第34話 その穴に落ちてしまったときの、這い上がり方①

 八月一日。

 すっかり夏になって、からっと晴れた青い空。湿気も少なくて、まさにお出かけ日和だった。

 新設されて一年も経っていない、真新しい駅のホームで、紀雄は一本の柱に寄りかかり、「ふぅ……」、と息を吐いた。

 平日だからか、行き来する人の数はまばらだ。

 額に滲む汗を腕で拭って、ホームの壁に設置されたデジタル時計を見上げる。

 あと数分で、待ち合わせの十三時だ。途端に、噴き出る汗の量が増えた。そわそわする気持ちを抑えようと、携帯の暗い画面に目を落とした。



 ***


 凪から唐突に連絡が来たのは、ちょうど終業式の日だった。

 式を終えたあと、クラスメートたちが夏休みの予定を楽しそうに話しながら教室を去っていくなか、紀雄は一人、萩尾先生に呼び出された。

 エアコンが静かに冷たい息を吐き続ける職員室。生徒はこれから夏休みを迎えるというのに、先生たちは忙しそうに、ペンやキーボードで音をかき鳴らしていた。


「阿津谷のこと、すまなかったな。ありがとう」


 書類の積まれたデスクに座る萩尾先生の口から、思ってもみない言葉が飛び出して、紀雄は少し驚いた。


「……俺は、とくに何もしてねぇですよ」


 阿津谷と同じことを言う。

 俺はあんたの言う通り、ただニコニコバレーに出ただけで、してくれたのは伏見と矢悠だ。


「そんなことはないだろう。つらいとき、そばに一人寄り添ってくれる人間がいるだけで、人は救われるものだ」


 紀雄は何も答えなかった。しばらくして、萩尾先生がまた口を開いた。


「月の裏側は見えたか?」

「月の裏側?」


 あぁ……。

 喫茶店での会話が、脳裏に蘇る。

 そういうことだったのか。


「俺の目は何も見えてなかった。阿津谷のことを弱くて気が小さい、ただのモヤシだと思ってた。でも本当は……強い奴だった……」


 親を亡くしても道を違うことなく、イジメを受けても学校は休まず、夢のために毎日勉強を頑張っている。どこまでもどこまでも強くて……紀雄のほうがモヤシだった。


「俺も同じだ。ほんの数か月前まで、ある一人の生徒のことを、ただの不良だと思っていた。心に秘めているものに、俺は気づけなかった」


 ただの不良? はっ、まさか……。

 次第に、胸に温かいものが広がっていく。紀雄は光を宿した瞳で、目の前の素敵な教師を見つめた。


「ハゲ——萩尾先生……」

「人はな、誰しも光と闇を抱えている。それに気づくために必要なのは目じゃない。心だ。心があるから、気づいてあげられるんだ。それを忘れるなよ、吉城」

「はい!」


 紀雄は勢いよく頭を下げると、くるりと踵を返した。

 礼を言うためだけに呼び出すとは、萩尾先生も良いところがあるじゃねぇか——

「おい、待て。まだ話は終わっていないぞ」

「え?」


 振り返った紀雄の胸に、一枚のプリントが押しつけられる。


「阿津谷のことを言うためだけに、お前を呼び出したわけがないだろう。こいつを、よく読んでおけ」

「これは……ん?」


 プリントにざっと目を通すと、紀雄は眉間に皺を寄せた。


「夏休みの補習の件についてだ。お前、数学と英語で赤点をとっただろう。テストの前に、赤点をとった教科は補習を受けさせると、言っていたはずだ」


 わ、忘れてたぁぁぁ!


「いや、でもこれ、この日程はあんまりじゃないっすか⁉ 落としたの数学と英語だけですよ!」


 紀雄は食いつくように抵抗を試みた。

 ここに書かれている文章が間違っていない限り、夏休みの半分以上、学校に行くことになる。


「お前が夏休みに何をしでかすか、わかったもんじゃないからな」

「さっき見直してくれたんじゃねぇのかよ!」

「それとこれとは話がべつだ。何も見ていないし、聞いてもいないが……」


 萩尾先生はデスクの書類に手をつけながら、声のトーンを落として言葉を続けた。


「阿津谷のために、お前は校内に部外者を入れたな」

「げ……」


 まさか見られていたとは。

 だが、それもそうか。自分のクラスの試合を見ていてもおかしくはないし、あのとき矢悠はだいぶ目立ってしまったから、気づく奴は気づくだろう。


「何度も言うが、私は何も知らないがな。まぁ、頑張れ」


 萩尾先生が淡々と言い終えると、二人の会話は終わった。


 あの散らかしヘアスタイルがよぉ! 阿津谷の件で言うこと聞いてやったんだから、補習はナシにしてくれてもいいだろ! 

 あっ、元は俺が爆竹かましたのが始まりか。

 いやそれにしても、まだ一年生の夏休みが、たった二教科の補習で潰されるなんてマジか。

 ……マジで潰されんの? ありえねぇだろ。最悪なんだけど。

 え? マジで潰されんの?


 紀雄は肩を落として教室に戻る。ため息を吐いて、世界よ終われと自棄になって、おもむろにカバンを掴んだその瞬間。

 制服の中で、携帯が震えたのを感じた。数秒で振動は止まったので、メールかラインだろう。

 紀雄は掴んだカバンを離して、携帯を取りだした。

 ロック画面には、佐々原凪の名前。そしてその下に並んだ文字を見て、沈みきっていた心が急上昇した。


『明後日の木曜日、空いてる? よかったら、喫茶店でも行かない?』


 さ、さ、最高じゃねぇかぁぁぁ!



 ***


 という経緯で、現在に至る。

 補習は明日からだから、今日は思う存分、楽しめるというわけだ。


 そしてとうとう、そのときがやって来た。


「吉城くん!」


 この世の善意の塊みたいな声に、紀雄は緊張気味に顔を上げる。

 久しぶりに会ったせいか、まるで憑き物でもとれたのだろうか。彼女は一層……。


「ごめん、少し遅れちゃったね」


 手提げバッグを肩に掛けた凪が、緑色の髪を揺らして微笑んだ。

 可愛らしい丸文字の英語がプリントされた白いシャツに、白のロングスカート。そしてこんな暑い日にも関わらず、なぜか水色のゆったりとした、長袖の上着を着ている。


「俺もさっき来たばっかだから」


 実際、服選びに時間がかかって、駅まで全速力で走らなければ、間に合わなかった。

 それぐらい時間に余裕はなく、結局服装も紺のジーンズに、髑髏の柄がはいった黒のTシャツと、いつもの恰好に落ち着いてしまった。


「あれ、持ってきてくれた?」


 上着のことを聞くよりも、凪の言葉のほうが早かった。

「あぁ」と、紀雄は左手に持っているバッグパックを上げて見せる。


 ま、いいか。話す時間はいっぱいあるし。

 ……それに、質問したいことはほかにもある……。


「それじゃあ、行こっか」


 早速凪が歩きだして、紀雄も慌ててついて行く。

 髪が揺れて、ふいに漂ってくる甘い香り。ロングスカートとスニーカーの間で、ちらりと見え隠れする細い足首に心はドキドキして、けれど楽しい。

 いつしか紀雄はもう、どん底まで落ちていた。




 駅のホームを出ると、熱々とした風が二人を迎えた。

 階段下のロータリー前では、三週間後にある町長選挙の演説が行われていた。マイクを持って選挙カーの上に立っているのは、うろ覚えだが穏健派と言われている、現町長のお爺さんだ。

 いつだったか家のポストに、選挙についてのチラシが突っ込まれていたことがある。それでその顔に、見覚えがあった。

 両親がろくに家に帰ってこないから、紀雄が回収しないとポストの中が溜まっていくばかりなのだ。


「この町の町長さんかぁ」


 快活に喋る白髪交じりのお爺さんを見て、凪が言った。


「選挙は十八からだから、俺には関係ねぇけどな」


 まったく興味のない紀雄は、淡々と答える。

 今は目の前のデートが、世界の全てだ。


「そんなことより、これからどこに行くんだ?」


 階段を下りても、迷いなく進んでいく凪の背中に、そっと訊ねた。


「喫茶店でゆっくりしよ。私、ずっと行ってみたかったお店があるんだ。吉城くんは寄りたい場所ある?」

「いや、喫茶店でいいよ。俺も喉乾いたし」


 実のところ、デートに相応しいお店など全然知らない。この町の出身だが、精々知っているのは安いラーメン屋とか、ゲーセンだけだ。

 事前に行きたい場所を決めてくれていた凪には、感謝しかない。


 だけど駅を離れてから数歩、車の往来が激しい大通りで、突然紀雄のほうが、凪から礼を言われた。


「この前はありがとう」


 最初はなんのことかわからなかったが、すぐに沙良との話だと察した。

 凪の部屋で話してから、その後どうなったのか。聞きたいことの一つだった。


「ちょうど終業式の日に沙良と話して、仲直りできたんだ。吉城くんのおかげだからちゃんと伝えたくて……それもあって連絡したの」


 凪がこちらを振り向いて笑う。


「今日は会ってくれてありがとう」



 久しぶりに会ったせいか、憑き物でもとれたからなのか、彼女の笑顔は一層可愛かった。


 もうどん底だと思っていた場所から、紀雄はさらに落ちていった。

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