第7話

「――ちょっ、先輩っ、なんすかその眼鏡!」


 思わず指を指して爆笑してしまった。


 極度の緊張感の中、意を決して部室のドアを開けたあたしを出迎えたのは、ギャグ漫画の中でくらいしか見たことのない、分厚くダサい眼鏡を掛けた先輩だった。それがあまりにも似合いすぎていて、あたしは緊張していたことも忘れて笑い転げた。笑いすぎたためにあふれてくる涙がにじませる視界の中で、先輩が眼鏡を外すのが見えた。

 あ、外しちゃうんだ、と思ったけど、その眼鏡を掛けられたままだと、これから告白しようというのにきっと笑いを堪えきれなくなるので、その方が良かった。それに、白状すると、眼鏡を外した先輩はやっぱりかなりイケてた。

 笑いがようやく収まって、あたしは目尻の涙を拭う。いつの間にか、抱えていた緊張感は溶けていた。狙ってやったわけではないかもしれないけど、先輩のおかげだった。この人はいつも、こんなにもあたしの心を温かくしてくれる。

 今なら、素直に言える気がした。

 ――そこで気が付いてしまった。眼鏡に気を取られていた。

 机の上に置かれた先輩のリュックの傍には生徒手帳と思しき物が置かれていて、それとは別の、だけど同じ物が先輩の手にあった。そしてそれは、ヨレたページで若干膨らんでいるのが見て取れた。

 その形に、あたしは見覚えがあった。

「なんで……先輩がそれを……」

 思わず、ぽつりとあたしは洩らしてしまう。その言葉に反応して、先輩があたしを見返してくる。

 ハッとしたあたしは、鞄のサイドポケットに手を入れた。しかしそこには何も入っていない。よくよく思い返せば、昨日拾ってからそこに戻した覚えがない。

 きっと、昨日あそこから逃げ出した時、落としてしまったんだ。で、それを先輩が拾った。そう考えると辻褄つじつまが合っている。

 一瞬の内に思考が巡る。謝るのか、誤魔化すのか、それとも開き直るのか。しかしそのどれをも選べない間に、あのさ、と先輩が声を発した。それを聞いた瞬間、あたしは、

「――ごめんなさい!」

 と先輩に頭を下げていた。

 少し、沈黙が流れた。

 頭を下げたまま、ちらりと上目遣いで先輩の表情をうかがうと、その顔にはなぜだか笑みが浮かんでいた。

 恐る恐る顔を上げたあたしに対して、先輩はその表情を崩さず、

「やっぱり。これ、藤村が持ってたんだ」

「やっぱり、って……先輩、知ってたんすか」

 どこまで知られているんだろう、と内心恐々としていると、

「昨日拾った時の状況からそう思っただけだけどね」

 先輩はそこで言葉を区切り、一度、手の中の生徒手帳に目をやると、再びあたしの顔を見て、

「どうして藤村がこれを持っていたか、訊いてもいい?」

 やっぱり、訊かれるよね、とあたしは思う。先輩は本当に昨日拾っただけで、何も知らないんだろう。元々は先輩の持ち物だ。知る権利がある。だからあたしは説明しなくちゃいけない。

 でも、どう説明しようか悩む。思わずあたしは目を伏せる。先輩に嘘はつきたくない。でもそれはあの日のことを話す、ということだ。あたしがなぜその喫茶店にいたかをぼかして話せばいいのかもしれない。けれど、嘘をつきたくないのと同様に、これ以上隠し事もしたくない。あたしの過去がいつバレるのか、なんて恐れながら先輩の傍にいたくないし、好きだと言ってくれた先輩に失礼な気がする。

 やっぱり、自分がしてきたことを言わなくちゃ。それを黙ったまま、先輩からの告白を受けるなんて、ズルいことをしたら、きっとその内あたしはあたしを許せなくなる。

 でも、言えばきっと先輩は――

 その時。


『過去のことなんてどうでもよくない?』

『今のあんたはそんなことしてないんだから、胸張ってたらいいのよ』

『野木先輩は一年も一緒にいたあんたの過去を知って軽蔑するような、そんな白状な男なわけ?』


 ――亜里沙の言葉が唐突に脳裏に再生された。

 その言葉が、背中を押してくれた。


 ――うん、先輩を信じる。


 そう思った時、ふっ、とあたしの頭の中に以前から訊きたかったことが浮かんできた。その質問をすれば、あたしがどうしてそこにいたのかを説明しないといけなくなりそうで、今まで怖くてできなかった質問。

 顔を上げる。

 先輩の視線を受け止める。

 言おう、ちゃんと。あたしの全部を。

 いつもみたいにぶっきらぼうにならないよう、気を付けながら。

 先輩に可愛い女の子として見てもらえるよう、願いながら。

 あたしは先輩に、笑って問いかけた。

 

「先輩、あの猫は元気ですか?」


   *     *     *     *    *     *


「先輩、あの猫は元気ですか?」


 

 彩華にそう言われて、賢斗は一瞬、何を言われているのかわからなかった。

 自分は猫を飼ってはいない。飼っている、なんて言ったこともないはずだ。そもそも『あの』猫って何だろう、と思った時、賢斗の脳裏にとある猫の存在が思い浮かんだ。

 それは、去年の春休みに雨の中で見つけた、怪我をした野良の黒猫だった。別に博愛精神を持っているわけじゃない。それでも目の前で弱々しく鳴く猫を見捨てることはできなくて、そのまま動物病院に連れて行って治療を受けさせた。怪我が治って元気になったその猫は野良なのに人懐こく、そのまま自分で飼いたいくらいだったのだが、母親が猫アレルギーだったので里親を探した。今ではクラスメイトの家で可愛がられている。

 その猫のことを言っているのだろうか、と賢斗は確認しようと、

「あの猫って?」

「先輩が去年拾った、怪我をした猫です」

 やはりそうだった。しかし、そこで疑問に思う。どうして藤村が知っているのだろう。そのことを話したことはない。自分はこんなにも優しいんですよ、とアピールするみたいで嫌だったから。たまたま傷付いた猫を見つけて、たまたま自分が助けただけだ。ただの気まぐれにすぎないし、言ってしまえば偽善だと自分では思っていた。

 というか、そもそも生徒手帳のことを訊いたはずだったのに、どうして猫が出てくるのか。頭上にクエスチョンマークが浮かぶ賢斗だったが、とりあえずは訊かれたことに答える。

「あ、あぁうん、元気だと思うよ。今はクラスメイトの家で飼われてる」

「それは良かったです。ずっと気になってたので」

 うんうん、と嬉しそうに彩華は頷くと、未だに懐疑的な表情の賢斗に告げる。

「――あたし、実は先輩が猫を拾った時、近くの喫茶店にいたんです。……あの時はびっくりしました。ずぶ濡れの野良猫なのに、怪我してるのに、手を差し伸べるのに躊躇ためらった様子がなかったから」

「へ?」

 あの時のことを見ていた――そう告げられて、賢斗は恥ずかしいやら照れるやら、頬が上気するのを感じた。見られていたなんて。

 ――でも。

 声が上擦りそうになりながらも、賢斗は彩華の言葉を訂正しようと口を挟む。

「い、いや、さすがに躊躇わなかった、ってことはないよ。少なくとも、どうしたらいいか、くらいは考えたし」

 その賢斗の言葉に、何が可笑しいのか、彩華はくすっ、と笑みをこぼした。

「言ったじゃないですか『手を差し伸べるのに』って。どうしたらいいかを考えたってことは、先輩の中では助けない選択はなかったってことですよね?」

 言われてみれば確かに。どう助けるかは考えたが、助けるか助けないかというそもそもの前提は頭にはなかった。

 そのことを指摘されて気恥ずかしくなる。それに……いつもと違う口調、違う雰囲気の彩華に何だかドギマギしてしまい、賢斗はぼやける視界の中で、つい彩華から目を逸らしてしまう。

「それで、先輩が猫を抱いて連れてってから、あたしも猫がいた場所に行ってみたんです。そしたらそこに、先輩の生徒手帳が落ちてました」

 ようやく話が繋がって、賢斗は理解した。

 てっきり学校で落としたものと思っていたのだが、鞄からタオルを出したときに、どうやら一緒になって飛び出ていたようだ。全く気が付かなかった。雨で濡れて乾いたから、ヨレヨレなのか。

 理由はわかった。でも今度は別の疑問が沸いてくる。理由は?

「あたしが入学する高校の生徒手帳だったから、入学してから返せばいいや、って思って持ってたんです。名前も顔写真も、中に入ってた学生証にあったんで」

 その疑問を口にしようとした賢斗だったが、彩華がさらに話を続けるので口を紡ぐ。

「でもなかなかそのきっかけがなくて、どうしようかって思ってた時に部活紹介で先輩を見かけて。あの時はすごく驚きました。それでこの部室に来て……やっと先輩に会えたのが嬉しくてうっかり名前を呼んじゃって……咄嗟に誤魔化しちゃいましたけど」

 言われて、賢斗はその時のことを思い返す。

 去年の藤村は派手な女子で、そんな子がパソ研に来るのがはっきり言って意外だと思ったし、似合わないなとも思った。廃部寸前の危機的状況ということもあり、パソコンに興味があるのかと思って説明してみればそんなこともなく。しかし、それでも今目の前にいる女の子はパソ研に入ってくれた。そのきっかけとなったのが自分の行動だったとは。嬉しいやら恥ずかしいやら。

「あの時、本当は生徒手帳を返すつもりで来たんです。そのついでに、猫を拾った人がどんな人か少しでも知れたらいいな、って思ってました」

 その時のことを思い出してか、彩華は目を細めて柔らかな笑みを浮かべる。

「実際に会った先輩は何て言うか――温かくて。返すつもりで行ったのに、返したくないな、って思っちゃったんです。これを返しちゃったら、先輩との縁が切れちゃう気がして。だから結局、返せませんでした。で、そのあとどうなったかは……先輩が知ってる通りです」

 そこまで言って、彩華はもう一度、頭を下げた。

「――ごめんなさい。先輩の物なのに、ずっと持ってて」

 目を逸らしたままだった賢斗の視界の端で彩華がそうしたのが見えて、賢斗は慌てて頭を上げさせる。別に自分は持っていたことについて責めているわけではない。ただその理由が聞きたかっただけだ。

「……返さなくちゃいけない、ってずっと思ってました。でも、それよりも、返したくないっていう気持ちの方が大きかったんです」

 あたしにとってこれはお守りみたいなものだったから、と彩華はうつむいて、声のトーンを一段低くして言った。

「お守り?」

 訊いていいことなのだろうか、と思いつつも賢斗がそう口にすると、彩華は意を決したように息を一つ吐いて、目を伏せたまま言った。

「…………あたし、ずっと寂しかったんです。家族仲は悪いし、友達も多くないし。……っ、だ、だから――中学の時はその寂しさを紛らわすために……好きでもない男と付き合っていました。身体を許したりとかはしてませんでしたけど……。昨日の男もその内の一人です。あの日、近くの喫茶店にいたのはあいつと別れ話してたからなんです」

 彩華のその言葉に、昨日の男二人組とのをする前、男たちがにやにやと笑いながら言っていたことを思い出す。

『……『大事な後輩』ねぇ……ただのビッチなのに。どうせアンタも遊ばれてるだけだよ、かわいそー』

『いやいや、オタクくんだからしょーがないっしょ』

 どういう関係かと思っていたが、そういうことだったとは。

 気にも留めていなかった。一年間一緒にパソ研で過ごしてきて、そんな女の子ではないと自分は確信していたから。

「……やっぱり、幻滅しますよね……」

 賢斗が何も言わずに黙っているのをそう受け取ったのか、彩華の声がさらに落ち込む。

「ぁ、いや――」

 その言葉にハッとした賢斗が慌てて口を開こうとするのを、彩華は制する。

「――いいんです。自業自得なんです。バカなことをしてた、って今では自分でもわかってるんです。そんなことしたって、ずっと寂しいままなのに。でも」

 彩華の声に力が戻る。穏やかな声音になる。

「先輩と出会ってから――その手帳を拾ってから、だんだんと寂しくなくなっていきました。先輩は優しくて温かかったから……その手帳を見れば、先輩が近くにいるような気がして、安心できたんです。だから、それはあたしにとっておまもりみたいなものなんです」

 そう言われて、賢斗は手の中の手帳へと視線を落とした。近眼の自分のピントが合うように目前まで持ち上げる。大事にされていたんだろうな、ということがわかるほど磨かれたそのカバー。もしかすると、今自分が使っている物よりも綺麗かもしれない。

 おまもりと言われたこと。大事にされていたこと。

 それが何より嬉しかった。

「先輩、」

 彩華に優しく呼ばれて、賢斗は顔を上げた。ぼんやりとした視界の中で、それでも彩華だけははっきりと見えた。その頬が紅く染まっている。


「あたし、先輩のことが好きです」


 その言葉は、静かな部室に、賢斗の心に、心地よく響いた。

 息を呑んだ。

 胸が高鳴って一杯になる。そのせいで苦しいけれど、でも、それがちっとも苦しくない。

 自分の想いが通じた――そう思って嬉しくなる賢斗を牽制けんせいするかのように、でも、と彩華は顔を伏せると言葉を続けた。

「でも……あたしは先輩に好きって言ってもらう資格なんかないんです。手帳のこととか、中学の時のこととか、黙ったままでいたズルいあたしには……っ」

 俯いたまま、彩華が制服の袖で目元を拭った。

 ――泣いてる……。

 そのことに気付いた賢斗は半ば反射的に、

「そんなことな――」

「――だって! 先輩幻滅したじゃないっすか!」

 賢斗の言葉を遮って、彩華が涙混じりの声で叫ぶ。

 静まり返る部室に、彩華の嗚咽おえつと、はなをすする音が響く。

 いてもたってもいられなくて、賢斗は立ち上がった。床と擦れたパイプ椅子が音を立てる。その音で彩華がビクッと身体を震わせた。

 立ち尽くす彩華の前に立つと、賢斗は己の言葉を信じてもらえるよう、願いながら、その華奢な体に腕を回した。腕の中で、彩華の身体がもう一度震える。けれど、その身体を離そうとはしてこなかった。それどころか、おずおずと、回された手が学ランの背を掴んでくる。

 香水なのか、それとも髪からなのか、抱きついた彩華からは目が眩むような良い香りが香ってくる。

 彩華を落ち着かせるように、静かな声で、賢斗は、

「……幻滅なんかしてないよ。だって――僕の気持ちは変わらないから。好きなんだ、藤村のことが」

 すぐ近くで、今度は彩華が息を呑むのが聞こえた。

「……っ、いいんすか? こんな、っ、愛想がなくてぶっきらぼうで、全然可愛くない後輩でも……」

 そんなことない。

 その言葉を否定したくて、彩華を抱き締める腕に力がこもった。

「僕が知ってる後輩は……藤村彩華は、無愛想でも、ぶっきらぼうでもないよ。可愛い女の子だってこと、今まで一緒に過ごしてきてちゃんとわかってる。確かに口調はちょっとぞんざいだけど……でも、僕にとってはそれがいいんだ。ずっとそうやって話してきたから、それが嬉しいんだよ」

 彩華の嗚咽が止まった。

 腕を解いて少し距離を取り、彩華の眼前に手の中の物――大事な後輩が、好きな人が、おまもりだと言って大切にしてくれていた生徒手帳――を差し出すと、賢斗は告げた。


「だ、だから……、藤村が寂しくならないように、安心できるように頑張るから。これからも、僕と一緒にいてくれないかな? その――これからは、彼女として」

「――――、はいっ」

 

 それを受け取った彩華の表情は、賢斗が思わず見惚れてしまうほどの、晴れやかで素直な笑顔だった。


   *     *     *     *    *     *


 もうちょっと部室でイチャつきたかったけど、二人とも空腹に負けた。

 学校から移動して、駅前のファミレスでお昼を食べたあたしと先輩は、食後のお茶ドリンクバーを飲みながら、まったりとしていた。

 みんな考えることは同じか、客のほとんどが学生で騒がしいけれど、気にならない。

「先輩、明日は何か予定あるっすか?」

 せっかく付き合えたのだから、デートがしたい。そう思って先輩に訊いてみる。先輩と結ばれて安心したせいか、頑張って気を付けていた口調が元に戻ってしまっていたけど、あたしはもう気にしないことにした。それがいいって先輩が言ってくれたから。

「眼鏡買いに行くつもりだけど」

 もう笑われたくないし、と不貞腐ふてくされたように呟く先輩が面白くて、あたしは自然と笑顔になる。今の先輩は眼鏡をしていない。学校から出る時に見えなくて危ないから、と眼鏡を掛けた先輩をついまた笑ってしまって、今日はもう眼鏡を掛けないと宣言されてしまった。

 でもさすがにそれは危ないと思ったから――ここまで先輩と手を繋いで歩いてきた。すごくドキドキした。

「じゃあ、この後、それ一緒に行かないっすか。そしたら明日は一日遊べますよね?」

「藤村がいいならいいよ」

「決まりっすね。せっかくなんで、先輩の眼鏡、あたしが選んであげるっすよ」

「……変なの選ばないでね」

「あれ以上面白い眼鏡はないから大丈夫っすよ」

 うっかり思い出すと、未だに口元が緩む。さすがにあれ以上の眼鏡を選ぶのは至難の業だ。

「そうと決まれば、早く行くっすよ!」

「ちょっ、まだ飲み終わってないって――」


 そしてあたしは先輩と並んで歩き出した。

 大きくて温かい先輩の手をしっかりと握りながら。

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伊乃高校/パソコン研究会の場合。 高月麻澄 @takatsuki-masumi

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