ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒(3)
その頃には夜中に寮を抜け出すのはもう慣れっこだったけれど、流石に松葉杖をついたまま〝慈悲の森〟に向かうのは、文字通り骨が折れた。
舗装されていない林道を歩くと、地面は本当は真っ直ぐでないことが杖の先を通してよくわかった。そこには小石の表面のでこぼこや、湿った腐葉土のぬかるみがあり、樹木の根っこの膨らみがあった。
わたしはそれらに幾度も引っかかり、何度も姿勢を崩し、そのうち幾度かは踏みとどまり、何度かは転んだ。
わたしが寝間着を土で汚すたびに、近くのどこかでかさっと草木がこすれる音がした。
警戒か、興味本位か。夜の動物たちが、わたしのことをじっと見つめている気配があった。
立ち上がって見上げる月には薄い雲がかかっていて、眼病を患った気の毒な老犬の瞳のように見えた。月暈の頼りなく古めかしい光のなか、わたしは丘を目指して歩く。
いつの間にか、どちらともなく、わたしたちの約束の場所になっていたあの丘を目指して。
その先に、きっとナコト先輩がいると思った。いま思えば、馬鹿げた確信だ。けれど、わたしは心の底から信じていたのだ。
そこに行けば彼女に逢えると。
正確に言えば、いるとか、いないとか、そういったことには意味がなかった。わたしはただ、そうしないわけにはいかなかったのだ。わたしの背を、感情の大いなるうねりが押していた。
すぐに。
今すぐに、彼女に、と。
そのためなら、何度転んだって苦にはならなかった。
林道の坂道を登りきると、いつもの丘に出た。〝慈悲の森〟を見下ろす、ゆるやかに起伏した丘だ。
ナコト先輩は杉の木の古株にたおやかに腰掛けていて、ほんの少し待ちくたびれたような表情で頬杖をついていた。それからわたしの姿を認めて、「そろそろ来る頃だと思ってた」と言った。
わたしは彼女に尋ねる。
「どうして、わたしがここに来ると?」
「……さあ、どうしてかしら? でも、ニナだってそうじゃない。どうして私がここにいると?」
少し考えて、「あなたにとても会いたかったから」とわたしは言った。
自分でもまったくもって支離滅裂だと思ったけれど、それ以外にはっきりとした理由のようなものはどこにも存在しなかった。
「私も、ニナにとても会いたかった」と彼女は微笑んだ。
「泥だらけじゃない。こっちに来て、座って」
言われるがままに彼女の隣に腰掛けたわたしの寝間着を、彼女の杖がつうっとなぞる。それだけで身体中の泥汚れは綺麗さっぱり、もともと最初からなかったかのように消え去ってしまった。
ナコト先輩の冷たい体温が感じられるその距離に座って、わたしはずっと押し黙っていた。
わたしの頭の中には、彼女に伝えたい言葉がたくさんあったはずだった。けれど、それらの言葉はいくら頑張っても顔を出してきてはくれない。ちょうど納屋の中身がひっくり返って、入り口を隙間なく塞いでしまったように。
張り付いた喉をなんとか動かそうと頑張っていると、上から重ねるようにわたしの手を握って、ナコト先輩が言った。
「今日は、頑張ったわね」
それだけだ。
たったそれだけの言葉で、目頭が熱くなり、鼻がつんとした。心臓が暴れ馬のひづめみたいに脈打ち、心の堰が崩れる音がした。
かすれる声で、かろうじて「はい」と返事して、わたしはどうかこれが長い長い夢でありませんように、と願った。
ナコト先輩がわたしを見つけてくれたことも、クリス先輩と戦ったことも、いまこの時間も。
すべてが長い夢で、目覚めたら昨日までの自分に戻っていませんように。
わたしはぎゅっと目をつぶって、それまでナコト先輩と関わりあうことで見ることの出来た、たくさんの美しいものをまぶたに焼き付けようとした。もし目が覚めても、それらのものを覚えていられるようにと。
「ニナ。どうして目を閉じるの? ねえ、目を開けて。どうしてもあなたに見せたいものがあるの」と、ナコト先輩が言った。
わたしは恐る恐る目を開く。
当たり前のことだけれど、ナコト先輩はちゃんとそこにいて、冷ややかな手のひらの温度も感じられた。
「見てて」
ナコト先輩は立ち上がり、丘のへりまでゆっくりと歩く。それから、わたしのほうを振り返ると、眼下の〝慈悲の森〟を背に、杖をひと振りした。《ねじれの杖》の先に、昏く輝く影が灯る。
彼女の唇が動き、魔法の祝詞を紡ぎ出す。祈りの声は、童女の唄のようにも、裁判官の冷酷な声のようにも聞こえた。
「
わたしは、その光景を一生忘れないだろう。
彼女の言葉に呼応するように、森の奥から、無数の熾火が、ぽつり、ぽつりと灯っていく。やがて、その紫色の小さな灯りは波濤のように森のすべてを埋め尽くした。
明滅する幾億幾万の蛍のように、温度のない紫の光が、森から空へと立ちのぼってゆく。夜の闇を払い、どこか遊ぶように、けれど迷うように、光は自由に空を泳ぐ。
非現実的で、ひどく神秘的な光景だった。
「……これが、わたしたちの飛ぶ空の、本当のかたち。去っていったものたちの、命の輝き。ねえ、言ったでしょう? 私たちは、死者の魂を掃き散らして飛ぶの。死者を想うために、死者を慈しむために、只々我が身を
ほんとうに美しかったのは、無数の魂の燐光に照らされた彼女自身だった。彼女の万華鏡の瞳は、死の輝きと溶けあって複雑な色彩を映し出し、けれどそこには一点の濁りもなかった。
世界中のありとあらゆる宝物をかき集めて差し出したって、目の前のたったひとりの女の子の美しさにはかないっこないだろうと思った。胸を締め付けられる思いがして、わたしは胸の前でぎゅっと拳を握りしめる。
なにもない、空っぽのはずの胸の内で、確かに何かが脈動して、何かを訴えている。
「ねえ、ニナ。ただのニナ。私には、あなたの中にある空のかたちはわからない。この死者の空、あなたの瞳が何を映し、何を祈るのか――それを知ることだけは、私にはできない」
ナコト先輩は言う。
ビロードの黒髪が、初雪の頬が、清浄な魂の光を受け、つやめいて輝いていた。
「けれど……何だっていいの。何も無くたっていい。あなたがそれに名前をつけるのは、最後でいいの。――ああ、よかったと。間違いではなかったと。そう思えたその時に、あなた自身が、それが何かを選べばいいのよ」
「わたしは――」
願わくば、彼女のようになりたいと思った。彼女のように、美しく生きられたらと思った。その気持ちを表現する言葉を、わたしはいまになってもまだ持ち合わせていない。
憧れと言うには強すぎたし、恋と言うにはあまりにも大それていた。
「わたしは、わたし以外の誰かになりたいなんて、これまで一度も思ったことがなかった。……でも、いまは。あなたのような人になれたらどんなにいいか、そう、思います」
わたしは、答える。
返答というには脈絡がなくて、空のかたちというには的外れで稚拙すぎた。けれど、その気持ちは嘘偽りのないもので、口から勝手にまろび出たそれは、きっとつぼみなのだと思った。
彼女のようになりたい。
彼女をずっと見ていたい。
彼女のそばにいたい。
それが、わたしの、空のつぼみだと。
ナコト先輩は、ほんの一瞬だけ悲しそうな、困ったような顔をして、それから目を細め、「そう」と穏やかな声で言った。
「光栄なことだけれど、そんなにいいものでもないわよ」
どこか自嘲ぎみに、ナコト先輩は言う。
「私になる、ということは――永遠に独りでいる、ということだわ」
その頃のわたしには、彼女が言わんとしていることの意味がよくわからなかった。けれど、彼女が先の見えない真っ暗なほら穴のような孤独を胸に抱えていることだけは、はっきりと感じ取ることができて、わたしはそのことに少なからず驚いた。ナコト先輩はわたしにないすべてのものを手にしていると、当たり前のように思っていたからだ。
十五歳の頃のわたしは、どうしようもなく子どもで、無知で、無神経だったのだ。
強く、思慮深く、万能の《柩》の魔女に、そういった感情があるということなどは、つゆほども思いもしていなかった。
だから、わたしはそのときになってようやく初めて、ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツトそのものに、わずかに触れることが出来たのだと思う。
けれど。
「それは、嘘です」
わたしは松葉杖に力を込めて、立ち上がり言う。自分でも思いがけず、きっぱりとした声が出た。
だって、彼女はわたしに確かに言ったのだ。
「ナコト先輩みたいに飛べるって。わたしは、ナコト先輩と飛ぶべきだって。それが本当なら……わたしはあなたと同じ高さで飛びたいと思う。ナコト先輩と一緒に飛びたいと思う。だから、あなたは、独りになんてならない」
「……なんだか、愛の告白みたいね?」
そう言って、ナコト先輩はくすくすと笑う。わたしは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「いやっ、そういうのでは、なくて」
「そうなの? 残念。けれど……そうね。そうかもしれない。あなたがこれからもそばにいてくれれば、私はとても嬉しい」
それからナコト先輩はわたしに小指を差し出して、「約束よ」と言った。
わたしもそれに応え、彼女の指に自分の指を絡める。
もう自分の内にあるものが何かを考える意味も、必要もなかった。
ただそうあるべきだと思ったから、わたしは絡めた小指の細く柔らかな感触と引き換えに、《柩》の魔女のかたわらで高く高く飛ぶと誓った。
その高みに至るまでの道のりは、生半なものではないだろうということはわかっていた。空の階を一段登るたびに、すべての夜明けと夕焼けがわたしの身体を焼き焦がすのだろう。すべての北風と冷雨がわたしの身体を切り裂くのだろう。
けれど、そんなことどうだっていいのだ。
だって、もうわたしは大丈夫だ、と思った。
わたしの中には、未だなにもない。
なんでもない、何者でもない、ただのニナだ。
けれど、それでいいのだ。
何者でもないわたしが見上げる先にはナコト先輩がいて、彼女がそこにいる限り、わたしは空を見上げ続けることができる。
地を這い、泥水を啜って、傷だらけになったとしても。
血にまみれ、へどを吐いて、石にしがみついてでも、彼女のいる空をただ目指すことができる。
心臓が止まり、肺から最期の一息を絞り出すその時に、彼女の隣にたどり着くことさえ叶うのならば。
ああ、よかったと。ここがわたしの旅の終着点なのだと。
きっとそう思えるという確信があった。
わたしたちは、どちらともなく空を見上げる。
月暈のもと、美しく立ち上る魂の燐光が。
小指を絡ませあったまま、同じ空を見上げ、同じ月を見る《柩》の魔女の横顔が。
焼き付けたこの美しい景色が胸のうちにある限り、きっとわたしは大丈夫なのだと、そう思った。
〈NiNa ~ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒~ 第一部・了〉
NiNa ~ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒~ 逢坂 新 @aisk
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