空の底

大澤めぐみ

空の底


 ソファーに寝そべって小説を読んでいたら、いつの間にか夕方になっていた。ほとんど丸一日ここでこうして本を開いていたはずなのに、何度確認してみてもまだ23ページまでしか進んでいないし、自分でも驚くほど内容をなにも覚えていない。

 この御手洗という人はいつの間に登場したのだろう? と、ふと気になって数ページ戻ってみるけれど、どれだけ探しても御手洗の登場シーンを見つけることはできない。序盤には一切登場していないし、23ページではもう他の人たちと親しそうに喋っている。ひょっとすると、登場人物が特になんの紹介もなく現れて平然と喋りはじめる小説なのかもしれないけれど、なにしろ内容をまったく覚えていないので確信はない。

 部屋は薄暗く、静まり返っている。文字を判読するのも難しいほど暗くなって、ようやく時間の経過を把握した。


 しょぼしょぼとする目で窓の外に目を向けると、町がまるで水の底に沈んでいるみたいに、ぜんぶ見渡すかぎり青い。びっくりして、青い虚空に手を差し伸べた。なんとなく、その空気に漬ければ手も青く染まるんじゃないかと思って。


 そういえば、詩織さんも特になんの紹介もなく現れて平然と喋りはじめていたなと、思い出す。いや、思い出すことができない。どれだけ記憶を探ってみても、明確な詩織さんの登場シーンというのはない。春にはまだいなかったけれど、夏前には親しく話していた。




 詩織さんと別れて一か月になる。詩織さんは小説家で本を三冊出しているらしいけれど、詩織さんの部屋以外では、本屋でも図書館でも、詩織さんの本を見たことが一度もない。

「いったい、どこにいけば売っているの?」と、訊くと、詩織さんは「アマゾンなら」と答えた後で、自分でもちょっとしっくりこなかったみたいな顔をして首を捻って「たぶん、マーケットプレイスで」と、つけたした。


 詩織さんとはまるまる半年間一緒に暮らしたけれど、その間、詩織さんがなにかを書いているのを見たことは一度たりともなかった。パソコンのキーボードも叩かないし、ペンも持たない。小説家というのはそういうものなのかな? と、すこしは疑問に思ったこともあったけれど、それほど気にはならなかった。

「仕事をしなくていいの?」と訊いたら、「仕事なんて、そんなに無理してすることもないのよ」なんて言って、ふふっと柔らかに笑っていた。


 詩織さんに好かれていたし、詩織さんが好きだった。会ってすぐ、ほとんど直感的に、お互いにそのことを了承していた。


 大学2年の前半のほとんどを、詩織さんの部屋のベッドの上で過ごした。ベッドの上でテレビを見て、本を読み、簡単な食事をして、抱き合って眠った。ときどきは外に食事にいくこともあったけれど、詩織さんが料理をしているところは一度も見なかった。お互いのどちらにとっても、食事というものの優先順位は著しく低かったから、当時はあまり気にもしていなかった。食事を作ったりするくらいなら、その時間をふたりでベッドの上でゴロゴロして過ごすのに使いたかった。

 詩織さんについてのほとんどのことを、ベッドの上で知った。中学校まではバドミントン部でスポーツ少女だったことも、実は今でもバク転ができることも、本当は漫画家になりたかったけれど絵を描くのが思ったよりも大変で小説家になったことも、うなじから肩にかけてふさふさとしたうぶ毛が生えていることも。


 文庫本を閉じて脇に置き、じっと指を見る。詩織さんのお気に入りは、この指だった。細くて長くてつるっとしていて「ほれぼれするほどきれい」だと。

 詩織さんが旦那さんの話をしなかったのは、旦那さんがいることを隠そうとしたからではないと思う。というか、普通なら、詩織さんの部屋を見ただけで彼女が既婚者だということは分かるものなのだろう。改めて思い返してみれば、あの部屋には「家族」の気配が満ちていた。ただそれが、一時停止ボタンを押したみたいにピタリと動きを止めていただけで。


 梅雨明けの暑い日の夕方、キンキンにエアコンを効かせた部屋でシーツにくるまってうとうとしていたら、電話でなにかを話していた詩織さんが通話を切って「来週、夫が帰ってくるの」と言った。

 人生には、いつも登場人物が紹介もなく平然と増える。いや、たぶん登場はしていたのだろう。あまりにもぽわんと生きているこの目が、提示された情報をちゃんと拾っていないだけで。

 そりゃあそうだ。ロクに小説も書かない小説家の詩織さんが、それだけの仕事で生きていけるわけがない。誰か他にお金を稼いできてくれる人がいるから、現実をぜんぶ置き去りにしても、あんなに柔らかく笑っていられただけなのだ。


 ソファーに寝転がったまま、詩織さんのことを考える。詩織さんの長くて艶やかな髪や、脇腹から腰にかけてのラインや、立ち上がるときの軽やかさのことを。

 夏の夕方はいろいろなことを思い出させる。青くて、赤くて、なつかしいともどかしいのあいだの気持ち、憎らしいと愛おしいのあいだの気持ちになる。



 ばかばかしい。



 住んでいたのはたったの半年間だったのに、思った以上に荷物があって大変だった。バスタオルとかパジャマとか下着とか、紅茶の缶とかジェリービーンズの瓶だとかアロマポットとオイルとか、そういう細々としたつまらないものばかりだ。いったんアパートに戻っては詩織さんの部屋に行く、という行動を繰り返すうちに、アパートの荷物はほとんど詩織さんの部屋に溜まってしまっていたのだ。働き蟻がせっせと食べ物を巣穴の中に溜め込むみたいに、川の淀みに流木が集まるみたいに。

「ぜんぶいらない。てきとうに処分しておいて」

 そう言うと、詩織さんは困ったみたいな顔をして笑って「そういうわけにもいかないでしょう?」と、聞き分けのない子供を諭すみたいに言った。

 詩織さんがそんな子供っぽいものを自分で買うわけがなかったから、そういった気配を感じさせるものはどれひとつとして、部屋に残しておくわけにはいかなかったのだ。


 最初は果てしなく思えた荷造りも勢いに乗ってくると後半はわりとテキパキと進んだけれど、それでもぜんぶを詰めおわるころにはもう窓の外が白みはじめていて、がんばって起きていた詩織さんもずいぶんと前からすぅすぅと静かな寝息を立てていた。


 詩織さんが寝ている間に、すぅーっといなくなろうと思っていた。まるでなにもなかったみたいに、夏の通り雨が上がるみたいに、すぅーっと。


 さいごに、おおきなおおきなクイーンサイズのベッドのすみっこで背中を丸めて眠っている詩織さんの寝顔を覗き込んだ。ずっと年上の女の人のはずなのに、そうしているとまるでちいさな女の子のようだった。正直なところ、すっぴんだとそれほど綺麗な顔でもないと思う。あまり特徴がなくてうすいのだけれど、そのぶんお化粧でどうとでもなるタイプの人なのだ。

 しばらくそうして、じっと詩織さんの顔を見つめていた。つるんとしたほっぺたやスッと通った鼻筋、しゃきっとした顎のラインなんかを。

 それほど悲しい気持ちにもなっていないのが、自分でも不思議だった。まあ、こういうもんだよね? みたいな気分だったような気がする。すくなくとも、そのときは。


 キスをしようかな、と思って、でもやっぱりやめて、そのままリュックを背負い、荷物がパンパンに詰まったトランクを引き摺って部屋を出た。外から玄関の鍵をかけて、最後に扉についている郵便受けのスリットに鍵をすべり込ませた。

 これでもうこの部屋には立ち入ることができないのだということを、そのときようやく実感して、すこしだけ悲しくなった。





 不意にインターホンが鳴った。



 インターホンが鳴ったな、ということは理解していたけれど、この頃はどうにもすべてが緩慢で、そういった事柄にすぐに対応することができない。ソファーに寝転がったまま、水に浮かぶみたいに青い空気に身を任せていたら、すこし遠慮がちにもう一度インターホンの音がした。無理にとは言いませんけれど、よかったら出てきてもらえませんか? みたいな感じだ。ただの電子音なのに、そんな微妙なニュアンスをじょうずに表現できるのはひとりしか思い当たらない。


 出てみたら、やっぱりコーヘイだった。

「先輩、なにしてンすか電気もつけないで。またセンチメンタルてきな~?」

 玄関を開けるなり語尾上がりでそう言って、コーヘイはスイッチを押して勝手に電気をつける。部屋に満ち満ちていた青っぽい空気が、まっくろくろすけが引っ込むときみたいにヒュッといっぺんに散ってしまった。

 どうぞとも言っていないのに「はいこれ」と、いろいろなものがたっぷりと詰まったセブンイレブンのビニール袋を押し付けて、靴を脱いでずんずんと奥の部屋にあがりこむ。遠慮がちなのは扉を開けるところまでで、ちょっとでも気を許すとすぐにつけあがる。


 大学生にもなって、たったの1歳の差で先輩と呼ばれてしまうのもなかなか気まずいのだけれど、どうも一度刷り込まれた関係性がなかなか修正できないタイプらしい。高校のとき、野球部だったせいかもしれない。

 ビニール袋の中はたっぷりの廃棄品で、おにぎりとかサンドイッチとか、そういうものがパンパンに詰まっていた。セブンでバイトしているから、ちょいちょいこういう手土産をもってうちにくる。それほど心躍るものでもないけれど、そういえばお腹は空いていたから助かるといえば助かる。


「どうせなにも食べてないんでしょ。そういうのはいかんッスよ」

 コーヘイはそう言って、冷蔵庫から勝手にソーダの缶を2本だす。でも、それももともとは前に来たときにコーヘイが置いていったものだから、文句を言う筋合いでもないのかもしれない。1本を手渡され、そこにコーヘイがじぶんの缶をぶつけてくる。

「うぇぃーっす」

 毎度のことなのだけれど、うぇぃーっすがどういう意味の掛け声なのかは分からない。たぶん、おつかれさまですとか、今日もよろしくおねがいしますとか、役割としてはそのようなものなのだと思う。


「先輩、今日もどこにも出掛けてないんスか?」と、コーヘイはビニール袋をガサガサとやりながら訊いてくる。「はい、キンタマ」と、調理パンをひとつ差し出してくる。どうした藪から棒に。

「なに? キンタマって」

「テリヤキチキンタマゴサンド。略してキンタマ」

「ああ」

 たしかにテリヤキチキンタマゴサンドという文字列の中に、さりげなくキンタマが隠れている。日常の中でのほんの些細な気付きだ。こういう繊細さを大切に、日々の細やかな出来事をちゃんと拾い上げて、丁寧に生きていかなければならない。


 コーヘイはカツサンドの袋をばりばりと破りながら、部屋を見渡して「でも、だいぶ片付いたッスね」と言った。

「ああ、昨日の夜にふと思いついていろいろ捨てた」

「なんスか? 思い出の品てきな? ふんぎりつけちゃった系の?」

「いや、別にそういうわけじゃない」

 そもそも、思い出の品なんてなにひとつない。半年間、ただただベッドの上でゴロゴロとしていただけで、プレゼントのひとつも贈ったことはないし、もらったこともない。

「普通に、缶とか瓶とか、あと賞味期限切れてたやつとか。服もすこし」

「まあ、部屋片づけれるようになったってのは、だいぶ前に進んだってことなんじゃないッスかね? 散らかってるって、やっぱあんまりよくないッスよ」

「そうなのか」




 詩織さんの部屋はいつもものすごく散らかっていた。飲みかけのコーヒーが黒い輪になって染みついたマグカップとか、空になったペットボトルとか、丸めてポイと投げたもののぜんぜんゴミ箱に入らなかったティッシュとかがそこらじゅうに転がったままになっていたし、めくれたシーツすら掛け直さなかった。シーツも枕もぐちゃぐちゃなまま、ただただベッドの上でのらりくらりとして過ごしていた。

 詩織さんは、ゴミの日の前の夜に部屋中のゴミをゴミ袋に詰める以外は、一切家事と言えるようなことはしなかった。掃除機もかけないし拭き掃除もしない。洗い物も本当に食器が足りなくなったときだけちょっとやるだけで、シンクの中が完全な空になることなんて滅多にない。お風呂だけは、お湯をためる気分になった時だけザっと洗った。


 そういうことがまったくできない人だと思っていたけれど、最後に部屋を出る時には、そんな風に荒れ果てていた痕跡なんてなにひとつ残さず、隅から隅まできちっと片付いていて、まるでモデルルームみたいにスッキリと綺麗になってしまっていた。


 旦那が帰ってくるからだ。

 旦那のためならできるのだ。




「ぶっちゃけ、俺もっと荒れると思ってたんスけど、先輩意外と冷静ッスよね」と、飲み干したソーダの缶をペコペコと綺麗にたいらにしながら、コーヘイが言った。

「荒れる?」

「そう。だって先輩、だいぶ溺れてたから」

「溺れてたかな」

「もうぶっくぶくに溺れてたッスよ」と、コーヘイはカツサンドでほっぺたをハムスターみたいにパンパンに膨らませながら言う。「バイトも辞めちゃうし、大学も来ないし。前期ぜんぶ落としたんじゃないッスか? しかもフツーに不倫だし。俺、先輩カタいタイプだと思ってたんスけど、わりと恋愛に溺れるタイプだったんスね。までも、人間わりとそういうところあるッスよね。一種の大学デビューてきな?」

 ぶっくぶくって、溺れている擬音に使うのか? と思ったけれど、特に突っ込まずに「ああ、うん」と返事をする。単位のことは正直、あまり考えたくない。

「まあ、丁度よかったんじゃないッスかね。これで夏休み明けから心機一転ってできるじゃないッスか。大学生活いきなり躓いちゃったっぽいけど、四年もあるんだから今から追い上げればまあなんとかなるッスよ」

「そうかな」

「俺、明日から地元帰るッスけど、一週間くらい。先輩どうします?」

 アレなら一緒にアレするッスけど、と言うコーヘイに「いや、やめとく」と返事をする。コーヘイも「そうスか? ま~そーッスね。地元帰っても、そんな会うやつとかもいね~ッスかもね」と、あっさり引き下がる。テレビをつけて、適当にダラダラして「んじゃ、また一週間後にくるんで、あんま引きこもってばっかじゃダメっすよ」と言って、すぽーんと帰っていく。

 毎回、なにをしに来ているのかはよく分からない。

 コーヘイは部屋の青い空気を蹴散らして、かわりにどすんと硬質で重厚な現実を置いていく。随分と大きく膨らんでしまったそれから目を逸らしていても、消えてなくなってくれるわけじゃないから、ただ黙々と作業をして少しずつ運び出していくしかない。詩織さんの部屋から荷物を引き上げた時みたいに。



 キンタマがそこそこおいしかったので、すこし元気がでた。



 コーヘイが言うように、詩織さんと別れた後もわりと冷静だったと思う。大きな声も出さなかったし誰かに八つ当たりもしなかったし、物も壊さなかった。相対的な話をすればあまり荒れなかったほうだろう。


 夏休みだから大学がない。バイトもしていない。帰省してしまったからコーヘイもしばらくこない。窓を開け放ったままだらしない恰好で昼過ぎまで寝ていても、誰にも怒られない。太陽だけが、まるでこの世のすべてを憎んでいるかのようにじりじりと部屋ごと焼いてくるから、昼を過ぎるとさすがにもう寝てもいられない。それにしても今年の夏は異様に暑い。暑という漢字がいまいちしっくりこないくらいにものすごく暑い。空気の暑さじゃなくて、ちかくで焚き火でもやっているみたいな炎の熱だ。この夏に、いつまで経っても馴染むことができない。


 どんどん夜型の生活になる。暑さで目覚めて、茹だったみたいにぼーっとした頭を抱えてぼーっとして、陽も暮れて空気が青くなった頃にしぶしぶ動き出す。動きはじめても特になにをするということもない。テレビをつけたり、カーペットにころころをあてたり、たまに洗濯機を回したりもする。閉店間際になってようやく、歩いてちかくのスーパーまでいってちょっとした食べ物を買ってくる。とてもではないけれど料理をする気にはなれないから、だいたい袋詰めのカット野菜とか、納豆とか、そんなものばかりを食べている。


 昨日の夜から延々と降り続けている猛烈な雨がドコドコとアパートの屋根を叩いてちっとも眠れず、じっとりとした暗闇でただ寝返りを繰り返していたら、窓の外が明るくなってきてしまった。いつの間にか、雨はすっかり止んでいる。頭はぼんやりとして目も重たかったけれど、眠気がやってくる気配はいっこうになくて仕方がないからベッドから起き上がる。夜型の生活が一周してしまった。

 熱いシャワーを浴びて、半裸のままで窓を開けたら吹き込んでくる風が涼しくて、すこし気分がよくなった。だいたい、いつまでもこんなグズグズとした生活をしているのもよくないのだという気が急にしてきて、一か月ぶりくらいにちゃんとした格好に着替えた。

 特になんの用事もなかったのだけれど、せっかく外出するつもりになったのだからと映画館に行ってみることにする。調べてみたら、一番早い上映時間は8時30分からだった。映画館というのがそんなに早い時間からやっているものだということを全然知らなかったから、すこし驚いた。


 アパートを出て扉に鍵をかけて、スティールパンみたいにジャカジャカと派手な音が鳴る外階段を下りて、駅に向かう道を歩く。まだ早朝だし、昨日の夜にさんざん雨が降ったせいもあってとても涼しく、久しぶりに歩く明るい朝の道は気分がよくて、顎を上げて背筋を伸ばして、ことさらに腕を振りながら歩いた。このときはたしかに、すこし気分がはしゃいでいた。けれど、駅について切符を買って地下鉄に乗るころにはもうすっかり暑くて、しっかりこの夏の灼熱になってしまっていて、ひゅんっと気分がしぼんでしまった。それに、現実のひとたちだ。


 本当のラッシュどきではないのだろうけれど、でも朝も早いこの時間はまだ、通勤の時間帯だ。黒やグレーのスーツに身を包んだたくさんのサラリーマン、新卒間もないような若い女の人、ハンカチで頭のてっぺんまで拭く禿げあがったおじさん。

 だと思った。とてもたしかな質感をもった、現実のひとたちだと。こんなにたくさんの人たちが、ちゃんと現実をやっていっているのだと。


 朝からはしゃいだ気持ちで出掛けたことを、もうすでに後悔しはじめていた。


 朝いちばんの映画館はばかみたいに空いていた。一番大きいコーラと一番大きいポップコーンをかかえてど真ん中のシートに座って、ひとりで際限なくぼりぼりとポップコーンを食べながら映画を観た。一番大きなサイズのポップコーンは本当にバケツみたいに大きくて、二時間の上映時間内で食べきろうと思ったらひとときたりとも休んでいる暇はないくらいに巨大なのだ。

 

 ふと思い出したみたいに、詩織さんとふたりで映画を観ている映像が頭に思い浮かんだ。映画館で隣どおしにすわって、間に大きなポップコーンを置いて、ふたりで際限なくぼりぼりとポップコーンを食べながら映画を観ている。


 捏造だ。

 そんな思い出はない。

 詩織さんとどこかに外出したことなんて、一度だってなかったのだから。

 知っているのは散らかった部屋と、ベッドの上でのことだけ。



 映画はイギリスの有名なウサギがとにかく暴れ回る内容で、気楽にけらけらと笑える感じでとても面白かったのだけれど、映画を観ただけのことでなんだかすっかり疲れてしまって、もう帰ろうと思った。



 昼過ぎには最寄り駅まで戻って、道すがら、ついでだからスーパーに寄った。いつもは閉店間際にくるからお惣菜とかが安いのだけれど、この時間帯はなんだかすべての値段がとても高ように感じられた。あまりどれも食べたいとは思わないし、安いとも思わない。でもなにかを食べなければ死んでしまうし、結局なにを買ったのだったかあまり記憶がないのだけれど、ぼ~っとしながらもなにかは買ったのだろう。レジでお会計をして、自動扉を出たところで、ふと自分がスーパーのプラスチックのカゴをそのまま持ってきてしまっていることに気が付いた。

 お会計用と、赤字で大きくプリントされている、まっ黄色のすごく目立つカゴだ。

 別にわざとじゃない。ちゃんとレジは通したのだし、カゴを盗んでやろうと思ったわけでもないし、それにまだ自動ドアを出てそう何歩も進んでいない。ただ「あっ! これはうっかりしてしまった!」みたいな顔をして、そのまま店内に戻ってビニール袋に商品を移し替えて、また店から出ればいいだけの話だ。それで済む話だ。


 そのはずなのに、急に身体じゅうから力がフッと抜けてしまって、その場でしゃがみ込んでしまった。心配した店員さんが表に出てきて声を掛けてくれるまで、どうしても身動きすることができなかった。なぜか、涙がこぼれていた。


 とっくの昔に無理になっていたのだ。

 なにもできない。外にも出れないし、電車にも乗れない。映画だってちゃんと楽しめないし、スーパーでお買い物をすることすらままならない。

 無理だったのだ。実のところ。全然、冷静なんかではなかったのだ。


 普通のことすらなにひとつせず、すべてを放棄して青い空気の底に揺蕩って、見ないふりをして気付かないふりをして過ごしていたからなんとなく生きていけていただけで、蓋を開けてみればすこしもまともじゃない。無理も無理の無理無理の無理だったのだ。


 こんなことなら、ずっとグズグズしていればよかった。そうすれば、見なくて済んだのに。向き合わなくてよかったのに。


 もう、気付いてしまった。

 ようやく、本当に詩織さんがいない日々がはじまったのだ。




 ぶっくぶくに沈んでいく。ぶっくぶくと水の底に。


 ぶっくぶく。ぶっくぶく。




「なにしてんスか先輩。あきらかめっちゃ悪化してますよ」

 コーヘイがしつこくインターホンを鳴らしてくれなかったら、そのまま夏に蒸し焼きにされて干からびて死んでいたかもしれない。そうなる直前くらいに、コーヘイが地元から帰ってきた。

「え? ソーダは買ってきたッスけど、ソーダきついッスか? 水とかのほうがいいッスかね? 俺、買ってきましょうか?」

「……頼む」

 靴を脱ぎかけていたコーヘイはビニール袋だけ置いてそのまままた外に出ていって、買い物をしてまたすぐに戻ってきた。

「はい、先輩。アクエリとポカリどっちがいいッスか?」

「アクエリとポカリってなにか違うのか」

「え? ぜんぜん違うじゃないッスか。味とか。先輩、そういう細かいところに雑なのがよくないんスよたぶん」

 知っている限りもっとも雑な男に雑と言われてしまった。

「なんか食えるなら食ったほうがいいと思うッスけど、無理ならウィダーもあるし。あ、スイカ食べます?」

「スイカ?」

「夏だし。今年、スイカ食いました?」

「食べてない」

「じゃ、スイカ食いましょうよ。包丁借りますよ」

 人間単純なもので、がぶがぶと水分を摂って、スイカのまるはんぶんぺろりと食べてしまったら、久しぶりに生きる元気が湧いてきた。

「コーヘイ、今からちょっといいか?」

「え? なんスか? 別にいいッスけど用事とかないし。なにすんスか?」

「詩織さんの旦那が見たい」

「は?」

 え? マジで言ってんスか? そういうのマジやめたほうがいいですって。これ以上執着しても、なんも得るものないッスよ。そもそも最初から無理に決まってんじゃないッスか。先輩、たぶんいまちょっとおかしくなってるんスよ。自分が無理だからって全員で不幸になればいいみたいなの間違ってるじゃないッスか。なにも別れた恋人の幸せまで願ってやれとは言わないッスけど、他人が不幸になったぶんだけ自分が幸せになれるってわけじゃないんスよ。もう関わらなきゃいいじゃないッスか。今はちょっとしんどいかもしれないッスけど、時間は掛かっても人間ちゃんと立ち直るんで大丈夫ッスよ。普通にしてればいいんスよ普通に。そんだけの話ッス。

「え、いや別に。旦那にバラそうとか直談判しようとか、そういうつもりはないよ」

「じゃあなにすんスか?」

「見るだけ。見たいだけ。確かめておきたい。どういう人なのか」

 やめたほうがいいと思うッスけどね~見たところで別にどうなるわけでもないじゃないッスか。と、まだ言い募るコーヘイに「ならひとりで行くからいいよ」と言って、オペラグラスを手に持って玄関でスニーカーに足を突っ込んだら結局コーヘイもついてきてくれた。昔から、根はいいやつだ。



「で、どうすんスか? 旦那見るっつったって、先輩そいつの顔知らないんでしょ? ていうかアレか、顔を知らないから見たいって話か」

 え? じっさい無理じゃねぇッスか? と言うコーヘイに「もうすぐ帰ってくる時間のはずだから、マンションの向かい側で張る」と答える。

「え? 張るんスか? 張るってヤバいッスね。めっちゃ刑事ドラマみたいじゃないッスか」

 詩織さんの部屋は二棟建てのマンションの9階で、すこし遠くはなってしまうけれど向かいの棟の外階段の踊り場からなら玄関を見張ることができる。住民はほとんどエレベーターを使うから、踊り場の部分にいればあまり怪しまれることもないし、誰かが通りすがってもふたりなら、なんとなく井戸端会議でもしている雰囲気になるかもしれない。

 エレベーターから誰かが降りてくるたびに、オペラグラスを目に当ててじっくりと観察する。冴えないおじさんが別の部屋に入っていくのを見届けて、今のは違ったかと胸を撫で下ろす。


 胸を撫で下ろす?


 いったい、どうなってほしいのだろう?

 旦那は冴えないおじさんであってほしいのか?

 それとも、納得できるぐらいの素敵な男性であってほしいのか?


 分からない。たぶん、それを確かめたくてここまできたのだ。


 また誰かがエレベーターから降りてきて、オペラグラスを覗き込む。

 ツーブロックにして、長い部分をラフに後ろに流したちょっとワイルド系の髪型。サイズがきつそうなぐらい、ワイシャツの肩のところがたくましく盛りあがっている。その人が、詩織さんの部屋のインターホンを鳴らした。


 玄関の扉が開いて、笑顔の詩織さんが顔を出す。

 コンサバティブなひざ下丈のスカートをはいて、エプロンまでしている。

 詩織さんが男の人の首に手を回して、すこし背伸びをして軽くキスをした。

 ちょん、と触るみたいな、かわいらしいキス。


 扉が閉まる。


「なんスかあれ。マジでアメリカのホームドラマみたいだったッスね」

「コーヘイも見えた?」

「あ、じぶん視力両方2・0以上あるんで、余裕ッスね」

 や、あれ無理っしょ~~。え? マジ? あんなのほんとにあるんスね~、と、コーヘイは腕を組んでしきりに感心している。

「で? もう満足したッスか? 先輩」

「うん」と、返事をする。「満足した。帰ろう」




 夢を見るようになった。

 詩織さんが台所に立っている。ひざ下丈のスカートに、エプロンをつけて、おたまでぐつぐつと煮えた鍋をかき回していて、赤いやかんからはしゅっしゅと蒸気がたちのぼっている。まな板の上には、ざっくりと切ったたっぷりの野菜が準備されている。

 そこに詩織さんの旦那がきて、うしろから詩織さんを抱き締める。

 詩織さんはうっとりした顔で顎をあげ、そのまま反転して背伸びをし、旦那にちょんとかわいらしいキスをする。


 捏造だ。

 詩織さんがエプロンをつけて台所に立っているところなんて、一度たりとも見たことがない。想像を絶している。

 嫉妬しているのだろうか。

 いやそんな風に、普通のありふれた幸福のカリカチュアみたいに、アメリカのホームドラマのお嫁さん役みたいに振る舞う詩織さんなんか、ぜんぜん欲しくない。

 なんてつまらない人になってしまったんだろう。

 旦那のことをうらやましいなんて、ちっとも思わない。


 自分がいったいなにに恋をして、なにを失ったのかが、さっぱりわからなくなる。




 夏の夜はまだまだ暑くて、寝苦しい。浅い眠りは夢を誘い、起き抜けのどんよりとした頭の重さはますます現実を遠ざけ、夢と現実の境を曖昧にする。

 ノイローゼというやつかもしれないな、と冷静に考えている自分は頭のどこかにいて、自覚はできているんだからたぶんまだ大丈夫なんだろうと考える。ともかく、現実が遠のいたぶん、夢が現実と同じくらいの質量をもちはじめていて、夢を見ているだけでとても疲れる。


 たとえば、夢の中で猫になっている。小汚い野良の仔猫になって、道端でにゃあにゃあと鳴いている。そうするとそこに詩織さんの旦那が通りかかって、屈んでこちらを覗き込んでくる。鋭角な印象のある顔だ。いろいろなところが尖っていて、ピシッとしていて、それでいて目元はとても優しそうだ。

 きっと、誰にも嫌われないタイプの人だ。

 こんなふうに優しく笑う人が嫌いと言うのは、ひねくれものの僻みだけだ。

 詩織さんの旦那はふわりと笑い、仔猫を抱き上げて家まで連れて帰る。玄関の戸を開けた詩織さんは仔猫を見てすこし驚くけれど、やっぱりふわりと笑って、旦那さんからそのちいさな生き物を受け取って、頬を寄せる。

 ああ、猫ならばよかったのに。

 猫ならば、詩織さんも、詩織さんの旦那も好きで、なんの問題もなくすべてがまるく収まるのに。




「あれ、先輩こんなところでなにしてんスか」

 セブンの前でコーヘイのバイトが終わるのを待ち伏せしようと三角座りをしていたら、バイト終わり前に制服姿のコーヘイに見つかってそう言われた。

「コーヘイのバイトが終わるのを待っている」

「あ、そうなんスか。なんか用事ッスかね。別にメールでもなんでもしてくれればよかったのに」

「お酒を飲もう」

 コーヘイは一瞬「え、でも」と、逡巡するような表情を見せたけど、結局「いいッスよ。あと30分であがるんでちょっと待っててください」と言う。

「あ、じゃあコーヒーだけ買おう。温かいのが飲みたい。どうせもう見つかってしまったし」

「え? 先輩それやっぱ隠れてたんスか? は? なんで?」

 どうしてだろう? 自分でもよく分からない。


 交通量の多い、蒸し暑い夏の夜の交差点でガードレールに腰掛けて温かいホットコーヒーを飲む。端からだーだーと汗が流れ出てくるけれど、それほど不快でもない。

 私服に着替えて店から出てきたコーヘイが「で、どうします? 宅飲み? それかどっか飲みにいきます? せっかく出てきたんだし」と、訊いてくる。

「どこかに飲みに行こう」と、返事をする。そのつもりで、わざわざここまで出てきたのだ。

「アッハイ。んで、別にいいんスけど、実は今日もとから彼女と約束してたんで、彼女と一緒でもいいッスかね? 三人で」

「え? 彼女?」

 完全に予想外な提案に、素で驚いてしまう。ていうか、コーヘイ彼女いたのか。

「それなら、やっぱ今日はやめとくか? せっかくのデートなんだろ?」

「いや、大丈夫ッスよ。別にデートとかそういうんじゃないし、それに彼女も人と会うの好きなんで、たぶん嫌がらないと思うし」

 そういうものなのか。


 コーヘイの彼女と合流して、ちかくの居酒屋にはいる。

「先輩さんって~、けっこうお酒は飲まれるんですか~?」

「いや。お酒のむのは、これが生まれてはじめて」

「え? うっそ~? え、マジで? 今日のこれが本当の本当にお酒飲むのはじめて?」

「うん。あまりそういう機会がなかったから」

「え~やっば~い。じゃあ今日これマジで記念日じゃないですか。なに飲みます? ビールいけそうですか? もっと飲みやすそうな、甘い系のやつとかからにしておきます?」

「正直、よく分からないんだけど」

「あ、じゃあゆずとゆずはちみつだったらどっちがいいですか?」

 その二択なのか。とはいえ、ゆずはちみつっていうのはなんかおいしそうな気がしたから、それにする。

 コーヘイの彼女はカエちゃんという名前で、コーヘイが言っていたとおり人懐っこいタイプみたいだった。もちろん、本当のところどう思われているのかなんて分からないけれど、少なくとも表面的には嫌がっているような雰囲気はまったくない。屈託がないというか、完全にコーヘイがふたりに増殖したみたいな感じで、似た者カップルだ。

「ここいちおう手羽がメインなんですけど、先輩さん手羽すきです?」

「どうだろう? 手羽ってそんなに食べたことないから、イメージがわかない」

「あ、じゃあひとつ注文しちゃいますね。すいませ~ん!!」

 奥からはーいと店員の声がして、注文を取りに来る前にカエちゃんが「生ふたつと~、ゆずはちみつサワーひとつと、手羽みっつ! あと枝豆! ポテトは? コーヘイ、ポテトいるでしょ?」「あ、いるいる」「あとなに? なんこつ?」「それな」「えっと~!! ポテトとなんこつ!! とりあえずそれで!!!!」と、大声で通してしまう。

「なんかいいな、たまにはこういのも。活気があって。新鮮だ」

「そうなんですよ~いいんですよ~先輩さん! たまには飲んじゃったほうが!!」

「いや、マジで先輩とこうして飲める日が来るとか俺マジ感激ッスよ。夢だったんスよね。先輩マジこういうの全然付き合ってくんないじゃないッスか昔っから」

「え? じゃあコーヘイ先輩さんと昔からなにやってたの? コーヘイ、マジで飲むくらいしかしなくない?」

「や、だから俺マジで先輩となにもしたことないんだって。部活終わりにバス停でちょっと喋ったりとか、そんぐらい」

「なにそれ。ちょ~ウケる。マジで真面目な高校生じゃん」

「いや、俺マジで高校生ン時は真面目だったんだって。ねえ、先輩?」

「どうだろう? あまり記憶がないな」

「ほらな?」

「え? 待って、今ののなにがほらな? なの? 1ミリも肯定されてなくない?」

 はい生中とゆずはちみつサワーお待ち! ドンッ!

「あ~はいはいはいはい。それじゃはいはい、うぇぃ~~っす」

「うぇぃ~~っす!!」

「……っす」

 はい枝豆と手羽おまち! ドンッ!

「え、手羽でてくるのはやくないか」

「ここんちの売りッスからね。もう注文関係なしにひっきりなしに作ってんスよ。はい、先輩いっこどうぞ」 

「おお」

「先輩さん、手羽のじょうずな食べかた知ってます? ほら、ここんところこう持って、あとぴ~って」

「ぴ~って」ポーン!

「やっば。先輩マジでセンスなさすぎじゃないッスか? なんでそんなことなるんスか? え? ただの手羽っすよ?」

 こっちが聞きたい。はいポテトとなんこつおまち! ドンッ!

「や~ば~い。超ウケる。あ、危ないですよ! 先輩さん! そっち! 器!」

「え?」 ち~ん!

「あはは! え、やっば! なにその器ちょういい音するちーん! だって、ちーん!」

「や、マジで今の楽器レベルっすよね。ヤバくないッスか?」

「ちょっとコーヘイもやってみてよ、ほら」

「え、やりたいやりたい。先輩それちょっと借りていいッスか」

「あ? え、うん」 チーン!

「え~ちょっと全然違うってばコーヘイ、さっきのはチーン! じゃなくて ち~ん! でしょ。なんか違うってさっきもっとすごいいい感じだったもん」

「ちょ、おま、そこまで言うならお前、カエちょっとやってみろよ」

「お、いいよ。ほらちょっと貸してみ?」 チーン!

「ほら~、やっぱカエも違うじゃんち~ん! じゃなくてチーン! じゃん」

「え~? あれぇ? なんだろ? さっきのやっぱりただの奇跡だったのかな? ちょっと先輩さんもう一回やってみてもらっていいですか?」

「え、まあいいけど」    ち~~ん!

「やっば!」「え、やっば! 先輩それどうやってんスか? マジ天才なんじゃないッスか?」「ちょ、マジでもっかいやってくださいってそれ」「いいけど……」



 ち~~ん!




 目を覚ますと毛足の長い白いふわふわとしたカーペットの上で眠っていて、後ろのほうからごおごおという、ものすごいいびきが聞こえてくる。

「あ、起きました?」と、窓際に座って外を眺めていたカエちゃんが声を掛けてくる。

「あれ……ここは?」

「わたしの部屋です。先輩さん、途中でなんかダメな感じになっちゃったから、連れ込んじゃった」

「ああ……それは……」申し訳ない。

「わたしは別に全然いいんですけど、めっちゃ面白かったし。でもやっぱり、先輩さんあんまりお酒強くないみたいだから、これから先はちょっと気をつけたほうがいいかもですね?」と、カエちゃんが首を傾げて笑う。「こんな風に、知らない部屋に連れ込まれちゃうかもしれないですし」

 上半身を起こして後ろを振り返ると、ベッドの真ん中で大の字になってコーヘイがごうごうといびきをたてていて、カエちゃんが「すごいいびきでしょう? お酒を飲むと、いつもこうなの」と、顔をしかめる。

エジプトの壁画みたいな変なポーズで眠っているコーヘイは、漫画みたいに大きくお腹を上下させながら、ごおおおおおっ! ごおおおおおっ! と、台風みたいないびきをかいていて、こんなにごうごう言っていて本当に大丈夫なのかと心配になるレベルだ。

「コーヘイのいびきがうるさくて眠れないから、夜涼みをしていたの。もう盆も過ぎたから、夜は窓を開けていれば涼しくて気持ちいいですよ。先輩さんも、こっちにきます?」と、カエちゃんはすこし端に寄って場所を開けてくれる。

「ああ、本当だ。もうだいぶ涼しいね」

「うん。今年も、夏が終わりますね」

「先輩さんは」と、カエちゃんが口を開く。「コーヘイのこと、好きなんですか?」

 そんなこと、考えたこともなかったけれど、でも訊かれてしまった以上は表層の条件反射だけで返事をしてしまうのもカエちゃんに失礼にあたるような気がして、いったんスンと考えてから、答える。

「そうだね。ひょっとすると、好きかも」

「そうなんだ」と、カエちゃんは静かに言う。「たぶん、コーヘイも」

「でもね」と、カエちゃんの言葉を途中で遮る。「カエちゃんのことも、コーヘイと同じぐらい好きだよ」と言う。「たぶん。今日好きになった」

 カエちゃんは、驚くくらいに柔らかく笑う。まるで、女神のようだ。

「どうして、好きなだけじゃ、みんな一緒にいられないんでしょうね」

「うん。好きなだけで、みんな一緒にいられればいいのにね」




 翌週、詩織さんの家に電話をした。詩織さんは今どき携帯電話も持っていないから、連絡をしようと思ったら家の電話に掛けるしかないのだ。

「もしもし」と、深く低い、染みわたるような声の男の人が受話器をとった。詩織さんの旦那だ。声もとても素敵だ。好きになってしまいそうなぐらいに。

「あ、もしもし。詩織さんはご在宅でしょうか?」と、なるべく平静を装って訊いてみると「ちょっとお待ちください」と、受話器をあげたまま詩織さんを呼びにいった。

 遠くのほうで、旦那と詩織さんが喋っている気配がする。詩織さんの声は聞こえないけれど、旦那の「分からない。なんか、若そうな子」という返事だけが聞こえた。

「もしもし」と、詩織さんが電話口にでる。

 なつかしい声。ききなれた声。とても、愛しい声。ただそれだけのことで、想い出がワッと押し寄せてきて、めまいがする。

「ひさしぶり」と言うと、詩織さんが「どうしたの?」と訊いてくる。

「別れよう」と、言う。自分でも驚くほど、声は落ち着いている。

 やっと、別れをきりだせた。自分から、別れることができた。

「懐かしいな。明日、どこかで会って話せない?」と、詩織さんが言う。

「いや」

 もう、ほとんど泣きだしそうになっているのに、意外なことに拒絶の言葉は、ちゃんと冷徹に、硬く、けれど軽やかに響いた。

「それじゃあ、元気で」

 それだけを言って、一方的に電話を切る。




 電話を切ると同時に、からだじゅうの力が抜けてソファーにどすんと倒れ込んだ。そのままの姿勢で、しばらくずぅ~っと、ぼ~っとしていた。

 気が付くと窓の外の街の様子が、まるで水の底に沈んでいるみたいにおどろくほど青い。青い空の底に、ぶっくぶく、ぶっくぶくと沈んでいる。けれどもうその青は、人を丸ごと飲み込んでしまうほどには濃くも重くもない。


 夏はもう、逝ってしまったのだ。


 去年から椅子の背にかけっぱなしになっていたカーディガンを羽織って財布をポケットにいれて、スニーカーに足を突っ込んで部屋を出る。またコーヘイのバイト終わりを襲撃してもいいし、コーヘイ抜きでカエちゃんに連絡してみてもいい。



 青い空の底から浮き上がり、扉をあける。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空の底 大澤めぐみ @kinky12x08

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ