ベクション
【ベクション(
静止している者が、ある一定の運動パターンを見ることで、自身が逆方向に移動している感覚になること。例として、停車中の列車に乗車している時、動き出した隣の列車を見ることで乗車している列車が動いたと感じることが挙げられる。
____________
発車待ちの電車はがらんとしています。
燕脂の座席の隅で、私は膝を揃えて車窓の外を眺めていました。隣の線路にごうっと電車が滑り込み、速度を緩めていきます。やがてぷしゅうと鳴って停車すると、ドアが開くのがこちらから見えました。
車両の中はそれなりに混んでいるようでした。大抵の人は青白い液晶端末に項垂れ、何人かは書籍か参考書を見たり目を閉じたりしています。皆虚ろで疲れた顔をしています。誰もホームに降りようとしません。
踏切の音が聞こえています。
やがて車窓の外の顔ぶれが、横にスライドしていきました。私を乗せた電車が動きだしたのだと思いましたが、すぐに、動いたのは向こうの電車だと気づきました。視覚情報に基づく一瞬の誤認なのに、ぐっと揺れた気になってしまい、独り気恥ずかしさが湧いて来ました。
徐々にスピードを上げていく隣の電車、疲れた人々は次々流れてゆきます。
一向に車両は途切れません。様子がおかしいと気づいて、私は席を立ちました。向こうの乗客はこの異変に気づいていないのか、それとも彼らにとってはそれが当たり前なのか、皆平然としています。いつのまにか、私の乗った電車のドアは閉まっていました。それでもこの電車が動く気配はなく、表情の欠落した乗客を乗せて、向こうの電車は流れ続けていました。
踏切の音が聞こえています。
私は彼らの注意を惹こうと手を振りました。叫びました。窓を叩きました。髪を振り乱して泣き叫んでも、彼らは私の訴えに気づくことはありません。平然としている彼らを恐ろしく思いました。連続する青白い人々は流れ去り、再び私の前に現れてはまた刹那のうちに運ばれていきます。彼らの電車がおかしい。誰も私に気づきません。誰も私を見てくれない。彼らがおかしい。私のことを見ようともしない。こんなに苦しいのに。こんなに助けて欲しいのに。
ふと顔を上げた女の子と目が合いました。女の子はほんの一瞬で流れ去りました。
私を見て、ちょうど今の私と鏡合わせのように、瞳に恐怖を刻んでいました。
私は騒ぐのを止めて立ち尽くしました。誤認が解けていく。どこからおかしくなっていたのでしょうか。
踏切の音が聞こえるのは、私が踏切の音の中に立っているからでした。
こんなに苦しいのに、助けを求めいるのは私なのに、奇妙なのは彼らではありませんでした。電車が来ます。ごうっと音を立てて。速度を緩めず。
踏切の音を聞いています。
電車が迫っています。私の目前に。
サイコタンゴ ニル @HerSun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。サイコタンゴの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます