8

 風呂上がり、さっぱりした気分で自室のドアに手をかける。


 告白された時の高揚、キス、手の感触。あたたかい瞬間一つ一つが脳裏に浮かぶ。そんな雑念はいらないと、僕は頭をドアに叩きつけた。


 二度深呼吸をして、部屋に入る。椅子の上であぐらをかいて、デスクの上に新品の大学ノートを開く。


 それから、目をつぶる。これから僕は、自分の青春を再現する。


   ***


 そういえば、あの日は持久走をやって、それで倒れたんだ。低血圧はマシになったけれど、体力がないのは未だに変わらない。


 懐かしい、中学生の葉月。あんなに儚い第一印象だったのに、仲良くなってみると案外元気で、笑うときは笑う子だったな。



 『好きになれないけど、好きになりたいもの』、それで青春小説って言ったんだ。あの会話がなかったら、葉月をこんな風に愛することもなかったんだろう。


 夢の葉月と、雨降りを眺めた。振り返ると、なんだか恥ずかしい。黒歴史、というやつだろうか。ジメジメした日の気の迷いなんて、あまり思い出したくない。


 その日の帰りに『町に恋して』を買ったことは、自分でも覚えている。今思うと、あれの主人公は僕そっくりだ。愛する人を妄想し、愛する人に願えども、愛する人と一緒に、とは考えなかった。それは愛しているだけで、恋していなかったから。


 その日に、僕の運命は決まっていたのかもしれない。



 怪我をした立夏が、保健室で葉月に一目惚れした事件もあった。脚を怪我したくせに、興奮して廊下なんか走って。あの時の胸の痛みは、きっと嫉妬というやつだったのだろう。恋もしていないくせに、立派に嫉妬なんてして——。


   ***


 中途半端なタイミングでスマホが鳴った。初めは無視しようかと思ったが、発信元を見て気が変わった。電話を寄越してきたのはみのりだった。


 僕はスマホを拾い上げて、電話に出た。

「もしもし。夜中の十時回ってるんだけど、どうしてこんな時間に?」


「あー、ごめんねぇ。ルミちゃんから今日の結果を聞くはずだったんだけど、あの子から連絡ないし、電話しても出なくってさぁ」

みのりは酔っているようだった。呂律が回っていないわけではないが、発音がだらしない。


「それで、葉月ちゃんとはうまくいったぁ?」


「深雪となら」


 そう答えた次の瞬間、ダン、と机を叩くような音が聞こえてきた。

「なにやってんの君!? それじゃあ葉月ちゃんはどうした!?」


「『町に恋して』と同じ結末だよ。恋していると錯覚した果てに、そうでなかったと結論付けた。同じ経験があるでしょう? 



 五秒くらいの沈黙が続いた。


 「相川君さぁ……」

呆れなど通り越したほどに冷たく、みのりは言った。


「私と同類じゃないか、それじゃあ」


「同類って……」




 それで、電話は切れた。


 僕はなにも聞かなかったことにして、またまぶたを閉じた。


   ***


 夢の投影を、阻害するものがあった。

 懐かしい中学のテクスチャが、さらさらと漂白されていく。さっきまで図書館だったそこは、果てしなく白い無限になった。


 残ったものがあった。

 泉先生と、葉月の姿。

 二人は憐憫の眼差しを僕に向けながら、なにも言わずに佇んでいる。


 ああ、違う。

 僕が見たいのは、こんなものじゃなかったのに。

 頭のどこかで、僕はあいつに会おうとしている。



 「君は、知っていたんだな」

独り言のように、僕は言った。

「それが恋だったことを」


 「いや」

泉先生役のそれは、首を振って答えた。

「私が知っているのは、ひたすらにそれを否定しようとしていたお前だけだ」



 「そう怖い顔をするな」

葉月役が、目を細めて口角を上げた。

「お前の感情ってのは、だいたい私に筒抜けなんだよ。——それに」


「それに?」


「これはあまり言いたくなかったんだが——、お前たちの恋路を手伝ってやったのは誰だったと思ってる?」



 どういう意味だ。


 そう問い詰めようとして、思い出した。

 謎を思い出した。まだ、答えの出ていない謎を。


 「


「ご名答」


「でも、どうやって」


「お前が言った通り、聞いた通りのことだ」


「言った通り、聞いた通り——?」



 「——『君は同時に、複数人存在できるのか?』」

僕の背後に現れた三人目の『役者』が、僕の声でそう言った。


 「可能だ、と私は答えた」

四人目の『役者』——僕と同じ姿の芥川が、ようやく僕の目の前に姿を表す。


 「それから——私の謝罪は、君の耳に届かなかったかもしれないな。君が目を覚ますのに、間に合うかどうかだったから」


 「私は約束を破った。つまり、君の肉体の人格を、一時的に乗っ取ったってわけだ」


 「勝手に悪かったと、そう思っている。だが、あそこでお前たちを二人きりにするには、あれくらいしか方法がなかったんだ」


 「夢の中でお前と会話している間に、もう一人の私がお前の人格を乗っ取って肉体を操作する。それが、私のやったことだ」


 「今思えば、無謀だったな。計画面でも、お前の肉体の弱さを侮っていたという意味でも。特に前者。お前の知り得ないことは私も知り得ない——小野深雪と沖田立夏による計画。意図せずして、彼女たちの計画を見出すことになってしまった。まあ、それについては結果オーライってことにしよう」


 「落ち着くところに落ち着いたんだからな」



 どうだろうな、と僕は言った。


 落ち着くところに落ち着いたかといえば、そうではないような気もする。まだ、これから葉月との距離感をどうしていくかは考えてもいないし、もちろん付き合いなど経験もないから深雪ともうまくやっていけるかわからない。ちょうど、二方向からの磁力を受けて、宙に浮いているような。そんな気分だった。


 けれど——それも、ある種の安定なのかもしれない。少なくとも、しばしの安定。そう思うことで、少し心が落ち着いた。


 つまり、芥川の、僕の精神を守る存在としての役目が終わった。



 無の空間がきゅうっと圧縮され、壁面には図書館のテクスチャが塗り直される。四方と床がせり出し、本棚や机になる。


 僕の姿をした夢の役者が二人、静かに消えていく。「せいぜい、うまくやれよ」とだけ残して。



 ——図書館では、生徒の寄贈による古本市が行われていた。机の上にプラスチックの箱がいくつも並べられ、その中に本が詰まっている。一律百円。もっと高い本は、ブックスタンドに一冊ずつ立ててあった。

 立ててある本の中には、四谷轍の本もあった。それも最新作まで。数週間前に発売され、未だ専用コーナーを設けられているようなこの本は、きっと、四谷轍本人——泉先生が自ら売りに出したのだろう。


 そんなことを思いつつ眺めていると、間もなく誰かがその本を手に取った。

 中学生くらいの、制服姿の女の子。マスクを着けていて顔がよく見えないが、僕には彼女が誰なのかわかった。


 かつての、葉月だ。


 「ん」

こちらを見た泉先生が、声を漏らした。

「相川くんじゃないか。一人か?」


 「ええ、まあ」

僕は答えた。


 いつかの文化祭を、再演するように。



 僕は再び、青春の再現に浸った。

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