午前三時の実況中継から貴方へ
宮国 克行(みやくに かつゆき)
第1話 ラジオ
「〝日本の皆さん。いかがお過ごしでしょうか〟」
いつも聞いているラジオの声は、別のアナウンサーのものであった。
「〝ここロシアでは、午後七時を回りました。それでもまだ日は高く、夜という感じはありません〟」
「あら。今日のアナウンサーの方、別の方なのね」
寝床で、そう、ひとり呟いた。
ラジオは、枕元に置いてある。いわゆるラジカセだ。もう二十年近く使用している。それでも故障もしていないし、これひとつで、何も不自由はない。
「〝さあこれから我らが代表の試合が始まります〟」
ラジオの声以外周りからは何も聞こえない。そろそろ朝刊を配達している新聞配達のバイクが来るはずだ。深夜特有のどこか静謐な空間。その中に、高揚を隠し切れないアナウンサーの声だけが響く。
「年甲斐もなく胸が高鳴るわ」
思わずそう呟く。
深夜に目が覚めて、朝までラジオをつけていることはよくある。その時は、昔のことを取り留めもなく考える。喜び、怒り、後悔…でも、歳とともにそれら全てがどこか他人事のような気がしてきて、それが有難くもあり、少し寂しくもある。
ラジオの声は、申し訳ないがBGMになっている。内容を深く聞いていることは稀であった。それなのに今日に限っては、始まる前から、ラジオの内容を今か今かと心待ちにしている自分がいる。なぜならば、ワールドカップという4年に一度のサッカーの祭典が始まるからだ。実は、サッカー自体、それほど興味はない。だが、よく聞いて記憶に刻みたいのだ。
「〝さぁ。これから運命の一戦が始まります〟」
アナウンサーの声で、ラジオに食いつくように耳を澄ます。
会場の歓声と応援する楽器の音だろうか。そして、ホイッスルの音が高くなった。
「ふぅ」
いつの間にか息を止めていたらしい。意識的に大きく息を吐きだした。
「〝やりました。初勝利です。見事な勝利でした〟」
アナウンサーの声は、喜びと興奮で溢れていた。いつの間にかベッドの端に腰かけて、思わず拍手をしてしまった。
「よかったわ」
胸に手を当てていた。鼓動が少し早いようだ。もちろん、喜びで興奮したせいだろう。
「本当によかった」
もう一度繰り返した。
ラジオでは、解説の元選手とアナウンサーが今の試合を振り返って、生き生きと話し合っているのが流れている。
「昔もこうして喜んだことがあったわね」
茶色のグラウンド、砂埃と選手同士の大きな掛け声。観客はまばらだったが、選手たちの熱気に巻き込まれるように真剣に見入っている人が多かった。私もそのひとりであった。
ルールなどまるで知らなかったけれど、選手たちのぶつかり合う姿、真剣な表情に惹かれた。とくにひとりの男性に。どちらかというと下手の部類に入るであろうことは、素人のわたしでもわかった。でも、誰よりも大きな声を出して、走って、転んでいた。その日以来、たびたび試合を見学に行き、勝利したときに時折見せる笑顔は何よりもわたしの喜びだった。
数年後、毎日のようにその笑顔を見られるようになった。
あれは、2002年の日韓での大会であった。初めて、夫婦でワールドカップを見に行った。
会場の熱気よりも貴方の笑顔を覚えている。あの無邪気などことなく少年ぽい笑顔だ。
2006年ドイツ大会、悔しそうな顔した貴方。2010年南アフリカ大会、すごい、と手をたたいて喜んだ貴方。2014年ブラジル大会、寂しそうな顔した貴方。
そして、2018年ロシア大会。
貴方は見られないけれど、わたしが貴方の分までちゃんと聞いたわ。
耳元で話して聞かせるわね。
貴方は、喜んでくれるかしら。
すごいって一言でも言ってくれるかしら。
そして、あの笑顔を見せてくれるかしら。
小鳥の声が聞こえ始めた。
カーテンの隙間から、淡い桃色の光。
朝焼けだ。
きっと何か良いことがあるかもしれないと何の根拠もなくそう思った。
ううん。きっと良いことがあるわ。
時計を見る。病院の面会時間までひと眠りしようと横になった。
今感じているこの気持ち、感情、あの頃にほんの少しだけ戻れた気がした。
彼女は、幸福感を抱きしめて眠りについた。
了
午前三時の実況中継から貴方へ 宮国 克行(みやくに かつゆき) @tokinao-asumi
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