雪のひとひらの世界で

かべるね

Flay, the Snowflake Girl


#01


 怯えるような大地の震動を感じて少女は顔を上げた。額に浮かんだ汗が頬から伝い落ち空色の前髪が肌に貼りつく。髪をかき分けて湯気ごしに西の空を見やると暴風雪を伴った厚い雲の層が見えた。少女は肺の深くまで湯気を吸いこんだ。その温かい大地の息吹は地熱で沸かされた温泉から立ち昇るものであり風化することさえ許されない凍てついた平原に点在する数少ないオアシスだった。水面に張った緑色の藻は微生物の群生、――極北の世界でそれでも生きることをあきらめずに戦い続けている命の抵抗の証だった。

 少女は立ち上がって地脈の熱が充分に身体へ蓄えられたことを確かめた。そして急ぎ足で東に向かって歩き始めた。


 風が吹き始めると氷河に横たわっていた雪が綿毛のようにいっせいに舞い上がり世界を覆い始めた。ケーキの糖衣のようになめらかな雪の結晶はたちまち群れとなって少女に襲いかかった。視界は徐々に白く霞んでゆくため完全にホワイト・アウトしてしまう前に避難場所を見つけなければならない。少女が目指しているのはかつて旧い時代の人間がたくさん住んでいた都市だった。街全体が凍結しており背の高いビル群だけが濁った視界のなかでぽつぽつと佇んでいる様はまるで巨大な墓標のようだった。

 ビルに逃げこむころにはブリザードは街の上空に差しかかり氷の粒が容赦なくフレイの背中を刺した。通りを吹き抜ける吹雪の音はすさまじくタイヤが地面にへばりついた自動車さえも引きはがして宙に舞いあげてしまいそうに思えた。ビルの階段を滑らないよう注意して登り部屋をひとつずつ覗いていった。人影のないオフィス。暗転したまま二度と目覚めることのないコンピュータ。柔軟性を失いガラスのように脆くなった紙の束。人間の営みという営みを奪い去られてなお原型を留めている無機質な部屋。そこは暖をとるには広すぎた。フレイは首を振って別の部屋を探した。

 同じフロアの隅に物置を見つけたフレイはドアの前で立ち止まった。足跡が残っていた。まだ新しかった。フレイはドアノブを握ってからまた離した。そして深呼吸した。腰をわずかに落としてドアノブをもう一度にぎり部屋に入った。暗い物置の奥に体温を感じた。金属製の棚のあいだを縫って近づいていくと壁にもたれかかるようにして手足をだらんと投げ出している少女が視界に映った。とっさにフレイは彼女の口元に手の甲を当てた。か細い吐息が感じられた。まだ生きている。フレイは部屋のドアを閉めた。そして彼女を抱き起こすと蓄えたばかりの熱を分け与えるため意識を集中した。



#02


 目蓋のうらを二度と見ることはないと思っていた暖かい色彩がよぎった。オルダは眼を開いた。ぱちぱちという焚き火を思わせるような音。火の粉が物置の天井を星のように彩ってはすうっと消える。そして部屋の中央に浮かんだやわらかい灯(ひ)がオルダと見知らぬ少女の顔を平等に照らしていた。

 オルダの口からこぼれ出したのは、う、あ、という言葉にならない声だった。それは相手も同じだった。声の出し方を思い出そうとするかのように空色の髪を揺らして薄い唇を開いたり閉じたりする。極北の世界に似つかわしくない軽装。オルダとはちがい日よけのゴーグルも耳当てもしていない。憂いを宿したその瞳からオルダは眼を離せずにいた。

 気分はどう。

 彼女はようやくそう云った。オルダはそこで覚醒した。腰に差した銃を引き抜こうとしたが肝心の得物がなかった。少女は鼻から息を漏らすとオルダの目の前で銃をひらひらと振ってみせた。

 探し物はこれ?

 か、返してよ。

 あなたは気が動転してる。はいそうですかと渡して撃たれたらかなわない。

 少女はあくまで落ち着いた口調を崩さない。オルダは深呼吸した。ようやく温まり始めた指先や足首に猛烈な痒みを感じた。もぞもぞと姿勢を変えて痒みをごまかしながら何度かうなずいてみせた。

 わかった。分かったわ。あんたはわたしに敵意がない。わたしもあんたと争う理由はない。これで好い? おっけー?

 空色の髪の少女は唇の端をわずかに上げてから銃を返してくれた。彼女は云う。昔こんなことがあったわ。今のあなたみたいに遭難していた連中を助けてやろうと近づいたら化け物呼ばわりして一斉に撃ってきたのよ。私はめったに怒ることなんてないしそのときも決して激昂したわけじゃないんだけどカチンときてね。あればかりは自分を守るためにやったことなんだから罪じゃないと思うのよ。仮に罪だとしても何百年も前の話なんだから旧い言葉で時効ってやつよね。

 あんたいったい何歳なのよ。からかうのはよして。

 嘘じゃないのに。


 意識がはっきりしてくるにつれて寒さもまた感覚として蘇ってきた。オルダがくしゃみをすると少女は指を組み合わせて瞳を閉じた。身体から淡いだいだい色の光が滲みだし宙に浮かんだ灯が勢いを増した。その温もりは氷を溶かして水に変えた。気が遠くなるほどの時の流れのなかで止まったままだった部屋の時間がゆっくりと進みだした。時計の短針のように遅く。徐々に早く。やがては元の姿を完全とはいえないまでも取り戻していく。それは命を命としてあるべき姿にいたらしめるための奇蹟だった。オルダの身体からはいつしか悪寒が消えていた。

 灯を生み出した少女は顔を上げて云った。

 これでどう?

 今の、あんたがやったの。

 フレイよ。

 なんだって?

 名前。あんたじゃなくて。私はフレイ。

 そう。わたしはオルダ。身を乗り出してオルダは続けた。――ねえフレイ、あんたって旅人なの。

 そうね。

 オルダは唾を飲みこんだ。……灯を運んでる人たち?

 そういう呼ばれ方もするわね。

 オルダは姿勢を戻してぺたんと尻餅をついた。細い息が漏れた。そして笑いがこぼれた。

 そっか。本当に灯を運んでるんだ。おとぎ話でもなんでもない。ぜんぶ真実だったんだね。

 フレイは首をかしげてオルダを見守った。

 まだ寒かったかしら。

 ちがうよ。これは寒くて震えてるんじゃなくて。ああもう。どう云ったら好いかな。

 フレイは扉ごしに聞こえるブリザードの音に耳を澄ませていた。ビルの外壁を食い破り仕留め損ねた温もりを今度こそ奪い取ろうとする魔物。そんな想像さえ巡らせることができそうなほどの轟音。

 旅人が口を開いて訊ねる。旧い人間の、それも子供のあなたがよく独りで地上に出ようと思ったわね。それともお仲間とはぐれたの?

 わたしは自分から飛び出してきたの。地下世界で一生を過ごすのはもう厭だったから。

 それで凍死しかけたわけ?

 まぁね。

 時どき、――本当にごく稀にあなたのような考えなしに出くわすの。外の世界へ自由を求めて飛び出してくる命知らず。確かに自由はここにある。それこそ世界中に広がっている。でもその自由は旧い人間が謳歌するにはあまりに寂しすぎるの。食べ物も何もない。何重に着こんでも暴風雪の前には何の役にも立たない。太陽からの贈り物は氷河に反射して誰にも受け止められることなく宇宙に還っていく。そんな状態が何千万年と続いてゆく。あなたたちはこんなはずじゃなかったって涙する。その涙さえも凍りつく。それが今の世界なの。

 フレイはオルダを見つめた。地下世界の人びと特有の黒い髪と褐色の瞳。何も云い返すことができないまま引き結ばれた桜色の唇。彼女はうつむいたまま黙ってしまった。



 やがて暴風雪の轟音は遠ざかり日差しが街に差しこみ始めたことをフレイは知った。

 嵐が去ったわね。

 …………。

 さ。もう充分に地上を満喫したでしょう。大人しく元いた巣に戻りなさい。旧い人間が地下以外に生きていける場所なんてこの星にはもうどこにもないわ。

 オルダが顔を上げた。ちょっと待ってよ。まだ戻るわけにはいかないの。

 どうして。

 帰れないの。わたしは地下には還らない。

 じゃあここで凍えて死ぬの。

 あんたがいる。

 ……はぁ。

 図々しいのは分かってる。対価もなしにごめんなさい。少しの間だけでいいの。目的を果たしたら大人しく雪に埋もれるわ。

 フレイは立ち上がって物置の中を歩きまわり始めた。

 私は確かに灯を運んでる。この温もりがある限りあなた一人くらいなら連れて歩けるかもしれない。でもあなたは見返りに何を提供してくれるの。病気でも患ってその場を動けなくなったら私は遠慮なく見捨てるわよ。

 お話ならできるわ。わたしの故郷のことや、お婆ちゃんたちから聴かせてもらった物語のことならいくらでも話せる。本だって持ってきてるの。

 それが対価?

 見捨ててくれても好い。あんたが拾ってくれた命だもの。わたしは目的を果たせればそれで満足だから。

 その目的ってなに。

 この世界がまだ完全には死んでいないってことを確かめたいの。わたしは地下にいたときトンネルの亀裂から小さな花が顔を出しているのをこの眼で見たことがあるの。薄桃色の花弁はしおれていて図鑑で見たどんな花にも似つかない醜い花だった。それでも確かにそこに命は咲いていた。染み出した地下水と土の栄養、わずかな灯りだけを頼りにね。そんな奇蹟がまだこの地上にも残されているんだって心から信じたいの。

 フレイは溜め息をついた。

 どうしてあなたたち人間はそこまで悲壮になれるのかしら。

 手を差し出してやるとオルダは黙って見上げてきた。

 ……私から離れないようにね。

 少女はうなずいた。



#03


 嵐が去ったあとで二人はビルを出て廃墟と化した都市を歩き始めた。雪がちらつく寒空の下。取り壊されることもなく放置されたバリケードを乗り越え道路に散らばるガラスを踏みつけながら歩き続けた。オルダはビルディングで今でも働いている幻の人影に挨拶でもするかのように両腕を広げた。笑い声を上げながらゴミ箱の外にあふれ出した袋の中身を覗いたり無人の車のシートに指をなぞらせたりした。大通りには暴風雪で飛ばされてきたはぐれ石やなぎ倒された街灯が無残な姿をさらしていた。オルダは振り向いてブリザードが残した爪痕を指さしては言葉を転がすのだった。すっごいや。私の身体なんてあっという間にビルの上まで舞い上げられちゃうんじゃないかな。

 フレイは眼を閉じてつぶやいた。

 呑気なものね。

 え。なにが?

 あなたの能天気さに呆れてるって云いたいの。――いい? ブリザードはほんとうに恐ろしいものなの。極北からの使者。白い悪魔。襲われたら完全に方角を見失ってしまうわ。おまけに肌を切り裂く凍てついた風。失われる体温。助けなんてぜったいに来ないという恐怖と孤独。あれに何人もの旅人が命を奪われたわ。もちろんあなたのような旧い人間の命もね。

 フレイの持ってる力なら吹雪くらいなんてことないんじゃないの?

 首を振ってフレイは答えた。そんな生易しいものじゃない。だいいち私の力は万能じゃないの。風雪に長い時間さらされていれば力を奪われて動けなくなってしまう。無理に危険を冒す必要だってないしね。だからこそ昨日だってあそこに避難してきたんじゃない。

 ふぅん。あんたにも限界はあるんだ。

 フレイは立ち止まった。オルダが振り返る。

 どうしたの。

 ……今の。気に障る云い方。

 ああ。別に。ただ実際に眼にしてみると伝説の旅人様もあんまりわたしたちと変わんないんだなと思ってさ。

 フレイの群青色の瞳がしずかに燃え上がり足元の雪が蒸発を始めた。オルダは後ずさった。フレイが手をかざすとオルダは熱い息の固まりを吐き出してその場に膝をついた。かきむしるように胸元の布地をつかんでぜいぜいと荒い息を地面にしたたらせた。うずくまった少女の背中から湯気が立ち昇りこの寒さのなかでも額から汗が吹き出して無数の珠となった。厚着をしているために身体の線が曖昧になっておりそんな彼女がうずくまると外敵から身を守ろうとしているダンゴムシのように見えた。

 フレイは手をおろした。オルダの全身から力が抜けて氷のベッドに横たわる。神経を焼かれて痺れた足先が微かに痙攣している。

 どう。――すこしは考えを改めた?

 …………。

 やろうと思えば血管を焼き切って中の血潮を蒸発させることだってできるの。灯の力を単なる便利道具だと思わないことね。熾火にもなれば兵器にもなる。取り扱いを誤れば世界を滅ぼすの。かつてあなたたちが生み出した火と同じようにね。――もういちど確認するわ。あなたは生きるも死ぬも私の手のひらの上。これに懲りたらからかうのは止めることね。

 ……へへへ。

 なに。

 オルダは半身を起こしてへにゃりとした顔でこちらを見上げてきた。

 やっぱり旅人様はすごいや。

 今さら褒めたって……。

 あんたといればわたしは大丈夫って確信が生まれたんだよ。今のでね。

 フレイは吐き出した息の行方を見つめながら答えた。

 ……呆れた。


 オルダを助け起こしながらフレイは肩の雪を払い落としてやった。

 すこしやり過ぎたわね。ごめんなさい。

 フレイってば意外と短気なんだね。

 そんなことない。これでも他の連中に比べればずっと穏やかよ。淑女をもって自認するわ。ただ旧い人間と逢うなんて久々だからあなたと話してると調子が狂うのよ。

 自分で淑女だって。

 うるさいわよ。

 あとその旧い人間って呼び方がイヤ。

 事実じゃない。

 事実だろうと嫌なものは嫌なの。わたしが短気って事実を口にしたらあんたが怒るのと同じだよ。

 なっ。

 フレイが再び手をかざそうとしてきたのでオルダは走って逃げだした。笑いながら腕を振って走った。バリケードをくぐりトラックの荷台に飛びうつり倒れた信号機の後ろに隠れた。そして空っぽの店内を走り抜けた。温かいコートからセールで投げ売りされていた下着まで何もかも奪われたブティック。もはやいかなる食品も提供することができなくなったファースト・フード店。旅行代理店の床に散らばるチラシに紹介されている世界中の彩りのある風景。それらの景色のすべてが喪われてなお自転を続けるこの星で、――風の前の塵にすらなり損ねた虚無の都市で、――彼女はそれでも走った。

 フレイが叫ぶ。

 ちょっと分かってるの。私から離れたらあなた死んじゃうんだって。

 オルダは叫び返す。

 じゃあ追いついてみなさいよっ。あんたの力をもっとこの身に感じたいもの。

 ――わたしにあんたの奇蹟を見せてちょうだいよ。

 少女はそう叫んだのだった。



#04


 オルダは広い駐車場を独り占めするかのように両手で抱きしめる仕草をしてみせた。

 これがマーケットなんだ。

 当時の面影はまったくないけどね。フレイは放置された車のナンバー・プレートを見つめながら答えた。今じゃ傷んだコンクリートの塊よ。碌なものなんて残ってないと思うけど。

 こういうのは気分だよ気分。せっかくなんだし楽しまなきゃ。

 雪と氷で覆われ白線の位置も定かでない駐車場を横切り二人はショッピング・センターに足を踏み入れた。壊れた自動ドアのそばには壁に打ちこんだボルトから針金で吊るされたブリキ缶が束になってぶら下がっていた。フレイはその仕掛けをじっと見つめてから先に進んでいくオルダを追いかけた。店の奥までずらりと並んだ商品棚。そのすべてが荒らされておりかつての賑わいを痕跡さえも感じさせないまま朽ち果てていた。それは食料品のコーナーも同じだった。ジャンク・フードの包み紙が変色して床にへばりつき中身がきれいに平らげられた缶詰が無造作に転がっている。オルダはそうした商品のひとつひとつを手に取ってはパッケージの写真に見入った。

 昔はたくさんの人が今夜のおかずを考えながら買い物をしていたんでしょ。羨ましいなぁ。

 そっちじゃ買い物できる場所もなかったわけ?

 まあそうだね。毎日決まったものしか食べられなかった。ぼそぼそしていてひどい味。材料が何かも知らずに食べてる。

 フレイはお腹をさすっている少女の横顔を見つめながら云った。そもそもこんな寄り道する必要はないのよ。私の灯の力はいわば生きる力そのもの。私といる限りあなたが食事をとる必要はないもの。

 オルダはお腹から手を離して商品棚とフレイの顔とを交互に見た。

 ああ。ははっ。どうりでひと晩明けてもあんまりお腹が空いてないわけだ。

 もう。あなたには呆れてばかりよ。

 でも心までは満たされないし。なにか口に入れたいな。胃腸が寂しい。

 ひと通り棚を見て回ったが食べられるものは何も残っていなかった。オルダは商品の亡骸をいちいち拾い上げることもなくなり無言で棚から棚へと眼を走らせていた。しばらくしてフレイが背中に声をかけようとしたところで彼女は食肉加工室を指さして声を弾ませた。

 ここなら何かあるかもっ。――ねえフレイ、扉を暖めて。凍ったせいでぴったり貼りついてる。

 フレイは扉についた覗き窓から薄暗い室内を覗きこんだ。そして軽く咳きこんだ。

 嫌な予感がする。

 フレイはお肉が嫌いなの?

 経験と勘。ここは開けないほうが好い。

 夢にまで見たバーベキューの機会を逃せるかっての。さあお願い。開いて。

 フレイは口を閉じて手をかざした。扉のふちが暖められて蒸気が立ち昇った。その蒸気も天井まで昇ったところで凍りつき染みのような白い跡を残した。扉が開け放たれオルダが加工室に一歩踏み出す。フレイは小さな灯をかざして部屋を照らしてやった。室内を一瞥したフレイの唇からああという嘆息が漏れた。

 何これ。

 オルダが呟いた。それからすぐに振り返って部屋から飛び出し店の出口に向かおうとしたところで転んでしまった。フレイは彼女を助け起こしながらもう一度室内の様子を検めた。首を切り落とされ腹を割かれた遺体が天井から逆さにフックで吊り下げられていた。開きっぱなしになっているポリバケツには凍りついて透き通った内臓が溜まりをなしている。調理台に置かれたまま放置されている腕や脚。血糊のついた肉断ち包丁。その厚い刃は灯の明かりを反射してフレイの瞳に問いかけるような視線を投げかけている。シンクの排水口には髪の毛が詰まっていた。部屋の奥の壁にもたれるようにして遺体が力尽きており口をぽっかりと開けていた。急所を守るために加工した廃材を装甲代わりに着こんでおり手には拳銃を握っている。そばには食べかけたまま捨てられた肉片が転がっていた。そしてそれらのすべてが冷え切ったまま虚ろな悠久の時間のなかで太陽の光を知らないままに静止していた。

 フレイは部屋の扉を閉めた。


 ショッピング・センターの裏。搬入口に停車したまま打ち棄てられているトラックの荷台に二人は無言で腰かけた。オルダは顔をうつむけたまま脚をぶらぶらさせながら何かを考えている様子だった。フレイはひとつうなずいてから呟いた。

 ああいうのはどこの街でも見る光景よ。末期になると生き残るためには手段を選んでいられなくなる。

 ……まぁ、ここに私が口にできるものはなさそうだ。

 フレイは思いついたことをそのまま口にした。――果たしてそうかしら。あなたが地下でこれまで食べてきたもの。その中にああしたものが含まれていないという保証はどこにあるの。スープのなかに入っていたベーコンについてあなたは何を知っている?

 うるさい。こんな時までそんな冷ややかに振る舞う必要ないじゃない。

 これが私の素顔なの。変な期待しないで。

 優しい力を持っているのに肝心の性格は意地悪なんだから。

 あなたが私に対して理想を抱きすぎなのよ。私たち旅人は神様じゃない。ましてや天使でもない。

 同じ人間だって云うと癇癪おこすくせに。

 当然よ。

 残酷だよ。こんなの。

 そうね。世界はおとぎ話のようにはできていない。

 オルダは押し黙り周囲に視線を配りはじめた。トラックの荷台には空になったプラスチックのケースが無造作に転がっている。こじ開けられたシャッターの奥に畳んで積まれた段ボールも今は空っぽだ。暴風雪が去った空もまた雲ひとつない。降り注ぐ太陽の光を受け取る気力もないままにこの星の時間は過ぎ去ってゆき氷点下に落ちこんだ気温は回復の兆しも見えない。地下からやってきた少女は濁った吐息を漏らした。フレイはオルダから眼をそらして姿勢を変えた。膝を引き寄せ三角座りになって呟きを落っことした。

 ……あなたの夢に添えなくてごめんなさいね。



#05


 夜が訪れた。オルダの提案で二人はホテルに留まって朝を待つことにした。無人のロビーを通り抜け非常階段を使い三階の角部屋にお邪魔した。オルダはフードを下げて幼さの残る顔を露わにすると鏡の前に立って笑顔を浮かべた。

 うん。思ったよりもずっとマシな顔。まだいけるね。

 当然よ。私の力を分けてるんだから。

 オルダは笑みを浮かべたままフレイに顔を向けた。

 それで思ったんだけど、フレイって食事とらないの?

 ええ。必要ないもの。

 人間の持ってるエネルギーって食べ物から得られる熱なんだよね。オルダは語った。昔の蒸気機関が動くのも石炭から生み出された熱。電気だってケーブルを伝ってやってきてその先の発電機にはやっぱり燃料が入ってる。お空に浮かんでる太陽は自分を燃やすことで光ってるんだってさ。――あんたの灯は? あんたの力の源はどこからやってきたものなの?

 フレイはベッドから身を起こして手の甲で眼をこすった。

 強いていえば、この星から。

 詩的な答えですこと。

 嘘は云ってないわ。この星がはるか昔から蓄えてきた熱。それを生きるために使わせてもらってるだけ。

 何で旅なんかしてるのさ。どうして暖かい地下には住まないの?

 その答え。あなたが耳にした云い伝えからは抜け落ちていたのかしら。

 灯を運ぶためって云われてもピンとこないもの。おとぎ話みたいでさ。

 それも文字どおりそのままの意味よ。……少なくとも私はそう信じてる。中には例外の奴もいるけど。

 フレイは人差し指をかかげて指先に灯をともした。部屋はみるみるうちに暖まってゆきかつて人びとを束の間の休息に誘っていた本来の目的を思い出したかのように見えた。フレイは続けて云った。

 私たちはこの灯を世界中のあちこちにともして回っているの。いつかこの凍結した大地からふたたび生命が生まれたとき彼らの拠り所にするためにね。この灯は星から授かった生きる力そのもの。場所さえ選べば簡単なことでは消えずに残り続けるわ。――あとは高い場所にともしたりして他の旅人の道しるべにするの。昔でいう灯台のようにね。

 オルダは口を開いた。……じゃあこの街にも?

 ええ。

 どこにともすのさ。

 あれよ。

 そう云ってフレイは窓の向こう――街でいちばん背の高い電波塔のてっぺんを指さした。



#06


 オルダが息を切らして手すりにもたれかかるようにして身体を休めた。フレイも立ち止まって振り返った。かつんかつんというブーツの音が止んで割れた窓から吹きこむ風のうなりが二人の間を走り抜けた。

 どうしたの。もう休憩?

 フレイが訊ねるとオルダは咳きこみながら応えた。

 し、仕方ないじゃない。寒さで体力おちてんだからさ。

 まだ先は長いのに。

 あとどれくらい。

 ビルでいうならまだ十階くらいよ。あと十倍は登らないと。

 じゅっ――。

 オルダは麻酔を打たれたアヒルのようにその場に座りこんでしまった。

 ちょっと。

 ごめん。力が抜けちゃって……。

 フレイは腰に手を当てて溜め息をついた。ほら、と声をかけて少女に手を差し伸べた。オルダはうなずいてみせてからその手をつかんだ。そして二人はふたたび登り始めた。なんども休憩を挟みつつ。風の高鳴りだけを聴きながら。折り返し。折り返し。陽の光が細い筋となって二人の靴を彩った。一歩一歩を踏みしめるごとに上昇していく世界。二人が短い時を過ごした街が眼下に収まりつつある。

 このまま、さ。オルダが云った。このままずっと階段を登り続けたら天国にでもいけないかなって考えちゃうよ。

 なにいきなり。

 だって終わりが見えないんだもの。そんな風に夢見ることくらい許してよ。

 あなたは死にたがりなの?

 別に。ただずっと地下で暮らしていたからね。こんな風に地上から離れつつあることが信じられないってだけ。

 なるほどね。

 ……フレイ、ってさ。

 なに。

 いつも唇をぎゅっと引き結んで旅をしてきたの。私と逢うまで。

 まあそうね。話し相手に巡り合う機会なんてそうそうあるものじゃないし。

 寂しいとか。苦しいとか思ったことはある?

 そりゃあるわよ。

 あら素直な回答。

 ブリザードに吹かれてなかなか隠れ場所が見つからないときは正直きつい。もう駄目かもと思ったことだって何度もあるわ。でも私にはやることがあるから。それに他の旅人と逢えることもたまにある。そのときは会話も弾むわよ。

 たまにってどれくらい。

 気が遠くなるほどたまに、よ。

 他の旅人といっしょに旅しないのはなぜ?

 私たちは群れることがないの。数日ないし数か月をともにしてもずっと添い遂げることはまずない。相手のことを疎ましく思ってしまう前に離れることにしているのよ。でも時には例外もあるわ。別の大陸に行くためにかつて大海原だった氷の大地を何年もかけて歩いていると時間の感覚を失ってしまう。そんなときに奇蹟のように他の旅人の灯を眼にしたときは心を取り戻したような気持ちになるの。

 ……フレイは、この星がまた昔みたいに蘇る日がくると思う?

 オルダが握っていた手に力を込めてそう訊ねてきた。

 フレイは前を見据えたまま応えた。

 もちろんそう信じているわ。そのために私たちがいるんだもの。ずっと昔、この星の海がすべて蒸発してしまうような出来事があった。すべてが凍りついた今とは対照的にね。そんな時代でも生物は生き延びたわ。そして今だってあなたを始めとした生き残りがいる。これぐらいで生命を根絶やしにすることはできない。それどころか大変動の度に新しい環境に適応して進化し続けてきたの。命はなくならない。灯は決して消えない。私はそれを信じているからこそ旅を続けることができるの。それだけよ。



#07


 やがて二人は電波塔の展望台にたどり着いた。すでに陽は暮れかけていた。展望台の強化ガラスは割れずに残っていたが悠久の時のなかで凍りつき白く濁ってしまっていた。フレイはフロアの中央で両膝をつきまるで神の宣託でも賜るように両手をお腹の前に重ねて眼をつむった。しばらく時間が流れた。オルダがあのさと声を上げる。フレイは静かにと呟いた。

 フレイが両手を掲げると身体が淡いだいだい色に発光を始めた。灯の粒子が渦を巻くようにして身体から立ち昇りはじめ熾火のようにぱちぱちと音を立てた。フレイが両手で杯を形作るとオルダがこれまで眼にしてきたなかでも最も大きな灯が生み出され中空を漂った。灯は勢いを増して温もりを広げてゆき床や壁、天井、そして展望台のガラスの氷を溶かしていった。差しこんだ夕陽の強烈な光にオルダは眼を閉じた。それから目蓋をゆっくりと開きながらおそるおそる窓に近づいていった。

 夕陽に照らされて暖色に染まった氷の街。その向こうには地平線まで広がる果てしない氷河があった。一面に広がる氷が陽光をことごとく反射しているために夕陽から街にいたるまでずっと光の大河が流れているような錯覚を受けた。空と地平線が合流する境界から天頂まで雲ひとつない。それらのすべてが同じ色に染め上げられて視界いっぱいに横たわっている。死に絶えてなお自転を続ける世界。だがそれは完全には死に絶えていなかったことをゆっくりと持ち上げられたオルダの指先が示していた。

 あれ……。

 そうね。

 あっちにも。

 ええ。

 あれもそうなの?

 そう。

 ぜんぶフレイが起こした灯なんだ。

 私だけじゃない。かつてこの大陸を訪れたすべての旅人たちの軌跡ね。

 星のようにまたたく灯が氷原のあちこちに何十と見えていた。ぽつりぽつりと。天の国からの徴(しるし)のように。オルダは灯を見つめながら指先で目尻を拭った。

 ……あはは。そうだ。私はこんなのが観たくてあそこを飛び出したんだ。

 泣いてるの、オルダ?

 こんなに綺麗なものを見て泣かないなんて。あんた感覚が麻痺してるよ。

 ただ氷ばかりの大地に私たちの足跡が残ってるだけじゃない。

 オルダは嗚咽を漏らしながら笑った。

 ばか。ばかだ。なんであんたはそう理屈で考えるんだよ。美しいものは美しい。それだけで好いんだよ。やっと気づけた。これが本当の世界なんだって。どんなに静かで寂しく見えても。それでもこれが私の生きている世界なんだ。空想なんかじゃない。そして私は確かにここにいる。それが分かったんだ。あんたのおかげで。私の人生というちっぽけな本の大切な栞(しおり)になってくれたんだよ。フレイの力は。

 …………大げさよ。

 ありがとう。

 ……どういたしまして。



#08


 オルダが持参した寝袋にくるまるいっぽうでフレイはただ壁に身をもたせかけるだけだった。見かねたオルダが起き上がろうとすると気にしないでと彼女は云った。オルダは筋肉痛のためか身体が重く感じられた。頭がぼんやりと霞んでいて首を振ると後頭部に鈍痛が走った。

 陽が落ちて宵闇が深まると展望台から眺め渡せる灯はよりはっきりと視認できるようになった。地上にともされた星空。宇宙から見下ろせば氷の大地にともっている星々を認めることができるだろうかとオルダは想った。かつてはそうした星々が世界中で灯っていたのに。

 オルダは約束どおりいろいろなことを話した。寝るときによく聴かされていた旅人たちの伝説のこと。伝え聞いた物語。フレイは最初のうち眠たげに眼をこすっていた。しばらくするとうなずきを返すようになった。そして質問を差し挟むようになった。

 オルダの故郷では私たちもずいぶんと評価されているのね。私は真逆のことを考えていた。

 どういうこと。

 以前にいた大陸では何度か探索隊に襲われたことがあるの。よほど私たちのことが憎いのか。あるいは捕まえていいように利用するつもりだったのか。彼らにとって私はモンスター。ちょっと特別なハンティングの標的だった。そうした土地に灯なんて熾せるわけないでしょう? ――だから私を始めとした旅人はそこから離れたわ。彼らは自分の首を自分で絞めたことになるわね。冷たい土の殻に閉じこもった旧時代の哀れな生き物。私はあなたたちのことをそう思っていたの。気を悪くしたら謝るけど。

 オルダは大丈夫だと云うように首を振った。

 あなたは私たちの希望だよ、フレイ。

 フレイは眼をそらして云った。私たちのやっていることはこの星の大きさに比べればあまりに儚いわ。このままの歩みで灯をともし続けても昔のような姿を取り戻すまでにどれだけかかるか分からない。数万年、あるいは数十万、数百万年とかかるかもしれない。そのときにはあなたはもちろん旧い人類が絶滅してしまっていることだってありうるでしょう。地上に出たところで新しい環境に適応できるという確証もない。すべてが元通りになるとは限らないの。――平たく云えばあまり期待しないでほしいのよ。

 うん。分かってる。

 ほんとうに?

 ええ。

 ならどうしてあなたはそう平然としているの。

 私たちが生き残ることができなくてもこの星はいつかきっと蘇るんでしょう?

 ええそれは請け負うわ。

 ならいいのよ。

 だからどうして――。

 私の命もまたこの星の一部だからだよ、フレイ。オルダはそう云って微笑んだ。確かに死ぬのは怖いよ。寒さに凍えながら逝くなんて苦しいだけだもの。でもそれは産みの苦しみのようなものよ。この世界に来るときもこの世界から去るときもどちらにも苦痛は伴うわ。ただそれさえ潜り抜ければ私たちは本当の意味でこの星に還ることができるの。きっとフレイにもまた会えるときがくるよ。できればそれまで忘れないでほしいな。私のことを。私たちのことを。

 フレイは口を開いてから閉じた。壁に背をもたせかけてうつむき前髪で表情を隠した。やがて旅を共にした少女の口からおやすみという言葉がこぼれても応えることなく顔を伏せていた。二人を包んでいる灯のぱちぱちという音に耳を澄ませた。今にも消えそうだが決して消えることのない命の灯火。星からもたらされた恩寵。フレイはまるで初めて眼にしたかのように灯を見つめ両の手のひらを差し伸ばした。そして貴い聖遺物に触れるかのような慎重な手つきで自分が生み出した奇蹟に触れた。そして微笑みながら眼を閉じたのだった。

 フレイは、――極北の世界で灯を運び続ける少女は呟いた。

 ……おやすみなさい、オルダ。




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 物語のご読了、心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

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