偽りの人魚姫

和瀬きの



 ◇ 



 風が吹いていた。生温くて、曇り空に合わせたような気味の悪さ。今日は波も高い。

 潮の香りも爽やかさはなくて、何か濁ったような不気味さ。


 夕方のこんな時間に釣り糸を垂らしているせいもあるが、魚たちの動きもおかしい。


「嵐がくる……」


 声は風に消える。


 人々の不安を写したかのような空。今にも泣き出しそうなそれに目を向ければ、嫌な予感ばかりが胸を締め付ける。


 これほどに平和が怖いと思ったことはない。


 二千年に一度、必ず現れると言われている魔王も、それを倒す勇者もいない。平和そのものが、人々を不安の渦に沈める。


 なぜなら、すでに二千年の時は過ぎていたのだから――――。


「おーい、ベティ!!」


 うるさい。今、私は真剣勝負の真っ最中。あんたに構ってる場合じゃないんだよ。


 確かに、物思いに耽っていたけれど。


「ベティ!!」

「うるせぇよ!!」


 我慢出来ずに叫んだと同時に、手元が軽くなる感覚。逃げられた。

 上げてみた竿の先。餌は綺麗に取られた後だった。


「おい、逃げられただろ!? どうしてくれるんだよ」


 釣りもろくに出来ない能無しなんてごめんだ。

 女に生まれたせいで海賊にもなれず、女性としての役目も果たさない私は、ただでさえ村で煙たがれられてる存在なんだ。

 夕飯のおかずくらい自分で釣りたいのに、こいつときたら……。


「まあ、ベティ。いい知らせがあるんだって」

「は? サルモン、あんたの夕飯に関わることだぞ!?」

「何度も言うがな、ベティ。釣りは妻の仕事じゃない。魚なら、俺たち海賊が――」

「だからなんだよ、畜生!」


 二十四歳。同じ年頃の女たちはみんな子育てに教育の真っ最中。中には海賊見習いとして息子を海に出す者もいる。


 私には出来なかった。


 父に決められた結婚だったとはいえ、私はサルモンを心から愛していたし大事にしたいと思っていた。

 でも、宿ったと思った子は流産。それ以来、私は怖くなって拒否し続けている。


 海賊は陸にいることの方が少ないというのに、夫が帰ってきても何事もない。いつしかサルモンも誘うことをやめてしまった。諦めてしまったのかも。

 もう女として終わったな。


 いや、終わりたくないからこうして釣りをしているわけだ。


「そろそろ、話を聞いてくれるか?」

「いい知らせ、だったか?」

「そう。姫巫女様が先程、到着なされた」


 驚いた拍子に釣竿を海に落としてしまう。また作り直さなければと思うより先に、私は歩き出していた。


 こんな時期に姫巫女様だなんて、最悪だ。

 本当に嵐がきてしまった――――。


 ゴツゴツした岩場を登りきると、私の住む村を一望出来る。


 谷の間に隠れるようにある村は、海賊という理解されない職によって潤う村のため。

 正義だと言って潰そうとする奴らは幾らでもいる。悪の本拠地だなんて、本当に馬鹿げている。


 それだけではない。

 人魚村ボニート。それが正式な名前だから。


 海に生きる海賊も人魚も、お互いの利のために協力している。

 希少価値の高い人魚を海賊は守り、人魚たちは不審者が入らぬよう見張りをしている。海底から船を確認出来る人魚たちは、私たち海賊にとってなくてはならない存在だ。


 彼女らを隠すためにも、この土地を無くすわけにはいかない。


 しかし、こういった争いもしばらくはなくなるかもしれない。


 姫巫女様来訪。

 それは多分、違う争いが起こることを示唆している。


「ベティ、早いって」


 やっと追いついてきたサルモンの背中を叩いてやる。


「あんたは海賊だろ! しっかりしなよ!!」

「ベティの方が海賊らしいや」

「うるさい!!」


 私は人集りが出来る村の入り口を眺めてから、踵を返す。驚くサルモンが声を張り上げる。


「どこへ行く!?」

「……人魚たちのところ」

「は? 人魚!? だって今、姫巫女様が――」

「少しくらい遅れても大丈夫。それに、大事なことだから。村の方は頼んだよ、サルモン」


 サルモンと別れて人のいない海岸へと向かう。崖を早足で降り、砂地に足を踏み入れたところで振り返る。

 村の方向から騒がしい声が聞こえていた。


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