7

 プラネタリウムを最後に、僕たちはグリーンシティを去った。ビルを出た頃には、もう日が沈もうとしていた。


 「ありがとね、ハル」

それだけ言って、深雪は僕たちと別れた。手を振りながら軽やかに後ろ歩きして、丸ノ内線の改札の方へと消えた。もっと名残惜しそうにするかと思ったが、案外さっぱりと帰っていった。むしろ僕の方が余韻に浸って、深雪の去る方に手を振りながら立ち尽くしていたくらいだ。


 「青春だね」と葉月に声をかけられて、ようやく僕は手を降ろした。


 「いいもの見ちゃったなぁ」

嬉しそうに、葉月は笑っていた。返す言葉が見つからなくて、僕は葉月に微笑み返した。


 同時に、僕は思った。

 素敵な笑顔だ、と。



 保健室で初めて葉月を見た時、『この子は苦しい思いをしているんだろうな』と思った。

 そう思うと、葉月の笑顔はいっそう素敵なものに見えた。


 やがて、『この子はこんなに苦しい人生を送っているんだ』と知った。

 それを知ると、葉月の笑顔はいっそう素敵なものに見えた。


 苦しい思いをしている人の笑顔は素敵だった。きっとそれは、塩をかけたスイカに近い。苦しい思いが、その人の幸せを引き立てるのだろう。


 ゆえに葉月の笑顔はとても甘美で、僕はその笑顔が好きだった。苦しみ生きる葉月が、ふとしたときに浮かべる笑顔が好きだった。



 電車に乗るまで、僕たちの間に会話はなかった。葉月は静かに笑顔を湛えていて、立夏はスマホをいじっていた。僕は葉月を横目に見ながら、もの思いに耽っていた。準特急列車が笹塚に着くまで、その状態は続いた。



 電車が停まった。

 「じゃあ、またね」と電車を降りようとする葉月を、呼び止める。


 「送ってくよ」

葉月の返事を待たず、僕は葉月の手を引いて、電車を降りた。



 もう日が沈んでいた。あっという間だった。


 「いいの?」

僕の腕を大事そうに引き寄せながら、葉月は上目遣いで言った。


 「どういう意味だ?」


「深雪ちゃんがいるのに。私なんかといていいのって聞いてるの」

葉月は拗ねているように見えた。


 「知ってたのか。それとも気付いたか」


「言っていいのかわからないけど、朝、聞いたよ。深雪ちゃんがハルのこと好きだって。それに、ハルが聞いてないところで、私たちずっとハルの話ししてたんだから」


 僕の話を、ずっと?

 びっくりして固まった僕をよそに、葉月は続ける。


「あの子、今朝は『今日はハルと君をくっつけてやるからな』なーんて言ってたんだけどなぁ。結局、二人きりになるチャンスもなかったし。『君を応援するだけじゃ気が済まないから、私もちゃんと告白する。きっぱり振られてくる。そうしないと諦めきれない』って、そういう話のはずだったのに、見事にくっついちゃうし——」


 葉月の目尻が、きらりと光った。


 「君の心は、射抜けなかったみたいだね」

葉月は指で銃を作って、僕を撃った。


 「僕は君を愛していたよ」

撃ち抜かれた左胸をさすりながら、僕は言った。

「僕が入る余地もないほどに」



 そこから先は、どうしてそんなことを口走ったのか、自分でもわからない。

 一つわかるのは、それらがすべて本当だった、ということだけだ。


 「夢を見ていた」

なんの脈絡もなく、僕は切り出した。


「君が同じクラスにいる夢だ。みんなと同じ教室で、みんなと同じ授業を受けていた。こうであってほしかったと、僕が願ったカタチだ」


 「そう、僕はそれしか願ってなかったんだよ。できることなら君にこう生きてほしいと、そう願っていただけなんだ。僕を好きになってほしいとか、僕を見てほしいとか、そんなことは願っちゃいなかった」


 「僕は君を愛していた。それはただ愛していたというだけで……うん、ただそれだけだった。君には笑顔でいてほしくて、君には君の才能を大切にしてほしいと、そう願っていただけだ」



 それは永遠に続きそうだった。僕は君を愛していただけ。僕は君を愛していただけ。僕は君を愛していただけ。僕は君を愛していただけ。


 この人に恋しても、どうしようもない。そう思ってほしかったから。


 だから、僕は極めつけに言ってやった。


「君は、僕を好きになんかなっちゃいけない。君にとって、恋とは落ちるべきものでも、溺れるべきものでもなく、綴るべきものだから。その気持ちを捨てて、代わりにペンを執るんだ。それでも忘れられないなら、もっと残酷なことをしよう」



 「君が元通り小説を書けるようになるまで、僕が君と出会った時から今までの話を書け」



 葉月は静かに、世界に失望したような表情を浮かべた。それから、笑顔を作って「いいよ」と答えた。


「きっと、それが一番残酷だよ。私に一番効く。現実の恋に思いっきり失望して、理想を描くことしかできなくなる。最悪だね」


「最高だ」

僕は親指を立てて言った。葉月は親指を指し降ろした。


 「その代わり、一つ条件がある」

それから人差し指で僕を指して、葉月は言った。


「深雪ちゃんと最高の青春を過ごすこと。みんなが憧れるような、そんな青春をね。そうすれば、私は最高の青春を書けるから」


 拍子抜けした。「そりゃあ、そのつもりだよ」と笑ってしまった。


「もっと我欲全開の条件を出してくるかと思った。『私も下の名前で呼べ』とか」


「え、それありなの?」


「君がそうしたいっていうんなら、ありだよ。君との心の距離も近くなって、いいと思うし」


「じゃあ、それも条件に追加で」


 「じゃあ、葉月」

名前を呼んでみる。二人向かい合って、というのはとんでもなく恥ずかしかった。呼ばれた方も呼ばれた方で、平静を装いながら顔を真っ赤に染めている。僕はその表情をいたく気に入って、「葉月」と何度も呼んだ。やがて彼女が小刻みに震え出したので、やり過ぎたかと思ったが、それは杞憂だった。


 葉月は腹を抱えて笑っていた。

「無理……やめて、どうにかなっちゃいそう」


「ごめん、ちょっと調子に乗った」


 照れ隠しに二人でひとしきり笑った。お腹が痛くなるほど笑った。息ができないほど笑った。


 それが鎮まってから、僕は告げた。

「——そろそろ、帰らないと。それで、早速プロットを仕上げようと思う」


「そっか」

涙を拭って、葉月は寂しげに微笑んだ。



 「じゃあ、また」

そうして、葉月と駅前で別れた。


 電車に乗ってから、自分が「送っていく」と言ったのだったと思い出した。

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