ネクタイと団子結びの女

トーヤ

ネクタイと団子結びの女

 それはこういうことなの…

 彼女はタンブラーを横に滑らせると、指先でその縁を軽くたたいた。

「彼は素晴らしいネクタイのコレクションを持っていたの。古今東西、それこそ色とりどりの様々な年代のネクタイをね。でも、ある時、わたしはそのなかから彼が特に一本のネクタイを選んで身に着けることに気づいたの。決まって急いでいるとき、彼はまるで数あるネクタイの中からその一本に吸い寄せられるように迷いなく指を伸ばして、それを鏡も見ずに素早く身に着けると飛ぶように家を出て行ってしまうの。だからね、わたしは最初、すごく不思議に思っていたわけ。スーツに合わせて一本ずつ丁寧にネクタイを吟味する彼が、なぜ急ぎの時になるとそのネクタイだけ選ぶのか。それもその日の服の取り合わせに関係なく決まったようにそれを選んで出ていくのよ。それでわたしはある日、彼に尋ねてみたの、その一本のネクタイに思いれでもあるのかって。そしたら彼は考えるそぶりも見せずにすぐに答えるのよ。「そのネクタイはつまり…」」

 ウエイターがウイスキーを継ぎ足して彼女の手元に置いたので、彼女はそれを唇に浸す程度に含むと、しばらくぼんやりとカウンターの向かいを眺めていた。

「つまり?」

 と僕は彼女に促した。彼女はふと我に返ったようにこちらを振り返ると、唇を閉じたままそっと微笑んだ。それはたまらなく素敵な笑顔だった。

「「そのネクタイはつまり完璧なんだ」って、「どういう意味?」って尋ねたらね、こういうわけ。「僕は意識せずにそれを完璧に結ぶことができる」。それから彼は少し黙って、すぐに続けたの。「ネクタイの長さも幅も、僕の指の動きに合わせてきっかり計ったように正確なんだ。」」

 彼女はそこで再び言葉を切って、タンブラーから少し飲み。それから遠い何かに目を凝らすように、そっと上下の瞼を引き寄せた。

「あなたはどう思う?これってなんだか奇妙な言い回しよね。」

 彼女は少し鼻の下をこすりながら、僕のほうを横目でちらっと見た。

「まるでネクタイのほうが指に合わせて動いているとでもいいたげだね。」

 僕は彼女に答えた。彼女は指先で少しタンブラーを傾け、それからそれを鼻先に近づけるとしばらくその香りをかいでいた。彼女がしばらく黙っていて、なにも話さないので、僕は間が抜けてしまった。けれども、おもむろに彼女は話しはじめた。

「たぶん彼にとってそのネクタイはひとつだけ、完璧なものだったのね。ほかのネクタイと違って、彼の結びたいように結ぶことのできる……。「そこにはなんの余分も不足もないんだ。だから、走りながらだって、時刻表のことを考えながらだって僕はそれを完璧に結ぶことができるんだ。職場に着いて鏡を見る必要もない、それはいつだって完璧に首元にあるんだ」って彼は珍しくまじめな顔で言ったわ。でもその翌日に彼は死んでしまった。結びかけのネクタイを鉄線でできた柵の端に引っ掛けて、そのまま階段を滑り落ちてしまったの。路肩で半分擁壁からぶら下がって、まるでカエルのように四肢を伸ばして死んでたわ。これってとても不謹慎ないい方だけど、許してね。こういう言い方しかわたししないの。このことについてはね。だってまじめにこのことについて考えるとわたしだめなの。神経が金束子みたいにささくれ立って、すごく不安定になっちゃうのよ。」

 僕はなんといえばいいのだろう。それは着陸間際の飛行機がとつぜん背面滑空を始めるような、ジェットコースターがもと来た坂道を落ち始めるような、そんな感覚。そして僕らの周りで輝くシャンデリアや磨き上げた紫檀材の壁は急に黒ずんで、僕の視界から消えてしまった。後から彼女の声だけが響いてくる。

「警察が後から自宅までやってきて、現場写真だのなんだの見せてくれたわ。いろんな紙切れに署名してね……交際時の手紙を見せて欲しいって言われたんだけど、あれは全部焼いてしまったからって……わたし嘘ついたの。そうしたら奴ら、家宅捜索してもいいんだぞって脅すのよ。わたしどうしたらいいのかわからなくて……なんとか引き取ってもらってドアを閉めたら、溜まってたものが穴という穴から出てくるのよ。涙も汗も鼻水もおしっこまで……もうぐちゃぐちゃよ。全部なにからなにまでとめどなくじゃあじゃあでてくるの。ごめんね、この場所でこんな話しちゃって。」

自分が明らかに動揺しているのを悟られまいと、僕は務めて冷静な表情を取り繕った。できれば口端に慰めの微笑みでも浮かべて、彼女を見つめようとした。でも、彼女は僕を見ていなかった。彼女はずっとタンブラーの中でぐるぐると煮えながら回り続ける琥珀色の液体を眺めていた。奇妙で重苦しい沈黙がしばらく続いた。

「わたしにとっての団子結びも多分、それと似たものなんでしょうね。わたしは意識せずにそれを完璧に結ぶことができる…」

 彼女はまたウイスキーをひとくち含んだ。その瞳は謎めいた古代の鏡のように読み取れない文様で揺れていた。僕は彼女の話す事柄と、今僕らが身を置いている環境とが急に不釣り合いに思えてきて、思わず目をそらした。でも、その先に彼女が続けた言葉は、僕が予想していたこととは全くかけ離れていた。

「たぶん、指先が触覚を頼りにひとりでに動いてるんでしょうね。それは普通の思考経路からは切り離されてしまっていて、その時だけはまるで自律した機械のように複雑な動作をひとりでにやってのけているんだと思うわ。」

 そう言って、彼女は振り向いてこちらを見た。僕は晴れ間にすっかり思い込みで傘をさして歩いてきた男のように、どうしようもなく困惑し、言葉に詰まった。空になったタンブラーが木の天板を打つ固い音が響いて、彼女の長くて白い指が磨き上げたマホガニーの天板を滑るようにやってきた。それはグラスを握る僕の人差し指に柔らかく巻き付いた。突然、彼女は子供のような無邪気な笑顔で笑うと、天井を仰ぎながら長い息を吐いた。

「少し飲みすぎてしまったかも」

 背中をたたかれたように、僕も笑った。頭の中で雷雲のように何かが鳴り始め、それが渦を巻きはじめた。それでも僕は半ば無意識に彼女に向き直ると、今度は左手を伸ばしてそっと彼女のあごを引き寄せ、その唇にキスした。束の間、彼女の瞳は芳醇な雨を湛えた春の雲のようにゆるみ、その口元からは湿ったユリと青草の香りがした。それは高気圧に恵まれた高原の澄んだ風を思わせた。しかし、僕の頭の中では熱帯性低気圧が近づくときのようなひどい耳鳴りがしていた。それは僕を混乱させた。いったいどれぐらいの時間、話したのだろうか。僕はそれをはっきりとは記憶していなかった。彼女を一人タクシーに乗せ、僕はふらふらと、まるで羽の不揃いな蛾のように街を歩いた。夜の闇だけが近づくことも遠ざかることもなく、僕を取り囲み、それは次第に僕を凍えさせていった。


 気が付けば僕は寝ていたらしい。そして不思議なことに頭痛は消えていた。まるで素面のように、僕の意識は澄みきっていた。ぼんやりとした明かりが幾筋も溝の彫られた木枠にはめ込まれた寄せ木細工の壁を照らしていた。ふと視線をそらすと、ウエイターの姿が見えた。彼はカウンターの端で静かにグラスを拭いていた。グラスではなく、ウエイターの目はそこに映り込む見えない何かを、気配だけを残して消えてしまった琥珀色の影たちを見つめているのではないか。おぼろげに僕はそんなことを思った。彼は拭き終わったグラスをひとつひとつ、手際よく天井のレールに下げていった。光の下で美しく輝いていたグラスたちも、そこでは陰りを帯びて蒼く光り、みな押し黙っている。そこにはひとつひとつ、異なる時間の流れが存在しているような気が僕はした。面白いものだ、と僕は思う。今までどれほどの数の人がここに足を運び、一体何回、あのグラスから飲んだのだろう。そこには一体どれだけの酒が注がれたのだろう。そのひとつひとつには円熟のために要した長い年月が溶けていて、黄金色の液体を飲むとき、酒を形づくる堆積した時間を僕らは舌先で滅ぼすのだ。僕はグラスに薄く残っていたウイスキーを、舐めるように飲み干すと、急に、奇妙なことに気が付いた。天板は深みのある艶やかな木目を浮き上がらせていたが、それはオーク材でできていた。確かマホガニーだったはずだ、と僕は思った。冷たい鉄の針が首筋に沈んでゆくような気色がして、僕は思わず震えた。僕は店を変えたのだろうか…あのときの自分の手元や周囲のかすかな輪郭は思い出せても、はっきりと店の内装を思い出すことができなかった。あるいは最初から夢を見ていて、彼女との会話もマホガニーの天板も、すべて僕の造りだした幻なのかもしれなかった。だが、僕は彼女にタクシーのために二千円渡したのは覚えていた。あわてて財布を探ると、それは確かに椅子に掛けたコートのポケットの中にあった。そして財布を開くと、確かに、二千円不足している。しかし、店を移るのに必要な未払いの酒代が引かれていなかった。そして渡した二千円と引き換えに、一枚の紙きれが札入れの金具に挟まれていた。僕はそれを引っ張り出すと、広げて見た。鉛筆で書かれた薄い文字がかろうじて読めた。そこには縦に長い筆跡で電話番号とおぼしき数字が記されていた。


 僕はウエイターに電話はないかと尋ねた。ポケットに差したスマートフォンはすでに電源切れで、真っ黒く押し黙った顔をして僕に両手をあげているようだった。ウエイターは店を出てから右に五つ目の街灯まで進み、そこを左に入った路地を抜けた先に、電話ボックスがあると教えてくれた。店にないのか?と僕はややろれつの回らない口調で尋ねた。意識はさえているのに、体は野暮ったくて、頭で計算した通りには少しも動いてくれないのだった。ウエイターは首を振って、申し訳ないが、この店にはそうしたものはおいていないのだというようなことをといった。「でも」、といって、彼は自分のスマートフォンを取り出すと、僕に渡した。「これでかけたらいい」、と彼は言った。それで紙切れの番号を一つ一つ打っていくと、途中で、画面が暗くなり、電源切れのサインが点灯した。「ついてないね」、とウエイターはとてもがっかりしたように言った。彼は親切に、最後の一杯のウイスキーを店の支払いにしてくれた。「外は寒いけど」、ウエイターは体を縮こまらせる真似をしながら言った。「でも、電話ボックスまでにはそんなに遠くないから、大丈夫さ。もし誰か迎えに来てくれるんだったら、ここに戻ってきたらいい。外で待つより、そのほうがいいだろう?」僕は親切なウエイターに礼を言って、店を出た。電話ボックスは僕が思っていたよりもすぐに見つかった。


「それはね、その日、わたしがせがんで無理に彼に着けてもらったネクタイだったのよ。その日の晩は交際一周年記念日だったから、わたしが……いつものネクタイじゃなくて……わたしの――」

彼女は息をするのも苦しそうに話した。僕らは電話でかれこれ一時間近く話していた。彼女の声はどんどんと上ずって、しまいには涙声になっていた。

「そっちに行っていい?」

 と僕は彼女に尋ねた。彼女は長いあいだ黙っていた。まるでガラスの窪みを砂が滑り落ちていくみたいに、静かな電気嵐の音が電話口からは響いていた。


「タクシーに乗って」

 と彼女は言った。そうしたら今から伝える住所を言えばいいわ、と……


 僕は書き留めるものを何も持っていなかったので、タクシーが来たらもう一度電話していいかと尋ねた。彼女はたぶん頷いたのだろう。呼吸が縦に乱れた。そう感じただけなのかもしれない。そして、電話は切れた。それから電話帳を見ようと電話の受け棚を除いたが、そこには降り積もった鼠色の埃が差し込んだ月光にぼんやりとくゆっているだけで、何も置かれていなかった。僕は舌を鳴らして毒づいた。結局、大通りまで15分近く歩き、そこに着く前に通りすがりのタクシーを拾った。運転手は初老の男で、僕が伝えた極め曖昧な住所をもとに、一番妥当な場所を割り出してくれた。

「だいぶ飲まれたようですね。」

 初老の男は白髪交じりの太い眉を上げて、気遣うようにこちらを見た。僕は肩をすくめただけで、すぐに咳き込んだ。雪がちらつく夜に戸外で長電話をしたせいで全身の筋肉がすっかり固くなっていた。僕は暖房の温度を上げてくれと運転手に頼んだ。彼が手際よく空調の目盛りを操作している間に、僕は二回くしゃみをし、タクシーは闇にひっそりと息を沈めた街中を滑るように走りはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネクタイと団子結びの女 トーヤ @toya-ryuji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ