第2話 小石は夢を見る

小石は夢を見る


 私には全く霊感が無いが、過去に二度ほど不可解な体験をした。そのいずれの体験も、直接ではないが、私の祖父がからんでいる。


 私の祖父は、太平洋戦争で南方に出征した元軍人で、人付き合いが良く、幼い頃の私がずいぶんと可愛がってもらったことは以前に述べた。


 私が小学生低学年の頃、夏の一時期預けられた母方の実家は鍛冶屋で、祖父はその鍛冶屋の二代目だった。


 祖父は、今ではほとんど忘れてしまったが、沢山話をしてくれた。田舎での遊び方や、動植物の名前や性質。でも、戦争の時代を生き抜いた人々が例外なくそうであるように、そこに戦争の話題はほとんど無かった。


 祖父は戦争のことを何も語らなかったけれど、たったひとつだけ例外があった。祖父の腕には鉄の破片が未だに入っており、それは手榴弾の破片だという。


「俺ん体の中にはな。手榴弾の鉄の塊がまだへえった(入った)ままなんだ。」


 この話がどういう経緯で出てきたのかは思い出せない。確かに、祖父の左腕(だったと思う)の体内には、切手くらいの大きさの黒い塊が残っていた。その頃、まだ小学生低学年だった私は、そもそも戦争というものが良くわかっていなかったので、その黒い塊の持つ意味をわかりかねた。


 戦争とは人が殺し合うこと。それはわかる。でもその深刻さは、当時の私にとっては、土曜日の夕方に放送される戦隊物の番組の中で、正義と悪の集団が戦う程度の意味しか持たなかった。その時の私は「へぇ」とか「ふぅん」とか、曖昧な相槌を返しただけだったと思う。


 今にして思うと、戦争の話を生で聞けるまたと無い機会だったのだから、もう少し興味を持てばよかったのだが、当時小学生だった私に、その機会の重大さがわかるはずもない。祖父ももしかしたら、ことの重大さに気づいていない私相手だったから、口が軽くなったのかもしれない。


 結局、祖父は戦争のことについて、母にも全く語らずじまいでこの世を去った。私の両親も祖父に戦争のことを尋ねることはしなかったらしい。それは別に、祖父にとって戦争の話題はタブーとか、そういうことではなく、聞くなんて思いもしなかった類のことだったらしい。


 たしかに、本当に大切なことなのに、改めて聞こうとは思わないことは沢山ある。それが肉親であればなおさら。


 話を戻そう。


 祖父は鍛冶屋であった。世は高度成長期時代。時代遅れの鍛冶屋に仕事がさほどあったとは思えないのだが、夏休みに私が祖父の元に預けられた半月ほどの間、祖父はほとんど毎日、作業場に座って仕事をしていたように思う。


 車が2台程度入れるくらいの広さの鍛冶屋である。イメージとしては、「紅の豚」でポルコが愛機をおばあちゃん達にレストアしてもらった、あのイタリアの町工場を10分の1の規模にして、10倍みすぼらしくして、黒くすると大体あっている。


 鍛冶場の床は土のままで、工作機械が備え付けられているところだけ鉄板が敷いてあった。壁は板葺きで煤で真っ黒。鍛冶屋の代名詞である竈や巨大な自動の金槌、水桶、旋盤などは、正面向かって左側に集められており、そこに祖父の定位置があった。


 祖父の定位置は、鍛冶屋の前の道からすぐのところにあったので、日中は日が当たった。その日光が水桶に反射して、宇宙人からのメッセージのような白い幾何学模様を天井に描いていたのを覚えている。


 祖父は時代劇に出てくる枕くらいの高さの椅子に腰掛け、材料となる鉄の棒を真っ赤になった竈につっこみ、タバコを吹かしながら「やっとこ」でそれをつまみ出し、自動の金槌でガンガン叩き、水桶に突っ込む。その作業を無表情で延々と繰り返していた。


 この繰り返しの光景が、私の祖父の働いている姿だった。ちなみに、今に至るも祖父が何を作っていたのかはわからない。


 その祖父が言ったことがある。


「川からきれいな石は持って帰っちゃなんねぇよ」


 あまり物を強く言わない祖父が言った、この「まじない」のような言葉は(祖父は迷信をあまり口にする人ではなかった)、当時の私の心に深く突き刺さった。


 祖父のその言葉の前後の文脈はすっかり忘れてしまったが、多分、川にあるものをみだりに持ち帰るのはよくない、という教訓を言いたかったのではないかと思う。初(うぶ)な小学低学年の私は、その言葉を、託されたおやつ代のように固く握りしめ、決して手放すことはしまいと誓った。


 ここまでが今回の話の前振りになる。この祖父がかけた「まじない」が効果を発揮するのは、その約3年後。私は祖父の言葉を忘れた訳ではなかったが、それほど深刻には考えていなかった。


約3年後。小学生の最後の年にそれは起こった。


その日、私は学校の行事で山に遠足に向かい、道中で休憩した河原(のそばの、駐車場だったと思う)で、石を拾った。


 その石は、砂糖が結晶化したかのように真っ白で、黒いつぶつぶがごま塩のように点在していて、どこかで見た覚えがあって非常に魅力的な石だった。小学六年生の私に教えておくと、それは花崗岩で、確かに河原の駐車場で見つけるには珍しい石かもしれないが、普通にマンションの壁面などに使われている。おそらく、通っている小学校の壁面にも使われているはずだ。


 しかし、当時の私は小学校最後の遠足の記念として、その石を持ち帰ってしまった。最後の遠足を特別なものにしたかったのだ。そして、その翌朝、私は祖父の言葉を痛烈に思い出すことになった。


 夢を見たのだ。


 悪夢である。


 流石に夢の内容は忘れてしまったが、私が未だにこの悪夢で覚えていることは三つ。


一つ。なんだかよくわからないが、夢の中で女性に追いかけられる。私は女性の何か都合の悪いものを見るか知ってしまい、それが理由で逃げるのだ。女性は明らかに悪意を持って私を殺そうとしている。たしか、包丁を持っていた気がする。私はそれから必死に逃げるのだ。


二つ。私は女性から逃げ切る。私は命からがら、女性から逃げ切り、夢から覚める。女性の呪詛の声が今まさに枕元で吐かれたような気がするが、私は何を言われたのかは思い出せない。夢であったことを喜ぶべきか、悲しむべきかわからない放心状態がしばらく続いて、朝であることに気がつく。


 そして三つ目。これが問題だった。ここで話が終わっていれば、夢で済む話なのだが「続き」があった。


 悪夢には続きがあったのだ。

 

 三つ。次の日の夜、私は夢の中で、悪夢の女性と再会する。


 悪夢再びである。その女性は、当然にして、すごく怒っていらっしゃった。たしか、鬼のような形相で、今度こそ私を殺そうと襲いかかってきたはずだ。そして、これももう忘れてしまったが、なにかとんでもなく怖いことを言われた。


 おそらくは。


「逃げ切れると思ったの?」


 とかそういう定番のセリフだったと思う。


 次の日の朝。私は悲鳴を上げて飛び起きた。そして、この夢の原因を探った。


 考えるまでもない。あれだ。石だ。


「川からきれいな石を持ってきてはならない」


 この悪夢は、この石のせいに違いない。祖父の言いつけは、このことだったのだ。


 当時の私は、こんな小さな石に悪霊とか精霊的なものが宿るはずは無いから、悪霊本体に通じるなんらかの霊的な経路を作ってしまったに違いないと、鋭いのだか、そもそもそういう問題なのか分からない分析を下して、それを本気で信じた。


 今にして思うと、この事態は半分以上、祖父のまじないがもたらしたものであるような気もするが、それは置いて、当時の私は、この石をどう処理するか。いかに3回目の悪夢を回避するかに真剣に悩むことになった。


2ch掲示板の怪談でもあるまいし、悪夢で死ぬことなんて、「今なら」馬鹿馬鹿しいと断言できる。しかし、当時の私にとっては本当に死活問題だったのだ・・・いや。これは嘘だ。


 実は、「今でも」私は、山に行っても、川に行っても石を持って帰ることはしない。最近、山登りを始めたけれども、山にあるものは絶対に持ち帰らないことにしている。


 話を戻して、当時の私が真剣に悩んだのは、石の処理についてだった。私も当時の小学生のご多分に漏れずに怪談好きだったので、「捨てても戻ってきてしまう怪異」のことは知っていたし、小学生的一般常識で考えて、この石を下手に処理したら、祟りが倍加してしまう可能性がある。


 悩みに悩んだ末に、私が出した結論とは、不特定多数にこの責任を肩代わりしてもらうことだった。


 つまり、私は、その石を、学校のプールに投げ入れたのだ。


 そこにまったく論理的整合性が無いのだが、当時の私は、プールに投げ込めば、石に宿った厄災は薄められ、学校全体、つまり全校生徒に均等に割り振られると考えた。


 今考えると、それは人の行動としてどうなのか? と言いたくなる選択なのだが、小学生は一度確信してしまうと、それしか方法はないと思い込む。


 なぜ、当時の私が水の流れるところにこだわったのかは、今はもう思い出せない。もしかしたらまじないの本に載っていたのかもしれない。流し雛は実は水子の供養だったとかそういう類の話に影響されたのかもしれない。


 プールに投げ入れたのは夜。一度、自宅に戻って石を取ってきた。さすがに石を持って登校することはできなかった。季節は秋、だったと思う。遠足は毎年涼しくなった頃に行われていた覚えがある。


 ぽちゃんという音は聞こえなかった。私は振り返ることなく、逃げた。


 悪夢は三度はやって来なかった。


 だが。


 悪夢はやってこなかったのが、石はその後、私の眼の前に再び現れた。それは祖父が亡くなった時の話だ。


 季節は流れ、私は高校を卒業し、私大に入学した。


 祖父は私が大学に入学したその年の春、暖かくなる前に亡くなった。胃がんだった。祖父は入退院を繰り返し、残念ながら鍛冶屋に戻ることなく、病院のベッドで息を引き取った。


 その頃、私と祖父との交流は、年に1度会うか、会わないか程度になっていた。私が高校時代、体育会系の部活に所属していて自由にできる時間が少なかったせいもあるが、私もいわゆる高校時代のイベントをこなすことで忙しかったのだ。


 私は既にかわいい孫ではなくなっていた。


 私が病床の祖父に会いに行ったのは3回。1度目は親に連れられて、2度目は祖父の手術に使う血を提供するため。


 3度目は、夜が明ける前、親から電話で呼び出されてだった。始発で向かったが、残念ながら私は祖父の死に目に会うことはできなかった。


 営業時間前の病院に到着し、緊急外来の受付で祖父の名前を告げた時、当直の看護婦さんの対応の不自然さを見た瞬間、私は祖父が亡くなったことを知った


 祖父の死後、私や私の家族の人生のその後を大きく決めてしまう出来事が立て続けに起こるのだが、これは今回の話とは関係ないので置いておく。でも私は思うのだけれど、葬式とは家族のその後の人生を軽くしてくれる本当に良いシステムだと思う。お金がかかるのが問題なのだけれど。


 話が脱線ばかりで申し訳ない。そう。あの時の石との再会の話だ。


 私があの時の石と再会したのは、祖父が荼毘に付された時のことだ。


 もちろん、お骨になった祖父の体内から、プールに投げ捨てた呪いの花崗岩が見つかった・・・という話ではない。そんなことが起こったら大変だ。ファンタジィやメルヘンではないのだから。


 見つかったのではない。見つからなかったのだ。あの石が。


 祖父の体内に入っていたはずの、手榴弾の破片。


 火葬場で荼毘に付され、白化した森のような姿になった祖父を、火葬場に来た親族全員で骨壷に入れる儀式の最中、私はお骨になった左腕のあたりを探した。そこには、祖父の太平洋戦争の証明である手榴弾の破片があるはずだ。


 しかし、そこには、黒い破片は見つからなかった。いや、待て。その前に。


 私は気がついた。だれも、祖父の左腕に注目していない。


 親族は粛々と二人一組になって、祖父の遺骨を骨壷に入れる作業に集中している。火葬場の職員が、これが喉仏です。と指し示し、それに親族が手を合わせる。


 でも、誰も祖父の左腕のことを気にしない。祖父の左腕のエピソードは、少なくとも私の母方の家族は知っているはずだ。確かに、火葬場という非日常で、不謹慎だとか無礼だとか、そういうのはあるかもしれないが、普通の人間なら・・・いや、語弊があるかもしれないが、男であれば、祖父の体内の手榴弾の破片は気になるはずだ。


 でも、だれも気にしない。そして、当の破片は見つからない。


 私は、粛々と進められる作業を呆然と見守りながら、手榴弾のかけらが現れるのを待った。しかし、係の人が、刷毛で粉になったお骨の全てまでも骨壷に入れ切るまで、黒い破片はついに現れることは無かった。


 私は頭の上に「?」を浮かべながら、この事実をどう受け止めるべきか、悩んだ。


 手榴弾の破片が、溶けて無くなってしまった可能性。


 そもそも手榴弾の破片の話は、私の夢想だった可能性。


 そして、祖父は手榴弾の話を私にだけしか話さなかった可能性。


 私は、この事態から予想される様々な可能性を検証した。その頃は大学生だったので、多少は頭が回るようになっていたのだ。


 検証の結果、私はこのことについて一生口をつぐむことにした。この話題は、おそらく、私を含めて、皆に総合的にあまり良いことをもたらさない。


 そして、その結論を下した瞬間、痛切に思い出したのだ。プールに投げ捨てたあの石のことを。


 夢に二度出てきた女性の表情を。悪意を。ありありと思い出した。


 こうして、水に流したはずの厄は6年ぶりに、私の目の前に現れたのだった。


 ただ、その時の私は、さすがにもう、呪いだとか、因果応報だとか、そういった安易な見立てに飛びつくことはしなくなっていた。


 ただ、「ああ、そうか。持っていかれたのだな」と思った。


 何に何を持っていかれたのか? これを一言で説明するのは難しい。読者の方には「終わった」というのが伝わりやすいと思う。何が終わったのかというと、それは私の少年時代だ。何の疑問を持たずに憧憬だけで過ごせた幸せな時間は祖父の死とともに完全に終わった。


 でも、私にとっては「持っていかれた」というのがしっくり来る。祖父は死ぬことによって、私の中の祖父との暖かい思い出の多くを変質させてしまった。私にとっては「持っていかれた」のだ。ムカデは酒につけておくと薬になるとか、この道が近道だとか、そいういった些細な祖父との思い出は、この瞬間、本当に、手の届かないところに行ってしまった。


 祖父がいなくなって残ったのは「不思議」ではなく「寂しさ」だけとなった。


 悪夢の話も、タネを明かせば別に大したことではない。女性に殺される夢は心理的な分析では、母や恋人の抑圧に対する反抗心の表れであり、実際は吉夢だ。反抗期では定番の夢だ。このことは後で調べた。


 私が体験した一見不思議なエピソードは、客観的に見れば特に特徴もない、普通の子供の普通の成長の1ページに過ぎない。


 あの夏休みはもう二度と巡ってこない。思い出はセピア色になって年々薄れてゆく。


 ただ、今にして思うと、祖父ももしかしたら、幼少の私と接している時、そういう気持ちだったのではないか、と思うことがある。


 祖父は多くの家族に囲まれてこの世を去ったが、その人生は平坦では決して無かった。聞いた話では祖父は兄弟を5人以上先に亡くしている。寂しくなかったはずはないのだ。戦争経験者ならなおさらだ。


 幼少の頃の私は本当に思い込みが激しく、軽率な行動ばかりで鍛冶屋の叔父や叔母には怒られたが、祖父に怒られた記憶は一つも無い。多分、本当に一度も怒られたことは無いと思う。


 大人になった私は、祖父のことを思い出すと寂しい気持ちになるが、もしかしたら、祖父もこんな寂しい気持ちを抱えながら、幼少の頃の、何も考えていない、夏休みではしゃぎまくる私の世話を焼いていたのかもしれない。


 そう、思うと、私の祖父との思い出は、また輝きを取り戻すのだった。



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赤とんぼと失われた世界 ミムジー @mimgy

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