あとがき

 こんにちは。

 この度は私の書いた物語にお付き合いしていただきまして、誠にありがとうございます。 


 この物語は「放課後対話篇」という少年少女が放課後に雑談を交わしながら、身の回りの理不尽に向き合い、解決する物語の二作目であり続編になります。

 

 多分一作目を読了後に、この物語を読んでいらっしゃるとは思うのですが、もし未読でしたら、そちらも読んでいただければより楽しめると思います。主人公月ノ下くんと星原嬢の出会いとここまでの関係性を描いております。


 二作目の今回も、一作目と同じく五つの物語で構成しておりそれぞれにテーマを決めて書いております。蛇足でありお目汚しになるかもしれませんが、作品の解説と補足をしていこうと思いますので、もしよろしければお付き合いください。



<テニスと「百足の踊り方」について> 


 テーマは「感覚や概念の具体化とその限界」です。


 物を作ったりイラストを描く趣味のある方なら誰しも経験があるかもしれません。


 創作意欲に満ち満ちている時、頭の中では何だかものすごい傑作が作れそうな気がして、早速制作に取り掛かるのですが実際に出来上がったものを見て「あれ? 自分が作りたかったものはこんなものだったっけ?」と頭を抱えてしまうことがあります。


 あるいは、自分の世界に入り込んで出来上がったその瞬間は「すごい! 我ながら完璧だ!」と思っても、いざ落ち着いて読み返したら修正したいところがボロボロ出てきてへこんでしまうのです。


 そんな脳内イメージを具体化した時のギャップをそのまま作品のテーマとして描いたのがこのエピソードです。

 

 感覚でこなしていることを言葉で具体化しようとすると、どうしても伝えきれないどころかかえって本質からかけ離れてしまう、そんな人間の習性を「女子の意地がぶつかる球技大会の一幕」を絡めて書きました。


 心の中にあるものと実際に自分が表現したことにはどうしても超えられない壁があるのかもしれませんが、それでも形にしなければ何一つ伝わらないので、今日も世界中で色々な人が自分を表現することに挑み続けているのだろうと思うのです。



<消えたケーキと決めゼリフについて>

 

 テーマは「戯画化された言葉の持つ力」です。

 

 仰々しく言いましたが要はアニメやドラマの決めゼリフであったり、あるいはラブソングに使われる歌詞のフレーズといったものの話です。

 

 私も漫画が好きで読みますし、その中には心に留めておきたい名ゼリフも沢山ありますが、やはり日常生活で口走るとどうにも滑稽に見えてしまいます。


 これについて「人形劇の山」という言説をネット上で見かけました。

 

 ロボットやCGなどを人間そっくりにしようと見かけを近づけるとかえって不気味にみえてしまうことを「不気味の谷」というのですが、これに対する概念が「人形劇の山」です。


 人形劇が優れて人の心を打つのは、人形が一見して「つくりもの」であるがゆえに、全てを純化して見る者につきつける事ができる、ということなのだそうです

(もっとも検索した限りでは、その方の発言以外は該当がなかったので、正式な専門用語ではなく造語かもしれません)。


 確かにアニメの声優さんは日常生活では出さないような大げさな声を作り、声だけで「この声はお転婆だけど一生懸命な女の子」「この声はクールな二枚目の男の子」と伝わるようにわざとらしく現実離れした演技をしています。


 現実に語ったら気恥ずかしくて、青臭く見える「情愛」や「正義への情熱」も生身の人間からかけ離れたキャラクターが語ることで発言者への偏見や立場というフィルター抜きに客観的に捉えることができるという事かもしれません。


「確かに芝居なんて嘘っぱちだ。こんな言い回しをする奴なんて現実にはいやしない。だけどそこには真実があるんだ。だらだらと切れ目なく続く、不規則で無意味な現実からすくい取った真実があるんだ」


 これは作中で星原嬢が引用した小説のセリフですが、昔私が好きだった実在のライトノベル小説から引用したものです。この一節も含め、ストーリー全体で描かれる人間の欲望や社会悪と戦い悩む登場人物の姿が今でも私の心に刺さっています。


 戯画化された言葉というものは状況次第でプラスにもマイナスにも働きますが、正しく使えば、語り手の伝えたい真実が世界に響くと信じたいものです。


 

<イラスト批評と「グレシャムの法則」について>


 テーマは「集団の中の悪意とどう向き合うか」という事です。

 

 インターネットの掲示板にしろゲームやアニメのファンの集団にしろ、元々そこにいた人間と新しく後から加わった人間の間には知識や認識にずれがあり、どうしても軋轢あつれきが生じるものです。


 互いに礼儀と寛容があれば良いのですが、たいていの場合相手の立場を考慮するより自分の欲望を満足させることを優先する人間が一定の割合で存在します。善意の人間と悪意の人間が接触した時、善意の人間が一方的に損をするとなればみんな自分のことしか考えなくなるわけで、こればかりは管理者的な立場の人間が介入しない限り解決は難しいと思います。


 それでも自分が何かの集団に属する時には、「古参」として属するにせよ、「にわか」として入って行くにせよ、善意で周りに接することができる人間でありたい、と思います。


 なお、今までのこの物語では基本的にお人好しの月ノ下君がトラブルに巻き込まれて悩み困っている人間を助けるために奔走し、クールでマイペースな星原嬢が仕方なく雑学や状況分析力を生かしてアドバイスして解決する、という基本的なパターンの流れがありましたが、今回の話はその逆に星原嬢が率先して助ける方向に動き、月ノ下君が状況分析とアドバイスに回るという珍しいパターンになっています。


 たまたまトラブルの種類が月ノ下くんの得意な漫画・アニメのサブカルチャーの分野だったからというのもありますが、付き合っているうちに互いの性質が影響を与え合っている片りんともいえるかもしれません。



<カセットテープと余桃之罪について>

 

 テーマは「若い時には馬鹿なことをしてみるのもまた良し」ということです。


 この話を執筆した時には私生活が辛いことばかりで何一つ上手くいかず精神的に疲れていました。

 

 その為、せめて何か心から笑えるような物語を描いて自分を慰めたいと思っていたのです。そこで「主人公が誤解されつつそれに気づかずに展開が進む勘違いコントなんてどうだろう」「この際だから下ネタも入れてみよう。禁じ手とされる人称の転換もなんのその。キャラ崩壊もどんとこいだ!」という勢いで書き上げたのがこの話です。


 後から読み返すとこの話だけ異色な雰囲気を放っているような気もしましたが、「若い時こそバカをやれ」というテーマをある意味、私自らが体現しているのでこれはこれで味があっていいかなあ、と思っています。


<魔女のロッカーと欠落の美について>


 テーマは「常に絶対的であるものは存在しない」いわゆるスタージョンの法則です。


 言い換えると、どんなものもその性質と相反する部分を備えているということで、その不完全さこそが魅力であったり長所であったりすることもあるのです。


 これは目に見えない人間関係にも当てはまるのではないかと思いながら書いたのがこのお話です。

 

 人助けはするものの基本的に我の強さをみせることはなかった月ノ下くんといつもマイペースで主人公に頼まれなければ動かない星原嬢の立ち位置が逆転する一面を見せるのは互いに影響を与え合って成長していく過程でもあります。


 ちなみにスタージョンの法則で先述したものより有名なのは「あらゆる作品の90%はクズである」というものです。自分の書いている話も世に発表されている膨大な作品の中で評価された時クズでしかないのかな、と考えてしまう一方「不完全さこそが魅力になることもある。短所だって極めれば味になる」と開き直ってもう少しこの物語を続けていこうと思っています。 

 

 貴方がこの物語を読むことで、ほんの一時でも楽しんでもらえたならこれに勝る喜びはありません。


 また、いずれ機会があれば続編をまた掲載していく予定ですのでまた、その時もお付き合いいただけたら嬉しく思います。


 それでは、さようなら。どうかお元気で。

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放課後対話篇2 雪世 明良 @JIN-H

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