第38話 おしてはひいていくさざ波の音。今を運び、過去を連れていってくれる音。
紀雄と凪がカフェでデートをした日から四日が過ぎ、約束を交わした花火当日。
蒸し蒸しとしたぬるい空気を切りながら、紀雄はバイクを走らせていた。
自宅を出てからちょうど二十分が経った頃、ようやく阿津谷の家が現れた。両側に家屋の並んだ細い道路を進み、年季のはいった瓦屋根の家屋の前で、紀雄はバイクを止める。途端に、身体中から汗がジワリと吹きだしてくるのを感じた。
門柱に設置されたインターフォンを鳴らすと、一分ほど経ってから玄関のドアが開いた。
出てきたのは、真っ白な髪をした皺くちゃの顔のお婆ちゃんだった。
「あらあら、お客さん。ちょっと待ってね」
腰の曲がった身体をゆっくりと動かして、よろよろと近づいてきたので、紀雄は慌てて手を振って制止した。
「あ、いや、阿津谷——阿津谷稔いますか?」
「あらあら、稔くんのお友達? ちょっと待ってね」
門まであと一歩という所でお婆ちゃんは身体を反転させて、また玄関に戻っていく。のそのそと歩くその背中を見て、紀雄はなんだか申し訳ない気持ちになった。
おいおい大丈夫か、この婆さん。
阿津谷が祖母と二人暮らしなのは知ってたが……大変そうだな。
それから数分後、ようやく阿津谷が紀雄の前に顔を出した。
「遅くなってごめん! 吉城くん、急だったから」
「おう、悪かったな」
汗で張りついた前髪をかき上げては、上からヘルメットをかぶる。「べつにいいけど」、と阿津谷もヘルメットをかぶって、バイクの後ろに乗った。
「でも、僕なんかが一緒して大丈夫なの? 此田高校の女の子が来るんでしょ? 邪魔じゃないかなぁ」
「そんなことねぇって。むしろ助かるっての」
佐々原が会ってみたいと言ってたし、どうやら向こうは、沙良ともう一人連れてくるらしい。だからこちらとしても——とくに意味はないけれど——二人は呼ばなければ、と思った。
阿津谷が来てくれるおかげで、残りは一人だ。それも、もう決まっているが……。
あいつを呼ぶのは気が引けたが、ほかにいないから仕方がない。
こんなとき、自分の友達の少なさに情けなさを感じる。
「ならいいんだけど……。それで、どこで花火するの?」
「北のほうの県境に、海浜公園があったろ? あそこなら、花火しても大丈夫らしいからよ。駅近いから、佐々原たちも来やすいしな。それじゃあ、行くぞ!」
「え⁉ ちょ、ちょっと待——」
阿津谷が言い終わる前に、紀雄はバイクのアクセルを捻った。
ガソリンを得て歓喜するエンジンと一緒に、紀雄のテンションも高まっていく。
倒れそうなほど暑いけれど、なんて清々しい日なのだろう。
***
県境の大吊橋の麓。白い砂浜が広がる海浜公園は、夏になるとたくさんの人で賑わう。
浜辺では女の子たちがボール遊びに夢中になり、男たちは彼女らの気を引こうと、不自然なぐらい大きな声で、馬鹿騒ぎをしている。
そしてそんな彼らを虎視眈々とターゲットに狙っている、出店の人たち。
気温を上げているのは、雲一つない空に浮かぶ太陽だけではなかった。
駐車場にバイクを止めて降り立った紀雄は、眩しい砂浜を眺めては、額に滲んだ汗を腕で拭った。
後ろではバイクを降りた阿津谷が、おっとっと、とバランスを崩していた。その手には途中で寄ったスーパーで購入した、お菓子と花火の入った袋を持っている。
「おいおい、大丈夫か。バイク、楽しかっただろ?」
「楽しくなかったよ! 意外と涼しくもないし。なんでわざわざこんな暑い日に……」
「まぁそう言うなって。女子と遊ぶんだからよ。少しテンション上がってんだろ?」
「そ、それは……まぁ」
阿津谷はわかりやすく顔を背ける。
クラスポの一件以来、少し変わったな、と紀雄は思った。前よりも、心を開いてくれている気がする。
とりあえず満更じゃなさそうで何よりだ。会ってみたいと言っていた佐々原の願いも叶えてやれた。
それにいつも勉強ばかりしているようだから、たまには気分転換してもいいだろ。
にしても、なんて綺麗な場所だ。人は多いが、透き通るぐらい白い砂浜とコバルトブルーの海が良い具合にマッチしていて、佐々原じゃなくても、絵になるだろうな……、などと考えてしまう。
思えば、初めて目にした佐々原の絵にも人が写っていた。
人だって絵になる。人だって、美しいのかもしれない。
美術の授業で肖像画はたくさん見たけれど、そんなふうに思ったことは一度もなかった。とくに感動はしなかったし、先生にも教わらなかった。
ふいにそんなことを考えている自分が気持ち悪くなって、戸惑ってしまう。
紀雄は気持ちを紛らわせるために、阿津谷のストレートの髪を、ぼさぼさと崩した。
「うわっ、いきなりなに⁉」
「ほら、行くぜ。佐々原たち、もう来てるみたいだから」
砂浜へと続く階段を下りて、蒸し蒸しとした空気を乗せた海風を全身に浴びながら、屋台の間を通り過ぎていく。そして海浜公園の中を海辺に沿ってしばらく歩くと、ごつごつとした岩場が見えてくる。
人の数も減って、波の音が大きくなってきたところで、二人は足を止めた。
すでに凪と沙良は来ていて、岩場の上で準備を始めていた。
二人とも半袖に短パン、ビーチサンダルだが、凪のほうは先日と同様、薄手だが長袖のパーカーを上に着ている。
二人のラフな格好にドキリとしつつ、紀雄は叫んだ。
「おーい!」
平らな場所にブルーシートを敷いていた二人が顔を上げる。
沙良と目が合うと、なぜだか目を逸らされた。
何かしたっけと焦ったが、思えば初めて出会った時から、自分に対する印象は最悪なものだったので、気にしないことにした。
今日は、そんなことを気にしている場合ではない。
夏の夜。花火を終えて、押し寄せる波の音だけが聞こえる浜辺。
告白には、これ以上ない機会だ。
早くも緊張が紀雄を襲う。直接伝えるだけでも途轍もない勇気を要するのに、まずは帰り際、二人になるように彼女を誘わなければならないのだ。
どうしようかと、そればかりが頭をぐるぐる回る。
「君が、バレーが上手い阿津谷くん?」
「あ、えっと……はい」
「私は佐々原凪、こっちが沙良。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
「よろしく、阿津谷くん」
腕を組んで頭を抱える紀雄をよそに、ほかの三人は簡単に挨拶を済ませていた。そして女子二人の手伝いを始めた阿津谷を見て、紀雄も慌ててそれに加わる。
考えてばかりいても、しょうがないか……。
なるようになれ、だ!
「矢悠くんはまだ来てないの?」
広げたブルーシートの端っこに適当な大きさの石を置き終わると、四人はその上で足を伸ばして身体を休ませた。ゴツゴツとした感触が少しつらいが、ガヤガヤと人の多い浜辺よりかはストレスがない。だから凪たちもこの場所を選んだのだろう。
「ああ、昼は用事があるんだと。代わりに途中で花火も買ってくるってさ。こっちで用意するからいいって言ったんだけどな」
あいつ、そういうとこ頑固だから。
最後にそう付け足して、今度は紀雄が訊ねた。
「そっちも、たしかもう一人呼んでただろ?」
「うん。羽流子は部活があるから、それが終わり次第来るみたい」
「そうか……。でも花火までどうするんだ? 一応菓子も買ってきたけど、陽が沈むまでまだまだあるぜ」
ちらりと覗き見た阿津谷の腕時計は、一時を指している。この時間に集合しようと言ったのは凪だった。
「それなんだけど、紀雄くんたちってもうお昼食べた? 朝、沙良と一緒にちょっとお弁当作ったんだけど……」
「マジ⁉」
思わず声が弾んでしまう。
そんなもの食べるに決まっている!
阿津谷の家に向かう前にカップラーメンは食べているが、もうすでに胃は空っぽだ!
「その、吉城くんには一学期お世話になったし、この前パフェも奢ってもらったから。期待はしないでほしいけど……」
言いながら、凪はそそくさと自分のトートバッグからお弁当を取りだした。二段になったそれは、紀雄にとっては充分な量だ。
中を開くと、色とりどりの料理が並んでいた。玉ねぎと豚肉を炒めたもの、卵焼きにポテトサラダ。下の段には様々な具が入ったおにぎりに、ウィンナーやミートボールも入っていて、紀雄はテンションが上がった。
まだそれぞれの接し方に戸惑っている四人は、ぎこちなく弁当を囲むように座り、割り箸を持った手を合わせて少し遅いお昼ご飯を楽しんだ。
「うめぇ!」
少し味付けは濃いめだが、どれもめちゃくちゃに美味しい。
紀雄は次から次へと、料理を口に運んだ。
「どんだけお腹減ってたの、この人」
「吉城くん、もう少し遠慮したほうが……」
紀雄の食べっぷりにひいている沙良と阿津谷。ホッと胸を撫でおろしている凪にも構わず、黙々と食べ続けた。
そしてついに、一番楽しみにしていたミートボールへと箸を伸ばす。
口に含むと、温かいタレが染み込んだ、柔らかい肉の旨みに感動を覚えた。
小学生の頃の遠足で、クラスメートたちが持ち寄っていたお弁当は、みんなこんなふうだった。キャラ弁を披露している子もいる中、紀雄の弁当はといえば、母が前日に買っておいたコンビニ弁当だった。それ以来、お弁当を持ってくる行事のときは、決まって学校をサボった。
あの時妬ましかったお弁当を食べられる日が来るとは思わなかった。それも、好きな人の作ってくれたもので……。
真夏の暑さも、告白の緊張さえも忘れるほどの幸せを、今はただ一つも残すまいと、口いっぱいに頬張った。
世界の治し方 士田 松次 @sita-syouji
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