Episode.24 I Love You

 ふ、と暗闇から突き放される感覚を覚えた。

 それを拒むように――光を拒むように、シーツでさえぎり暗闇を求めた。覚醒したくないと叫ぶ脳には、太陽の光は刺激が強すぎた。

 わずらわしいと思うほど、光が脳を揺さぶる。だから余計につよく拒んでしまう。

 朝だ。

 まぶしさに目を細める。寝返りを打つように体を反対側に回転させた女――椎名ちはるは、見えた景色に目を見開いたのだった。


「――っ!」


 ヒュっと喉の奥で息が詰まったが、なんとか冷静さを取り戻そうと試みる。脳は回転を速め、今の状況がいったいどのようなものか把握しようと、懸命に働きだすが、彼女の意志に反して心臓は物凄い勢いで高鳴り始め、頬は赤く染まっていった。

 熱を持ち始めた体に気が付いたちはるは同時に、どうしようもなく自分が緊張していることに気付いた。金縛りにでもあったのかと問いたくなるほど、動かない。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 焦る彼女は、恥ずかしさやら何やらでいっぱいいっぱいである。混乱を極めた彼女のあたまでは、適切な状況把握も行動指令も、なに一つとしてできそうになかった。

 そして、気付く。

 自分の手の先に繋がれたものは、間違いなく対象のそれだった。いわゆる恋人繋ぎだ。

 まるで、固く何かを誓い合っているかのよう。

 ゆるい力でありながらも、確かに感じられる重みと感触に、ちはるはますます戸惑いを隠せなかった。


 なんとか脳を叱咤しったし、彼女は手を離そうと決心する。気が付かれてはならない、起こしてはならない。

 そのためには、ゆっくり丁寧にやさしく。

 このままでは頭が爆発してしまうのではないかと思うほど、気恥かしくてたまらなかった。


 閉じられたを、確認。

 手を外そうとして動きを止め、もう一度確認する。

 緊張感はすでにピークに達しているが、これ以上高まって爆発しないためにも、頑張るしかない。


 しっかり目を瞑っている姿をもう一度念入りに確認して、さらにしつこいようだがまたまた確認し、彼女はようやく勇気を得る。

 そっと対象のそれに触れれば、なんとなく温かい気がした。


 冷たいはずのそれは、時折こうして熱を持つ。

 生ける死者と言われる吸血鬼なのに、まるで人間のようだとしみじみ感じざるをえない。

 体温を持つこともあるのかもしれないな。そんなことを思いながら、なんとか指を外していく。


 しかし、次の瞬間だった。


「、ん……」

「っ!」


 鼻にかかったような、なんだか色っぽい声が耳に届き、ちはるは思わず情けない悲鳴をあげた。

 起きた、ねぇ起きたの!?

 疑問がグルグルと、目でも回しそうな勢いでそれこそ全身を駆け巡る。

 しかし、彼の目元に視線を向けるも、どうやら起きた様子は微塵みじんもない。


 ああ、寝ている悪戯いたずらしようとしている気分ね。

 複雑な気持ちになったところで、少し熱が冷めてきた。「よし」と小さく気合を入れて作業に取りかかる。

 ちょっとだけこの手を離すのが寂しいなんて、そんなことはないと言い聞かせて。


 なんとか外れた手にホッと息をつく。やっぱりちょっとだけ感じた寂しさは、知らないふりをする。

 大きく胸の中に灯る達成感とやらを一身に感じながら、彼女はそっとその目を向けた。


 彫刻のような端正な顔立ち、サラリと顔にかかった艶やかな黒髪。普段は見せない子どものような、その愛らしくも感じられる寝顔は、とても穏やかで無防備だ。

 お人形さんのような、この世のものとは思えない、そんな美しさを持った顔立ち……。

 観察してみると非常に優秀な顔の作りだ。睫毛の長さや形の整った眉はもちろん、白く澄んだ肌を見ても、それこそ作りもののように美しく感じられたが、ふと目についた唇に意識が乗っ取られてしまった。


 瞬間、ぶわあっ、と、さっきの比でないほど顔が熱を帯びる。

 叫び出したくなるような、泣きだしたくなるような羞恥心というものを、ちはるは生まれて初めて味わったかもしれない。


 昨夜の出来事が脳内を掠める。

 何を思ったか――自身は目の前で可愛らしく寝ている彼、シンのキスを受け入れたのだ。そして、まるで感情のままに激しくぶつけられたそれを、どこか心地良く思ってしまった。

 もっと、と求めてしまった自分に気が付いてしまったし、今でも思い出すとその気持ちがあふれ出てしまう。


「、わた、し」


 そっと、自分の唇に触れる。

 思い出そうと思えば簡単に思い出せる、あのときの感触。やわらかくて、なんだか甘くて――だけど、全てを根こそぎ持って行かれるような感覚だった。

 それこそ「全てを預けてしまっても良い」なんて、そんなことが体中を駆け巡った気さえする。


 伏せ目がちな視線で空中を眺めながら、ちはるは完全に世界を遮断してしまった。

 いま彼女の世界を支配しているのは、完全に自身の思考のみ。シャットダウンされた世界がどう動こうが、彼女の意識を揺さぶるものはなにもない。

 だって、いまは自分の感情について把握する方が先だから。


 だから、気付かない。

 目の前のその、彫刻のような、人形のような、そんな作りもののような「それ」は、決して彫刻でも人形でも、作りものでもないことに。

 そうではないから、彼女の意識を独占したその場所が、きれいにえがいたなど――その両手が、自身に迫っているなど。


 気付かない。


「――そんなに良かったなら、いくらでもしてやるけど」


 ハッとしたときには、視界は反転していた。何が起こったのか考える間もなく、背中に固くも柔らかな独特の感覚が。そして目の前にはそう、悪だくみでもしていそうな、悪戯っぽい笑みの男。

 「あれ」

 こぼした声は思いのほか間抜けに聞こえたが、目の前の彼は例のごとく、目を細めてたのしそうに笑うだけ。状況把握に努めていた脳は今こそ活動すべきであるのに、仕事内容を忘れてしまっているようだった。


 両手は顔の横でベッドにい付けられている。縫い付けている犯人は言うまでもなく男・シン。

 キョトンとしているちはるなどお構いなしに、彼はそっと彼女の手をひとくくりにし、空いた片方の手で彼女の唇に触れた。


「、やっ」


 彼の人差し指が、なぞるように彼女の下唇を左から右へ撫でていく。そうすれば、ぞわりと体が変な感覚を覚え、彼女は思わず声を出してしまった。

 それが嬉しかったのかおかしかったのか、シンが笑う。

 だが、その笑い方はいつもの喉で笑うような押し殺したものでなく、心の底からあふれ出たような、無邪気そのものだった。

 そして、吸血鬼である彼に適切な表現ではないかもしれないけれど、とても「人間」らしいもので。


 その笑顔を見た瞬間、今までにないほど、シンという存在を愛おしく感じてしまった。そのまま抱きしめたい衝動にさえ駆られてしまっている。

 シンが自身に向ける瞳が甘さと優しさを持って、まるで全身で「お前が好きだ」と言っているように思え、どうしようもないまま呼応するようにして彼に同じ感情を向ける。


 彼の瞳が、呼んでいる。愛おしいと叫びながら、自身の名を呼んでいる。

 彼のそれがあまりに本当に優しく甘い色合いを秘めているから、自身の奥底に眠る激情を呼び醒ます。同じものを呼びよせるかのように、自然に引き出そうとしてくる。隠そうとする気持ちさえ起こさせないまま、無意識下の情報を抜き出そうとする。


 だから応えてしまう。

 おなじ色のそれを、返してしまう。

 「あなたが欲しいの」と、彼が自身に向けるものと寸分の違いもない熱情を、この絡み合う視線に込めて。


「……アンタって結構、無防備だよな」

「え?」

「そんなふうに熱っぽい視線を向けられると、誘われてる気になる」

「っ、そんなわたし、」


 ちはるにそのようなつもりはない。

 彼の視線に引き出されてしまっただけで、無意識の範囲内にあるものを勝手に引っこ抜かれているだけで、彼女にはまったくもってそのようなつもりはないのだ。

 真っ赤になって慌てふためいてしまったちはるに、シンはそっと目を細める。その瞳がやっぱりこの上なく甘いものだから、ちはるは胸が締め付けられた。


 交わり合うその中で、彼の視線に強く意識を向ける。そうして気付かされる感情は、激しく心を抱いてくる。

 やわらかく交差する視線。

 世界を遮断したのは思考ではなく、目の前の存在だった。


 そっと綺麗な顔が近付き、あのとき感じた感触よりずっと穏やかなものが唇に宿る。短い口付けは思ったよりやさしくて、また胸がぎゅっとなった。

 だからなのか。唇が離れた瞬間、名残惜しさのようなものを感じ、おもわず切なげに眉を寄せてしまう。

 ちはるはそのことに自分で気がついたらしい。

 突然の恥ずかしさに、勢い良くシンから視線を逸らした。「……みないで」と言って、顔を赤くしたまま目を固くつむる。

 手で顔を隠したいのにそれができないのは、シンが未だ彼女の両手を掴んでいるからで、今ばかりは触れあった部分を恨めしく思った。


 けれどその仕草が、どれほどシンの心を揺さぶるのか、彼女は分かっているのだろうか。

 シンは胸を占めた温かい感覚と、突き上がるような甘い衝動に、少し困ったように笑みを浮かべてしまった。


「おはよう、ちぃ」


 そのテノールが、今まで聞いたどれよりも穏やかで。

 ちはるは泣きたくなるほどのシアワセで全身が埋め尽くされるのを、静かに感じるほかなかった。つん、と目の奥が叫び出し、なんとも言えない感情が襲ってくる。

 それを誤魔化すように「おはよう」と声を出せば、なんだか震えていたような気がしたが、目の前の彼が小さく微笑んでくれたから、ちょっとだけ安心してしまった。


 この時が永遠に続けば良いのに。そんな思考が生まれた彼女は、このシアワセを噛み締めるように瞳を閉じる。

 彼から離れられないほどの愛おしさを、自身が宿しているのだと実感しながら、彼女はシアワセをその場所に留めようとしたのだった。

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亡骸にキス 一之瀬ゆん @6mqn

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