黄色いワンピース、赤い靴、お下げ髪
深上鴻一:DISCORD文芸部
黄色いワンピース、赤い靴、お下げ髪
1
懐かしい商店街で買い物を終えて、マンションに向かって帰宅途中のことです。
交差点の道端に、小さな花束が供えられていることに気がつきました。
確かにその道は非常に狭い上に、信号機もありません。
それを見て、気をつけなきゃなあ、と私も思いました。
花束には、小さな絵手紙が添えられています。見てみると、黄色いワンピースで赤い靴の、お下げ髪の女の子が描かれており、その横には可愛らしいポケモンと思われる絵が、そして子供らしい文字で、さようなら、と書いてありました。
私は、その絵手紙から目を逸らすことができません。
何かがおかしいのです。
この絵には、何かおかしなところがあるのです。
それは一体なんだろう?
突然、夏なのに背中をぞくぞくとした冷たいものが走りました。
かいていた汗が、急に冷たく感じられます。
だめだ。この絵を。見ては。いけない。
なぜだか、はっきりとわかります。
頭がぼーっとしていく感じがします。
怖い。
だめ。
怖い。
「きゃああっ!」
その時、後ろから腕をつかまれ、私は悲鳴をあげて現実に引き戻されました。
「靖子ちゃん? 靖子ちゃんよね?」
振り返ると、かなり老け込んだ痩せたお婆ちゃんが立っています。
「あ、あの」
私は言いました。
「どちらさまでしょうか?」
「まあ、覚えてないの? ハルカのお母さんよ」
記憶にありません。
そもそもハルカなんて名前が、聞いた覚えがないのです。
「うちにいつも遊びにきてたじゃない。あなたたちはいたずらが大好きで、ベッドの下にこっそり隠れては、私を心配させて笑ってたでしょう。いきなり私の腕をつねったりもしたわね。こう」
そのお婆ちゃんは私の二の腕をつねりました。
「いいっ!」
そのつねる力があまりにも強くて、私は痛みで声をあげてしまいました。
そんなことは意に介せず、
「この街に、いつ戻ってきたの?」
と、お婆ちゃんは尋ねました。
それは事実でした。小学3年生の途中で引っ越しした私は、約20年振りに、夫の転勤によって久しぶりにこの街に戻ってきたのです。
きっとこのお婆ちゃんは、小学校の頃の友達のお母さんだろうと思いました。ハルカという名前に記憶はないのですが、それ以外ありえません。
「先週です」
「どうして?」
「それは、その、夫が転勤になりまして」
隠すのも変だよなあと思い、正直に言いました。
「結婚したの! あの小さかった靖子ちゃんが! 私も歳を取るはずよねえ。ねえ、ハルカもきっと会いたがると思うわ。今度、家に遊びに来てくれる?」
え、ええ、と曖昧な返事をすると、そのお婆ちゃんは、本当に不思議そうな顔をしました。
「もしかして、家の場所も忘れちゃった?」
「は、はい」
「ふーん。不思議なこともあるものねえ」
そう言いながら、お婆ちゃんはポケットからくしゃくしゃのレシートを取り出しました。ボールペンも取り出して、その上に文字を書きます。そして私に、それを差し出しました。
「住所はこれよ。交換しましょう」
それはちょっと困ります。
記憶にもない人が家にやって来るのは、気持ちのいいものではありません。
「あ、あの、公園の横のマンションです」
適当に誤魔化そうとすると、お婆ちゃんは言いました。
「まあ! あの新築の、6階建ての?」
しまった、と思いました。
「それの何号室?」
もう手遅れのようです。
「406号です」
「わかったわ。近いうちに必ずね」
そう言って、お婆ちゃんはレシートを押しつけると、くるりと背を向けて足早に去って行きました。
私は手の中のレシートを見ました。その印字も薄くなった古びたレシートの裏には、特徴のある尖った筆跡で住所が記されていました。
2
数日後の休日のことです。
また買い物から戻って来て、台所で冷蔵庫に野菜や牛乳などを詰めていると、端の空間に気がつきました。
リビングに行って、夫に言います。
「買ってあったケーキ、ふたつとも食べたでしょ!」
ソファに座っていた夫は、広げていた新聞から顔を出して言いました。
「ああ、靖子が出かけてる間にお客さんが来てね。出したんだよ。ケーキ食べたら、すぐに帰っちゃったけど」
「え? 誰?」
「山浦ハルカちゃん」
「えええっ?」
「そんなに驚かなくても。だってお客さんだけにケーキを出すのも変だろ。一緒にやはり俺も食わないとさあ」
「違う違う」
私は、ぞっとしました。自分の知らない人が、友達だという理由でこの家にあがっていたなんて。
「どうして帰ってきたとき、すぐに言ってくれなかったの?」
「ごめんごめん。ぼーっとしてた」
夫は悪びれない様子で、そう言います。
「その山浦さんって、どんな人?」
「どんな? 靖子の幼馴染みなんだろ? そう言ってた」
「そんな幼馴染み、私の記憶にないから気持ちが悪いのよ」
「へえ? いつも一緒にポケモンをやってたとか、そういう話をしてたな」
確かに子供のころポケモンは大好きでしたが、ひとりでやっていたはずです。
ますます、そんな友人はいなかったという確信が深まります。
「ほんと、ごく普通の女の子だったよ。黄色いワンピースで。あ、お下げ髪だったな」
3
突然の残業なのでしょうか、夫の帰りが今日は遅いようです。
いつもならLINEのひとつも送ってくれるのに、変です。こちらからも何度か送っているのですが、既読になりません。胸騒ぎがします。
転勤に合わせて中古車を買ったのですが、長い間ペーパードライバーだった人なので、どこかで事故にあってなければいいんだけど、と心配になりました。
不安な気持ちで集中することもできなくテレビドラマを見ていると、いつもより2時間ほど遅くなって夫は帰ってきました。
「心配したわよ!」
「ごめん、ごめん。ビールを買いにコンビニに寄ったらさ、ハルカちゃんに出会って」
「はあ? それで2時間も話をしてたの?」
「2時間?」
夫はテレビを見ます。ドラマは終わり、ニュースを放送しています。
「嘘だろ? 10分ほどしか話してないぜ。遅くなるとお母さんに叱られるから、って言ってたよ」
「なにそれ」
「ああ、そうか。恥ずかしいけど、少し迷子になったんだよ。遠回りしちゃってさ。でもおかしいよなあ、2時間か。そんなはずはないんだけどなあ」
「どこまで行ったの?」
「引っ越ししたばっかりなんだから、そんなことわからないよ。ずいぶん細い道に入ったな。それで徐行運転をずーっとしたんだ。そこで昔、事故があったみたいだったし」
「え?」
「交差点の道の端に、小さな花束が置いてあったよ」
4
私は実家に電話をかけました。
両親はすでに他界しているので、長男である弟が出ました。
「なんだよ?」
「私の本棚から、小学生の時の学校アルバムを持って来て。1年から3年まで3冊全部」
「めんどうだなあ」
「いいから、はやく」
「じゃあ、折り返すよ」
やきもきして待っていると、30分後、電話が来ました。
「私のクラスに、山浦ハルカという生徒がいるか調べて。4組。クラス替えはしてない」
「はあ」
「いいから!」
数分後。
「いるね」
「いるの!?」
「大声出すなよ!」
「どんな子?」
「どんな? 普通の女の子としか言えないな。黄色いワンピースに赤い靴で。ああ、大きな特徴と言えば、お下げ髪かなあ」
5
私は3年の途中まで通った、この街の小学校に電話をかけました。その時のクラス担任であった高木先生に連絡を取りたいのですが、と言付けると、次の日の夕方、先生から電話が来ました。すでに定年退職してから数年が経っているそうです。
最初は、この街に越してきたら先生のことを思い出して、今はどうしていらっしゃるのか気になりまして、と言いました。すると先生は大喜びし、せっかくだから会いましょうか、という話になりました。
私はその日の夜、落ち着いたイタリアンレストランで先生と会いました。
「ごめんなさいね。電話をくれる生徒なんてめったにいないから、会いたくなっちゃって」
「いいえ、いいえ。でも、私のこと、覚えてくれていたんですね」
「もちろんじゃない。あなたのこと、よく覚えているわよ。むしろ忘れることなんてできない。転校したあと、どうなったのかが気になって、あなたのお母様に電話したこともあるのよ」
そんなの、聞いた記憶がありません。
「私のこと、そんなに気にかけてくれてたんですか」
「だって……ほら……あんな事故があったじゃない」
事故?
「この街に戻ってくるなんてつらくなかった? もう昔々の話だから、余計なお世話なのかしら」
「すみません。事故って何ですか? ぜんぜん記憶にないんです」
「ほんと? 覚えてないの?」
「まったく」
先生の顔が青ざめます。
「だったら、その、忘れてるなら、いいんじゃないかしら。いまさらだし」
「教えてください。事故ってなんですか?」
「いいのよ。忘れてた方がいいんだわ」
「先生、お願いします」
頭を下げると、先生はゆっくりと口を開きました。
「あなたと一緒に歩いていた時、急に道に飛び出したらしく、交差点で車にひかれたの。そして亡くなった」
「誰がですか?」
「それも覚えていないの?」
先生は震えながら、その名を呟きました。
「山浦ハルカちゃん」
6
先生と早々に別れ、家に帰ってきました。
ワインを少し飲んだのですが、まったく酔えていません。むしろ身体は冷水を浴びたように冷たくなっています。
玄関のたたきを見ると、知らない靴がありました。
綺麗に揃えられた、赤い靴。
女の子向けの、小さな靴。
玄関から夫の名を呼びます。声は震えています。
家の中に入ることが怖くてできません。
夫の名をまた、今度は少し大声で呼びます。
返事すらありません。
私はもう恐怖でおかしくなりそうです。
それでも意を決して家にあがりました。
夫はリビングのソファに座り、いつものように新聞を広げて読んでいました。
「た、ただいま」
新聞で顔が隠れている格好のまま、夫は言いました。
「ハルカちゃんが遊びに来てるよ」
そんな。
そんな、はずは、ない。
死んだって先生は言ってたじゃない!
「シャワー浴びてるよ」
「シャワー?」
「全身血まみれだから、シャワー浴びたいって」
え、え、え?
夫の名前を呼びました。
返事がありません。
もう一度呼びました。
返事はないのです。
新聞の向こうに、顔を隠したまま動きがないのです。
違う。おかしい。こんなの、いつもの夫じゃない。
私は震えながら、がくがくした足で風呂場に向かいました。
廊下の壁に手をついて、よろよろと進みます。
水音が聞こえます。
真っ暗な浴室の中から、シャワーの水音がします。
壁の小さなテーブルの上には、きちんとたたまれた洋服。
黄色いワンピース。
子供サイズの。
それは血まみれ。
「誰……誰かいるの?」
返事はありません。
真っ暗な風呂場からは、シャワーの水音だけが聞こえます。
「いるの……? ……誰?」
返事がないのです。
「お願い……いるの? 山浦……ハルカちゃん?」
きゅっ!
シャワーの栓が閉まる音!
私は悲鳴をあげていました。
7
家を飛び出した私は、マンションの近くのコンビニ前にいました。
リビングを通った時、そこに夫の姿はありませんでした。駐車場の車も消えています。
震える手でLINE通話をかけると、3度目に出ました。
「どこにいるの!?」
返事はありません。
「お願い! 教えて!」
夫は、ぽつりと言いました。
「向かってる」
「どこに?」
「ハルカちゃんの家」
「どうして?」
「お前もはやく来いよ」
電話はそれで切れました。
ジーンズのポケットに手を入れました。
そこには、くしゃくしゃになったレシートが入っています。
8
その住所にあったのは、一軒家でした。ひどく荒れているように見えます。
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開きました
「あら。靖子ちゃんじゃない。ハルカは部屋にいるわよ」
ハルカちゃんのお母さんです。
「いるんですか?」
「当たり前でしょう。さあ、あがって。お茶をあとから持っていくから」
家にあがりました。
ハルカちゃんの部屋は2階。それがなぜだかわかります。
階段を上がると、すぐに「ハルカ」と可愛らしいプレートが付いたドアがありました。
そっと開けます。
子供部屋でした。
あまりにもきれいに片付き、生活の匂いがありません。ここに誰かが暮らしているとは、とうてい思えません。
学習机。
本棚。
ベッド。
壁には画用紙に描かれた絵が貼ってあります。
部屋の中に足を踏み入れて、その絵を見ました。
「ひっ!」
それは異常な絵でした。
手をつないでいる、2人の女の子。1人は黄色いワンピースに赤い靴、お下げ髪。
もう1人はTシャツにスパッツ、肩までの髪。
2人の上には可愛らしいポケモンと思われるキャラクターが描かれています。
異常なのは。
スパッツの女の子の顔が、ボールペンでぐちゃぐちゃと塗り潰されていることです。いえ、筆圧が強すぎて、破れてさえいるのです。周囲に開いたぽつぽつという穴は、ボールペンの先を何度も突き刺したものに違いありません。
怒り。
憎しみ。
私は、その女の子への異常な怨念を感じました。
そして突然、気がついたのです。
女の子の上に描かれたポケモンは、あの交差点に供えられた花束に添えられていた絵手紙にあったものと、まったく同じなのです。
そして、あの時のおかしな感じの正体もわかりました。
こんなポケモンは、いないのです。
これはオリジナルの、ポケモンなのです。
そして、これを考えたのは私。
小学校の時に私が考えた、オリジナルのポケモンなのです!
その絵を、もう一度よく見ました。
スパッツの女の子の顔のところはめくれているのですが、絵の裏にも何か文字が書かれているようです。
ピンを外して絵を取り、裏返しました。
そこには文字。
真っ黒になるほど、紙を埋め尽くす文字。
にくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくいにくい
ころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころすころす
その文字には見覚えがあります。
あのレシートの裏に書かれた住所と同じ、特徴のある尖った筆跡。
これを書いたのは、ハルカちゃんのお母さんなのです。
その文字の羅列の下に、読みづらいものの、まともな筆跡で書かれた言葉がありました。
私は指でなぞりながら、それを読みます。
靖子ちゃんが押したと、ハルカははっきり言った。
私は靖子ちゃんを許さない。
ドアがノックされました。
9
トン、トン、トン。ドアを叩く音。
ガチャ、ガチャ、というドアノブをひねる音。
「ハルカあ、やすこちゃあん、どおしてあけてくれないのお? 飲み物とケーキもってきたわよお」
妙に優しげな、のんびりとした声です。
「ほんとにもお、いたずらだいすきなんだからあ。あけないとお、おかあさん、おこるわよお」
私はドアに鍵をかけています。
開ける気はありません。
そしてドアが開かないよう、身体をぎゅうっと押しつけています。
「もお、ほんとにおこるんだからあ」
ドアを強く叩く音がしました。
「ねえ、やすこあちゃん? あのひ、おしたんでしょお? いたずらして、ハルカをおしたんでしょお? どおして、そんなことしたのお? ハルカあ、しんじゃったじゃないのお」
押してない!
そんなことしてない!
「うあああああーっ!」
叫び声。
ガラスが割れる音がしました。お母さんが持っていたコップやお皿を床に投げつけたのでしょうか。
ガチャガチャガチャガチャ!
激しくドアノブをひねる音。
ドアを、どんどんどんどんと叩く音。
ドアを蹴る、どーんどーんという音。
「開けろっ! 開けろって言ってるんだよ! はやくしろ! 殺してやるからな! 私はずっと、あんたを殺したかったんだよ! よくもこの街に戻ってきたな! 結婚!? ふざけるなよ! ハルカは死んだんだ! あんたのせいで! 殺す! 殺してやる! 夫婦そろって! なぜ押した! なぜハルカを押した! 言え! 言ってみろ! お前のせいで! お前のせいで! お前も死んでしまえ! 殺すからな! 絶対に殺してやるからな!」
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴りました。
「うるせえ!」
お母さんは叫び続けます。
「殺すう! 殺すう! 憎いよお! 憎いよお! ハルカは、私の可愛い一人娘だったのよお! どおして押したあ! そんないたずらがあるものかあ! 殺してやるう! 絶対に殺してやるからなあ!」
ピンポーン。
玄関のチャイムが再び鳴りました。
沈黙。
長い沈黙。
「はあい。お待ちくださあい」
優しい、のんびりとした声。
「お客さんだわあ。2人とも、仲良く遊ぶのよお? わかったあ、ハルカ?」
去って行く足音がします。お母さんは階段を降りて行きます。
私はほっとして、ドアによりかかるようにして崩れ落ちてしまいました。
しかし、はっと気がつきました。
お客さんは夫なの?
だとしたら夫が危険じゃない!
その時。
後ろから電子音がしました。
誰かがポケモンを始めたのです。
10
振り返ると、もちろん誰もいません。
耳を澄まします。
ベッドの下!
ベッドの下で誰かがポケモンをやっている!
ばちん。
突然、電気が消えました。
真っ暗になった部屋。
逃げよう。
お母さんも怖いけど、ハルカちゃん、そうハルカちゃんの幽霊の方が、私は怖い!
それに夫を救うことができるかもしれない!
ドアの鍵を外します。
でもドアは開きません。
ガチャガチャガチャ。どうやってもドアは開かないのです。
何か背後で音がしました。
私はドアにしがみついたまま、耳を再び澄まします。
自分のひいっ、ひいっ、というかすれた荒い呼吸の他に。
ずるっ、ずるっ。
何かをひきずる音がします。
ベッドの下から何か、いやハルカちゃんが這い出して来ているのです!
べちゃっ、ぐちょっという音もしました。
きっとハルカちゃんは血まみれ姿なのです。
震えて泣く私。
真っ暗な部屋の中に流れる、ポケモンの音。
その電子音が、ゆっくりと近づいて来ます。
人の気配。
それが私の真後ろにあります。
ふー、ふー、息をしています。
「押してない……押してないよ……。しっかりと手を握ってたじゃない! それなのに、ハルカちゃんが飛び出したんだよ!」
うっすらと記憶が戻ります。
頭の中に映像が甦ります。
ぎりぎりを通過しようとしたトラック。
突然、飛び出したハルカちゃん。
悲鳴。
ひかれた小さな身体。
真っ赤な血にまみれた黄色いワンピース。
転がった靴も赤。
「信じてよ! 押してない! 押してないんだったら!」
ふー、ふー、ふー。
「お母さんがそう思ってるだけ! 私たち親友じゃない! そんなことするわけないよ!」
ふーっ、ふーっ。
「お願い、もうやめてえ!」
電気が点きました。
ドアが開きました。
そこには初老の男性が立っていました。
「君は誰だ?」
11
車の助手席に座り、缶コーヒーを両手で握っている私。
横の運転席に座る初老の男性は、山浦ハルカちゃんのお父さん。
「私の妻は、つまりハルカの母は、ハルカが亡くなった後、心を病んでしまった。覚えていないのかい?」
ぼんやりと思い出しました。
ハルカちゃんのお母さんが、家に泣き叫びながら押しかけてきたこと。首をしめられたこと。そんなことが続き、転校せざるを得なくなったこと。
「妻は精神病院に入ったよ。それしかできることがなかった。私もあの家に暮らすのはつらくてね。少し離れた、仕事場の二階で暮らすようになった」
指が震えて、缶コーヒーのプルタブを開けることさえできません。
「それがなぜ、この家に?」
「夢を見たんだ。ハルカが呼んでいた。泣いていたよ」
ハルカちゃんが、私を助けてくれたの?
「お母さんはどうなったんです? チャイムを鳴らしたのはお父さんなんですよね?」
「何か人の気配を感じてね。泥棒の可能性もあるだろう? それでチャイムをまずは鳴らしたんだ」
「それで、玄関でお母さんに会ったんですか? 一体どこに消えたんです?」
お父さんは、ゆっくりと首を振りました。
「信じられないね。私が、妻に会うはずがないんだよ」
言いました。
「妻は、10年近く前に亡くなってるんだ」
12
夫は病院にいました。
車に乗った夫は、あの交差点で事故を起こしていました。
本当に軽い事故で済みましたが。
包帯で吊った足を撫でながら言います。
「何で俺、また迷子になったかなあ。車の運転、向いてないんだろうなあ。どう思う?」
「知らないわよ」
「でも良かった」
夫は言いました。
「もう少しで女の子をはねるところだったよ。黄色いワンピースで、お下げ髪の」
13
この街を離れることにしました。
夫も会社に希望届を出しました。なるべくはやく街を出る予定です。
新幹線の窓から、後ろに流れていく街をぼんやりと眺めます。
もう、私はすべてを思い出していました。
うんざりします。
まったく、あの一家は昔のことを、いつまでもいつまでも。
新幹線はトンネルに入り、暗い窓に私の顔が映りました。
それは笑みを浮かべています。
私は呟きました。
ハルカちゃん、ごめんね。
私、押したよ。
黄色いワンピース、赤い靴、お下げ髪 深上鴻一:DISCORD文芸部 @fukagami
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