第36話 その穴に落ちてしまったときの、這い上がり方➂
「どうして夏の雲って、あんなに立体的なんだろうね」
喫茶店を出て、駅へと戻る道の途中、凪が空を眺めて言った。ポケットに両手を突っ込んだまま、紀雄も一緒になって顔を上げる。
大小様々な雲の群れは、ふわふわで柔らかそうだ。
輪郭がはっきりとしていて、無理だとわかっているのに、何度見ても乗れるのではないかと思えてくる。
「ねぇ、テスト勝負でもし吉城くんが勝ってたら、私に何をお願いしたの?」
急に訊ねられて、紀雄は返答に窮する。
「それは……」
考えていなかったわけではない。ただ、凪を困らせてしまうことが明白だった。
言うかどうか悩んで、結局、恐る恐る口にする。
「……絵を、描いてほしい」
視界の端で、凪が動揺するのがわかった。
やべぇ。やっぱりしくったか。
『もう描かないって!』
前に一度怒らせてしまった記憶が、心を突き刺してくる。あの時は勢いでどうにかなったが、今回はそうはいかない。もはや帰り際で、あとは駅まで行って別れるだけなのだ。
ぬるい沈黙が二人の間を吹き抜けて、
「考えてみる……」
声は低かったけれど、意外にも前向きな答えが返ってきたので、逆に紀雄が狼狽えた。
「あ、ああ」
あれだけ拒絶していたのに、彼女に何があったのだろう。
沙良が何か言ったのか。はたまた瑠璃川が関係しているのか……。
近いようで、遠いなぁ。
俺は佐々原のことを、まだまだ何も知らないんだ。
彼女の好きなもの、嫌いなもの。
趣味や得意なこと、苦手なこと、抱えている苦しみ。
好きな人、好きなタイプ……。
一遍に知ることはできないとわかっていながら、もどかしくて仕方ない。
逸っていく心だけを、ただ抑えつけるのは虚しい。
つまるところ、恋とは……究極的な『知りたい』という欲望だ。
どうしていつも長袖を着ているのか。どうして絵を描くのをやめてしまったのか。
気になるけど、聞いてしまえば凪の表情が暗くなることも、直感的に悟っているから……。
糸が、切れてしまうのが怖い。
だから訊けない。
だから、この穴から出る唯一の方法にも、踏み切ることができない。
ラインで、テストの解答用紙を持ってきてほしいと言われた時は、本当に嬉しかった。沙良と喧嘩したあとの凪の状況を知らなかったから、紀雄からはとても話題に出せなかった。こちらから会いたいと言うことさえも。
だから今日誘ってくれたことは、本当に嬉しかったのだ。
二人は、住んでいる町も違えば、高校も違う。
物理的な距離があると、精神的にも遠く離れていってしまう。
まだまだ容易く切れるような、か細い糸かもしれないが、こうしてまた繋がることができたのに。
だからこそ、いつまでもこの世界が、続いてくれないこともわかっていた。
「ねぇ、大丈夫?」
いきなり凪が顔を近づけてきて、紀雄は反射的に身体をのけ反らせた。
「な、なんだよ、いきなり……」
「なんだよって、話かけても反応ないから心配したんだよ。体調悪いの?」
「いや、大丈夫」
顔の下半分を腕で隠して、紀雄は答えた。頬が熱いのは、きっと夏のせいだ。ある意味、調子も悪いけど。
それこれも、きっと……。
「夏だからさ、花火とかしたいよね~って。吉城くんは、そういうの嫌い?」
「そんなわけない……」
「じゃあさ、みんなも誘ってしようよ! さっき話に聞いた、阿津谷くんとかも会ってみたいし、私も沙良や羽流子を誘うからさ」
凪の無邪気な笑顔に、心がチクリと痛む。
いつまでもこの世界が続かないのは、物理的な距離があるからだけじゃない。
紀雄の心も、この世界がこのまま続くことを望んでいないのだ。
それは、綺麗な感情ではなかったけれど、間違いなく紀雄の心を突き動かしていた。
「花火か……」
現状を打破するには行動するしか……告白するしかない。
たとえフラれたとしても、今落ちているこの場所からは、這い上がれるだろう。
紀雄は醜い独占欲を、ポケットの中で握り締めた。
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