◇


 約束の日から一年を過ぎ、もうすぐ二年目になろうとしていた。


 思った以上に状況はよくない。

 世界はあっという間に暗黒時代になった。そこら中に魔獣が現れ、消滅した村や町は少なくない。

 最前線で戦っているはずの勇者や姫巫女の話は、遠く離れたボニート村には入ってこない。噂すらなくなった。


 人魚のお守りも黒く濁り、効力を失ってしまった。だからこそ焦りが色濃くなる。


「穏やかな海が懐かしいな」


 腕の中に小さな命が二つ。赤い頬の二人を見ると、自然と笑顔になれる。


 私は約束通り、子を産んだ。それも男女の双子で皆には驚かれた。まだ一歳にもならないが、今は元気に育っている。

 しかし、父であるはずの夫サルモンは航海に出たまま帰らなかった。もう半年になる。


 この一年で、仲間たちは半分以下になった。夫が、息子が、父がと嘆く女たちを何度も見てきた。

 人魚たちも、魔王の瘴気のようなものの影響で魔獣と化していった。話せる人魚はもう残り少ない。


 どこからか、魔獣の鳴き声が聞こえた。この荒れた海のどこかで、獲物を待っているのだろう。

 もしかしたら、アイツが夫を……。


 そう思うと自分が抑えられそうになかった。


「ベティ様!」


 その時、屋敷の使用人が私の前に現れた。急いで来たらしく、少し息切れしている。


「何事?」

「頭領様より、急ぎ屋敷へ戻られよとの命令です」

「父が?」

「はい」

「困ったな。嫌な予感しかしない」


 嫌な予感だけは当たる。そんな勘など欲しくなかった。



 ・・・



 使用人に案内されて、大広間へと通された。呼び出されて大広間というのも不思議だ。

 思いながらも、緊張した面持ちで扉を開ければ、そこには二人いた。


「ベティ。急に呼び出してすまなかった」

「久しぶり、ベティちゃん」


 硬い表情の父と、ずっと心配していたミルロの姿。思わず膝を付きそうになる。


 無事だった。ミルロは生きている。痩せてしまったし疲れた表情をしているが、ちゃんと動いている。話している。笑っている。


「約束守ってくれてありがとう。ベティちゃん」


 言われてやっとミルロの近くに座る。

 本当に信じられない。幽霊でも見ている気分だ。


 放心状態の私にはお構い無し。

 ミルロは私の手の中。二人の子を見て、そっとその頭を撫でてくれた。


「二人とも今という暗黒時代に産まれた希望。この子達に未来を、穏やかに過ごせる日々を……」


 ぐっすり寝ているからか、そのあどけない表情にミルロも癒されたみたいだ。やっと穏やかな顔を向けてくれる。


「お父様にはすでに話をしたの。ベティちゃん、大事な話をします。聞いてくれる?」

「もちろん」


 その時だ。突然、子供たちがぐずり始める。どんな抱き方をしても、声をかけても泣き止みそうにない。

 なにを感じているのか。いや、私の不安を感じてしまったのか。


「オレがみておこう。ゆっくり話すといい」


 父の提案で大広間の中は私たち二人になった。子供たちを抱いて去っていく父の泣きそうな目に、いい話でないことはわかっていた。

 だからこそ、私は世間話でもしようとしたんだ。逃げだってわかってる。


 でも私は怯んだ。座って背筋を伸ばすミルロは親友ではなく姫巫女の表情をしていたから。


「海賊頭領の娘ベティ。これから言うことは命令です。拒否権はないものと心得てください」


 初めて呼び捨てにされた。それだけ深刻なこと。もう、どんな顔をすればいいかわからない。


「大法定で人魚法が認可、施行されることになりました。ベティ、あなたにのみ適用が認められています」

「な……んだって?」

「これからの未来に関わることです。人魚たちにも話を通しています。準備が整い次第――」


 耳鳴りのようなものが私を襲う。ミルロの口は動いているのに、何も聞こえてはこなかった。


「人魚法……」


 人魚法というものは簡単に認められるものではない。若い人魚を生け贄に、人間を不老不死にする。

 人魚を殺し生き長らえることが、どれほどの苦痛を生むのか知らないはずがない。


 人魚たちとは仲間としてこれまでも助け合いながら生きてきた。だからこそ、海賊は人魚法の存在自体に疑問を持っていた。


 使うことなんて考えたこともない。

 古い昔話という認識しかなかったから、おとぎ話の中に入り込んでしまったかのようで。


 気分が悪い……。


 まさか、本当にそれが適用される日が来るとは思わなかった。大法廷を納得させるだけの理由があったのだ。

 それはつまり、誰かを不老不死にしなければ何かが終わる。今後に関わることだから。


「ベティちゃん!」


 揺すられて、やっと耳が聞こえるようになった。

 気がつけばミルロは親友の顔に戻っている。安心もしたが怖くもなった。


「……ミルロ」

「ごめんなさい。わたしたちの力不足です。魔王は倒せませんでした。本当にごめんなさい……ベティちゃん」


 誰もが思っていた。勇者が必ず魔王を倒すのだと。姫巫女のサポートがあるのだから、負けるはずがないと。


 身勝手な要求を勇者だからと、姫巫女だからと押し付けて。私たちはただ魔王がいなくなるのを待つばかり。


 こんなに小さくなって、謝るミルロを誰が責められる。

 今度は私がやらなきゃ、本当にバチが当たる。ミルロだけに背負わせてたまるか。


 私も戦うよ、ミルロ。


「人魚のことは了解した。でも、ミルロ。詳しく聞かせてくれないか? 何があって、これから何をするのか」


 ミルロは一度、目を伏せてから言葉を紡ぐ。


「わかった。これはわたしの信じる人にしか頼めないこと。例え、その人を傷つける結果となっても」

「案ずるな。全て受け入れる」


 ミルロの瞳から涙が零れる。初めて見た涙。袴の青に吸い込まれる。

 細い身体が小刻みに震え、思わず抱きしめていた。

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