつまでもこうしてはいられないと考え、どこへ行くのかと声をかけた。すると彼女はすんなりと僕と眼を合わせ、悪戯っぽく「内緒。でももうすぐ」と言うと、楽しそうに鼻歌を唄い始めた。


 歩いていくうちに、ちらほらと屋台が見えて来た。成海がやっと僕の方へ振り返ったと思ったら、いきなり彼女は僕の手を取る。


「ねえあれ食べたい!」


 ここからまた小一時間、僕は彼女に振り回されながらも屋台を回り、焼きそばやヨーヨー、綿飴に仮面など祭の代名詞を一通り買い揃えた。流石に彼女も僕も疲弊しきっていたため、人通りの少ない高台のベンチに避難した。


 屋台を回っている最中に気づいたが、この祭りも僕と成海の思い出の一つだ。


 中高と他校であった僕らは、高校一年のとき、二人の家の中間にあったこの地域の祭りにいく約束をした。そして当日は、今日のように振り回された記憶がある。ふと成海の方を見ると、すぐに彼女と目が合った。目が合うなり、にこっと微笑みかけて僕に言う。


「今年振り回しちゃってごめんね」


 謝罪しながらも全く反省していない様子が彼女らしくて、僕は軽く噴き出した。


「それ、二年前にも聞いた」


 あははと無邪気に笑う彼女を横目に、僕はもう一つのことを思い出した。恥ずかしいので口には出さないでおこう。


「壮平からの告白もたしかここだったなー!」

「ちょっと、声が大きい!」

「今更恥ずかしがることないって!それに、私その日は嬉しすぎて死ぬかと思ったもん」


 僕の制止も虚しく、なぜか彼女は自爆行為に走る。僕は呆れて溜息を漏らす。しかし、ふと彼女の耳が真っ赤になっていることに気づいた。


 恥ずかしいのはお互い様みたいだ。


 気がつくと、一口飲んでそれっきりだったラムネは気が抜けて生温くなり、さっきまで青一色だった空は暗い赤に染められていた。


 そろそろ帰った方が良いのかもしれない。そう思って成海に声をかけると、彼女から見当違いな返事が返って来た。



「壮平のことは、全部忘れちゃうと思う」



 微かに瞳を潤わせた成海がふと呟いた。僕は成海の気持ちを汲み取り、その会話を続けることにした。


「どうしてそんなこと言うんだよ」

「大切な人との記憶が、一番病気の影響を受けやすいんだって」

「そんなのまだわからない」

「わかるよ」


 成海はそう言って僕の方に向き直った。






「私は世界で二番目の患者。世界で初めての患者はね、壮平なんだよ」


 僕は言葉を失った。僕の記憶はきちんとあるはずだ。きっと何かの間違いに違いない。思考が追いつかないうちに成海から追撃が加わった。


「ネタバラシをするとね」


 僕は唾をゴクリと飲んだ。


「私と壮平は小学一年生の時、つまり十一年前にあの公園で出会ったんだよ。あの時は中一の頃みたいにじゃなくて、本当に鍵を失くしちゃったんだ」


 それからは僕の知らない僕と成海の思い出話が延々と続いた。一緒にザリガニを釣ったり、映画を見に行ったり、家族同士でバーベキューをしたり、熱が出た時お見舞いをしてもらったりした記憶なんて、僕は持っていなかった。


「壮平が同じように病気にかかって、手術をしたのが小学六年生の夏。最初はちょっとだけ期待してたんだ」


 成海は遠くを見つめながら黙っていた。何をとは聞かず、僕は彼女に頭を下げる。


「ごめん」

「壮平は悪くないっ」

「いてっ」

「もういいの、今はこうして壮平と居られるんだから」


 そう言うと彼女は僕の肩に体重を預けて寄りかかった。微かに彼女の体温を感じる。二人を祝福するかのように夜空の向こうで何発か花火が上がった。あたりはすっかり暗くなっていて、色鮮やかな花火が映えて見える。


「なあ、どうして僕と成海が幼馴染だって隠してたんだ?」


 成海は少し考えてから、目を閉じて答えた。




「過去を理由にして、私との記憶がない壮平に、関係を強要したくなかったから」





 僕は思わず彼女を強く抱きしめた。彼女の感じていた孤独感や悲しみを握り潰せるように、強く抱きしめた。


 成海が僕の肩を叩き、きついきついと訴えたところで僕は腕の束縛を解いた。


「──ねえ、壮平」


 返事はできなかった。成海が颯爽と僕の唇を奪い去っていったからだ。そして、涙を頰に滴らせながら、満面の笑みで成海らしい強がりな約束を結ぶ。



「思い出をくれてありがとね。わたし、ぜったいに忘れない」



 その瞬間、今までで一番大きな花火が開いた。


 同時に、平成最後の夏は幕を閉じた。














 性懲りもなく、またあの公園で自転車の鍵を失くした彼女に僕が出会ったのは、一年後のことだ。

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