帳<とばり>

1

「あら……もうこんな時間なのね」

 姫は立ち上がり、蝋燭を吹き消しました。

「寝てない悪い子は、人喰いのお婿さんにさらわれちゃうわ」



 ある夜、ある街に、かぼちゃ組組長側近、つるぎという男がいた。彼は夢現ゆめうつつに、つい先週できたばかりの恋人エマのことを思い出していた。淡い桃色の髪が美しい、スリッパ集めが趣味なやや変わり者な姫……だが真珠のように美しいデートの記憶は鮮血と火薬の匂いに引き裂かれ、最後には黒ずんだ木製のバットが信じがたい勢いで彼の顔面に叩きつけられる映像に取って代わられた。

 野いちご組若頭補佐"狼狩り"ハセ。

(負けたわけじゃねえ……断じて)

 剣は立ち位置が悪かった。<そら豆の火種>を布石に射撃位置を取ったそこが、ちょうど<怪物>とハセに挟まれる形になってしまっていたために、その急襲を避けることができなかったのだ。姫の名刺には弾除けの効果はあってもバットはかわせない。それでもまだ剣が生きているのは、恋人にもらった一等名刺が持つ命の身代わり効果が働いたからだ。

 姫に、感謝を。

 そして必ず、あのハセに復讐を。

「……兄貴!! 剣の兄貴!!」

 はたと目が覚めた。

 頭が痛い。<ブレーメンズ>のロックサウンドがどこか遠くから嵐のように不穏な調べを響かせている。

 剣は覚醒と同時にすぐさま体を起こし、周囲を見渡した。不潔に濡れた薄暗い路地裏で、十人ばかりの舎弟たちが彼を囲っている。みな城門前の戦争に参加していた連中だと思ったが、一人だけ、お茶会前の前哨戦で死んだはずの男が混じっていることに剣は気がついた。

「野上?」つばが喉に絡み、一瞬咳き込む。「お前……生きてたのか?」

「剣の兄貴、それどころじゃねえっす!!」一人散々に汚れたスーツを着ていた野上は、組では最も大きい体にはまるで似つかわしくない、仔ウサギのような悲鳴を上げた。「このままじゃ、俺たち全員死んじまう!!」

「死……」

 剣は通りに目を向け、そして一気に、血の気が凍った。

 街の灯りが落ち霧に包まれ、建物の壁に黒ずんだ緑の<いばら>が這い回っている。

 咄嗟に腕時計を確認した。

 0時22分……。

「嘘だろ……?」



 街が0時を超え、フクロウがみそさざいを見張る深い夜に落ちると、そこは<いばら姫>と<赤ずきん>が支配する、何もかもが理不尽な悪夢の王国になります。<挿絵の怪物たち>は挿絵から抜け出して闇の中を自由に闊歩し、双子の王様<狩人の兄弟>の配下たちが獲物を探し回って通りを練り歩いています。鳥たちは自分たちの王を決めるため空を駆け、猫は伴侶のネズミを裏切って脂を舐めに教会に潜り込み、音楽家は盗人を茨に掛けようとバイオリンを弾いて回り……。



「兄貴!! 時間がねえ!!」野上がまた吠える。「ここは危険だ!! 隠れててもにすぐに見つかっちまう!! 早く逃げないと……あぁ!?」

 ギィギィと、ブレーメンズの音楽を引き裂くように、不気味な調律のバイオリンのが近づいてきた。

「来た!! だ!!」

「落ち着け!! 静かにしろ!!」剣は野上の頬を叩く。「ちゃんと話せ!! ここはどうなってる!? お前はなぜ生きている!? 生き残りたきゃ知ってることを全部言うんだ!!」

 だが、剣は野上の説明を待つ必要などなかった。

「やあ、かわいいネズミさん」

 頭上で、恐ろしい"猫"の声がした。

「さあ、僕と仲良くしようよ」



「君の名前を考えたよ……『みんなぺろり』だ」

 そう言って猫は、ハツカネズミをまるごと飲み込んでしまいました。ほんとに、世の中ってそういうものです。



 わずかに一瞬、ほんの瞬きするような時間で、舎弟のうち二人が巨大な猫の舌に絡め取られ、頭上に引き込まれた。

 ガリッと骨が砕ける音が響き、咀嚼音が悲鳴と混じる。

「冗談じゃねえぞ……おい……」

 剣はたまらず、表通りにまろび出た。

 そして戦慄した。

 街を構築するレンガの建物が全て、まるで鉛筆で書きなぐったかのように曖昧なインクのシミと化している。濃い緑色のつたが壁を這い回り、看板から溶け出したネオンが奇妙な顔をした鳥たちのアニメーションとなって蔦と蔦の間を飛び回っている。空にはドラゴンが火を吐きながらグリフォンと争い、更に遠くには頭が雲を抜く巨人のシルエットが浮かんでいた。

 何もかも、まるで挿絵の中の奇妙な世界。

 どこからか響くバイオリンの音はどんどん大きくなる。

「この音はダメだ!」野上が叫ぶ。「この音を聞いてたら体が言うことを聞かなくなって……俺以外の生き残った奴らはみんな、自分から茨に突っ込んでズタズタになっちまった!!」

「だったら走るしかねえだろうがッ!! 逃げるぞ!!」

 剣と野上と、生き残った舎弟たちは、鬼火のような光が浮かぶ通りを駆け出した。0時過ぎまで屋外に取り残されたものは全て、次の日の朝には姿を消す。死体も薬莢も浮浪者も、一夜明ければ跡形も残らない。

 夜の闇の中で何が起きているかなど、誰も知らない。

 知らないがゆえに恐ろしいのだ。



 逃げ場のない夜から逃げ出そうとするヤクザはみんな、名前をコルベスさまといいました。



「違うやめろ!! 俺たちはそんな名前じゃ……」



 走っていくコルベスさまたちの後ろを、赤い車輪の馬車が追いかけています。馬車を引くのはねずみで、荷台にはおんどりとめんどりと猫と、石臼と卵とピンと、それに針が乗っています。



「野上!! お前はどうやって生き残った!?」背後で黒田という舎弟が巨大な針に貫かれ、石臼に潰される悲鳴を聞きながら、剣は必死に走り、叫んだ。

「俺は……俺も死ぬはずだった!! たまたまヨリンデさまの名刺を持っていたから生き延びられたんです!! でも昼の街には帰れなくなっちまった……夜明けまで必死に生き延びて、でも、気がついたらまた夜だった!! ちくしょう、このままじゃ剣の兄貴まで……」

「ヨリンデ……」

 剣は一瞬足を止め、辺りを見渡した。街は実線という実線が落書きのようにグチャグチャで、しかも建物はすべてうごめく茨に覆われていたが、通りの形には見覚えがあった。口紅やコンシーラー、男にはまるで用途が理解できない化粧品の看板は、ここがりんご組方面の歓楽街である証。

 剣は自分たちのシマの方向を見定め、十字路を右に折れた。

「兄貴!? どうしたんです!!」

「ヨリンゲルだ!! ヨリンゲルはだ!! <鳥かごの城>まで逃げられれば、あるいは……っ!!」



 そうして男たちは縦一列になって、夜の街をまっすぐに駆け出しました。しかしここは0時を超えた真夜中の街です。ここでは誰もが物語の住人として混沌たるメルヘンを演じなければならず、夜に迷い込んだヤクザに与えられる役は良くても祈りを続けるガチョウの群れが関の山でしょう。彼らは食い意地の張った狼や蜂に刺された狐として、夜の<狩人>たちに狩られるのが運命なのです。

 そして何もかも、老婆や白馬や小人たちの言った通りになりました。

 傲慢な狐は犬に捕まり、小鳥の代わりに森に木を取りに行ったソーセージは犬に食われ、一匹の蛙の鳴き声が六人の槍を持った男たちを次々と溺れさせました。謎を解けなかった男は姫に首を落とされ、走りすぎたウサギは口から血を吐いて畑の真ん中に伏し、増え続けるお粥を止められなかった狼は羊を食べようとしてお腹に石を詰められ井戸に落ちその石がガラガラ鳴らす音に誘われた狼と狐と兎が森の中で木こりに追い払われていきました。革に包まれた占いカラスが言いました「机の下に隠されたワインを小人と分け合えば黄金の羽根のガチョウが見つかるでしょう」間抜けのハンスは宿の娘や牧師たちと行進し、たどり着いた天国から天使の唐竿からさおと一緒に落っこちて、掘り返したかぶを王様に献上してホットケーキがなる菩提樹の枝に袋詰めに吊るし上げられたのです。鎖を巻かれた12人の男たちがバカバカと大砲の撃つ合間をぬって逃げ出した猫が入り込んだ鉄のストーブは山の向こうの3ターラーで買われた月に起こされた死体たちが踊る村まで飛んでいきそこで農夫はユダヤ人を言いくるめ儲けた金で買った馬を牛に変え子豚に変えがちょうに変え砥石に変えわらに変えすべて炭で燃やして川に捨ててしまい、それを見ていたそら豆は顔が裂けるまで笑い続けていました。きっと全ては死神がよこした遣いだったのです。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは目を抉られました。コルベスさまは釘の入った樽に入れられました。コルベスさまは前借りした300の分ムチを打たれました。コルベスさまは狼に飲まれました。コルベスさまは油を体に吹きかけられ火をつけられました。コルベスさまはスズメを飲み込んでおかみさんに斧で頭を割られました。コルベスさまはクノイストの三人兄弟の目が見えない長男に見つかりました。コルベスさまは歩けない次男に追いつかれました。コルベスさまは裸の末っ子のポケットに放り込まれました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。コルベスさまは死んでしまいました。

 きっとコルベスさまは、ヤクザとても悪い人だったに違いありません。



 ホオォ……と一声、フクロウが鳴いた。カラカラと空き缶が転がり、三日月はビルの裏に姿を隠している。



 でも、どうやらたった二羽、まだキツネに命乞いをしていたガチョウが生きていたようです……。



 剣は気がつけば、かぼちゃ組のシマにあるクラブ、<鳥かごの城>の前に立っていた。入り口の両脇にある花壇に植えられた赤い真珠のバラが、薄暗い夜の中で幽かに神秘的な光を放っている。服はボロボロで、藁やら糸くずやらガチョウの羽やら、どこでついたのかもわからない汚い残骸が無数に張り付いていた。

 何が起きていたのだろうか。

 もはや剣には、全てが理解できなかった。

 一体どんな化け物が、彼の兄弟たちを夜の街の中へ飲み込んでいったのか。何もかもが、ただの悪い夢のようにしか思えなかった。それは童話のように奇怪で、童話のよう喜劇的で、童話のように残酷だった。それだけが剣にわかることだった。

 だがそれでも、彼はまだ生きていた。これまで姫から集めてきた名刺の魔力が、ここまで彼の命を生きながらえさせた。無論、今夜でそのほとんどが燃え尽きてしまっただろう。

「……俺たちだけか」剣は背後を振り返り、そう呟いた。まともな人間の声を聞くことすら久しぶりな気がした。

「はい……兄貴」剣と同じようにみすぼらしいザマになっていた野上も、力なくうなだれる。

 どれだけ走ったのかはわからないが、ともかく剣と野上は、<鳥かごの城>までたどり着いていた。時間が経つにつれいよいよ形を喪い、もはやネオンと実線の境がないほどに溶け合っていた0時過ぎの街にあって、魔除けのバラが植えられたクラブの周辺だけは茨が這っている以外ほとんど変化がないようだった。牧歌的な花畑の看板が、ある種滑稽なほど場違いな色合いで剣たちを見下ろしている。<鳥かごの城>のガラスの扉は閉め切られ、灯りの消えたエントランスは真っ暗闇で何も見えない。遠くからはまだ、ブレーメンズの音楽がおどろおどろしく響いている。

 視界の端でなにか、黒いものが動いた。

 剣は危うく銃を抜きかけたが、それは本当にただの、小さな黒猫だった。ミーと一声高い声を上げて、路地裏のゴミ箱の裏へ去っていく。

 彼はほっと息を吐いた。

「兄貴!! 上だ!!」野上が叫んだ。

 見上げる。

 だが遅かった。

 突如空から伸びてきた灰色の腕が剣の首を掴まえて、簡単に宙へと吊り上げた。

「兄貴……!?」

 野上の腕が慌てて剣の足を掴む。

 頭上にいたのは、長い灰色のひげを生やした、裸の醜い大男だった。手足は長く、クモのように壁を這っている。そいつは剣の体を持ち上げ、浮浪者ベアスキンのように臭い息を彼の顔に吐きかけた。


"どこじゃ……わしのマンスロットおばさんは……"


 頸動脈が絞められ、視界があっという間に暗くなっていく。なんとか懐から拳銃を取り出し引き金を引いたが、ここにたどり着くまでにとっくに弾は撃ち尽くしていたのだろう。乾いたカチッカチッという音が虚しく響いただけだった。

「兄貴をはなしやがれ!! クソがッ!!」

 野上が<怪力男ストロングマン>の刺青スミの魔力を振り絞り、剣の下半身を引っ張っている。だが頭上の怪物も力は強く、体が引きちぎられそうな痛みに意識が飛びかける。汚れた歯を鳴らし、怪物の顔が近づいてきた。剣の頭を噛み砕こうと、夜よりも暗い口がパックリと開く。

(ここまでか……)

 剣は、全てを諦めかけた……だが、不意に醜い化け物が身を震わせたかと思うと、哀れな悲鳴を上げ、剣の体を取りこぼした。脚を引っぱっていた野上ごと路地に投げ出され、強かにアスファルトの上を転がされる。化け物は怯え慌てふためきながら、ビルの外壁をよじ登り、どこか遠くへ逃げ去っていった。

「げほっ……げぇ……」

 冷たい空気が喉を灼き、剣は何度も咳き込む。右膝のあたりにネズミが骨の中で暴れているような痛みが走った。折れたのかもしれない。

「兄貴、しっかり!!」

 脳みそがクラッシュしかけているのを感じながら、剣は野上の手を借り、なんとか体を起こす。

「すまん……油断した」

「無事で何よりです……あいつ、何から逃げたんでしょうか?」

 野上は剣に肩を借したまま、周囲を抜け目なく見渡している。野上はガタイのわりに臆病な男だったが、その臆病さ故に、組長直属の護衛隊長を務める程度には有能なヤクザである。

 辺りは真っ暗闇で、クラブの入り口にかけられた小さなランタンの光以外には何も見えない。

「静かすぎる」野上がぼそりと、そうこぼした。「ブレーメンズの音楽が聞こえねえ……」

 確かにそうだと剣は思ったが、違和感はそれだけにとどまらないような気がして、ふと、背後の花壇を振り返った。

 植えられた魔除けの花が、いつの間にか一つ残らず光を失いしおれている。

 ひどく悪い予感がした。


"なんで……どうしてこうなるの……"


 小さな少女がすすり泣く声が、夜闇に響いた。


"でも、だって、いやよ……王子様が、蛙だなんて……"


 二人の体に、体を氷河に投げ込まれたかのような怖気おぞけが走った。

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