第35話 その穴に落ちてしまったときの、這い上がり方②

 駅から歩きだして約十分。いくつか交差点を渡って、二人はお店に辿り着いた。


「ここ……か?」


 デフォルメされた鮮やかな人魚の絵が目立つ黒の看板に、白の英文字で店名が書かれているが、紀雄には読めなかった。


「シレーナカフェって読むんだって」


 凪に教えてもらって、紀雄は店内を覗き込む。

 平日にも関わらず、なかなかに客が入っていた。どうやら若者に人気らしい。

 近づいた二人に反応して自動ドアが開くと、心地良い冷風が二人の上がっていた体温を冷ましてくれた。入り口正面の壁には、一面丸々埋まるほどの大きな絵画が、飾られていた。

 天まで聳える巌に、海の深い青が映える。その手前の、大きな岩の上で髪をとかしている美しい肌の女性は——


「ウォーターハウスの人魚……」

「え?」


 微かに聞こえた凪の声。

 しかし紀雄が聞き返そうとしたときには、すでに彼女は店内のほうに身体を向けていた。



 お洒落な制服を着た店員に案内されて、紀雄と凪は奥のテーブルに腰掛ける。

 渡されたメニューを開いて、紀雄はブラックコーヒーを、凪は甘そうなチョコラテを注文した。


「へぇ、ブラックのコーヒー飲めるんだね。私は苦いの無理だなぁ」

「ふ、ふん。まぁな」


 紀雄は腕を組んで、得意気に鼻を鳴らした。

 ブラックを飲める男はなんか恰好良いという謎の観念があって飲み始めたが、これが案外、紀雄の舌に合っていた。

 その飲み物たちが届けられて一口啜ると、凪が言った。


「それじゃあ早速、テスト勝負の結果発表といく?」


 挑戦的な目を向けて、凪がバッグからファイルを取りだす。紀雄もシリアスに表情を変えて、バッグパックに入れていたファイルを取った。

 これが、今日の本題だ。


「じゃあ、まずは私からいくね」


 胸に抱いたファイルから紙をパラパラとめくって、一枚をテーブルに置いた。

 ちょうど点数の部分から下だけを折るようにして、紀雄に見せた。

 最初は英語——


「70点⁉」


 いや、いやいやいやいや!


「初っ端から70点⁉ さ、佐々原さん? そっちは低い教科の三つだったろ?」


 勝負は、紀雄が上から高い教科三つの合計点で、凪は下から低い教科三つの合計点だったはずだ。


「う、うん。だからこれが、一番低い……教科」


 ウソだろぉぉぉ! 一番低いので70点⁉

 こっちは一番高い日本史で73点だぞ! いくら点数の高かった三教科の合計でも、すでに負けくせぇじゃねぇか!


「詐欺だ! 不正だ! あんまりだ!」

「ご、ごめん! 英語とかホントに得意じゃなかったんだけど、テストの前、結構学校休んじゃって、でも勉強はしなきゃってやってたら……段々理解できるようになっちゃって……」


 どんな克服法だよ!

 授業聞かずに独学で理解できるって、天才だろ! それを人は天才と呼ぶはずだ!


「と、とりあえず次は吉城くんの番だよ。合計だから、まだ勝負はわからないって」


 フォローがもはや、マウントをとってきてるようにしか聞こえない。

 しかし、一度は消滅しかけて復活したこの勝負、男が逃げるわけにはいかないだろう。

 紀雄は凪の言葉に賭けて、現代語のテスト用紙を凪に見せた。そして——。





 燃え尽きちまったよ、真っ白にな……。

 コーヒーの中の氷が溶けて、カラッと音を立てる頃、紀雄は椅子の上で灰と化していた。


「そ、そんなに落ち込むことないよ! 私、こんなに勉強したの初めてだったから。いつもの私だったら、いい勝負だったと思うし、苦手な数学で80点とか絶対取れてないし、日本史なんか負けてたと思う! 吉城くん、充分すごいって!」


 いやもうマジでマウント発言にしか聞こえねぇ!

 ていうか、馬乗りになった上で何発も殴ってきてんだけど! 血吐いてんのに笑顔で殴り続けてくんだけど! 俺の精神ズタボロだぞ!


 依然として、励ましという名の精神攻撃をやめない凪を、紀雄は右手を伸ばして制した。


「もういい、もういい。勝負は勝負だからな」


 投げやりに言って、カップを手に取る。だが沈んだ心に、ブラックのコーヒーは苦すぎた。

 渋い顔をして、カップをそっと戻す。


「で、佐々原のお願いってなんなんだ? 一応、賭け勝負だったろ」


 凪は迷いがちにメニュー表を取って、俯いた。

 まさか、付き合ってほしいとかじゃねぇだろうな。

 やべぇ、付き合ってほしいだったらどうする? 心の準備できてねぇぞ。

 いや落ち着け。付き合ってほしいだとしても、あくまで冷静を装うんだ。慌てふためくな。

 それにしても長いな、佐々原の奴。下向いてなんも喋らねぇけど……え? ホントに付き合ってほしいなの?


「吉城くん、私ね……」


 顔を上げた凪の目は、何かを決意したみたいに、力が宿っていた。

 やべぇ、く、来るのか? 来るのか? ま、まだ心の準備できてねぇって!


「このパフェが食べたいの!」


 紀雄は目を点にして、数秒経ってからため息を吐いた。

 なんだ、パフェかよ。


「え? え? なんだったの、今のため息」


 凪がきょとんとした顔で紀雄を見つめた。


「なんでもねぇ。それより、佐々原が食べたいパフェってどれだよ」

「あ、えっとね、これなんだけど……」


 パフェなんて大したことねぇだろ。精々しても千円ぐらい——

 紀雄は開かれたメニューの上に置かれた凪の指先を見ては、思わず二度見した。


 パフェなんて四千円ですかぁぁぁ⁉ 高過ぎだろぉ⁉


 メニューを取りあげては、穴が空きそうなほどに、凪の指したパフェを見つめた。

 底のコーンフレークにかかったホイップクリーム。その中には小さく切られた苺や蜜柑などの果物が散りばめられ、その上には抹茶アイスと、さらにその上には真四角のチョコレートケーキが、アイスに刺さった四本のチョコスティックで支えられている。


 なんだ、このバカな食べ物は!

 そういや佐々原甘党だったけど……マジでこれ食うの? マジで俺、四千円払うの?

 親父が置いていくひと月分の生活費の、六割が消えるぞ。バイクのガソリン代も払えなくなるぞ。

 ていうか……容赦なくね?

 勝負は勝負だけど、普通の高校生に四千円の出費は痛いって。


「む、無理しなくてもいいよ。私も半分出すから」


 凪の案に、そういうことか! と紀雄は安堵する。

 しかし!


 ここで、「あ、お願いします」なんて言ったら、凪に幻滅されることは間違いない。大体、男としても情けない。

 紀雄は嫌々、凪からの助け舟を拒んだ。


「俺が……出すよ」

「え? ホントにいいの?」

「ああ……」


 ひけねぇ。ひくわけにはいかねぇ。男には、意地があるんだ!


「ありがとう。じゃあ、これお願いします」「かしこまりました」


 呼ばれた店員が来てから去っていくまで、わずか数十秒……。

 男の意地は、秒速で無に帰した。

 こ、この女……。さっきまで悪びれてる様子だったのに、これじゃあまるで——はっ!

 ま、まさか、佐々原にとっては最初から、勝ち確イベントだったってわけかぁ⁉


 紀雄は驚愕の表情で、ニコニコしている女の子を見たが……。


「えへへ、ずっと前に喰いログで見つけてから、気になってたんだぁ」


 その笑顔があまりにも幸せそうなので、紀雄はすっかり毒気を抜かれてしまった。

 まぁ、可愛いからいっか。


「ところで、ほかのも見ていい?」


 紀雄は凪のテスト用紙が入ったファイルを指差して言った。

 パフェが来るまでには時間があるし、その間凪の顔を見つめているわけにもいかないだろう。


「いいけど、ちょっと待って」


 凪はファイルの中身を出すと、解答用紙ではないべつの紙を渡してきた。


「字、汚いから……。それ、全部の教科の点数を乗せたやつ」

「気にすることじゃねぇよ。字なんて、俺のほうが絶対汚いし——」


 全教科の点数が目に入った途端、紀雄は言葉を失った。

 数分間、食い入るようにそれを見つめて、錯覚ではないことを確かめた。


「日本史76点に現代語90点、生物95点、保健体育……98点⁉」

「わぁぁぁ!」


 突然、凪が紙をひったくった。


「声大きいよ!」


 頬を染めて凪が俯く。

 しかし紀雄は、それどころではなかった。目の前の出木杉さんのスペックの高さに、白目を剥いていた。


「吉城くん?」


 す、すごすぎる……。こんなのどれだけハンデをもらってたとしても、勝負にならねぇ。マジで佐々原にとって勝ち確イベントじゃねぇか。


「完敗だぁ」


 しばらく白目を剝いたままでいると、凪の注文したパフェがテーブルに舞い降りた。匂いだけでも胸やけしそうなほど、それは『甘い』を体現していた。

パフェの全長は紀雄の頭ぐらいまであり、それもまた衝撃で、無理矢理我に返らせられた。

 果たして一人で食べきれるのかと心配になったが、目を輝かせた凪は恐ろしいスピードで、チョコケーキと抹茶アイスを小さい口に入れていった。

 呆気にとられているうちに、パフェはどんどんと縮んでいく。

 しかし、


「ねぇ……吉城くん、左目少しだけ腫れてる?」


 急に、スプーンを持つ凪の手が止まった。心配してくれている声音がこそばゆくて、少し嬉しい。


「え? あぁ、バレーボールぶつけられてな。け、喧嘩じゃないぜ!」


 誤解なく伝えておかなければ、嫌われかねない。それだけは、それだけは避けなければ!


「バレーボール? 試合したの? 学校の行事?」


 意外にも凪が興味を示してくれたので、紀雄は慎重に言葉を選びながら、つい先日までのことを語りだした。


 阿津谷という初めてできた友達。対立した奴ら。助けてくれた矢悠も。

いろいろあったけど、終わってしまえば楽しかったクラスポ。


 無意識のうちに、紀雄の顔は綻んでいた。

 思えば、こんなふうに自分のことを誰かに話すのは初めてだった。

 馴れ合いなんてダサいと冷めたフリして、人と距離を置いてきたくせに。

 自分の話を聞いてくれる人がいるというのは、すごく幸せなことだ。

 それも……好きな人に聞いてもらえるなんて。


 だからこそ、瑠璃川の名前だけは出すことができなかった。

 急に怖くなってしまった。

 瑠璃川は凪と呼んでいたから、ただの友達ではないだろう。

 もしかしたら……、が怖い。

 自分が知らないだけで、二人は会っているのかもしれない。

 それが、つらくてたまらない。


 一体どうしたらいい?


 深く深く落ちていくこの穴から、どうにか這い上がる術。

 それもとうに、わかっているのに……。


 紀雄は、動くことができない。

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