第37話 夏
紀雄と別れてから、凪は電車の中で窓ガラスに頭をもたれて、苦悩に揺られていた。
何気に訊ねた質問の答えが、ずっと頭の中で反響してやまない。
絵を描いてほしい、なんて……。
私も、どうしてあんなふうに言ったんだろう。
絵を描くのが大変なことは、痛いほど知っているのに。
窓の外の通り過ぎていくビル街から、電車の中へと視線を移す。
まだ十七時で太陽も元気に輝いているからか、田舎へと帰っていくこの電車の中は、座っている人がちらほらいる程度で、穏やかだ。
時折、電車の振動に吊り革が揺れて。
クーラーの涼しい風が、頭頂部を撫でて。
電車は百キロそこそこのスピードで走っているはずなのに、その中は不思議と時間がゆっくりに感じる。
落ち着く空間だな、と思っているうちに、段々と瞼が重くなってきた。
吉城くんといると、なぜだかとても疲れる。無理矢理、元気を引き出される、みたいな。
ホント、不思議……。
そうして止まった駅で開いたドアから、赤ちゃんを抱いた女性が入ってきた。
長い黒髪に、すらりとした細い身体。女性は軽く電車内を見渡して、凪の向かいに座った。
綺麗な人だ。
だけど……。
凪は目だけをうまく動かして、女性を観察した。
若い。化粧もしてるけど……たぶん、私とそんなに変わらない。
あまり好奇心を起こすのも良くないと思い、再び目を閉じようとした時。
ガタン、と電車が走りだした拍子に、女性が腕にかけていたバッグの口が大きく開いて、中身が飛び出した。
凪は思わずアッと言って、それを拾いにかかる。そして女性に渡そうとして——ふいに手が止まった。
「この絵本……」
凪は、それを知っていた。小さい頃、何度も読み返していた絵本だった。
「ごめんなさい、ありがとう」
女性がそれを掴んで、凪は過去から現在へと引き戻される。
慌てて、手を離した。
「この子が本屋で見つけて、どうしても欲しそうにしてたから、つい買ったんだけど……有名な絵本なのね」
凪がこの絵本を知っているのは、おそらくこの赤ちゃんと同じ……。
絵に惹かれたからだ。
初めて読んだ時の記憶は曖昧だけれど、一ページめくるたびに出てくるキャラクターや風景に、目を奪われた。
物語はべつの人が書いているが、絵は有名な画家が描いていたのだと、あとで知った。
「ここ、座らない? 私は
隣の席をぽんぽんと勧められて、凪は座り直す。
「この子は陽人っていうの。ほら挨拶は?」
赤ちゃんが「うへへ」と笑いかけてきて、凪の顔も自然と綻ぶ。
「私は凪。よろしく、陽人くん」
そうして、電車は降りる駅に到着するまでの間、凪は花愛との会話に興じた。
話が弾んだのは、やはり年が近かったからだろう。
花愛は、十八歳の高校生だった。
先ほどまで凪が紀雄と一緒にいた町に住んでいて、陽人の世話をしながら、学校に通っているそうだ。
今日は病院に向かう途中だったらしい。とくに持病があるわけではないけれど、生まれてまだ三か月で定期的に診てもらっているのだと、寝てしまった陽人の顔を優しく見つめながら、花愛は教えてくれた。
「凪ちゃんは、デートの帰り?」
ニカッと歯を見せて、意地悪さを隠そうともせずに訊いてきたものだから、デートという単語よりも、花愛のその男性のような笑顔と実直な性格に、凪は戸惑ってしまった。
「い、いえ、男の子とカフェには行きましたけど、デートとかじゃないです」
「それはデートでしょ」
花愛が口を大きく開けて笑った。
その横顔を見ると、同じ高校生なんだな、と実感した。
が、それよりも!
あれはデートだったの⁉ じゃあ、吉城くんは……。
吉城くんのほうは、どういうつもりだったんだろう。
「いいねぇ、羨ましい……。そういう人、大事にしないとね」
一瞬。ほんの一瞬だけ、花愛の弱さみたいなものが垣間見えた気がした。
ガタンと揺れて、電車が停止する。どうやら凪が降りる駅に着いたようだ。凪は花愛に会釈して、腰を上げた。
「それじゃあ、私はここなので」
「ええ。話にまで付き合ってくれてありがとう」
とても同じ高校生とは思えない、大人びた笑顔で礼を言われて、凪は咄嗟に、もう一度会釈する。
ドアが閉まって顔が見えなくなるまで、花愛は笑顔を崩さなかった。
不思議な人だったなぁ。
羽流子とは、また違った種類の強さを漂わせた女性だった。二つしか歳が変わらないのに、赤ちゃんを育てているのだから、当然といえば当然なのだけど。
また会えたら、もっといろんなことを話してみたい。陽人くんも、かわいかったし……。
『そういう人、大事にしないとね』
駅を出て、凪は歩きだす。
眠気はすでに吹き飛んでいた。心に燻っていた迷いも。
考えてみると言ったからには、考えないと。
吉城くんには力ももらったから。
もう逃げるわけにはいかない。
逃げたくない。
一学期は終わっちゃったけど……。
少しずつ、立ち上がるための夏休みにしよう。
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