楽園に、ただ一人

馬場卓也

楽園に、ただ一人


 どこまでも続く真っ青な海と空……そんな使い古された表現しか浮かばないぐらい、青木タクマは目の前の風景に圧倒されていた。澄み切った、雲一つない空の青さと、深くよどみのない海の濃い青さが、慣れない船旅でいささか寝不足だったタクマの目に突き刺さるように入ってきた。


 足元の砂浜はどこまでも白く、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。タクマはまるで絵画の中に紛れ込んだようだ、と柄にもなくそう思っていた。11月だというのに、半袖でも過ごせる気候に、海の彼方からそよそよと吹いてくる風に全身が包まれるようで、それがまた、心地いい。


「すげえな」

 ぽつり、とタクマが漏らす。もうこのまま何もせず一か月ほど逗留してもいいかな、とさえ思った。都会の喧騒と激務に疲れた体を癒すのには十分すぎる環境だ。だが、そうもいかない。バカンス気分を抑えて、やらねばならない仕事があった。遊ぶのはその後だ。そのことを思い出し、タクマはちっと軽く舌打ちをすると、上着の胸ポケットから煙草を一本取りだし、火をつけた。ふうと一息吐くと、紫煙がたちまち青空の中に溶け込んでいく。しかしなぜ、海辺で吸う煙草はこんなにも味気ないんだろう? そう思いつつもなかなか禁煙できない自分がいることも、タクマ自身は分かっていた。とにかくうまい飯の後、奇麗な風景、素敵なお姉さんを前にすれば、誰でも一服したくなるもんだ、それが喫煙者なんだと思っていた。心地よい風に当たりながらも、タクマは仕事のことを考え、少し顔を曇らせていた。


 それは、ほんの軽い気持ちで受けた仕事だった。

「コマイヌ島?」

「違う違う、コマヨイ島だ。子が迷う島、とか書くんじゃねえの? 石垣島よりさらに南の、人口40人ほどの小さな島らしい」

「聞いたことないな、そんな島」

「だからいいんだよ」


 今から一週間前、都心の雑居ビルの一室にある編集プロ、その応接スペースにタクマはいた。応接スペースといっても、事務所の一角にパーテーションで区切られた中にテーブルを挟んで一人掛けのソファが向かい合う、簡素なものではあった。テーブルの上には手の空いた女子社員が淹れたであろう、インスタントコーヒーが入ったカップが2つ、それとどこかの頂き物のような、クリスタルの灰皿が置かれていた。

「で、今度はその島に何があるわけ? オバケか、UFOか? それともナチスの生き残りとかとか? いいじゃん、南海ナチス」

 くわえ煙草で、タクマは自分の正面に座っている男に適当かついい加減に言った。

「そんなんじゃないよ、青木ちゃん。もっとすげえんだ!」

 年齢的にもタクマとはそう変わらないが、一人掛けソファからはみ出しそうな恰幅のいい体を揺らしながらその男、橋口は興奮気味にタクマを見た。

「伝説の怪物だよ、怪物! その島にいるんだよ、そいつが」

「怪物ぅ? UMA(未確認生物の日本での略称)系のネタか……」

 怪訝そうにタクマは咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。

「そう! 南の島の怪物伝説、ぞくぞくしないか? 今回は証拠もある」

「証拠ねえ……」


 橋口とタクマは大学時代からの腐れ縁の関係である。在学中は、ジャーナリストの道を目指し、人間の真実の姿を活字という武器で描写すると息巻いていた橋口だったが、いつしか人間の真実とは程遠い、怪しげなオカルト関連の書籍、眉唾物のゴシップを扱う雑誌を主に手掛ける編集プロの代表に収まり、逆に特に何の目標もなかったタクマが、週刊誌記者として、人間のどす黒い真実の姿をいやというほど見てしまう、というのは何とも皮肉な話であった。そんな橋口に、タクマは記者時代から何度か世話になっており、フリーになってからもちょいちょい仕事を回してくれていた。しかし、その仕事というのが心霊スポット探訪や、地図にない幻の集落探査といった、分別ある大人なら信じないような胡散臭いものばかりで、その成果はといえば、コンビニの棚に並ぶ廉価のペーパーブックの記事になって表れる始末である。もちろん、今回の仕事というのも学術的調査といった高尚なものではない、という事は分かっている。


「んで、その怪物を俺が見つけてくりゃあいいの? 写真か、動画か、ひょっとして生け捕り?」

 応接室の隅に山積みになった、橋口の手掛けた仕事――実話と謳ったゴシップ誌やオカルト関連のコンビニ本。もちろん、その中にはタクマの手掛けたものも少なからずある――をちらりと見やりながら、タクマは半ばやけ気味に2本目の煙草に火をつけた。

「そりゃ、見つかりゃ御の字だよ、このビル買い取って、いやビルごと増改築できるぐらいには儲かるわな。でもまあ……」

 そんなことありっこないというのは橋口だって気付いている。心霊やUFO等々、そんないかがわしい情報をいかにもっともらしく真実味を帯びた記事に仕立て、一冊の本にまとめるかが、彼らの仕事であるからだ。真偽のほどは二の次だった。

「いいよ、この季節、南の島も悪くないな」

 タクマの返事に橋口はさらに相好を崩した。

「サンキュ、恩に着るよ。……でな、実は裏があるんだよ、これ」

「……そんなことだろうと思った」

 下手をすれば現地にも飛ばず、部屋にいながらネットの情報だけで一冊本をでっちあげることすら可能なのに、わざわざ遠方の島に赴いての取材旅行だ、そんなムシのいい話があるわけがないか、とタクマは少し、肩を落とした。

「裏ってなんだよ。まさか地元のヤバイ系の……」

「そうじゃない。お前、井上知ってるだろ?」

「井上って、ああ、あいつか」

 井上とは、タクマと同じフリーのライターだった。詳しくは知らないが、以前何度か取材に同行したことがあったことをタクマは思い出した。

「これだ……」

 橋口が一枚の紙をタクマに見せる。スマホで撮られたらしい画像を印刷したものだ。岬から海を撮影したたものだが、水平線を破るように、一本の巨大な、枝のない大木のようなもの空に向かって突き出している

「これがさっき言ってた証拠か。これは……首?」

「さすがだな、お前にもそう見えるか?」

 茶褐色のそれは言われてみれば、動物の首のようにも見える。しかし、首が長いといってもキリンにしては太すぎるし、キリンがこんな南の島に生息しないことぐらい、タクマは知っていた。しいて言うなら、今や化石と復元図でしかお目にかかれない、太古の巨大爬虫類のようにも見えた。

「あるいは流木、いや、こんなふうに海面に立つのは不自然だな……それとも画像加工されたものか。これを井上が撮ったのか?」

「ああそうだ。あいつな、何でも不動産関係の取材でこの島に行ってて、これ撮って、それから行方知れずらしい」

「は?」

「だから、島でこいつを見つけて、首根っこ掴んで連れ戻してきてほしいんだと」

「連れ戻す? そりゃ家族からの依頼か?」

「まあ、そんなところだ。だから今回は依頼主からも取材費が出る、いいだろ?」

「取材というより……それじゃまるで探偵じゃないか」

「ま、平たく言えば、そうなるわな。警察沙汰にすると色々面倒なんじゃないか? 探偵もライターもそれほど変わらんだろ」

「全然違うだろ」

 タクマの前には、いつの間にか『取材費』と書かれた茶封筒が置かれている。事前に取材費が出るなんて稀なことだったが、これも依頼主からのものなのだろう。タクマは、ちらりとその厚みを確認してしまう自分が、ほんの少し嫌になった。

「ま、島自体半日で一周出来るぐらいの、大きくないところだ。井上のやつ、大かた土地の女に入れ込んでるかなんかだろ」

 そう言って、橋口は『よろしく』とばかりに頭を下げた。


 ぼんやりと海を眺めながら、タクマはこれからのことを考えた。島に一軒しかない宿に入ってから、ぐるりと島を回って、足で探すしかないか。怪物と井上、どっちを先に見つけた方がいい? そりゃ井上だろう。しかし、井上が今でもここにいるという確証はあるのか?

「あ、そうだな、ここを離れてるかもしれない」

 思わず口に出してから、タクマは吸っていた煙草と足元に落とし、もみ消した。


 カツン!

 

 タクマの後頭部に衝撃が走った。

「ってえ!」 

 痛む頭部を押さえ足元を見ると、ゴルフボールほどの大きさの巻貝が転がっている。

「誰だ!」

 タクマが怒声を張り上げ振り返ると、砂浜から20メートルほど離れた堤防の上に人影が立っている。

「あんな距離から? お前なあ、怪我したらどうするんだよ!」

 堤防の人影は、返事もせずに、すっと砂浜の上に立つと、たたたっとタクマのそばに走ってきた。

 ショートヘアで、夏物のセーラー服を着た、少女だった。

「え、お前? 野球でもやってるの?」 

 タクマは少女を見るなり、怒りよりも、少女の命中率の高い投球力に関心が行ってしまった。

「こんな小さな貝殻をあの距離で……」

 少女はよく日焼けした顔をじっとタクマに向けている。黒い瞳が大きく、じっとタクマを見つめていた。

「しかし、いくらなんでもこれを人にぶつけるってのはな……」

「煙草」

「なに、煙草がどうした?」

「さっき、ポイ捨てしたでしょ。いけないな、汚しちゃ」

「あ……それで」

 タクマは慌てて、足元の吸い殻を拾い上げ、火がついてないのを確認してから、ズボンのポケットに押し込んだ。

「これでいいか?」

 うん、と頷く少女は、満足したのか、にこっとタクマに微笑む。

「むやみにゴミを作らない、海を汚さない。これ、島のルールね」

「わかったよ、もうしない」

 見た感じ、高校生ぐらいの少女に注意されて、タクマはなんだか恥ずかしい思いになり、思わず視線をそらした。

「わかれば、よろしい。おじさん、どこから来たの?」

「あん? 東京から、はるばる飛行機と、船を乗り継いでな」

「東京の人か……そんじゃ」

「そうだ、最近ここに」

 タクマが声をかけようとしたが、少女はスルスルと制服を脱ぎ始めた。

「あ、おおい、まて、こんなところで!」

「こんなところって。ここ海でしょ、泳ぐのは自由よ」

 制服の下にあらかじめ着込んでいたらしく、少女は、濃紺の学校指定らしい競泳タイプの水着姿になっていた。

「お、泳ぐのか?」

 水着姿の少女を前に、タクマはいささか戸惑ってしまった。

「うん、まあ日課みたいなもの」

 そう言うと、少女はササッと浜へ走り出し、波の間にタパッと姿を消すようにして、泳ぎだした。 

「そうだー、お宿は、堤防抜けて右にまっすぐだよー!」

 観光客なれしてるのか、波間から顔を出した少女の声が、はっきりと聞こえた。


 少女に言われた場所に、宿はあった。宿とはいっても、二階建ての民家を改装した民宿だった。受付を済ませると、タクマは二階の客室に通された。十畳ほどでテレビはなく、開け放された窓からは海が見える。

「なんもないところでよ」

 タクマを案内した、女将らしい中年女性が、笑顔で茶を注ぐ。南の島らしく、派手な色彩のシャツに、前掛け姿だ。

「いえ、そのほうが、いいんです」

 その言葉に嘘はなかった。週刊誌のスキャンダル専門の芸能記者に嫌気がさし、晴れてフリーになったものの、舞い込んでくる仕事はやれ心霊スポット探訪だ、失われた幻の集落の調査だ、未確認生物UMAにUFOといった、きわめて信憑性の低いものばかりだ。しかし、週刊誌時代に、さんざん人間関係の醜さを見てきたタクマにとっては、インチキだろうとなんだろうと『人ならざるもの』たちと関わるほうがはるかに気が楽だった。それに取材の際は、ちょっとした旅行気分で気分転換にもなる、という事もこんな仕事を選んでしまう理由の一つだった。


「そうだ、さっき浜辺で女の子と会いましたよ」

「女の子? ああ、ヒナでしょ。悪さしませんでしたか?」

「いいえ、逆にこっちが怒られたみたいなもので」

 ヒナか、とタクマは心の中でつぶやいた。よくは見てなかったけど、あのルックスは東京にでも出れば、モデルかアイドルでやっていけそうだな、と芸能記者時代の悪い癖がちょっとだけ頭をもたげた。


 その夜は、夕食時に女将から軽く島の話を聞くだけに留めておいた。取材は明日からにしよう、とタクマはその夜は休んで、旅の疲れをとることにした。窓から入る潮風はとても心地よく、月明かりが照らす海は穏やかで、ここに怪物がいるなんて、まるで信じられなかった。

「ん……」

 あまりにも心地よいものだから、ついつい酒が進み、いつしかビール瓶2本を開けていた。

 と、部屋のふすまが開き、人懐っこい笑顔が見えた。ヒナだ。

「お酒、切らしたでしょ、持ってきたよ」

 ヒナは盆にのせたビールを、コン、と座卓に置く。

「今、取りに行こうと思ってたのに。勘がいいな……」

「偶然だよ。晩御飯食べて、お風呂上りに一杯やると……」

「なるほど、客の行動で酒の分量が分かるのか。こりゃ、優秀な跡継ぎになるな」

「違うよ、私、ここの子じゃないよ」

「は? でも、こんな夜更けに」 

 と、タクマは時間を見るためにスマホを取り出す。すると、ヒナはそれを珍しそうにしげしげと眺めている。

「持ってないのか、スマホ」

「うん、ここじゃいらないし」

「ガラケーも?」

「ガラケー? ああ、携帯電話のことか。それも持ってない」

 こんなに小さな島だから、スマホも不要なのかな、でも年頃の女の子なら必需品といってもいいんじゃないのか? そう思いながらタクマは液晶画面に表示された時計を見た。いつの間にか、日付が変わりそうな時間帯である。

「こんな遅くに、君みたいな女の子が出歩くのはあまり……」

「大丈夫、島のみんな顔見知り出しだし、よそ者、おじさんだけだから」

 どうぞ、とヒナがビールをコップに注ぐ。

「不審者はよそ者の俺だけか……。ン、俺だけ? よそ者といえば」

 ビールをキュッと飲み干して、タクマはヒナを見た。いや、いたはずの場所に、ヒナの姿がない。

「帰ったのか? 聞きたいことがあったのに」

 まるで幽霊のようにすっと姿が見えなくなった。ただ、さっきまで閉められていたふすま戸が開け放されていたことから、彼女が帰った痕跡だけは認められた。

「素早いな……まさか、忍者の末裔かな?」

 南の島に忍者の一族が住んでいたなんて話は聞いた事がない、でもそれもネタになるかな、酔いも手伝って、そんなことを考えているうちに、睡魔がふいに襲い掛かってきた。井上のことは明日にでも聞こう、そう思い、タクマはごろりと横になった。


 翌朝。ゆさゆさと体を誰かに揺らされ、タクマは目を覚ました。

「おはよー、今日はどこ行く?」

 顔を上げると、ヒナの顔がそこにあった。昨日と同じ制服姿だ。

「あ、ああ……」

 適当過ぎる朝の挨拶を済ませると、タクマは着替え、島で採れたであろう、海の幸がふんだんに盛り込まれた汁物がメインの朝食をとり、宿を出た。そのそばには笑顔のヒナの姿があり、はたから見ると年の離れた兄妹のようにも見えた。

「おじさん、取材でしょ? 東京で何やってるの? 新聞記者さんとか?」

 宿から、昨日二人が初めて出会った海岸へ向かう途中、ヒナが尋ねた。

「まあ、近いかな。やっぱり堅気の観光客には見えないか」

「うん。だって一人だし。それにここ、観光客なんかほとんど来ないよ、来ない方がいいかも」

「そうか? こんなにきれいな自然が残ってる場所はそうそうないよ。もっとアピールして、たくさんの人に来てもらった方が」

「いやよ、そんなの」

 ヒナの強い口調に、タクマは少し、驚いた。

「観光客を呼び込んで、地元の良さをアピールなんて、都会の人間が思いついた身勝手な発想だな、すまん」

「うん、そういういこと。やっぱりいい人だね、おじさんは」

「それほどいい人でもないよ、俺は」

 海岸に着くと、ヒナは昨日と同じようにあらかじめ着込んでいた水着になって、泳ぎ出した。本当にこれが彼女の日課なのか、と思いながら、タクマはまるで魚のように体をくねらせ泳ぐヒナを姿を見ていた。

「しかし……」

 11月だというのに、彼女はなぜ夏服のままなんだ? それに、学校は? 確か、今日は平日だったはずだ。その辺りのことは、彼女が戻ってきたら聞いてみよう。彼女なりの理由があるのかもしれない。俺は孤島の少女の取材ではなく、あくまでも伝説の怪物、それに行方知れずの井上の調査で来たんだ、とタクマは自分に言い聞かせた。


「他のライター……さん?」

 島の中心部に位置する村の雑貨店で、タクマに買ってもらったアイスキャンデーを舐めながら、ヒナは目を丸くした。

「ああ、先月辺りにも、一人来たはずだけど。小さな島だから、誰か来たら目立つと思うんだけどな、俺みたいに」

「知らないなあ、そんな人。おじさんはいい人だから目立つんだよ。アイス買ってくれたし」

「いい人とか、関係あるのか?」

「うん、あるよ」

「あるのかな……。とにかく、見てないんだな」

「うん」

 ヒナの言葉には、何かをごまかしているような素振りは見られない。こんな小さな島でも目立たないぐらいに井上はこそこそと何をやっていたんだ? とタクマは思った。

「そりゃ親島に行ったん違うか」

 二人の声が聞こえたのか、雑貨店の奥から店の主人が顔を見せる。日に焼け、白髪を短く刈り込んだ、眼光鋭い老人だ。

「そいつぁ俺見たよ、森出てから、そのまま親島行ったよ」

「親島って、ここのお隣の島?」

「そうだ。来て、すぐ帰った」

「森って……」

 タクマが聞こうとするが、主人は再び、店の奥へと戻っていった。

「すぐ帰ったんなら、私知らないはずね。あっちの方が何かと便利だしね」

 アイスを食べ終えたヒナが言った。


 親島はコマヨイ島から数キロ離れた場所に位置する小島だ。人口、面積的にはコマヨイとそれほど変わらないが、本島から定期便の就航があり、いくらか交通の便の良さでは優っていた。タクマもそのルートで親島から漁船に乗せてもらい、コマヨイに来たので覚えていた。


「親島か……」

 親島に行くとなれば、午後か明朝の漁船に乗せてもらうしかない。タクマは井上のことは後回しにして、もう一つの取材目的、怪物のことを聞き出そうと思った。

「ところでさ、この海に怪物がいるって話、聞いたことある?」

「怪物? 知らないな、どんなの?」

「首が長くて、ネッシーみたいな感じで。UMAって聞いた事ないか?」

「ネッシー? ユーマ? ウマじゃなくって?」

 最近の女子高生がネッシーなんか知るわけなかったか。しかし、ヒナの口ぶりでは、本当に知らないようだ。 


 それから、タクマはヒナと共に村を歩き回り、怪物のこと、井上のことを住民に聞いて回った。行く道々で、ヒナが島のことをあれこれと話してくれたが、怪物や井上失踪の手掛かりになるようなものはなかった。それに、村民の聞き込みも、ヒナと同じようなものばかりだった。雑貨店の主人が言ってた『森』というのも気にはなったが、あの口ぶりでは、怪物の写真を撮ってすぐに親島に向かったらしい。


 ヒナと別れて宿に戻った頃には、日が傾きだしていた。

「本日も成果なしか……」

 橋口の言ったとおり、半日足らずで島を一周し、ひょっとしたら全島民に聞き込みをしたかもしれない。それでも有力な手掛かりは何もなかった。井上のことはさておき、怪物はやはりガセだったか。何か事情があってあんな捏造写真を送り、井上は姿を消した。その方が辻褄が合う。それよりも気になったのが、この島にはヒナが通っているであろう学校がなかった。駐在所と公民館は見かけたが、それらしいものを見なかった。

「あいつは、何者だ?」

 部屋でそんなことを考えながら、タクマは煙草に火をつけた。


「親島いくので?」

「ええ、まあ」

 夕食の席で、女将にそう聞かれたタクマは、曖昧に返事をした。

「聞き込みしましたが、さっぱりだったもので。あっちの方が手掛かりあるかなと思いまして」

 それを聞くと、女将が少し微笑んだ。

「それがええですよ。それでええです」

「ええですかね」

「なんもないもん、こんなところ」

「いい所ですけどね……」

 タクマが言い終わる前に、女将はさっと部屋を出た。この島の住人は、ヒナもそうだが、みんな身のこなしが素早いような気がした。やはり忍者の末裔か? 少し酔いのまわったタクマは再びそんなことを考えていた。

「井上は親島、ダメだったら警察、怪物は……適当にでっちあげるか」

 大の字に寝ころびながら、タクマはポツリ、と呟いた。

 想像以上に成果の出ない取材だ。しかし、今までもよくあることだった。そんな時は決まってそれっぽい話や目撃談をでっちあげて、まとめるのが常であった。明日辺りには何とか形にしておきたいな、と思いつつ、タクマはいつしか眠りに堕ちていた。


『どうする?』

『流すか、返すか?』

『いい人だよ』

『なぜそう思う?』

『いい人だから』

『しかし、もう遅いかもだ。朝返せ』

『そうな。なら流すのはやめか』

『明日次第』

『明日次第』


 頭のすぐそばで、数人の男女が独特のイントネーションで囁き合ってるような声がする。その口調は、地元の人間らしい。その中にはヒナも混じっていたような……タクマは飛び起き、辺りを見回すが誰もいない。それほど暑くもないのに、全身にぐっしょり汗をかいていた。時間を確認したかったが、窓から朝日がうっすらと差し込んでいるので、夜が明けたことだけは分かった。


 このまま二度寝するのもどうかと思ったタクマはいそいそと着替え、女将に気付かれぬようにそっと宿を出た。昨夜のあれは夢だったのか、本当に誰かが侵入してきたのか? 宿の女将が知らないということは、井上は泊まらずにここを出たらしい。しかし、怪物が目的ではないとすれば、他に何があったのか? 島民がみんな何かを知っていて、それを隠しているのでは? そんな思いが頭の中を駆け巡った。タクマの足はいつしか、村はずれの森の前に向かっていた。

「森がどうとか言ってたが、ここか?」

 熱帯性植物が生い茂る森の前で、タクマは呟いた。朝日に照らされた森はそれでも暗く、よく見れば、けもの道が奥へと続いている。

 何かあるかもしれない……長年の記者活動で培われてきたタクマの勘がそう言った。いや、勘よりも好奇心の方が勝っていたのかもしれない。タクマは、日の出を惜しむかのような虫の音と夜明けを告げる鳥獣の声に出迎えられるように、けもの道をゆっくりと進んでいった。


 歩いて20分ほどたった頃、トートートーと水の流れる音が鳥の声に混じって聞こえてきた。タクマは思わず足を速めた。やがて、音が大きく変わる頃、道が開け、音の正体が見えてきた。5メートルほどの小さな滝と、泉が目の前にあった。

「おお……」

 勢いよく流れる滝を湛える泉は、恐ろしいほど澄んでおり、来るものを寄せ付けない美しさがあった。まるでジャングルに現れたオアシスだ。タクマは持っていたスマホのカメラを構えた。怪物も井上のこともどうでもいい、この美しい風景を世間に公表できれば、そう思った。

「いけない」

 滝の上から、はっきりとした声がタクマの耳に届いた。いや、耳というよりも頭の中に直接語り掛けてこられたような印象があった。見上げると、朝日に照らされ、逆光気味だが、滝口に人影がある。それがヒナだという事はすぐに分かった。

「いけない、ここは撮っちゃダメなところ」

 すぐ近くに人の気配を感じ、タクマが振り向くとヒナが立っていた。

「え? お前、さっき……」

 さっきまで滝の上にいたものがなぜここに? 

「それに、学校は?」

 ヒナの行動に驚くあまり、タクマは思わず場違いな事を口にしてしまった。

「ここはダメ、ここ以外ならいいけど」

「すまない、こんなきれいな場所があるとは思わなかった」

 カメラをカバンにしまうのを見て、ヒナはいつものように表情を綻ばせた。

「やっぱりいい人。でも、しまったなあ。ここに来るなんて思わなかった」

「記者って仕事柄、納得できないことがあれば、徹底的に調べたくなるもんなんだよ。その際、人の迷惑を顧みないことだってするかもしれない。な、やっぱりいい人じゃないだろ?」

「そんなことないよ」

「それよりも、お前、こんな朝早くからこんなところに……お前、生きてるのか?」

「へ?」

 タクマは、ヒナに思わず、ストレートな疑問をぶつけてしまった。

「いや、よくある話だよ。昔ここで死んだ子供が、霊になって現れるとか、警告しに来るとか。それ系のネタをいくつ書いてきたからさ、なんだかお前見てると、そんな気がしてさ」

「私はちゃんと生きてるよ、ほら」

 ヒナはぎゅっとタクマの手を握り締めた。冷たいが、ちゃんと感触がある。

「でも……じゃあ、お前の通ってる学校ってどこにあるんだ。それにお前いきなり消えたり、現れたり」

 タクマに言われ、ヒナは少し考え込むような顔をした。

「うーん」

 と、足元の地面がほんの少し、ぐらっと揺れる。

「仕方ないな。来て……」

「え……」

 ヒナはタクマの手を取ると、滝の方へ向かって真っすぐと歩き出した。

「ちょっと、どこへ……」

 タクマの質問には答えず、ヒナは滝の前まで向かった。一瞬振りほどこうとしたが、ヒナの手が離れない。ものすごい力だ。ヒナに引っ張られるままにタクマは、滝のその奥へと連れていかれた。滝の奥には大人一人が立って歩けるほどの縦穴がぽっかりと開いていた。

「こんなところに……この奥に、何があるんだ?」

「いいから、進んでみて」

 言われるままにタクマは縦穴の暗闇へと足を踏み入れた。

 距離にして100メートルほど、明かりのない、暗い穴の中を、ヒナの手の感触だけを頼りに進むと、陽光にさらされた出口が白く、見えてきた。それと同時に、ヒナの手の力が緩んだ。

「ほら、ここ」

 出口を抜けると、再び森の中だった。遠くで波の音が聞こえる。

「海への近道。いや遠回りかな……」

 冗談めかしたタクマの口調に、ヒナは無表情だった。

「この先、行ってみて」

 言われるままに森を出ると、目の前に青い光景が広がる。眼下には海、そして頭上には青空。タクマは岬の突端に立っており、その聡明な美しさに息をのんだ。

「ここ、知ってるよね」

 ヒナに言われて、タクマはこわごわと足を踏み出した。20メートルほど下には海が広がっている。崖に打ち寄せる小さな波の音が聞こえる。

「ここは……そうだ、井上の写真!」

 あの日、橋口に見せてもらった怪物の画像、あれを撮った場所に酷似している。いや、その場所だ。

「でも、なぜそれを知ってるんだ? あいつ、あの画像を送りつけて……」

「これに入ってたから」

 ヒナが、スマホを取り出した。

「お前、スマホなんか持っていないって……」

 そう言いかけて、それが井上のものだという事に気付くのに、時間はかからなかった。「それ、ひょっとして……知ってたのか、井上のことを?」

 興奮気味にタクマはヒナに詰め寄った。しかし、その姿が一瞬で掻き消える。

「え……」

「井上さん、色々撮りすぎ。泉も撮ってたし、ここを開発したいとか言ってたの。やめろと言っても聞かなかった。親島行って、本土と連絡してたみたい」

 タクマの背後から、ヒナの声が聞こえる。

「開発? それで……」

 ライターの中にはガイドブックにも載っていないような名勝、風光明媚な土地を見つけ、それをマスコミ、あるいは不動産業者にリークするブローカー的な副業をしている者もいると聞いた事がある。そういえば井上も不動産関係の取材でここに来た、と言ってたな、とタクマは思い出した。リゾート地にするには最適だろうが、禁忌の土地に近付きすぎたのだ。

「みんな怒ってた。だから、流したよ。ほら、その先」

 タクマは振り返り、ヒナの指さす方向を見た。どこまでも青い海しかない。

「じゃあなにか、島の連中で寄ってたかって、あいつをリンチ……」

 ヒナは首を横に振った。

「あの人は、アルジサマの元へ流したの」

「アルジ、サマ?」

 その時、足元が再び揺れた。今度のはさっきよりも大きい。

「地震?」

 とっさにタクマはヒナの手をつかんだ、いや、つかまれたのかもしれない。そして、そのまま身を伏せた。足元が崩れ、岩塊がパラパラと海に落ちていった。

「地震だ、ここは逃げた方が」

「ほら、あれでしょ、おじさんの探し物」

 目の前の海原に異様なものが現れた。茶褐色の大木、いや、ぬめぬめと光る皮膚を持った動物の首だ。首の先には数本の歪曲した角を有した頭部と思しきものが見えた。距離からしてもその長さは30メートルぐらいはあるだろうか。見たこともない、生き物の首だ。

「か、怪物……あれが、井上の撮った」

「あれが、アルジサマ。怪物じゃないよ、アルジサマはアルジサマ」

 再び、大地が大きく揺れた。

「おじさんは、島のことを調べなかった。だからいい人。ゴミも拾ったし。みんなで流すか、返すか相談したけど、返すことにしたの。でも、もう遅いよ」

 昨夜、枕元で聞いた謎の会話が蘇った。

「流すとは怪物の生贄……返すって……」

「今日の朝一番におじさんがいつも通りにしてたら、船で本土に返そうと思ったの。でも、ここへ来ちゃった。もう遅いの。アルジサマが起きる前に帰ってほしかった。アルジサマは、自分たちのことがよその人間に知られたって怒ってる」

 グラグラと足元が揺れる。

「あの化け物がしゃべるのか……あ」

 タクマはヒナの『日課』を思い出していた。あれはただ泳ぐだけでなく、この島の主と会話していたのか? そんなバカな?

「さすがは記者さんだね、その通り」

 タクマの心を読んだように、ヒナが微笑む。

「ありえない……でも」

 ゆらり、ゆらりと足元が揺れている。空も海も青い風景の中、比べるものすらないが、足元の大地が揺れているのではなく、ゆっくりと動いているような気がした。まるで巨大な船の上に立っているような、そんな感覚をタクマは覚えた。

「この島、動いてる?」

「うん、だって、私たちはアルジサマの背中に住んでいるもの」

「ここが島じゃないっていうのか? じゃあ、お前は何者……」

「私だけじゃないよ、島のみんな、おじさんとちょっとだけ違うもの。アルジサマはオヤジサマと一緒におじさんたちの街へ行くの。勝手なことする人間に、怒ってる。おじさん、返せなくてごめん。それと」

「……」

 頭の中が混乱していた。島が怪物で街へ? それにオヤジサマとは、親島のことだろうか? あれもまた、怪物の仲間だというのか?

 ダパア! と波の音を立て、アルジサマの首の両脇から、同じような形状の頭部が2本、伸びた。

「三つ首?」

「八つよ、アルジサマは」

 街とは、おそらくタクマたちが住む土地――東京――のことか。そこに、こんな小島ほどの大きさの怪物が……わからない、ただ単に人探しと取材に来ただけなのに。あまりにも予想外すぎる。


 やがて、海面には8本の首が並び、あるものは天高く吼え、あるものはあくびでもするかのように大きく口を開いた。

「おじさん、ごめんね。もう止められない」

 ヒナの背後には、宿の女将や雑貨店の主人など島の住人が立っている。

「そうか、ヒナだけじゃない、この島の人間みんな……」

 ありえない出来事を立て続けに見たタクマは、もう、それぐらいのことでは驚かなかった。

「ここは島じゃなかった、最初から誰もいなかったんだ。ヒトは」

 ヒナと、島民の姿が消えた。もうこうなれば、どうすることもできない。もし自分が生き残れたなら、後世に残してやろう、そう思ってタクマは無我夢中でカメラのシャッターを切った。今までインチキ臭い取材ばかり続けてきたが、ここで本物に出会えるとは思ってもいなかった。シャッターを切りながら、いつしかタクマは笑顔になっていた。このあと自分が、いやアルジサマに遭遇した人間がどんなリアクションをとるのかを想像すると、恐怖よりもなんだかおかしくて仕方なかった。

「みんな驚くだろうな。ざまあみろ、本物だぜ……」


 ガァアアオオオオォン! アアアォオオーン!


 蒼天の下、アルジサマは一声高く吼えると八本の首をくねらせ、巨大な胴体を引っぱるようにゆっくりと、仲間の元へと泳いでいった。

 海もまた、どこまでも青かった。


  終

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楽園に、ただ一人 馬場卓也 @btantanjp

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