第39話 天国の乙女

 数日後。


 僕は星原がいる図書室の隣の空き部屋を訪れた。


 いつものようにコンコンと軽くノックをする。


「星原、入るぞ。……全くこんな風に勉強会のためにここに来るのもしばらくぶりだよ」


 僕は小さくため息をついて呟く。


 星原もこれまたいつものように定位置のソファーの上で寝そべっていた。


「ええ。ここのところ色々あったけど、ようやく落ち着いて勉強会ができるわね」


 彼女はゆっくりと起き上がって、背中をそらすように伸びをして見せた。


「そうそう、その件だけど。柴崎の処分がこの間決まったみたいだ」

「へえ?」

「懲戒免職処分だって。もっとも生徒にショックを与えないように一身上の都合で退職ってことになっているけどな。四谷先生に特別に教えてもらった。探せば小さいけど新聞記事にも載っているらしい」

「そう。それにしても、今回の一件で本当の一番の被害者だったのは幡ヶ谷さんという顔も知らない私たちの先輩なわけだけれど。例え柴崎がどんな処分を受けたところで、歪められてしまった人生が戻るわけではないし。一体今頃どこでどうしているのかしら。トラウマを抱えて対人恐怖症になったり、引きこもったり暗い人生を歩んでいなければいいけれど」

「そうだな」


 ふと、僕は気になることを思い出した。


「なあ。星原」

「何?」

「僕はずっと幡ヶ谷さんの下の名前を『礼香れいか』だと思っていたのだけど、四谷先生は柴崎を取り押さえたあの時『礼香あやか』とか言わなかったっけ」

「ああ。そういえばそうね。そっか。マイナーな読み方だけど『礼』を『あや』と読む名前もあるんだったわ。でもそれがどうかした?」

「いや、何か引っかかって。……あーっ!」


 僕は先日大学でアヤさんからもらってポケットに入れっぱなしだったパンフレットを取り出した。


 そこには『新進気鋭の劇団、シビリティ・アロマ』『新作公演ミーアキャットの呼び声』という派手な見出しがおどっていた。


 パンフレットの中央には猫耳カチューシャを付けたゴシックファッションの美女の写真。その下に『主演女優 兼団長 AYAKA HATAGAYA』と小さく書かれていた。


 僕はあのどえらく突き抜けた性格をした先輩の言葉を思い出す。


『私はあやか。アヤちゃんと呼んでくれたまえ。後輩諸君』 


 たまたま当時の部員に北沢綺華という同じ読みの名前の部員がいたために僕は勘違いをしていた。


 このシビリティ・アロマという劇団名にしても、「礼香」という彼女の名前を連想させる。シビリティは英語で「礼儀」という意味だし、アロマは「香り」だ。


 そして最初は気が付かなかったがこのパンフレットの美女はよく見れば、アヤさんだ。僕らが会ったときは黒縁眼鏡をかけてぼさぼさ頭だから気が付かなかったが。


「な、何? 急に声なんてあげて」


 星原が驚いて起き上がった。


「あー、えっと。星原。これは僕の勘なんだけど」

「え?」

「たぶん幡ヶ谷さんは、この学校を出て行った後も自分の夢をあきらめることなく、大学に進学して自分で劇団を立ち上げて、たくましく頑張っているんじゃないかな」

「ええ。そうね。そうであってほしいと私も思うわ。……うん。悪い方に考えて暗くなってはいけないわね。ありがとう、私のこと元気づけてくれているのね。月ノ下くん」

「いや、その、別に。ははは」


 僕は乾いた笑い声を出した。本人に会っていながら今まで気づいていなかったとは恥ずかしくて言えない。


 四谷先生が言っていた彼女の評価を思い出す。「真面目」で「明るくてはつらつと」している? 朗らかに見えても芯の強いところがあって誰からも好かれるいい子だった?


 いや、間違いとは言いませんが。でも、ちょっとイメージと違うんじゃないですかね。四谷先生?


 つまりアヤさんこと幡ヶ谷礼香は、僕が四年前うちの学校にいた生徒「幡ヶ谷礼香」の話を聞きに来た時にあえて名乗りもせず僕の名前の読み間違いを正すこともなく、そのまま他人のふりをして事情を教えてくれたわけだ。大した役者というか、まさに事実の中にほんの少しの嘘をまぜて語ってみせたのだ。


 しかしそうだとすると、彼女はなぜあの時に僕と明彦に犯人は顧問の柴崎だと教えてくれなかったのだろう。彼女に写真を盗撮されて部を追い出されて、なお柴崎をかばうような理由があったとでもいうのだろうか。


 もしあったとすれば、それは。


「どうかしたの?」


 星原が急に黙り込んだ僕を怪訝な目でのぞきこんでいた。


「いや、さ。柴崎と幡ヶ谷さんは、道を間違えたからこそこんなことになったけれど。もしかしたら最初のうちは柴崎は顧問として真摯に幡ヶ谷さんに演劇を指導して尊敬されたこともあったんじゃあないか。教師として慕われていた時期もあったんじゃあないか、って思ったんだよ」


 それに柴崎は実のところ最後まで幡ヶ谷礼香の写真をバラまくつもりはなかったのではないだろうか。もし僕が特別な感情を抱いている女子のあられもない写真を手に入れたとしたら、それを他の誰かに見せたりはしない。誰にも見せずに一人占めすると思うのだ。


「月ノ下くん。もしかして柴崎に同情しているの? 女生徒の着替えを盗撮した挙句、その罪を自分の教え子になすりつけたのよ?」


 星原が途端に不機嫌な顔になる。


「いや。別に柴崎の行動そのものに関してはかばうつもりは全くないよ。だけど、この前も話しただろ。世界も人も相反する要素をふくんでいることがあるって」

「それが?」

「幡ヶ谷さんは柴崎を拒絶して、そのために演劇部から排除された。そのことを恨んでいないはずはないけど、その一方で心のどこかでもう一度信じたい部分もあったんじゃあないかな。魔が差してしまっただけで本当は生徒思いの良い先生だった時もあった。元の先生に戻ってほしいと。だから学校を去る時にあえて柴崎を告発せずにロッカーに手がかりを隠すなんて遠回しなことをしたんじゃないかな」


 そう、幡ヶ谷さんは「あなたのしていることはいつかばれるんですよ、だからもう止めてください」と柴崎を戒めるつもりで、意味ありげに手がかりを残したロッカーに鍵をかけるようなことをしたのではないか。


 自分の行いを示す手がかりが身近なロッカーの中にあると分かれば、盗撮をするのを控えようとする心理が働いて、その状態が続けばもうこれ以上は部員たちを盗撮することはやめて、元の良い先生に戻ってくれるかもと期待していたのではないか。もっとも実際にはそうならなかったが。


「そう? ……そうなのかしら」


 柴崎にとっても同じことは言える。幡ヶ谷さんを最初から歪んだ性欲の対象として扱っていたわけではなく、一人の生徒として導こうとした時期もあったはずだ。それなのにどこかで関係性が狂ってしまった。


 そして柴崎が盗撮を始めた動機は幡ヶ谷さんの美しさに心を奪われたからなのだ。倫理的なことを抜きにしてあえて柴崎の立場で考えてみると、もし彼が幡ヶ谷さんに出会わなかったら盗撮などせず、まっとうな教師として演劇部で生徒に誠実に接していたかもしれない。


 もっとも幡ヶ谷さんは何も悪くはないのだが。


 芝居がかった言い方をするなら、幡ヶ谷さんは柴崎にとっての「悪魔メフィストフェレス」になってしまったわけだ。彼女の出会いが柴崎の中の利己的な欲求を触発してしまったのだ。


 もう少し気持ちの方向性が違っていれば、演劇部の顧問教師と将来有望な女優の卵という理想的な関係もあったのかもしれない。


 僕は思考する。


 たくさんの真実の中にまぎれた偽りが、効果的に人をあざむくように。


 善良な人間にも利己的な欲求はあるように。


 卑劣な悪党もほんの少しの良心を見せるときがあるように。


 人と人の関係性にもあるべき本来の形と相反する要素が含まれていることがあるのではないかと。


 普段は内向的で日和見主義を自認する僕だが、今回柴崎と対決したときには、つい激高して敵意をむき出しにしてしまった。


 いつもはマイペースで必要以上に他人に興味を示さない星原も顔も知らない濡れ衣を着せられた女子生徒のために怒って見せる一面を見せた。


 でもこれは僕と星原が出会い、数々の経験をすることで互いに影響を与えてあっているということ、互いに変わりつつあるということのような気がする。


 それが良いことなのか、悪いことなのか今の僕には判断がつかない。


 僕にとっての星原は、僕を高みに導き救う「天国の乙女グレートヒェン」なのか。それとも堕落させる「悪魔メフィストフェレス」なのか。


「そういえば、月ノ下くん」


 星原が唐突に口を開いた。


「ん、何だ?」

「この間、言いそびれてしまったのだけれど」


 星原はなんだか恥ずかしそうにうつむいていた。


「この間柴崎が私に手をだそうとしたとき、助けに来てくれてありがとう。ちょっと格好良かったわ」


 そう言って彼女は僕の目を見てはにかんだ。


 どうやら、この間演劇部室から帰る時に妙にそっけなかったのは、それを言おうとしてなかなか言えなかったからだったようだ。


「どういたしまして。……星原の役に立てたのならよかったよ。いつも助けてもらってばかりだからさ」


 その少し困ったようにも見える可愛らしい顔を見て、今日のところは「天国の乙女」ということにしておこう、と僕は心の中で呟いた。

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