2
娘の名前は、<末の泣き姫>。
王子様を探して闇夜を彷徨う、最初に生まれた末の姫君。
全てのおとぎ話の始まりにある、この街で最も恐ろしい呪いの魔女……。
*
「ヨリンゲル!! ドアを開けてくれ!!」
剣と野上は<鳥かごの城>のガラス戸を、ほとんど半狂乱に近い状態で何度も叩いていた。全身の細胞が恐怖で悲鳴を上げている。あまりにも恐ろしい。理由はわからないが、まるで魂を根こそぎ吸い付くされていくかのように、おぞましい呪いがその泣き声には含まれていた。
すすり泣きながら、ゆっくり、一歩ずつ声は近づいてくる。
"きもちわるい……あんな約束、しなければよかったわ……"
「頼むお願いだ助けてくれ!! ヨリンゲルッ!!」
答えはない。泣き声はもうすぐ後ろにまで迫っている。
死ぬ?
否、もっと悪いことが起きる。そうに決まっている。
「ヨリンゲル!! ヨリンゲル……」
剣はガラスを叩く手を止め、一つ、大きく息を吸い込んだ。ツバを飲み、渾身の思いを込めて、叫ぶ。
「
野上が剣に、ひどく驚いた顔を見せた。
だが剣が次の言葉を紡ぐより先に、ガラス戸の向こうの暗がりから、コツ……コツ……と、小さな足音が響いてきた。
「あぁ……なんだか久しぶりにその名を聞いたよ……」
風鈴が鳴るように爽やかな声。
血のように赤いスーツがボンヤリと浮かび上がり、ゆっくりと、奥から背の高い男が歩いてくる。
「こんな夜更けに鳴くなんて、なんとも間抜けなニワトリもいるものだ……」
目元に黒ずんだメイクを施した不気味な
「俺を……覚えてるか、荒谷」剣は、ガラスに張り付くように顔を寄せながら、ヨリンゲルに語りかけた。「昔……お前がハンスになる前……下町で、一緒にバカやったよな……?」
「…………」
「
「…………」
「頼むよ、助けてくれ……」
ヨリンゲルは後ろ手に腕を組んだまま、犬を見下すような視線で剣と野上を見つめ続けている。背後から迫るすすり泣きはいよいよ近くなり、恐怖に侵された足はすでに全く言うことを聞かないほどに震えていた。
"お父さま……どうして蛙なんかと同じベッドで寝なくちゃいけないの……?"
ヨリンゲルは、微動だにしない。
だがそこで待っている。
何かを、待っている。
(……そうか)
剣は恐怖に凍え痙攣する指で、懐から一枚、最後に残っていた破れかけの名刺を取り出した。血に汚れるのも構わず、ガラスの扉にプリクラの写真を押し付ける。
「エマだ。俺の……恋人だ」
剣は言う。
「初めて会ったのは……このクラブだった。頼むよ……こんなお別れは嫌だ……まだ終わりたくない」
石像のように動かなかったヨリンゲルが、クスリと肩を揺らした。可笑しそうに片手を口に当て、もう一方の白い手袋をはめた長い手を、ゆっくりと剣に差し出し……。
突然、目の前からガラスが消失したように支えがなくなり、手を引かれた剣は盛大につんのめった。転びそうになったところを正面から受け止められる。
「まったく、なんて時間に訪ねてくるんだお前は」
耳元でささやく声。
たしかに、かすかな懐かしさが感じられた。
「ヨリンデが起きちゃったらどうするのさ」
「ああ……すまない……」全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じながら、剣は脱力の息を吐く。「すまない……ありがとう」
「訪ねてくるのはいいけど、もう少し常識的な時間にしてくれよ」ヨリンゲルは何事もなく、くるりと背を向ける。「ヨリンデは寝るのが早いんだ」
「ああ……」
剣はまだ震えている脚をゆっくりと動かし、背後を振り返った。
ガラス戸の向こうで、野上が、絶望的な表情を浮かべて剣を見ていた。
「……ヨリンゲル」野上の方を見つめたまま、剣は呼びかける。
「ん?」
「あいつは……ダメなのか?」
ヨリンゲルはあくびをしながら、ガラスを見つめる。小鳥のように首を傾げ、片方の眉を吊り上げた。
「……誰って?」
「頼む……あいつは……」
ドンッと、野上の腕がガラスにべっとりと叩きつけられた。
「俺には恋人はいねえ……」
くぐもった声がドアの外から響く。
「だけど、ヨリンデさまとプリクラを撮ったとき、たまたま近くにいたシャロンって娘が、一緒に撮ってくれたんだ……あの娘は俺のこと、大きくてかっこいいって……手を、手を、この手を握ってくれて……」
ズルリと、ガラスの上を野上の大きな手のひらが這う。
「会わせてくれ」
大男の目に、涙が伝った。
「俺はどうしても、もう一度シャロンに……次会うときはシュークリームを持ってくるって約束して……」
「……もう遅いよ」
ポソリと、ヨリンゲルが、剣にしか聞こえない小さな声で囁いた。
「泣き姫ちゃんの呪いは僕でも解けない。ついてないね……ここしばらくは"散歩"なんてしてなかったのに」
闇の中から必死に声を絞る野上、その手のひらに少しずつ、エラが伸びている。声もガラガラと枯れはじめ、目玉がぎょろりと剥き、体表に泥のような体液が垂れ始め……。
剣は、銃を取り出した。名刺入れに隠していた最後の一発をなんとか弾倉に込めて、左手で野上に向ける。
その銃口を、しかし、ヨリンゲルの手が塞いだ。
顔を見る。
笑っていた。
「ダメ」
優しく、冷たい、ハンスの声。
「……なぜ?」
剣は聞いた。
ヨリンゲルは微笑んだまま、答えた。
「ヨリンデが起きちゃうでしょ?」
やがて夜更けの街に、蛙の鳴き声が響いた。悲鳴と呼ぶことすら
そして、嘘みたいな静けさだけが、街に取り残された。
"やっぱり……男なんてただの蛙じゃない……うぇええぇん……"
オトギネシス 小村ユキチ @sitaukehokuro
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