ご令嬢と陰陽師

土御門 響

第1話

 ある、春の日のこと。

 帝都郊外にある大きな屋敷から、元気のいい赤ん坊の産声が上がった。


「元気な女の子ですよ、奥様」


 顔を真っ赤にして泣いている生まれたばかりの赤子を清めながら、産婆は皺でくしゃくしゃの顔に満面の笑みを浮かべている。

 お産という大仕事を終えた奥方は、我が子の泣き声を聞きながら、ほっと息をついた。

 少し難産だったけれど、無事に産まれてくれて本当によかった。


「奥様、お嬢様ですよ」


 赤子を清め終えた産婆が、裸だった赤子を襁褓むつきくるんで奥方に差し出す。

 奥方は重く、温かい我が子を胸に抱いて、ようやく心から安堵の息を吐き出す。大きく柔らかな枕に頭と上体を少し沈めて、奥方は瞼を伏せた。疲労による倦怠感に身を任せ、そのまま眠りそうになる。

 だが次の瞬間、奥方はバッと目を開けて体を起こした。


「奥様?」


 片付けをしていた産婆が不思議そうに振り返ってくる。

 腕の中の赤子が、一際大きな声で泣き始めた。尋常ではないその声に、産婆も何事かと身構える。


「奥様」

「大丈夫。……大丈夫、だから」


 本来なら初産で、このような泣き方をされたら戸惑うものだろうに、奥方は何かを察しているようだった。

 奥方が視線を窓の向こうに走らせる。

 刹那、窓をすり抜けて大きな黒い影が赤子目掛けて突っ込んできた。驚いた産婆は腰を抜かして尻餅をつく。一方の奥方は、大声で泣く我が子を守るように片腕で抱き締め、空いた腕を大きく横に振った。

 すると、影は何かに阻まれたように動きを止め、そのまま再び窓の外に消えていった。


「奥様、今のは一体……」


 どうにか立ち上がった産婆が問う。

 奥方は両腕で未だ泣き続けている我が子を抱き締め、細い肩を大きく震わせた。


「なんてこと……!」


 我が一族の因縁が、この子に及んでしまったなんて。

 激しい哀しみと怒りを堪えて嗚咽を漏らす奥方を、産婆はただ見つめるしかできなかった。

 屋敷の主人が事態を知って仕事を放り出し、急ぎ帰宅して妻の部屋に駆け込んだのは、その数時間後のことであった。


 ***


 あれから七年。

 生まれた赤子は綾芽あやめと名付けられ、すくすくと育っていた。


「おかあさま、おかあさま!」


 七つになったばかりの一人娘は、いつも元気いっぱいで無邪気な子だった。


「綾芽、どうしたの?」

「きょう、おとうさまはおやすみなのに、なんで、にいらっしゃらないの?」

「お父様にね、お客様がいらしているの。後で綾芽と母様も呼ばれるから、それまで待っていましょうね」

「うん!」


 母親の言葉に素直に頷いた綾芽は、誕生日の祝いに父に買って貰ったうさぎとくまのぬいぐるみを持ってきて遊び始めた。

 奥方は、そんな娘の姿をソファに腰掛けて眺めている。その呼吸は些か浅く、顔色も少し悪い。

 しばらくすると、主人が居間に降りてきた。


「あなた……」


 ソファから立ち上がって傍に寄ってきた妻の肩を主人は優しく抱いてから、ぬいぐるみで遊んでいる愛娘の前に膝をついた。


「綾芽」


 名前を呼べば、綾芽はきちんと遊ぶのをやめて父を見上げる。


「なぁに、おとうさま」

「お前に会わせたい人がいるんだ。おいで」

「はい!」


 綾芽は立ち上がって父と手を繋いだ。

 母は何だか不安そうな顔をしている。


「おかあさま、どうしたの?」

「……いいえ、何でもないのよ。行きましょうね、綾芽」

「お前は部屋で休め。だいぶ体力を持っていかれているだろう」

「でも、あなた……」

「でも、じゃない。ひどい顔をしている。相当参っているんじゃないのか?」


 図星を突かれて奥方は口を噤んだ。

 確かに、こうやって立っていることすら今の自分には辛い。


「休んでからで問題ない。……どうせ、これからいつでも会える相手なんだからな」

「……そうね。わかりました」

「おかあさま、おやすみするの?」


 母を見上げて首を傾げた娘にもわかるよう優しく言い聞かせる。


「お母様は少し眠いんだよ、綾芽。眠らせてあげような」

「うん。おやすみなさい、おかあさま」

「ええ、お休みなさい」


 夫の頬に口付けし、夫から額に口付けを受けて、奥方は二階の自室に向かって行った。妻を見送ってから、主人は娘の手を引いて客間へと向かった。

 客間に入ると、ソファに座っていた者が立ち上がる。


「待たせてすまない」

「いえ、お構いなく」


 知らない人を警戒して、綾芽は父の足の後ろに隠れていた。けれど、可愛らしい桃色のワンピースに頭に結んだ赤いリボンが足の隙間から見えている。

 客人は、そんな綾芽の前に膝をついて話しかけた。


「こんにちは」


 怖いのか、父の足にしがみついて離れない綾芽。見かねた父が、足にしがみつく綾芽を引き剥がした。


「綾芽、この人はこれからお前に仕えてもらう人だ。きちんと挨拶なさい」


 大好きな父に促されては拒否できない。綾芽は、恐る恐る父の前に出た。

 客人は男だった。比較的若い。深い青色の上衣に藍色の袴を穿いている。和装に下駄を履いている男は、この洋風の屋敷に似合わないようで、不思議と周りの風景に溶け込んで見えた。


「初めまして、綾芽ちゃん」


 にこりと笑った男は、幼い綾芽の目にはとてもきらきらしているように映った。


「僕は、しゅうといいます」


 ずっと後に綾芽は知る。

 ひいらぎには、魔を祓って寄せ付けない、魔除の力があるのだと。


 ***


 綾芽の母の一族には、時々妖に魅入られる子が生まれていた。そのため、一族の子を妖から守ろうとあらゆる手を尽くした結果、ここ百年近くはそういった子が生まれることはなくなっていた。

 だが、綾芽は。綾芽は百年ぶりに生まれた、妖を惹き付ける体質を持つ子だったのだ。しかも、言い伝えよりも遥かに強く、綾芽は妖達を惹き付ける。

 子は七つになるまで神の領域にいる。そして、妖は神に手を出すことができない。よって、七つになるまでは何事もなく日々を過ごすことができていた。しかし、七つになってしまえば、子は人の世に完全に結ばれる。妖の手が及ぶようになる。

 そこで両親はまず、屋敷の敷地に結界を張った。これは奥方の一族に伝わる術で、もしもこういう子が生まれたときに使うよう伝えられてきた、妖から子を守るための先人の技術だ。

 これだけで、ひとまずは事足りるはずだった。だが、奥方の霊力は常に結界を張り続けられるほど強くはなく、みるみるうちに奥方が衰弱してしまったのだ。

 見かねた主人は妻の負担を減らすため、外部の優秀な術師を雇うことにした。

 その術師が、柊である。彼の姓は、倉橋。若いながらも実力は折り紙つきと謳われる、かの安倍晴明の子孫であった。


 ***


「しゅう、しゅう!」


 最初は人見知りをしていた綾芽も、すぐ柊に懐いてしまった。


「何ですか、綾芽ちゃん」


 柊は現在、十七歳。一回りは年下である綾芽に対して敬語で話す理由は、雇い主の娘であるというのもひとつだが、一番は綾芽のことを主として認めているからである。

 幼くても、綾芽の真っ直ぐで曇りのない性格は、忠誠を誓うに申し分ないと思っている。雇用契約とはいえ、一度交わした約定には従うのだ。

 ならいっそ、綾芽様と呼ぶべきではという感じもするが、柊はそこまで堅苦しい関係になりたい訳ではない。雇われの身であるものの、綾芽の兄貴分のような存在になりたかった。柊は元来、子供が大好きだから。

 駆け寄ってきた綾芽が、手に持った包みを掲げた。


「おとうさまがくださったの」

「それは良かったですね、綾芽ちゃん。何を頂いたのですか?」

「しゅうといっしょにあけようとおもって」


 そう言いながら綾芽は小さな手で包みを開いていく。薄茶色の包装を剥がすと、中から焦げ茶色の革鞄が出てきた。


「これ、がっこうにもっていくかばんだわ!」


 綾芽は今、私立学校の初等科に通っている。指定の制服は薄紫色のワンピースとベレー帽だが、教科書は母が学生時代に使っていた藍色の風呂敷に包んで持って行っている。

 藍色は魔除の色だ。そして、藍染は虫――蟲を寄せ付けない。制服にも毎日、伽羅きゃらの香を纏わせて、妖に付け入る隙を与えないよう徹底している。


「おとうさまが、しゅうにおまじないをかけてもらいなさいって」

「そう、ですか。旦那様が……」


 新しく無防備な鞄への魔除を施すのは、柊の仕事という訳だ。

 柊は懐から白い紙を取り出した。


「それ、なぁに?」

「ちょっと待ってて下さいね」


 柊が折り紙よりも少し小さい紙を器用に折っていく。


「……はい、できました」


 手早く折った蝶に念を込めてから綾芽に手渡す。


「これは?」


 とても形が綺麗で、上手な折り紙の蝶だ。

 綾芽は首を傾ける。きれいだけど、これのどこがおまじないなのだろう?

 不思議そうな綾芽の前で柊は片手で印を組んだ。すると、蝶が仄かに発光し、羽を羽ばたかせて舞い上がった。

 舞い上がった蝶は綾芽の頭上をくるくると自由に飛び回る。

 声もなくそれを見上げている綾芽に、柊は静かに告げた。


「いつも鞄の中から綾芽ちゃんを見守る蝶ですよ。危ないとき、必ず貴女を守ります」


 柊の真摯な眼差しに、綾芽は大きく頷いた。


「わかったわ」


 ふっと笑って柊が綾芽の頭を撫でた。

 楽しいときも、辛いときも、危ないときも。常に柊が傍にいて、綾芽を守ってくれる。だから、きっと大丈夫。自分の体質が恐ろしいものでも、きっと。

 そんな風に思いながら、綾芽は生きていた。


 ***


 今日は雨だ。

 濃紺の傘をさし、袴の裾が濡れないように気を付けて、学校から屋敷までの帰り道を歩く。黒い編み上げブーツが図らずも路面の水滴を蹴り上げて、無数の雫が宙を舞った。

 女学生にしては珍しく、衣は青系統でまとめられている。薄水色に桃の花が描かれた上衣に限りなく黒に近い藍色の袴を合わせた姿は、他の女学生には見られない。だが、その様は浮くどころか、赤や黄色の中で、ひときわ映えていた。

 石畳の路面を背筋をぴんと伸ばして歩いていれば、若い男の中では思わず振り返る者もいる。


「綾芽さん」


 屋敷にほど近い場所になったところで、屋敷の方向から柊が迎えに来た。

 初めて会ったときと変わらない和服姿。見慣れた柊の姿だった。


「お帰りなさい」

「ただいま、柊。……それにしても、その“さん”付けはどうにかしてほしいわ。昔みたいに、綾芽ちゃんの方がいい」


 それどころか、こちらは呼び捨てでも全然構わないと思っているのに。こうやって綾芽が不満を零しても、柊は困ったように苦笑するだけで応じてくれることはなかった。


「さ、体が冷えては大変です。早くお屋敷に帰りましょう」

「そうね」


 綾芽が応じると、二人は並んで歩き始める。

 歩きながら、綾芽は傘の下からちらりと柊の横顔を見上げた。その精悍な面差しは、昔よりも更にいい男になったと思う。昔から顔立ちは整っていたけれど、大人になったことでそれに磨きがかかった。

 綾芽は今年で十五になる。だから、十歳年上の柊は二十五歳だ。

 次の春には、綾芽は女学校を卒業する。そろそろ、将来を真剣に考えなければならない時期に差しかかっていた。


「……ねぇ、柊」

「はい」

「私、これからどうすればいいのかな」

「そうですね……」


 何か夢などはないのですか?

 そんな問いかけをされても、綾芽は答えられない。前を見て歩く柊を見上げる瞳が揺れる。

 どんなに夢見ても、願っても、それが叶うことはない。成長した綾芽は、それを理解していた。


「……綾芽さん、下がってください!」


 物思いに耽っていたせいか、反応が半瞬遅れる。目の前に突如現れた妖の魔手を、綾芽は拒絶の意思を持って払い除けた。バチンと音を立てて、妖の触手が弾け消えた。

 綾芽も母方の一族の末裔だ。意思を持てば、それは力となって具現化される。彼女の母と同じように。

 だが、それには技術がない。制御なき力では、できることは限られる。


「去ね」


 柊の放った言霊によって、こちら側に出てきていた妖が、宙に開いた穴に戻される。だが、それでもまだ綾芽に手を伸ばしてくる。

 柊は眉一つ動かさず無言で印を結び、言葉のひとつひとつをはっきりと唱えていく。霊力と祈りを込めて呪文を唱える姿は、まさしく陰陽師だ。


「東海の神、西海の神、南海の神、北海の神」


 妖の動きが止まる。柊は視線で妖を射抜いた。


「百鬼を退け、凶災を祓い給え!」


 神の加護を得た凄まじい霊力が迸る。霊圧を叩きつけられた妖は、断末魔を上げて消えた。


「……柊」

「はい」

「ありがとう」

「これが仕事ですから」


 そう。仕事だ。

 私を妖から守ることは、柊とって仕事。

 何か個人的な意思を持って、行っているのではない。……守っているのでは、ない。

 鈍く重い胸の痛みを無視して、綾芽は笑った。


「帰ろう」


 ***


 母は昨年、綾芽の将来を案じながら儚くなった。

 綾芽を守るための結界は、柊を雇ったときから彼に任せていたのだが、それでも娘を自らの手で守ろうとする母の意志は強かった。あまり霊力が強くない身で、娘が安全に暮らせるよう様々な形で力を使い続けたのだ。お抱えの陰陽師が何と言おうと、最愛の夫が何と言おうと、母は娘のために術を行使し続けた。

 母の寿命を縮めてしまったと、綾芽は己を責めたが、母は最期までお前は悪くないと諭した。

 霊力の枯渇と慢性的な疲労で痩せ細り、床に伏せる母の前で涙を流した綾芽に、あるとき母はこう言ったことがある。


『ごめんね……』


 私の血のせいで、そんな体に産んでしまって。お前に、そんな顔をさせてしまって。

 お母様は悪くない。綾芽は首を振った。

 お母様は何も悪くない。私は大丈夫。だから、もう私の為に力を使わないで。

 泣いて頼んでも、母は意志を曲げなかった。

 そして、母は微笑んだ。


『綾芽……』


 その体質でも、生きている限り常に危険と隣合わせでも、せめて。せめて――幸せに、おなりなさい。

 貴女の望むように、幸せに。


 母のこの言葉は、綾芽の胸に今も強く残っている。


 ***


「ただいま」

「お帰りなさいませ。お嬢様、旦那様がお呼びです」

「お父様が……わかったわ。すぐ行くから」


 侍女の言葉に頷いて、綾芽は柊を振り返った。


「行ってくるわね」

「わかりました」


 応じる柊の目の奥に、何かの感情が映ったように見えた。しかし、それはすぐ掻き消えて、いつもの穏やかな微笑みが上書きされてしまう。


「行ってらっしゃい」

「うん」


 柊と別れて二階に上がり、父の書斎に入ると、そこには父の他に一人の青年がいた。何やら話していたらしい。邪魔をしてしまっただろうか。

 綾芽が謝る前に、父がこちらを見た。


「お帰り、綾芽」

「ただいま戻りました、お父様。……こんにちは」


 見知らぬ青年は、にこりと微笑んで綾芽の挨拶に応え、再び父に向かい合った。


「お話通り、可愛らしいお嬢様ですね」

「ああ、だからこそ君に任せたいと思う」


 何の話をしているのだろう。当の本人を目の前にして。


「お父様、何のお話です?」

「綾芽、よく聞きなさい」


 そう言うと、父は青年を促す。青年も頷いて、綾芽に向き合った。

 そうして青年が話した内容は、綾芽の耳に一切入ってこなかった。ただ、ひとつ言えることは。


「……お父様」

「ん?」

「私は、結婚なんて望んでいません」


 衰弱してもなお、とても強い響きを持っていた母の言葉が耳の奥に蘇る。

 自分の望むように。幸せに。

 青年が肩を竦め、父は困ったように笑う。

 説得なんてどうとでもできると思っている二人に、綾芽は決して屈しない。母の願いを無下にすることなんて、絶対にしない。


「私は、結婚なんてしませんから」


 ***


 あの青年は皇室と血の繋がりがあるそれなりに高貴な身の上で、父が仕事の関係でようやく接触できた人らしい。

 神の末裔である皇室の親族と結ばれれば、妖が手を出せなくなる。だから、あの人と結婚して妖に怯えることのない生活を手に入れ、幸せな家庭を築いてほしい、と。そういうことだった。

 確かに、あの人の纏う気配は澄み切っていて清らかだ。妖が嫌いそうな気配の持ち主だ。けれど、だからといって好きでもない男の元に嫁ぐ気はしない。それに、今こうやって彼を拒絶したところで、父はまた他の相手を見つけてくるだろう。

 愛する妻を亡くし、せめて一人娘には不自由のない幸せな将来を与えたい。父は、そんな気持ちになっているに違いない。

 だから、青年には今日中にお断りの理由を示すと言って、父と二人で書斎で待ってもらっている。

 示さなければならない。自分が誰を好いていて、誰と一緒にいたいか。

 一階まで勢いよく駆け下りると、柱に柊が寄りかかっていた。息を切らしている綾芽を一瞥してから、ふっと苦笑する。


「こら。廊下を走るものではないですよ」

「柊、聞いて」


 いつもとは違う綾芽の切羽詰まった声に、柊は鋭く何かを察したようだ。表情を引き締めて、柱から身を起こす。


「どうしました」

「聞いてほしいことがあるの。今すぐに」


 そう言って綾芽は、柊の手を掴んで歩き出す。柊は無言でされるがままに付いてくる。

 どこに連れ出そうかと思案していたら、ふと思った。


(こんな状況で伝えたくなかったな)


 しかし、それは無理な話であった。理想を追い求めていては、本当に欲しい現実まことが手に入らない。

 廊下を抜けて、裏口から中庭に出た。帰り道降っていた雨は止んでいる。タイルを埋め込んだ小道に、母の好きな花々を植えた花壇。風に流される雲の隙間から、夕暮れの西陽が差し込んできて、辺りを橙色に照らす。


「――綾芽さん。何があったのですか」

「お父様が私に縁談を持ってきたの」

「それは……」


 その声に孕まれた感情は驚愕でも憤りでもない。ただ少しだけ、興味深そうなものが含まれている。


「……あまり、乗り気ではないようですね」

「ええ。とても乗り気じゃないわ」


 綾芽は振り返って、柊に向き合った。

 柊はいつでも静かな目をしている。大局を見定める、冷静さを失うことがない眼差し。こういうところが陰陽師なのだ。陰にも陽にも偏ることなく、その狭間に在って、両方を操る。


「私に何か伝えたいことがあるようですね」

「そうよ」


 綾芽は両手を握り締めた。

 怖い。

 伝えることも、拒絶されることも、怖い。

 でも、言わなければ。伝えなければ。これは自分の願いで、想いだ。


「柊」


 突風が中庭を駆け抜けた。

 風によって、雨雲が流されていく。

 旋毛に結い上げた髪が風に煽られて気ままに踊る。

 喉に力を込めて、綾芽は告げた。


「私は、貴方と結婚したい。貴方と添い遂げたい」


 柊が微かに瞠目する。


「私はずっと、貴方が好きだった。貴方のことが、好きなの。貴方じゃないと駄目なのよ。縁談なんて受けたくない……!」


 柊は俯いて、そっと跪いた。


「綾芽さん。私は貴女を守り、貴女に従う者です。貴女と結ばれていい立場ではない」

「そんなもの、どうでもいいのよ!」


 綾芽は叫んだ。

 関係性がなんだ。主従関係がなんだ。今はそんなことを言っているのではない。

 関係性ではなく、一人の人間として、女として、貴方の傍に在りたい。


「私は……」

「綾芽さん」


 立ち上がった柊の瞳に光がなかった。一切の感情を切り離している。陰陽師としての冷徹な眼が綾芽に据えられていた。


「私は公私を切り離して、貴女と接してきたつもりです」


 ずきり、と胸が痛む。

 そう。彼にとって自分は雇い主か、雇い主の娘に過ぎない。当然の答えだ。

 綾芽は目を閉じた。単独で抗おう。この想いが成されないなら、せめて誰のものにもならずにいたい。


「ですが」


 ハッと顔を上げると、柊が痛みを堪えるような目で綾芽を見ていた。


「本音を申し上げれば、私とて貴女に何の感情も抱いていないという訳ではありません」


 許されない。

 子供相手ならまだ目を瞑ってもらえた親しみの感情も、時の流れと共に変化し、決して許されない感情へと向かっていった。だからこそ、柊はあるときから感情を切り離した。

 これまで通り親しみを持って接することは変わらない。けれど、距離を取った。呼び名を変えた。己を戒めた。

 決して、その身に手を伸ばさぬように。

 だが、目の前の少女は望んでいる。手を伸ばしてほしいと。触れて、ほしいと。


「……僕でないと、嫌ですか」

「嫌よ。当たり前じゃない。柊じゃないと、絶対に……」

「本当に――――」


 


 陰陽師は腹を括った。

 令嬢の切実な想いを前にして。

 彼女の傍に一人の男として在ろうと心に決めたのだった。

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