エピローグ
エピローグ
そこらじゅうで、蝉が鳴いている。
冷房もないバックヤードは、うだるような暑さだった。「紙が飛ぶから」と扇風機もうちわも禁止され、果てには「汗が垂れるからテーブルに近寄らないで」とまで言われてしまった。
「暑い、立ってられない」
Tシャツの襟をはためかせながら、僕は葉月に不平を述べた。
「暑いのはは私だって同じですー」
自分の汗が原稿用紙に垂れないようにだろう、葉月は腕を限界まで伸ばし、めいっぱい身体を引いて執筆活動に勤しんでいた。すごく書き辛そうだ。
「しかし、君もそんな格好するんだな」
冷蔵庫から二人分のアイスを出して、片方を無理な体勢の葉月に手渡した。葉月が着ているのはゆるゆるの白Tシャツ一枚で、他にはズボンもスカートも(下着はわからないが)靴下も身に着けていなかった。広すぎる襟からは危うく——それ以上はやめておこう。
「この程度で揺らいでたら、深雪ちゃんの彼氏失格だよ〜」
葉月はにやにやと笑いながら、アイスをかじった。
「そうだ、深雪ちゃんとはうまくやってる?」
うんと背伸びをして、葉月は聞いてきた。「それなりかな」と、曖昧に僕は答える。
「今まで通り、散歩したり、それから……散歩したり」
「散歩じゃん」
「手を繋いだり、ご飯食べたりはするようになったけど」
「デートじゃん」
「情けない話をすると、そのご飯、だいたい深雪に奢られっぱなし」
「ダメじゃん」
「深雪が言うには、『ハル成分をを享受している対価としては安いくらいだ』とか。付き合ってるんだから、そんなのタダで享受できるのに」
「好かれてるなぁ、ハル」
葉月は僕を肘で小突く真似をした。それから、急にしおらしくなって「ずるいなぁ」と呟いた。
「なんだか私だけ取り残されてる気分。信じられる? お父さんまで彼女作ってるんだから。しかも相手は十歳以上年下の作家さんときた」
十歳以上年下の作家か。
聞き流しそうになって、ふと一人の女性が頭に浮かんだ。
「ちょっと待った。それ、まさか——」
「泉みのり三十一歳。またの名を四谷轍」
「はぁ!?」
思わず声が出た。
「ちなみに、実質保護者だから、今はここで一緒に暮らしてる」
「はーい、泉みのり三十一歳でーす」
本人が出た。
「おや、久しぶりだね相川君。具体的には四月以来かな?」
「久しぶりだね、って……。いつの間に葉月のお父さんとくっついてんの、みのりさん」
「こう、今までのあの人を見ていると、助けたい、守りたい、養いたい、って。君こそいつの間にルミとくっついてるんだ」
「四月の末日から」
「いやそうなんだけどさ。いつからルミちゃんのこと好きなの? というかホントにルミちゃんのこと好きなの?」
「さあ、いつからだろう」
正直なところ、それはわからなかった。
「でも、少なくとも今は好きですよ。深雪のこと」
「そうか、それは結構」
納得したような、それでいて附に落ちなさそうな、そんな顔をしてみのりは言った。
「ところで、三時間くらい前に『これからデートです!』ってルミちゃんから報告があったけど。行かなくていいのか?」
「ああ、それなら気にしなくていい。あの人、約束よりずいぶん早く着いて絵を描く趣味があるから。今日は井の頭公園に十一時だから、あと……」
時計に目をやる。ちょうど十時を回った頃だった。
「そうだな、そろそろ出た方がよさそうだ。じゃあ、僕はこの辺で」
そう言って、僕はカーテンをくぐろうとした。去り際、葉月は僕に、一つ確認をした。
「あれは持った?」
「持ったよ」
尻ポケットに入れてあったそれを取り出してみせる。メモ帳。葉月のネタ帳だ。
「オッケー、いってらっしゃい。ルミちゃんにもよろしくね」
今度こそ、僕は店を出た。
屋内にいた時より、蝉の鳴き声が段違いにうるさい。ついでに日差しも無駄に強い。
けれど、悪くない空模様だ。夏休みらしい、心が躍る、そんな素敵な快晴だ。
これから、僕は青春の続きを書きに行く。
ハルと夢の役者 藤井 狐音 @F-Kitsune
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