茶葉とバイクと月泥棒

可笑林

茶葉とバイクと月泥棒

 多摩川を渡すようにかかった橋の下で、僕は大きなサンショウウオの背中のような水面を眺めていた。


 月夜。

 空に浮かんでいる満月は、川に砕けて散っている。


 ぼんやりと膝を抱えてそれを眺めていると、やがてその真っ暗な川は僕をすんなりと受け入れてくれるような気がして、僕はそっと立ち上がった。

 河川敷を下って行くと、やがて素足が川の水に触れた。緩やかな川の流れは、汗で湿った赤子の手のような柔らかさで、僕の足を深みに引き込もうとする。


春の川は少し冷たかった。


「ぼうや」


 と、背後から声がして、僕は足首を多摩川に浸けたまま上半身をひねった。

 段々になっている河川敷の途中、道になっているところ。そこに真っ黒に光るバイクが止まっていた。


「こんな時間に川遊び?」


 バイクに跨ったまま僕を見下ろすのは、バイクと同じように真っ黒なライダースーツに身を包んだ、フルフェイスヘルメットの女の人だった。

 僕らを包む濃厚な闇の中、女の人の声は橋に響いて僕を包み、脳に染み込んでくる。


「そんなことより、どう?」


 表情が読めないまま、僕はその女の人の顔を眺めていた。

 女の人は大きなバイクのエンジンを一度ふかした。


 ブオオ……!


 闇を吹き飛ばすような轟音とともに、バイクの先に一つだけ付いたヘッドライトが点灯した。

 僕は大きな一ツ目の獣が目を覚ましたような錯覚を覚えて、川縁で体を震わせた。


「ドライヴしましょう」



                ◯◎●◎◯



「お姉さんはね、月を追いかけてるの」


 凄まじい速さで高速道路を駆け抜けながら、女の人はバイクの後ろで彼女の腰にしがみついた僕に叫ぶように言った。


「どうしてですか」


 返す言葉に困って、僕はそう訊き返した。

 女の人の腰から手を離したら吹き飛んでしまうような向かい風だ。まともに目も開けられないので、僕はお姉さんから大きなゴーグルを貸してもらっていた。


 僕らの進むその先に、大きな満月が浮かんでいる。


「盗むのよ」


「月をですか?」


「そう」


 女の人は屈託なくそう答えた。

 目で追えない速度で流れゆく風景を、Tシャツと半ズボンから露出した手足で感じながら、僕は彼女の言葉に返答できないでいた。


「あら、無反応ね」


 女の人は心外そうだった。


「月よ、月。もしお姉さんに盗まれたらどうするの?」


「あなたは――」


「『お姉さん』」


「……お姉さんは、月を盗んでどうするんですか」


 空に浮かぶ丸い月をゴーグル越しに眺めながら、僕は半ば放心した状態でそう言った。


「そうねえ」


 お姉さんは月の使い道をあまり考えていないようだった。


「このバイクのヘッドライトにでもしようかしら」


 僕はこの一ツ目のバイクの先端に、あの黄色くて丸い月がはめ込まれて、今みたいにあちらこちらを爆走している様子を想像した。悪くないな、と思う。


「なら、別にいいです」


「気前がいいのね。好きよ、そういう男の子」


 お姉さんは笑った。



                ◯◎●◎◯



 バイクは一度も止まることなく、ひたすら月を正面に捉えながら走り続けた。


 お姉さんが月を盗むその時まで、僕はこのまま彼女の腰にしがみついたままなのだろうか。

 そしたら次の日の朝刊にでかでかと僕とお姉さんの写真が載るのだ。


『〈月〉盗難 犯人は二人組か』


 そんな見出しで、バイクを走らせるお姉さんと、その後ろにしがみつく僕とがシルエットで一面を飾るのだ。

 駅の売店で、コンビニで、電車の中で――僕たちの姿が世間を埋め尽くす。

 僕は何食わぬ顔でそんな街を歩く。


 月はどこにあるのか、きっとみんなは大騒ぎするだろう。

 僕だけが知っている。

 月は、お姉さんのバイクのヘッドライトになっているんだ。


 でも、そんなことは誰にも言わない。


 僕はただ、町を歩くのだ。



               ◯◎●◎◯



 気が付けば、バイクはどこかの廃倉庫の近くで減速しようとしていた。


 「ちょっと一息入れようかしら」


 お姉さんはそんなことを言って、廃倉庫の薄汚れた外壁のそばに、黒く輝くバイクを止めた。


 「ほら、ぼうや。降りなさい」


 ばくばくと早鐘のような心拍を押さえながら、僕はぎこちなくバイクを降りた。


 知らない場所だ。

 アスファルトと雑草の匂いでくらりとする。


 僕に背を向けたお姉さんはフルフェイスのヘルメットを外すと、ばさりと首を振って長い黒髪をたなびかせた。


 なにやらライダースーツの中から取り出すと、顔に装着したようだった。


「だいぶ走ったわね」


 振り向いたお姉さんは、縁の細い、黒いサングラスをかけていた。


「夜なのに、サングラスかけるの?」


「ぼうやだって、真夜中に川遊びしてたでしょ」


 軽くそう答えると、お姉さんはポケットからタバコの箱を取り出した。トントンと指で叩くと、中から一本、タバコが飛び出してくる。口に咥えて、箱とは別のポケットに入っていたジッポーライターを取り出した。


 きっとあのライダースーツの中には、素敵なものしか詰まっていないのだ。


 ボッ……


 小さな音がして、ジッポライターが灯された。火を守るようにお姉さんが手で壁を作っている。お姉さんの透き通るような白い肌と、タバコを咥える薄く赤い唇が、薄闇の中でぼんやりと浮かび上がる。


 それに見とれていると、すぐにジッポーに蓋がされてしまった。

 白い煙がするりと昇る。


「ふう」


 お姉さんの溜息は白い煙となって、やがて空気に混ざって消えた。


 口にタバコを咥えたまま、お姉さんは再び箱をトントンと叩いて、今度は僕へ飛び出したタバコを向けた。


「ぼうやもどう?」


「いや、僕は……」


「変な心配しなくていいのよ」


 お姉さんはタバコを咥えた口元をほころばせた。


「これ、煙草じゃなくて茶葉だから」



               ◯◎●◎◯



 初めて吸ったタバコは、知らないお茶の味がした。

 もしもお姉さんが僕を騙していて、これが本当は煙草だったとしても、僕は全然構わなかった。


「お姉さんも旅が長いから、時々故郷が懐かしくなったりするの。そんなときに故郷のお茶を巻いたこのタバコを吸うのよ」


「故郷、どこなんですか」


「ここから遠い場所」


 僕らは並んで、廃倉庫の中を歩いていた。


 トタンの屋根には所々穴が空いていて、そこから月の光が差し込んでいた。

 興味深そうにあちらこちらを覗いたり、触ったりしているお姉さんの後ろを、僕はタバコを咥えたまま、ただついて歩いていた。


「どのくらい、月を追いかけているんですか」


「そうねえ、三百年くらいかしら」


 僕は少し歩く速度を落とした。

 スポットライトのように廃倉庫の地面が月に照らされている。

 お姉さんはスポットからスポットへ、ひび割れたコンクリートの床をゆらゆらと渡り歩いていた。


「あとどのくらいで、月は盗めそうですか」


「さあ、分からないわね」


 僕は小さなスポットの中で立ち止まった。

 タバコの上の小さな火の輪っかが、僕に近付いてくる。


「お姉さんと一緒に、月を盗みたい?」


 ふとタバコから目を離して声がする方を見れば、お姉さんが僕の真正面に立っていた。

 少し離れたスポットに立つお姉さんは、いつの間にかサングラスを外している。



 血のような真っ赤な瞳が、煌々と光りながら僕を捕らえていた。



 淡い月の光に照らされたお姉さんは、身の毛がよだつほどほど綺麗だった。


 瞬きをすると、視界からお姉さんが消えていた。


「それとも」


 背後からお姉さんの声がして、僕はタバコを取り落した。

 スポットの外へ落ちたタバコが、かすかに明滅する。


「月が盗めるまで、お姉さんと一緒にいたい?」


 耳元でささやかれるそんな言葉に、僕は身じろぎ一つできない。


「いいわよ。ぼうやみたいな男の子、好きだから」


 逃げなくてはいけないはずなのに、脳内で反響する声が、僕を離さない。


 ガブリ。


 首筋に鋭い痛みが走った。

 ぞっとするほど冷たくて、気絶するほど心地よかった。

 魂が吸われるような感覚。僕は今にも意識を手放そうとしていた。


「なんてね」


 僕の首筋から口を離すと、お姉さんは悪戯っぽい口調でそう言った。


「ぼうやはまだ子供だから」


 横目に廃倉庫の窓が見える。

 映っているのは、呆けた表情の僕だけだった。



               ◯◎●◎◯



「お姉さん、嘘をついていました」


 お姉さんはバイクを飛ばしながらそう叫んだ。


「やっぱり、煙草だったんですか」


「違うわよ」


 僕らが向かうその先に、月は浮かんでいなかった。


「月を追いかけていたわけではないの」


 太陽から逃げていたのよ。


 僕はお姉さんの腰にしがみついたまま、なにも言葉を返さなかった。



               ◯◎●◎◯



「僕も一緒に連れて行ってくれませんか」


 多摩川の河川敷、僕はバイクに跨るお姉さんを見上げていた。


「せめて煙草が喫えるようになってからね」


 お姉さんは僕を軽くあしらう。


「どういうことですか」


「十年早いってこと」


 ヘルメットの中の、意地悪な笑顔が想像できた。


「じゃあね」


 一瞬のうちにバイクは消え去って、獣のような唸り声だけが僕から遠ざかっていく。

 やがて音もしなくなると、僕は後ろを振り向いた。


 日が昇り始めている。


 いつもより日差しが眩しく感じられて、僕は借りたままのゴーグルを装着した。


 息を深く吸い込む。

 湿った多摩川の匂いと、ほんのすこし、お茶の香りがした。

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茶葉とバイクと月泥棒 可笑林 @White-Abalone

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