魔法使いと出会った話。
水城しほ
魔法使いと出会った話。
何してるの、という無邪気な問いを煩わしく感じるようになったのは、いつからだっただろう。
逃げるように仕事を辞めてからだろうか。
もしくはそれよりもっと前、趣味という趣味を全て手放してからだろうか。
私が仕事から逃げ出したのは、激務の中で先輩と後輩の主導権バトルの板挟みになっていた頃のことだ。
大丈夫、まだリカバリできるよ。
大丈夫、次から気をつけてね。
大丈夫、後は処理しておくから。
大丈夫です、慣れてますから。
大丈夫です、まだいけます!
大丈夫です!
大丈夫ですよ!
大丈夫ですけど何か!
あっ何でもないです、大丈夫です!
仕事以外はメシ・フロ・ネルの生活、毎日が早出に残業で、太陽の光を拝めるのは休日だけだったけれど、大抵はずっと死んだように眠っていた。
唯一の趣味だった創作活動に、全く時間をとれなくなった。
それをうっかり家族の前で嘆こうものなら「いつまで子供のつもりなんだ、これだからお前は駄目なんだ」と、延々と嫌味を言われる事になる。
いちいちプライベートで不愉快になるだなんて、そんな暇はなかった。
大好きで大切だった世界を思い出してしまわないように、関わる全てを押入れの奥へとしまい込んだ。
同じように、幸せな記憶を、心の奥底へとしまい込んだ。
私の頭は、ある日突然壊れてしまった。
その日は私の担当顧客を相手に後輩がミスを連発し、自分の仕事を止めてフォローに追われていた。説明しても聞き流すか悪態を吐く子なので、もう注意も指導もせずに処理していた。
やらかした本人が「フォローなんか頼んでないのにウザいよねぇ」と別の後輩に言っているのが聞こえて、その瞬間に後頭部を殴られたような衝撃が走った。痛みはなかった。
問題は、それから急に正常な思考が維持できなくなった事だった。カレンダーを見ないと日付が言えない。何度も確認してからじゃないと、指示が出せない。うっすらと「これ本気でまずいやつだ」とは思ったけど、決算期に仕事を放り出すわけにはいかなかった。
迷惑をかけたくないと焦った私は、確認作業にそれまでの倍の時間をかけ、休憩を取らずに仕事をするようになった。異常な量の付箋紙が、モニター周りを埋め尽くした。
騙し騙し仕事を続けて二ヶ月が経った頃、今度は頭だけでなく、全てが壊れた。
毎朝、布団の上でゴミ箱を引っ掴んで吐くようになった。欠勤連絡を会社に入れると治るものの、外出しようとするとまた吐いた。
父親に車で送って貰って強引に出勤しても、トイレへ五分おきに飛び込む有様。心療内科へ行こうとすると、母親から「病気じゃないのに病名を付けて貰いに行くの?」なんて言われて、もうどうにもならなくなった。
諦めて、退職届を提出した。繁忙期の直前で、後輩に真正面から悪態を吐かれた。返す言葉は見つからなかった。先輩たちはその子を叱ってくれたけど、ますます自分が惨めになった。
俺の立場も考えろよなってお父さんが言ってたわよ、と母親が言った。
わかっていた。職を世話してくれた父親の顔に、私は最悪の形で泥を塗った。申し訳ないことをしたとは思っている。
だけど。
あなたたちが私を否定し続けるから、私はずっと頑張ってきたのに。
言う通りの進路に進み、好きなものを全て捨てて、壊れるまで頑張ったのに。
どうして、一度も、私を認めてくれないの。
自分には、生きている価値がないような気がした。
Q:あなたは何をしていますか。
A:私は何もしていません。
衝動も情熱も、今はもう尽きてしまったの。可笑しいでしょう。昔はあんなに、自分の生きた証を残したがっていたというのにね。いま残るのは生きた証どころか、廃棄物ばかりなの。今の私がすることなんて、生活に必要な最低限の活動と、誘われて応じるセックスくらいしかないのよ。せめてそれで子孫でも残せれば、生きていた意味があるのかしら。でもね、トロフィーのために子を産むなんて、誰も幸せにならないと思うの。それにね。
しまい込んでいる記憶を取り出す事ができたら、何かが変わるかもしれないわ。
「何してるの」
私に腕枕をしつつ、スマホでゲームをしていた恋人が、急に手を止めて私に聞いた。
「見ての通り、私もスマホをいじっております」
あまり詳細を言いたくはなかった。
「うん、だからスマホで何してるのかなって」
「……小説、読んでる。オススメされてたのを昨日読み始めて、続きが気になっちゃってさ」
「へえ、珍しいね」
ああ、きっと根掘り葉掘り聞かれるんだ。それどんな話、誰が書いたの、面白いの、俺も読もうかな。ねえ、これどういう意味なの。教えて、わかんないんだけど。ええそういう意味なの、俺それわかんない。何でこの人、こんな行動するのかな。ねえ、何でだと思う?
空白部分を想像する余地や、作品そのものの余韻を壊されるようで、あまり彼と小説の話をするのは好きではない。本人にもそう伝えたけれど、だってそれもコミュニケーションでしょ、なんて言われるので、理解を求める事は既に諦めている。
「面白いの?」
やっぱり。意地でも内容には言及しないぞ。
「読み始めたばっかりだけど、文体が好き。描写が丁寧でね、大切に書いてるんだろうなって感じ。オススメされてただけのことはあるなぁ」
「へえ、俺も読もうかな」
勘弁して下さい……読書をコミュニケーションツールと捉えている彼と、自分ひとりで反芻したい私では、同じように楽しむのは無理なのだ。
「やめて、何か言われたらケンカ売っちゃいそうだから」
「ひどい! ひどいわあなた!」
おどける彼にゲームの続きを勧めて、私は小説に没頭した。
空調の効いた部屋は少し冷えるけど、ベッドの中は温かいから、裸のままで。彼の体温は丁度良い。快適だ。
「で、どうだった?」
しばらくして、彼が聞いた。黙る私の頭を撫でた。
「なんか、嬉しそう」
言い当てられた。
「……よかった、すごく」
「俺も良かったよ」
「バカ、小説の話だっつーの」
「ひどい! 弄ばれた!」
いつも馬鹿な事ばかり言って、私を笑わせようとする。優しいし、いい人だ。でも同じ小説は、絶対に読まないけどね。
家に帰って、もう一度読み返した。翌日になって、更にもう一度読んだ。
何度読んでも、いや読めば読むほど、良いモノは良い。スルメのようにじっくりと堪能したくなる。肌が合う小説とは、そういうものだと思っている。
これは理屈じゃない。名作だからハズレがないというわけでもない。現に私は、書店に並ぶベストセラーや有名作家はだいたい合わない。プロの文章を拒絶する事はあまりないのだけれど、奇跡の一冊にはなり辛いという意味で。あ、羊男だけは特別だけどね。クリスマスに可愛いあの子と、ねじりドーナツをまっすぐに伸ばして食べたいな。
深夜に布団の中で読んだ四回目も、もちろん素敵だった。作中の彼らが本当に愛おしかった。萌えとかではなく、むしろこれはもう愛だと言っても過言ではないレベル。よく頑張ったねと労って、幸せになるんだよと祈りながら、ぎゅっと抱きしめてあげたかった。というか、勢い余って布団を抱きしめた。
自分がしてほしい事を、彼らにしてあげたいだけなのかもしれなかった。
しかしそれをどう言えばいいのか、どう表現すれば良いのか。自分の感情を表現できないという事実に、私は本気の焦りを感じた。
情けない事に私の語彙力は、自分でも気付かぬ間に家出していた。もしかしてあの時、後頭部に走った衝撃は、私の思考能力が破裂して飛び散る感触だったのだろうか。
まずい。あれから何年も経っているのに、せっかくこんなに素敵な作品と出会えたのに、これでは感想ひとつ真っ当に述べられないではないか。これではいけない、言葉にしないと――いや、別に絵でも歌でも踊りでもいいのかもしれないけれど、とにかく何かの形で表現しないと、他人には決して伝わらない。
作家は魔法使いだけれど、エスパーというわけではない。物を作り出す人たちは、作品を通して魔法をかけてくれるけれど、その効果を追跡できるわけではないのだ。
もどかしい。
こんなにも伝えたいと思うこと自体が、そうそうある事ではないというのに。
……ああ、これはコミュニケーションを億劫がっていた私に、ツケが回ってきたんだな。
「そんなに気に入ったの、その小説」
週末のデート中、運転席に座った彼が聞いてきた。
彼がトイレを借りたいと言ってコンビニに行っている間、私は駐車場に止めた車の助手席でずっと待っていた。それでちょっとだけ読み返していたのが、あっさりとバレていた。
私がアプリを閉じようとすると、彼は「俺もソシャゲのスタミナ消費するから、もう少し読んでてもいいよ」と言って自分のスマホを手に取った。
「何がそんなにツボなの?」
画面をタップしながら聞く彼に、私はただ「惚れちゃったのかな」とだけ言った。どういう意味なのそれ、なんて質問が続くかと思ったけど、彼は何も言わずに、コンビニで買ってきたアイスコーヒーを一口飲んだ。
今の私が確かに言えるのは「私の奥に閉じ込めていた私を、閉じ込め続ける事をやめた」ということだけだった。他人から見れば塵のような、本当にささやかな変化だけど、これは紛れも無い奇跡だと思えた。それが魔法使いの計算通りであるのか、それとも魔法の熱量に中てられて、私の中のスイッチが押されただけなのか。そこはまだ判然としない。
もしも今ファンレターを書くとして、そこに綴れるのは「理屈抜きで好きです」ということだけ。まさか身の上話から語り出すわけにもいくまい。それでも私は、この奇跡を誰かに語りたかった。
……ああ、目の前にいるじゃないか。語り合いたがっている人が。
「君ね、考えてみてくれたまえよ。作家とは文字や記号の羅列だけで、顔を見た事もない人間の魂を揺さぶるのだよ。これを魔法と呼ばずして何とするんだね。そして作家は、いや、あえて魔法使いと呼ぼう。魔法使いは相性次第で、時としてとんでもない奇跡を起こすのだよ。わかるかい君、私は魔法の恩恵を受けたのだ。えっへん」
「なんのこっちゃ」
彼が呆れた。いいよ、私は君にそういうのをわかって欲しいわけじゃないんだ。
「で、これからどこ行く?」
ハンドルを握る彼が、私に問う。彼が想定している返事はカフェ、回転寿司、カラオケ、水族館、ラブホテル、くらいだろうか。
「本屋さん」
私は答えた。それは私の出した、一つの結論だった。語彙や思想が吹き飛んだなら、言葉を浴び続けるしかないのだ。図書館でも投稿サイトでも電子書籍でも、ある程度良質な文章に出会えるなら何だっていい。今はとりあえず、書店の空気を吸いたかった。
「へぇ、何か目覚めちゃった?」
「そうだね、おはようございますって感じ」
なんだそりゃ、と言って、彼は嬉しそうに笑った。
「楽しそうで何よりだ」
「まぁ、一種の恋だからね」
「ん……やっぱり、俺も読もうかな」
嫉妬か。タイトルは教えなかった。私はもう少しだけ、この余韻を楽しんでいたいんだ。
「何買うの?」
「まだ決めてない。厳選した一冊をハントするんだ」
表紙を眺めてジャケ買いでもいい、好きな作家の取りこぼし既刊でもいい。大魔法使いのお勧め経典という手もあるし、店員さんの力作ポップで決めちゃうのもいいかもしれない。
「古本屋で大人買いという手も」
「んー、作家に還元されないのがなぁ」
「無理すんな無職」
「うるせえ社畜」
読み終わったら貸してねと言う彼に、私はいいよと返事をした。でも魔法使いとの相性が良ければ、やっぱり貸さないって言うかもしれない。余韻を味わう事だって、どんな作品でもできるわけじゃない。それはそれで、魔法が引き起こす奇跡のうちの一つなのだ。
「俺も何か買おうかな」
「いいね、読んだら貸してよ。感想は言わないけどね」
「ひどいっ、俺の本くらいは語り合ってよっ」
笑いながら、カーステレオの音量を下げて窓を開ける。夏の風だ、読書感想文のシーズンだ。君も奇跡の一冊に出会えるといいね、なんて思いながら、運転する彼の横顔を見つめた。
そう言えばこの人は、どんな小説を読むのだろうか。アイテムのコードが特典になっているゲームのノベライズを読んでる姿しか、今のところは見た事がない。
もしも私が魔法使いになったら、大人しく実験台になってくれるだろうか。内容を解説させられるのは嫌だな。やっぱり、この人には内緒にしておこう。
車は走る。
今日も奇跡が、手ぐすね引いて待っているのかもしれない。
魔法使いと出会った話。 水城しほ @mizukishiho
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