小学生を騙して浴衣デートする話

ぷにばら

 祖母との思い出は数え切れないほどあるが、病室に入るとそれを回顧することが出来なくなる。


 消毒液の匂いと白を基調とした壁、清潔なリネン。車輪のついたベッドと、そこに横たわる祖母。

 いつ来ても眠っているその横顔を見ると、心臓を撫でられたような不安を覚える。


 穏やかな表情に刻まれている皺を視線でなぞる。前に来た時よりも深くなっているような錯覚を覚え、凝視してしまう。


「1週間ぶり……また来たよ、トヨおばあちゃん」

 僕はベッドの隣にある客用の椅子に腰掛けて、話しかける。反応はない。

 もちろん分かっていて話しかけている。


 昔見たテレビのドキュメンタリーかなにかで、意識不明の状態から回復した人が「起きていない間も周囲の話や環境音が聴こえていた」と語っていた。

 祖母も今物音が聴こえているなら、誰が来たか不安になるかもしれないから、声をかけた。


 祖母が昏睡してから、4ヶ月経つ。

 診断が難しいため不確定ではあるが、脳血管の異常であると説明された。

 原因は主には加齢であるとのことだ。


『今年で83歳なのに元気すぎて心配してたくらいよ。ちゃんと人間らしいところもあって安心したわ』

 と軽口を叩いていた母の顔を思い出す。言葉とは裏腹にその目は泣き腫らしており、強がりであることはすぐに分かった。


“井口トヨ”と祖母の名前が書かれた点滴袋からは鼻までチューブが伸びていた。自発的に栄養を取ることが出来ないため、それを点滴で補っているそうだ。


 僕は祖母の手に触れながら、先週来てから今日まで会った出来事や読んだ小説の話をした。多分僕の話自体はそんなに面白くもないだろうけど、他にやることもなかった。

 なによりこうしているとゆっくりと笑いながら話を聴いてくれた祖母の面影を思い出せるのだ。そう思うと結局は自分のためなのだが、こればかりは仕方ないと思う。


 しばらく話をしたところで個室のドアがノックされて、開かれた。

「井口さんのお孫さんですか?」

 担当なのか、よく顔を見る看護師さんが顔を覗かせた。


「はい、そうです」

 肯定すると「失礼します」と言って、看護師さんはちょこんと入ってくる。

「実際にお話するのは初めてですね。よく来て頂いてますよね」


「おばあちゃん子なんですよ、昔から。他にすることもないですし」


「ふふ、井口さんもお見舞いに来てくれるのは嬉しいと思いますよ」


「そうですかね。『お見舞いに来る暇があったら昼寝でもしてなさい』とか言いそうですけど」


「それは……厳しいのか、甘いのか、よく分かりませんね」

 苦笑する看護師さん。


「僕にはとても甘いですよ。孫である僕が自覚できるくらい。祖母は自分に厳しいんです」


「そうですか。立派な人なんですね」

 視線に優しさを含ませて、看護師さんは「でも」と続けた。

「井口さんはやっぱりお孫さんに来てもらえて嬉しいはずですよ」


「……そうですね」

 様々な患者を見てきたであろう看護師さんから再びそう言われると、頷かざるを得ない。

 確かに僕も嬉しいといいなと思いながらお見舞いに来ているわけで、それはどうやってもこちらの願望でしかないのだけれど――。

 祖母が嬉しいと思ってくれるなら、僕も嬉しいと思う。

 結局のところ、理屈はそれだけなのだろう。

 嬉しいと思ってくれたなら、嬉しいのだ。


「それでですね」と看護師さんが話を切り出す。

「井口さん――井口トヨさんの容態は今のところ安定していますので、あとは意識が覚醒するのを待つのみです。今日来て頂いたのは“例の治療法”の経過報告と――」


「あ、はい。じゃあすぐ行きます」


「――分かりました。それでは別室でお待ちしています」

 看護師さんがドアへ歩いて行くのを見計らって、僕は祖母の手を離して、小声で言った。


「じゃあ、またね」



 ――――――――――――――――――――




 説明を受けた僕は病院をあとにした。

 病院の外はへばりつくような蒸し暑さで、顔を顰める。


「あつう……」

 さて、これからどうしたものかと思っていると、ポケットから電子音が鳴った。端末を取り出すと、着信を示す画面と共に“ミサキ”と表示されていた。電話に出る。

 瞬間、怒号が鼓膜を貫いた。


『おっっそーーーーーーい!!昼には来るって言ってたでしょーーーーー!!待ってるんだからね!!!』


 こちらが何かを言う前に電話が切れた。

 スマホのディスプレイを見ると、“2018/07/07 12:35”と示されてある。


「あー……七夕」

 そうか、今日は七夕祭りだ。

 確かに慌ただしい様子の法被姿の男性がちらほら見かけられる。

 小さな町の小さな祭りだが、ゆえに楽しみにしている子供は多い。子供だけでなく、数少ないハレの日として大人も一生懸命準備する。

 娯楽が少ない町にとって、七夕祭りに限らず祭りは一大イベントなのだ。

 ということは――。

「かんかんだろうな……みさき」

 少し気が重くなるも、行かないわけには行かない。

 僕はみさきの家に向かった。




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「おそーーーいよーーーー!」

 玄関に着いて開口一番かけられたのはみさきからのそんな言葉だった。

「昼にはうちに来るって言ってたよね!?もう1時だよ!まだ十分お昼だけどね!」


「えっと……」

 なんだかよく分からない怒り方をされた。


「帰ってきたらまさにぃがいると思ったらいないんだもん!私びっくりして『まさにぃがいない!?』ってすっとんきょーな声出しちゃった!せっかく理科の授業で作ったスライムぶつけようと思ったのに!がっかりだよ!」


「あ、今日みさきちゃんは学校だったんだね」


「そうだよー、でもたなばた祭りだから、今日は半ドンだったの」

 数秒前まで怒った顔から一転、クリっとした目を細めながら、学校が午後から休みになったことを嬉しそうに語る。


 話を整理すると、今日は小学校が午前までなので、ここぞとばかりに僕と遊ぶ予定を取り付けた。お昼頃と約束したから学校から帰ってきたら僕がいると思っていたらいなかった。ので、怒っている。ついでにスライムぶつけようと思っていたのにそれが叶わなかったことにも怒っていると。


「理不尽な……」

 僕の呟きもまるで気にせず、にっと笑ってみさきは言った。


「まあ、来てくれたし!おーるおっけーということにしてしんぜよー!ほら、入ってー」

 自慢の長い黒髪をふわっとなびかせて、案内してくれる。


「うん、じゃあ、お邪魔します」

 靴を脱いで、敷居をまたぐ。

 みさきの家は古い木造の一軒家で、この町を代表する名家である。玄関には漆塗りの木材がふんだんに使われており、木の温かみと独特の厳格さが同居している。


 みさきは家が隣の、所謂ご近所さんだ。いつの頃からか懐かれて、こうしてよく一緒に遊んでいる。小学生と遊ぶのもどうなんだという気がしなくもないが、年が6つほど離れているので感覚としては手がかかる妹みたいなものである。


 居間に入ると「おきゃくさんはすわっててー!」と言われた。みさきの母親の真似だろうか。台所にぱたぱたと向かっていった。

「そういえば、まさにぃはなんでおそかったのー?」


「おばあちゃんのお見舞いに行ってたんだ」


「おばあちゃん、元気だった?」


「今日はずっと寝ててお話出来なかったんだ」


「そっかー、早く良くなるといいね」


「そうだね」

 本当に、と呟く前に、みさきが麦茶を載せたトレーをもってきた。


「言ってくれれば手伝ったのに」


「いーの、おきゃくさんはすわってるの」

 トレーを置いて、麦茶が入ったコップを僕に渡す。カランと氷の音がした。


「ではお言葉に甘えて。いただきます」

 十分に冷えた麦茶が喉を通る。この家の雰囲気や視覚的な要素も手伝ってか、麦茶自体が特別なのか、みさき家の麦茶はうまい。

 蒸し暑い中を歩いてきたこともあって、一気に全部飲んでしまった。


「ふふー、美味しい?」

 麦茶を飲む様子をまじまじと見つめられる。

 丸い目が好奇心に満ちている。


「美味しいよ。風情があるからってのもあると思うけど、うん、格別だ。なにか工夫があるのかな?」


「さあー。わたしは冷蔵庫にあった麦茶をコップに注いだだけですのでー」


「ははっ、それもそうか」


「お代わりはいかがかねー?」


「あ、じゃあもらおうかな」


「冷蔵庫にあるよ」


「……お代わりはセルフなんだね」

 小学生に甘えっぱなしも体裁が良くないし、妥当と言えば妥当である。

 とはいえ、麦茶のためにわざわざ人様の家の冷蔵庫を開けるのは気が引ける。予定を訊いておくことにした。


「これから七夕祭りに行くの?」


「んー、あついし、夕方になってからでいいかなー」


「そうだね、出店とかも本格的に始まるのはそれくらいだし。――あれ、じゃあなんで僕は昼に呼び出されたの?」


「それまでひまだから!」


「さようですか……」

 横暴なのは今に始まったことではない。

 それにそうやって振り回されるのは嫌いではないし、だからこうして遊びに付き合っている。


 それから僕らはいつも通り遊びに興じた。

 遊びはもっぱらテレビゲームか人生ゲームを行う。今日は人生ゲームの気分だったらしい。

 ゲームの中盤でこんなことがあった。

「まさにぃのターンだね。……あ、『妻に逃げられる。慰謝料として500万円を支払う』だって!」


「……うん」

 ちょっと微妙な心持ちになりながら手持ちの紙幣と盤上で車に乗っていた自分の妻のピンをみさきに渡した。


「ねえ、まさにぃ。この奥さん、なんでいなくなっちゃったのかな?」

 みさきが表情が読めない顔で言った。


「さあ、人生色々あるからね。あと、ゲームだし、これ」

 無難な返答をしながらも内心はドキドキしながら、この答えづらい話題が終わるのを待っていた。


「色々あったらふうふをやめたくなるの?いっしょにのりこえていくんじゃないの?」

 納得ができないのか食い下がってくるみさき。


「それも含めて色々なんじゃないかな。一緒にやっていけないって思うこともあるんだよ。夫婦である前に人間だから」

 僕は分からないなりに答える。

 すると、みさきはつまらなさそうに「ふーん」と言った。

「私ならそんなことしないのに」と呟いたのが聴こえたが、あえてそれに答えることはしなかった。


 15時を過ぎたあたりでみさきの母親が帰ってきた。

「ただいまー!あら、まさくん!いらっしゃい!」

 みさきの母親もみさきに似て、常に語気に!が付いてそうなはきはきした喋りをする。いや、それは逆でみさきが母親に似たのだろう。


「おかーさん、おかえり!」

「お邪魔してます」


「外暑いわねー。暑い上に蒸し蒸しして嫌になっちゃうわ。麦茶麦茶〜」

 居間にいる僕らに向けた盛大な独り言を言いながら、台所へ向かうみさき母。


「お母さん、着替えるの手伝って!」


「あらあら、帰宅早々気が早いのね。ちょっと待ってねー」

 冷蔵庫を開閉する音が聞こえる。

 麦茶を入れているのだろう。


「ん?着替えるの?」

 僕はみさきに訊ねた。


「今日は!まさにぃを!のーさつしちゃうよ!」

 なぜか文節で区切りながら、みさきはむふーと胸を張った。


「そっか、楽しみにしてるよ」

 そんな言葉どこで覚えたんだろうと思いながら、頷いた。


「よゆーなのも今のうちだー!そのまぬけづらをさらにまぬけにしてやるぜー!」


「なにそのテンション……」

 僕がツッコむも、気にせずにバタバタと2階の自室に駆けていった。と思いきや、またバタバタと帰ってきた。

「忘れ物した?」


「言いわすれだ!のぞいたらはちのすにしてやるぜ!」


「覗かないよ」


「よーし、いい子だ!」

 再び騒々しく自室に戻った。

 居間の隅にまとめてある新聞から昨日の分を取り出して、テレビ欄を見た。ハリウッド映画をやっていたらしい。


「ごめんなさいね、あの子ったら影響されやすくて」

 みさき母が半笑いで謝る。少しツボに入ったのだろう。


「いえ、構いませんよ。年頃の女の子なので、テンションが上がってアメリカンな罵倒をすることくらいありますよ」

 言いながら、あるかなあと思った。多分年頃の女の子は関係ないなあとも思った


「あの子をお願いね」


「あ、はい、なるべく早い時間に――」


「あら、そうじゃなくてね」

 ふふっと含みのある笑いをしながら、みさき母が手を振った。

「ほら、ともかくあの子、見た目通り頑固だから言っても聞かないところとかもあると思うけど、まさくんには素直で意外と――」


「おかーさーん、まだー?」

 2階から呼びかけられる。


「あらあら、いかなくちゃ。せっかくまさくんが選んでくれた浴衣だものね。それでは、お楽しみにー」

 みさき母は最後までニヤニヤと笑みを浮かべたまま、去っていった。

「今すぐ行くから首を洗って待ってなさーい!」

 2階へ向かうみさき母の声が聴こえた。


「ノリノリじゃねぇかよ」

 独りごちるも聴く人は誰もいない。急にぱったりと静かになる。

 お願い、ねえ……。

 先のみさき母の言葉を反芻する。

 お願いは期待に変換され、重くのしかかる。

 僕は本来このお願いを受けられる立場ではない。

 ここにいる立場でもない。


 なぜなら僕はみさき母が知る“まさくん”でも、みさきが知る“まさにぃ”でもない――


僕は、全くの別人だからだ。




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 待つこと十分弱。現れたのは浴衣姿のみさきだった。

「じゃーん!!」


「おおー」

 みさきは着替えてから、いの一番に僕に見せにきた。

 黄色の生地に赤い金魚が泳いでいる意匠が施された、可愛いらしい浴衣。

 普段のみさきに近いイメージの色ではあるが、紺色の帯が印象をぐっと引き締め、どこか上品な雰囲気を感じる。

 それがみさき自身の華やかさとマッチして、非常に魅力を引き立てていた。


 髪も結ってもらったのか、お団子状にしていた。普段の長い黒髪もそれはそれで利発さがあってよかったが、髪を上げたことによって大人っぽいテイストに仕上がっている。


「可愛いでしょ?」

 薄く化粧をしているのか、そう訊ねる表情に新鮮さを感じる。いや違うな。

 新鮮さを感じたのは、今まで見たことがない――期待に胸を膨らませる女の子の顔をしていたからだと思う。

 僕は――


「うん、すごく似合ってるよ。とてもいいと思う」

 僕はできる限り誠実に応えた。


「だってよー?褒められちゃったねー、やったねー!」

 後ろで聴いていたみさき母がはしゃぐ。


「うん!お母さんのおかげだね!ありがと!」

 みさきがそれに笑い返すも、切り替わる前の一瞬の表情が落胆の色を帯びていたのを僕は見てしまった。


 僕は内心で「ごめんね」と謝る。

 僕が君を“可愛い”と褒めるのは簡単なんだけど、それを言う資格は僕にないんだ。

 僕は“まさにぃ”ではないから。

“まさにぃ”の代替品だから――。


 少し重い気分になるも気を取り直して声をかける。

「じゃあ行こうか」


「うん!」

 みさきはにっと屈託のない笑みを浮かべて、頷いた。




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 七夕祭りは七夕とうちの町の伝承を絡めた、結構な由緒と歴史があるお祭りだが、その詳しい背景を知る人はほとんどいないだろう。僕も知らない。

 形だけが残った現在は町中から集めた短冊を吊るした笹と、ちょっとしたイベントや出店があるのみである。

 出店が所狭しと整列している神社前の通路には、この小さな町にこんなに人がいたのかと少し驚くくらいの人でごった返していた。


「思ってたより人が多いね」


「そうかなー?毎年、こんなかんじだったと思うよー」

 7月の初旬ということもあってか、夕方に差し掛かっているのに辺りはまだ明るい。

 そんな明るい中でも我こそはと主張せんばかりに電球を光らせている出店に目を向ける。


「それじゃあ出店でも見ていく?」


「え、その前に短冊に願い事を書いておかないと締め切られちゃうよ?」


「あぁ、そうだったね。なら短冊を書きに行こうか。えっと、受付は……」


「もー、まさにぃ、ぼけてるの?いつも神社で書いてるじゃん」


「はは……」

 知識がないことがバレそうになり、冷や汗をかきながら笑って誤魔化す。


「ほらいくよー」

 そんな様子を知ってか知らずか、みさきが僕の手を握った。

 神社の境内に行くためには立ち並ぶ出店の間に密集する人の群れを突っ切っていくのが最短だ。

 僕と手を繋いだまま、みさきが先陣を切っていく。

 一瞬だけ同じように祖母が人混みの中で手を引いてくれた光景がフラッシュバックし、なんだかとても懐かしい気持ちになりながら歩く。

 人と人との密度が高いせいで間をすり抜けるようにして、移動を行う。体格の利か、元々器用なのか、みさきの先導の下、人の波をくぐり抜けて、比較的通りやすいルートを通っていく。


「とうちゃーく!」

 多少もみくちゃになりながらも、なんとか密集地帯を抜けて、沿道で一息ついた。

「ふぅ……助かったよ。ありがとう」

 僕はTシャツのシワを直しながら、感謝を述べる。

 みさきを見るとありがとうと言われたのが嬉しいのか、にへらっと笑って「こんなの晩飯前だよ」と言っていた。

 確かに現在は夕方で、夜ご飯は後で出店で食べることを考えると間違ってはいない気がした。


「あ、浴衣……」

 あんな人混みの中を歩いたので当然と言えば当然なのだが、みさきの浴衣が少し着崩れていた。


「え、どれどれ〜」

「ちょっと動かないでね」

 着崩れを目視するために身体を捻ろうとしたみさきを制しながら、衿元が緩んでいることを確認した。

「そのままじっとしててね」


「うん、わかっ――ひゃあ!」

 脇部分に縫い合わされていない隙間がある。僕は背後に回って、そこに手を入れた。そのまま指を潜らせ、胸部分の内側の生地に触れた。


「ここをこうして――」

「ちょ、まさに、ぃ……」

「これを」

「ゃ――」

「こうだな」

「ん、ぁ――」

 中心から外れないようにして調整しつつ、ズレの原因であった余った部分の布を帯にしまい込む。初めてだったので少し手間取ってしまい、みさきの身体に手が擦れてしまったが、なんとか成功した。

 膝をついて後ろから抱きしめるような体勢を戻しつつ、脇から手を引く。


「みさきちゃん、終わっ――」

 たよ、と言い切る前に、振り返ったみさきから張り手が飛んできた。横ではなく、前から。

 ちょうど相撲取りが突っ張りをするような形でみさきの手のひらが僕の鼻柱に直撃した。


「――あぐっ!」


「まさにぃの――」

 視界が眩むようなダメージから立て直して、みさきを見る。胸元を隠すようにしながら、顔を真っ赤にして、羞恥からか目には涙を浮かべていた。


「むっつりえろすけべ大魔神!!」




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 みさきから“むっつりえろすけべ大魔神”の烙印を押された僕は、みさきに着いていく形で神社への階段を登っていた。

 先ほどのやりとりの一部始終を見ていた人もいるのか、それとも顔面に真っ赤な手形をつけていることが不審なのか、なんだか周囲の目線が冷たい気がする。


「……みさきちゃん?」


「…………」


「えっと……」

 僕に張り手を加えてからずっとこんな調子だ。僕の先を登っているため、こちらから顔も見えない。そうこうしているうちに階段を登りきってしまう。

 境内に着いたところでみさきがこっちを向いた。

「あの……――さっきはごめんなさい!」


「うん、――うん?」


「その、着物!ぐちゃってなってたところをなおしてくれただけなのに、たたいちゃってごめんね」

 ぺこりと頭を下げるみさき。


「はは、いいんだよ。僕も事前になにをすべきか言うべきだったし、着崩れを直したいだけだったことが分かってくれたならそれでいいよ」


「うん、そうだよね。まさかまさにぃが、しょうがくせー相手にえっちな気持ちをもつはずなんてないもんね」


「もちろん」

 言わぬが花、語らなければ落ちない。

 顔を真っ赤にして涙目だったの、正直めっちゃ可愛かったとか思ってはいないので、そのまま頷く。


「ここだけの話、『 そんなにみさきにつきあってくれるなんて、そのおにいさん、ろりこんさんなんじゃないの?』ってクラスのともだちから言われたから、ちょっと心配になっちゃった」


「…………」

 おい“まさにぃ”、あんた小学生からロリコンだって疑われてるぞ。ていうか、小学生がロリコンって知ってるものなんだな……あ、僕はそういうのではないです。


「でもねでもね、わたしは別にまさにぃがろりこんさんでもいいと思うの」


「まさかの肯定……!?」

 予想外の返事にツッコむも、みさきの表情を見て――それが冗談でないことを知る。


「だってろりこんさんなら私のことも好きになってくれるかもしれないでしょ」


 憂いを帯びた、それでいて真剣な目。

 その瞬間、『ああ、本気なんだな』と他人事のように理解した。

 いや、実際他人事なのだ。僕は“まさにぃ”ではないのだから。


 胸が詰まる。吐きそうだ。


 どう答えるべきだ?

“まさにぃ”として答えるべきか、それとも僕自身の答えを言うべきか。

 ――……ああ、目的は1つだ。なら回答の道筋も決まっている。


「残念ながら、僕はろりこんさんじゃないよ。僕は――」

 目を逸らしながら続ける。


「僕は、ただのおばあちゃんっ子だからね」


 しばしの沈黙。

「……え、まさにぃは、枯れ専さんなの?」


「だからそういう言葉、どこで覚えてくるかなあ!」

 今度こそしっかりツッコんだ。


「そんな……まさかまさにぃがろりこんさんじゃなくて、ぐらこんさんだったなんて!」


「しかも新しい略語を作るんじゃない!」

 グランドマザー・コンプレックス。略してグラコン。いや僕が知らないだけで、もうあるのかもしれないけど。


 そんな風に冗談風味に誤魔化したが、回避不能な事態が迫っているのを思い出すのにそう時間はかからなった。


 それは神社で短冊を書き終わり、笹に括りつけている時だった。

「なんてお願いしたの?」


「えー、ナイショだよー」

 照れ笑いしながらみさきが短冊を背に隠す。

 しかし小さな手と背中からはみ出した短冊からは断片的に単語が見える。


“大好”

“まさにぃ”

“っと”

“になりますように”


 おそらく元の文章は

“大好きなまさにぃとずっと一緒になりますように”

 だろうと推測する。


 僕にとって非常に気が重い話ではあるが、みさきは本気の本気で“まさにぃ”のことが好きなのだろう。

 そのことと、短冊から連想した――7月7日で重要なことを思い出した。


 僕の記憶が正しければ――


 2018年7月7日。

 その日は“まさにぃ”とみさきがお互いの気持ちを伝えた日だった。




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 辺りは薄暗くなり、七夕祭りは盛大な盛り上がりを見せていた。神社境内のイベント会場では地元の太鼓チームが力強い演奏を披露していた。

 僕らはそれを直接見ることはせずに、階段下に戻っていた。


「ごはんだーーー!!」


「おー」


「われはくーふくだーーー!!」


「おー」


「出店のりょうり、ぜんぶ食べつくすぞーーー!!」


「いやそれはちょっと」

 楽しくなってノッていたが、それは勘弁だ。

 第一、いかに小さな町のちょっとした出店群とはいえ、全部食べ尽くすのは無理だろう。


「まさにぃ、ノリが悪いなあ。そこは気持ちで勝ちにいかないと!」


「いや祭りだから。勝ち負けとかはないよ 」


「あまいよ!出店のわたがしくらいあまい!人はつねに自分と戦ってるんだよ!あ、わたがし食べたい!!」

 ちょっといいこと風なことを言ったと思ったら、ふらふらとわたがし屋台に寄っていくみさき。

 速攻自分に負けてるじゃねえか。


「出店、回るのはいいけど、“お焚き上げ”には間に合うようにしようね」

 おそらくわたがしに夢中で聴いてないだろうが、念の為みさきに言った。


“お焚き上げ”とは七夕祭りを〆るクライマックスのイベントだ。

 今日僕達が神社で吊るした笹や町中から集めた笹を短冊ごと一気に火にかける、なかなか豪勢なイベントだ。


 元々そういうものだっけかと似非っぽさを感じるが、この土地の伝承と七夕がちゃんぽんになっている時点でオリジナルのようなものだろう。そもそも正しくは短冊って七夕の朝までに吊るすものだし。


 そんなことを考えていると、みさきがキャラクターがデザインされた袋をもって走ってきた。

「わたがし買ってきたよ!」


「早い……」


「はい、あげる!」

 おもむろに袋に手を突っ込んで掴んだわたがしを僕に渡す。


「ありがとう……うわ、手がべたべたする」


「私もー。べたべたー」


「これは最初に買うべきじゃなかったかもね……」


「いつ買っても手はべたべたするよね」


「わたがしの食べ頃が分からない……」

 最終的にお箸を使えばいいじゃないということになり、お箸がもらえそうな出店に行こうということになった。


「なにが食べたい?」


「地中海風パスタ!」


「焼きそばだね」

 先程よりは人混みも緩和され、ゆとりをもって歩けるようになったので、みさきと並んで歩く。

 目的地にはすぐに着いた。


「お、井口のとこの坊ちゃん、久しぶりじゃねぇか!」

 焼きそばを売っている、ガテン系な風貌をした、いかにもといった感じのおじさんから声をかけられる。


「お久しぶりです。焼きそば1つもらえますか?あと、すいません、お箸少し多めにください」


「はいよー」

 おじさんの筋肉から繰り出される圧倒的ヘラ捌きでパックに焼きそばが詰められる。

「まあ、お嬢ちゃんとうまくやんなよ」という謎の一言と共に紅ショウガを大盛りにしてくれた。正直どっちも余計なお世話だった。


「ありがとうございます」とお礼を言って、焼きそばを受け取り、隣を見る。みさきがいなくなっていた。

 まさかはぐれたか!?と一瞬焦るも、振り返るとたくさんの袋をもったみさきが走ってきた。


「そんなに買ったの?」


「町内会のおばちゃんからもらった!」


「おおー」


「『井口のお坊っちゃんと2人で仲良く食べなさい』だって!」


「…………」

 田舎にプライバシーなし、という言葉が脳裏を過ぎていった。


 適当な椅子を探し、互いが両端に座って、真ん中に貰ったものや買った焼きそばを広げる。

 焼き鳥12種類、お好み焼き、たこ焼き、じゃがバター、はし焼き、フライドチキン、焼きおにぎり、フライドポテト、肉まん、クレープetc.

 椅子のスペースに入りきれないほどの品数と量が並んだ。


「……多っ!」


「すごくたくさんもらっちゃった……」

 想定していた量より多かったのか、みさきが戦慄していた。


「田舎の施し、恐るべし……」


「まさにぃ、どうしよう、これ全部食べられないよ……?」


「まあ、食べるものだけ先にとって、あとは町内会テントで酔っ払ってる人達にあげようか」

 というか、この量を考えるに町内会テントにいる人々のおつかいに頼まれてた分をそのままみさきに横流しした可能性があるなと思った。


「ねえねえ、もしかしてこの数、出店の品全種類だったりするかな?」


「うん、全部あってもおかしくないと思う」


「…………。なにごともほどほどがいちばんだって分かりました」


「分かればよろしい」

 奇しくも“全出店制覇”宣言が近い状況で叶うもいざ物量を目にすると怯むみさき。うん、まあ、これはしょうがないと思う……。


 買った焼きそばは2人で半分にしつつ、気になった焼き鳥やフライドポテトなどを摘んで、あとは袋に直した。


「ふうー、おなかいっぱい!」


「うん、贅沢させてもらいました」

 僕にティッシュで口を拭きながら、答えた。ついでにみさきにもティッシュを渡す。


「さて、この大量の食料を町内会に返しても“お焚き上げ”には時間があるけど、どうする?」


「んー……。あ!かき氷食べてない!」


「え、まだ食べるの……」


「かき氷は氷だから!飲み物だよ?」


「いや飲み物ではないと思うけど……」

 でもあれ氷だし、食べてるかと言われたら微妙なラインだなと妙に納得してしまった。


 大量の食料を町内会テントに持っていった後、かき氷の出店に寄った。

「井口のお坊っちゃんとみさきの嬢ちゃん!いらっしゃーい!」

 かき氷を削る、ガテン系な風貌をした、いかにもといった感じのおじさんから声をかけられる。


「かき氷、2つください」


「はいよー!」

 おじさんの筋肉から繰り出される圧倒的砕氷の前ににあっという間にカップに氷が積もる。

 ……手回し型のかき氷機ってまだ実在したんだな。


「まあ、二人とも上手くやんな。特別にシロップはかけ放題にしてやろう」

 こっちは普通に嬉しい。

 倍プッシュされた紅ショウガの風味が蘇る。

 なんとく口の中が赤い気がする。


「あ、じゃあブルーハワイで」

 赤い色を中和するために青い色を選んだんだけど、よく考えたらそれ紫になるような気がする。

 まあいいかと思って、僕は青いパッケージのシロップを手に取る。よく聴く豆知識で、かき氷のシロップはいちごやメロンなど様々な種類があるが、実は色と香りが違うだけで全部同じ味だというがっかり系雑学がある。


 人もおなじように、案外見かけと雰囲気だけで、肝心の中身が違ってようが同じだろうが、気付かないものなのかなとか思う。

 まるで僕自身と“まさにぃ”のようだ、なんて思ってはいない。

 僕は――


「あれ、みさきちゃん?食べないの?」

 シロップを眺めて、どこかぼーっとしているみさきに声をかける。


「う、うん、食べるよ」

 みさきはハッとしたようにシロップを選び出した。

 どうやらいちごのシロップにするらしい。


「大丈夫?眠くなってきた?」


「ううん、平気だよ!ただ、ちょっと考え事してて……」


「ふうん?」

 僕はかき氷を食べながら、今後に思いを巡らせる。

 この後は七夕祭りのクライマックスである“お焚き上げ”だ。


 おそらくその際に僕はみさきに告白されるだろう。


 その時の答えはもう決まっている。

“まさにぃ”こと井口雅治の身体を借りてまでやりたかったこと。

 僕が今ここにいる理由。


 僕は――


 僕はみさきを振るためにここにいるのだ。




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 音とは空気の振動だ。

 光とは電磁波だ。


 単なる文字情報として見ればそれ以上でもそれ以下でもない。


 衆人環視の下、中央から十分な距離が取られ、ぐるりと取り囲むように太鼓が配置されている。

 太鼓の側には叩き手が文鎮のように息を殺していた。


 太鼓同士はちょうど対角線になっている。

 全ての対角線を結んだその中点には丸太を組んだ井桁がある。


 静寂に包まれている。

 固唾を飲むことさえも許されない、そんな張り詰めた弓のような空気が境内一帯を支配していた。


 そして、それを打ち破るように




 ――井桁が燃え盛り、太鼓が鳴った。




“お焚き上げ”が始まった。


 太鼓は川の濁流のように連続的なリズムを鳴らしている。


 ドドドドドドドド――


 その鳴動は大地のそれを連想させる。

 腹の底に響いてくるような――命脈を思わせる響きだった。


 井桁はその空気の振動にゆられながら、酸素を喰らい、燃焼を続ける。

 ゆらめく炎は獲物を待ち続ける獣に似ていた。

 その時が訪れる。


 幾人もの願いを託された笹が井桁に放られ、一瞬にして燃え上がり――逆巻く炎の柱が形成された。



 それは一転して人々の願望を昇華する光の奔流のようだった。



 人々は超自然的な現象を目の当たりにしているかのように、一連の出来事をただ眺めていた。


 音とは空気の振動だ。

 光とは電磁波だ。


 単なる文字情報として見ればそれ以上でもそれ以下でもない。


 しかし、その意味合い以上の何かを今この瞬間、この場所で全員が感じ取っていた。




「まさにぃ――、あのね、言いたいことがあるの」


「なに、かな」


 互いに目の前の光景から目を離さないままに話した。


「自分でもよくわからないし、もしかするとまさにぃはおこるかもしれないんだけどね」


 更に追加で笹が運ばれてくる。

 その笹は今日みさきと一緒に短冊を吊るした笹だと直感した。


「でも言わなきゃいけないの。そうなければ前に進めないから」


 笹が放られる。

 遠慮会釈なしに炎がそれを舐めとった。


 世界がスローになったように、ある1枚の短冊が目に付いた。


 みさきの短冊だ。


“大好”

“まさにぃ”

“っと”

“になりますように”


 これらの断片から僕は短冊にある文章は


“大好きなまさにぃとずっと一緒になりますように”


 だと推測した。

 しかし実際に書かれてあった文章はこうだ。



“大好きだったまさにぃがきっと元通りになりますように”



 短冊は焼かれて塵となった。

 みさきははっきりとこっちを見て、訊ねた。




「ねぇ、まさにぃ――あなたは誰ですか?」





 ----------------------



「全部ちっちゃなことの積み重ねだったの。

 最初は麦茶のお代わりのこと。

 あなたはお代わりが欲しいって言ったのに、あの後冷蔵庫に取りに行かなかったよね。

 いつものまさにぃなら冷蔵庫から勝手に出して飲んでたはずなのに」


“とはいえ、麦茶のためにわざわざ人様の家の冷蔵庫を開けるのは気が引ける。”


「次に着物に着替える時。

 あなたは「着替えるの?」と訊ねたけど、まさにぃなら今日着物を着ることは知っていたはずなんだよ。

 だって着物を選んだのはまさにぃだったから」


“『あらあら、いかなくちゃ。せっかくまさくんが選んでくれた着物だものね。それでは、お楽しみにー』”


「思い返せば気になるところはまだあるけど。

 ここまではわすれていたり、調子が悪いのかなって思ってた。けどみすごせないところが2つあったの。

 1つはかき氷の味。

 まさにぃはかき氷は必ずいちご味なの。それ以外はみとめないとか言ってた。なのに今日は何も言わずにブルーハワイを選んだ」


“まあいいかと思って、僕は青いパッケージのシロップを手に取る。”


「最後がいちばん大きな理由。

 まさにぃはいつも私の目を見て私を褒めてくれるの。まさにぃはね、私と話す時に――」


“僕は内心で「ごめんね」と謝る”

“僕にとって非常に気が重い話ではあるが”

“いや、実際他人事なのだ。僕は“まさにぃ”ではないのだから。 胸が詰まる。吐きそうだ”



「――そんな泣きそうで辛そうな顔はしないよ」



 ------------------



 僕は呆然とみさきの顔を眺めていた。

 胸に渦巻いていたのは“まさにぃ”ではないと見破られたことへの驚きと、嬉しさだった。


“お焚き上げ”の光と音がどこか遠くに感じる。


「やっぱりみさきちゃんにはお見通しだね――」

 僕は息を吐いた。


 みさきが何も言わずにこちらを見つめている。


 僕は全てを話す覚悟を決めた。


「まずは見つけてくれてありがとう。みさきちゃん――いや、おばあちゃん」


「え、おばあちゃん……?」

 唐突に発せられた呼び名に困惑するみさき。

 まあ、みさき自身はどうせ忘れてしまうのだし、考えることによっていい結果が生まれるかもしれない。


「僕はこの井口雅治の身体を借りて、あなたに接触した。井口雅治、これは僕のおじいちゃんの名前だ。そして、井口トヨ、これは僕のおばあちゃんの名前だよ」

 一呼吸置いて続ける。


「井口トヨ、旧姓――みさきトヨ。君のことだよ、みさきちゃん」


「…………」

 状況がよく飲み込めていないのか、困惑した表情をしているみさき。


 それはそうだろう。

 特に“潜られる”側にとっては。



「僕はね――みさきちゃんの現実を否定しに来たんだよ 」



 ----------



 4ヶ月前、祖母が倒れた。

 脳血栓の異常──脳梗塞によって意識不明の状態で発見された。手術の結果、幸い命に別状はなかったが、脳へダメージが酷く、遷延性意識障害――重度の昏睡状態に陥っていた。


 医者の説明によると、今の祖母の脳へのダメージは組織細胞そのものの損傷よりも――自己と記憶の接続が問題であるとのことだった


 一般的に人は生きていくことと同時並行で記憶を蓄積する。

 認識した出来事は記憶として自動的に過去の記憶に積み上げられる。

 人は物心がついた時から記憶を塔のように積み重ねていく。

 時系列という概念だ。


 祖母は脳梗塞の後遺症によって、その“時系列”を認識する機能に傷がついてしまった。

 それは積み上げられた記憶の塔が崩され、どれが最新であるか区別がつかなくなってしまった状態であり、言い換えれば――区別をつける方法を失ってしまったのだ。それにより、記憶の中のどの時点の自分が現在の自己であるか分からなくなっている。


 記憶を想起する優先価値として“新しい⇔古い”のほかに“重要⇔些細”という基準がある。

 祖母は“新しい⇔古い”という判断基準を失ってしまったので、“重要”だと判断した記憶と自己を結びつけつつあった。


 その1つが2018年7月7日、井口雅治――僕のおじいちゃんにあたる人に告白し、付き合い始めた日だ。


 しかし、ここで問題なのは“重要”だと判断する記憶が1つとは限らないことだ。

 学校を卒業した日、結婚した日、就職をした日、子供を産んだ日――もちろんイベントがない何気無い日でさえ、“重要”であると判断する可能性がある。

 その全てを現在自己と結びつけた場合、人間は仮想マシンのような器用な真似は出来ないため、意識を覚ますことができない。このままでは祖母は一生目覚めることは無い。


 目覚めさせるためには祖母の中の“新しい”“古い”という物差しを復旧させる必要があった。


 そこで僕の出番だ。


 昏睡状態の祖母は常に自己と記憶のマッチングを行うために、“重要”であると判断した記憶を想起している。


 僕の仕事は想起される記憶に介入し、祖母の中にある元々の記憶と想起する記憶を一致させないことである。


 例えば、2018年7月7日。

 祖母はこの日七夕祭りを楽しみ、まさにぃに気持ちを伝え、晴れて付き合うことになる。

 これが正しい記憶である。


 しかし、僕はその想起する記憶に介入することで、思い出す記憶と正しい記憶と別のものにするのが狙いだ。

 僕は七夕祭りの最後、“みさきちゃん”の告白を断ることでそれを成そうとしていた。


 そうすることによって“想起された偽の記憶”と“元からあった記憶”――どちらが“正しい記憶”なのかを祖母の脳は判断せざるを得なくなる。


 その判断に欠かせないのが“整合性”である。

 例えばみさきに告白されてそれを断ったとする。


 するとそこから“井口雅治と付き合わなかった記憶”が《 新しく》生成され始める。

“井口雅治と付き合わなかった”という事実に基づいて生成される記憶は2018年7月7日以降の記憶と延々に乖離し始める。


“新しく生成された記憶”は生成され始めた地点から延々と“元からある記憶”と食い違っていくのだ。

 そして、脳はそんなダブルスタンダードを許容できない。


 この食い違いはなにか。

 この“新しく生成させ続ける記憶”はなにか。

 ――“新しい”とはなにか。



 それらの矛盾・疑問を処理せざるを得ないのだ。


 その矛盾を処理しきって、結果的に脳が“時系列”を取り戻し、意識が戻るのではないか。

 それが現在、井口トヨに行われている治療法の着想だ。

 もちろんこれは井口トヨの脳内だけで行われるものではなく、最新医療のアシストがあってのものだ。

 わざわざ僕の――人間の介入が必要だったのも脳が“現実で起こったものだと許容する範囲内”という極めて微妙なラインを感じとる必要があったからだ。

 だからわざわざ“まさにぃ”として動く必要があったのだ。

 最初から知らない人物がいたのでは“許容する範囲内”を超えてしまうからだ。


 しかしまさか――告白をされないどころか正体を疑われてしまうとは思ってもいなかったのだが。



 長々と説明したが、つまり一言でまとめると、僕がトヨおばあちゃんの記憶の中に入って、記憶と異なる出来事を起こすことで矛盾を起こして、目を覚まさせようという試みだったということだ。




 -------------



「なんて、こんな説明じゃなにがなんだか分からないと思うけどね」

“お焚き上げ”はとっくに終了しており、人はまばらに散っている。

 七夕祭りは終わりを迎えた。


「…………」

 みさきは真顔で今の話を受け止めていた。幼い頭で今の話を理解しようとしているのだろうか。


「分からなくてもいい。ただ、僕はトヨおばあちゃんが目覚めるまで何度でもやろうと思う。みさきちゃんには酷な話だと思うけどね」


「えっと……」

 ようやくみさきが口を開く。

「じゃあ、まさにぃはまさにぃじゃなくて、まさにぃと私の……えっと、こどものこどもってこと?」


「そう、僕は君の孫だ」

 こんな幼い女の子におばあちゃんなんて言うのは気が引けるが、事実そうだ。


「まさにぃが孫……」

 みさきがわなわなと震えていた。

 まあ、たしかに想い人の中身が実は孫だったなんてのはぶっ飛んでると思う。


「トヨおばあちゃん」


「ぎゃーーー!」

 試しに呼んでみたら、聖水をかけられた悪魔みたいな反応をされた。


「トヨおばあちゃん、暗くなってきたし帰ろうか」


「やめてー!まだぴちぴちの小学生なの!」


「だって僕にとっては事実そうなんだよ」


「うーうー!チェンジ!チェンジをしょもーする!」


「じゃあ、トヨ」

 名前を呼ぶと今度は違う意味で泣きそうな顔をした。

 みさきは下の名前で呼ばれることを嫌う。いい名前だと思うけど。


「だって、それこそおばあちゃんみたいな名前でしょ」


「そうかな」


 トヨには“富与”と漢字をあてる。

 名家らしくて、思いが詰まった名前だと思う。

 けどみさきは気に入らないらしく、周りには苗字で呼ばせている。


「おばあちゃんみたいな名前が嫌だって思ってたら、まさか本当におばあちゃんになるなんて」


「いやまあ、いつかはなるだろうけどね?」


「小学生おばあちゃん……」

 うわああと頭を抱えていた。

 そんな様子を眺めて少し笑ってしまう。


「なに笑ってるの!」


「いやさ、僕が知らないだけでトヨおばあちゃんにも子供の頃があったのかって」


「私もそんなおばあちゃんになった私なんて知らないよ……」

 そうは言いながらもみさきもこの奇妙な会話のシュールさにジワジワきたのだろう。

 気がつけば2人して一斉にお腹を抱えて笑っていた。

 一通り笑いやんで、僕は言った。



「じゃあみさきちゃん、そろそろ時間みたいだ」


“元々の記憶”から決定的に違わせるという目標は達成したし、僕のほうもそろそろ限界みたいだ。

 意識の接続が上手くいかなくなってきたのか、視界がちらちらとブラックアウトしかけている。


「ねぇ、最後にもういっこしつもん」


「ん?」





「――“私”はきえちゃうの?」






「…………」

 それは最も訊かれたくない、そして考えないようにしていた質問だった。


 この世界は“元々の記憶”から逸脱して派生した“偽りの記憶”だ。植え付けられた誤植のようなもので、脳が“偽りの記憶”であると認識した時点で修正される。この派生した世界は――“終末”し、消える。


 つまり、今日僕と出会ってから今この瞬間の“みさき”は、みさきの脳からは偽物として“修正”され無かったことにされる。


 この治療法が上手くいってトヨおばあちゃんが目覚めたとしても、そこに今話している“みさき”の記憶はない、ということだ。


 僕はこの治療法に協力するのは初めてではない。

 つまり、これまで何度も間接的にでも“岬 富与”という存在を自ら選択してきたことになる。


 沈黙を肯定と受け取ったのか、みさきは失意に叩き落とされたような顔をした。

「やだ……やだよう、そんなのって……」


「…………」


 先程とは一転して、みさきは身体を震わせて叫んだ。――泣いていた。

「まだやりたいこともなりたいものも沢山ある!

 可愛い洋服だって沢山着たいし、中学生になって、部活もしたい!来年だってまた七夕祭りに来たい!!

 なにより、まさにぃに――


 まさにぃにまだ好きって言ってない!」


「ッ――!!!」

 僕は堪らずにみさきを抱きしめた。

 そんな資格なんてない。

 そんな権利なんてない。

 僕がこの子を殺すんだ。

 自ら選択して。

 未来を奪って。

“みさき”を殺すんだ。


「やだよぅ……そんなの……やだ……」


「みさき……」

 泣きじゃくるみさきに僕は語りかける。

 僕は僕が知っていることしか話せない。

 だから僕は“岬 富与”が僕にとってどういう存在だったかを伝えた。


「岬富与は――トヨおばあちゃんは立派な人なんだ。自分に厳しくて他人に優しい、自分の幸せより周囲の幸せのために動く。聡明で凛として……でも常に穏やかに笑っている!だから誰からも好かれるそんな人で!!……僕はそんなトヨおばあちゃんが大好きなんだ」


「それは私には関係ない!私はその未来を生きられない!」

 みさきの言葉はもっともだ。その未来を奪うのは僕だ。僕が殺すんだ。

 でも、いや、だからこそ――




「……だからごめん、僕は“みさきちゃん”より“トヨおばあちゃん”を選ぶよ」




 それは決定的な一言だった。

 僕は“トヨおばあちゃん”のためにここに来た。

 例え“みさきちゃん”を殺すことになっても。

 それを選んだのは僕だから。


 僕はそっとみさきから離れた。


「――じゃあね、“みさきちゃん”」


 ふっと掠め取られるように意識がもっていかれる。

 限界のようだ。

 ぐらりと体勢が崩れるのを他人事のように知覚した。

 完全に意識が無くなるコンマ数秒前――


 まぶたが視界を覆う一瞬前――




 みさきの唇が僕の唇に触れていた。




「さよなら、“ろりこんさん”」


 僕は


 おばあちゃ


 んっ子


 だと


 はん



 ろ

 んする

 まえ



 に


 なにも

 み



 え


 な












 ――――――――――――――――――――




 目が覚めた。

 そっと唇に触れる。

 乾いた自分のそれがあるだけだった。

 そこで気づく。


「トヨおばあちゃんは!?」

 身体を起こして訊ねた。


「おかえりなさい。まだ目が覚めてませんが、活性化してきてますよ」

 看護師さんは付きっきりで僕の隣に座ってたようで、仮想ウィンドウになにかを入力した。先生を呼んだのだろう。

 病室は僕がトヨおばあちゃんの意識に“潜る”前と同じ様子だった。

 僕の状態を示すホログラフィックパネルの隅には今日の日付が表示されている。


 2089/05/07


 僕は僕の現実に帰ってきたのだ。


「……今回は大変でしたね」

 僕の様子を常にモニタリングして、チェックしていたのだろう。

 看護師さんが労りの言葉をかけてくれる。


「いえ、そんなことは……。これを選んだ時から分かっていたことです」


「そうですか、強いんですね。この治療法は性質上、家族など深く知り合っている人にしか協力してもらえないんです。出来ることならこんな痛みを背負うことなく自動化するのがいいでしょうけど……」

 看護師さんは辛そうに言った。


 元々この治療法は終末医療――ターミナルケアとして着想された技術の応用だ。

 最期の時を幸福に過ごしたいという高齢者に人生の楽しかった記憶を延々と見せつつ、その楽しい世界の中で現実世界の他者が“潜って”会いにいく。

 大半はその用途で使われる技術だ。

 僕は看護師さんの後ろにある、医療用器具然とした冷蔵庫のような装置を眺める。

 平たくいえば、人生を諦めた人へ苦痛を麻痺させ、楽しい夢を見せる道具である。

 それを応用したのがこの治療法だ。


 でも僕はこれがむしろ正しい使い方のような気がしている。

 選択することは辛くて、現実は厳しい。

 でもそれが生きるための選択であるならば辛いのを受け入れて、厳しさに耐えなければいけない。


 僕は――トヨおばあちゃんに会って話がしたい。


 病室ではないどこか。

 炎天下の暑い沿道でも、神社の境内でもいい。

 あの木造りの実家が落ち着くかもしれない。

 麦茶を飲みながらというのも悪くない。


 そんなことを考えながら――


 話がしたいと、そう思った。



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