ニナ・ヒールドと空飛ぶ箒(2)
初めて使う松葉杖は、思いのほか扱いが難しかった。
添え木と包帯でぐるぐる巻きの足を地面に触れさせないように、わたしは慎重に医務室のドアへと向かう。
「これに懲りたらもう少し身体を大切に扱いなさい」
ぎこちない動きで扉を押し開けるわたしの背中に、ミス・バックランドはそう声を投げかけた。わたしは首だけ動かして、彼女にお礼を言って頭を下げる。
扉を開けた先には、廊下の柱により掛かるようにしてひとりの魔女が立っていた。
ピンクブロンドの二つ結び、翠玉色の瞳。それは他ならぬダレット先輩その人で、こちらに気づいた彼女は手を上げて、「よう」と言った。
「すげえ声だったな」
ダレット先輩は唇の端をにやりと上げる。
どうやら声は扉の外にまで漏れていたようだった。
それと同時に、彼女がわざわざ治療が終わるのを待っていてくれたのだということを、わたしは知った。
「勝ったほうが大けがしてどうすんだよ」とダレット先輩はわたしの背中をばんと叩いて言う。
彼女の小さな身体のどこにそんな力があるのかというくらいに強く叩くものだから、松葉杖のわたしは前につんのめって危うく転びそうになった。
「まあいいや、終わったんならさっさと帰ろうぜ。のんびりしてたら、大勢集まってきて面倒くさいからさ」
杖をついているせいでひりひりする背中をさすることもできず、わたしは言われるがままダレット先輩の隣を歩く。慣れない松葉杖に悪戦苦闘するわたしに合わせて、ダレット先輩はゆっくりとした歩調で歩いてくれる。
学院の廊下の窓からは夕陽が射していて、思いのほか結構な時間が経っていたことをわたしに実感させた。
しばらくのあいだ、沈黙が続いた。
わたしたちは、決闘のことについても、その結果についても、特に言葉を交わさなかった。
わたしは松葉杖をつきながら、ダレット先輩の横顔をちらちらと盗み見る。けれど、夕陽に照らされる彼女の顔からは、なんの表情も読み取れなかった。特に結果については気にしていないのか、あえて喋らないようにしているのか、それも表情からはよくわからなかった。
けれど、彼女があの戦いに賭けたものは、決して小さなものではなかったはずだ。少なくともそのくらいは、彼女とともに飛び、相対したわたしには感じ取ることが出来た。
本当ならきっと、彼女は何かを言いたいはずだった。
だけど彼女が選んだのは沈黙で、わたしにはその決断を覆すことはできなかった。やってしまったが最後、何かを決定的に破壊してしまう恥ずべき行為だと思ったからだ。
それにわたしにしたって、勝利の実感みたいなものはいまいち感じ取れていなかった。確かにダレット先輩には勝った。完全に公平な条件ではないとはいえ、双方の合意の上で成り立つ決闘に、わたしは勝った。それは魔術学院に入学して初めて、わたしが自分の手でまともに勝ち取ったものだと言えるだろう。
けれどそのときのわたしの胸の中に渦巻くのは、やってやった、とか、成し遂げた、とか、そうした充実感とはかけ離れたものだった。そこにあるのは、ただ「なんとかなった」という安堵だけだ。
なんというか、慣れていなかったのだ。何かを強く望んで、何かをがむしゃらに勝ち取ることに、わたしは慣れていなかった。だから自分自身が成し遂げたことに対して、どう反応していいのか、どう振る舞えばいいのかが、わからなかったのだ。
ダレット先輩は沈黙を選び、わたしは静かに混乱していた。だから結果的に、わたしたちは二人して押し黙ったまま歩く。長い廊下に、わたしたち二人ぶんの足音だけが静かに響いていた。
ようやくダレット先輩が口を開いたのは、廊下を出て中庭に出た頃だ。
「あのさ」
柔らかな薄桃色の髪の毛をぞんざいに掻いて、彼女は言う。
「あれ、お前が考えたの?」
「あれって?」
「〝かかと〟キックだよ。あのだっせえ名前、考えたのナコトだろ?」
わたしは少し迷ってうなずく。ださいかどうかはさておいて、嘘をつく理由が見当たらなかったからだ。
「やっぱりな」
わたしの返答に得心がいったようにダレット先輩は首肯して、「あたしがもっと格好いいのを考えてやろう」と言った。
いたずらっぽく、にっと笑って胸を張るダレット先輩に、わたしは一抹の不安を覚えながら返事をする。
「はあ」
そんなわたしを尻目に、ダレット先輩はわざとらしく額に指を当てて悩むそぶりを見せる。なんだか、こわばった肩から力がずるずると抜けていくような気がした。
「パンツ丸出しキック」
「やめてください」
「自爆骨折キック」
「ダレット先輩、やめてくださいってば」
「クリスでいいよ」
「……はい?」
ひどく唐突な申し出に思わず聞き返してしまうわたしに、ダレット先輩は微笑む。先のいたずらっぽい笑顔とは違う、なんのてらいもない微笑みだった。
「お前、明日からチームメイトなんだろ? だったら、あたしのことはクリスでいいよ」
わたしは少しだけ口をつぐみ、少しだけ悩み、それから探るように、彼女の名前を呼んだ。
「……クリス、先輩?」
「おう」
クリス先輩は、日差しの中のヒマワリのように笑う。笑顔からこぼれる尖った八重歯が新品のピアノの鍵盤みたいにつやつやとしていて、とてもチャーミングだった。
クリス先輩と別れて寮に戻ると、玄関の扉を開けるなり質問攻めの魔女たちにもみくちゃにされた。そこには一年生も二年生も三年生も四年生も五年生もいて、実家から学院に通っているはずのアリソンもいた。
「英雄のご帰還」「どうしてあんなふうに飛べるの?」「ニナってばすごい!」「どうして?」「どうして?」「フラップ・ジャック食べる?」「どうして?」「お菓子!」「本当はやればできるのね」「どうして?」「お茶もあるわよ」「ニナ」「ニナ」「お菓子とお茶」「ニナ!」
全く同じタイミングで全く別のことを喋る彼女たちの質問に答えるのはひどく大変だった。
だいたいわたしは喋ること自体があまり得意なほうではなかったうえに、そんなに大勢の人といっぺんに喋った経験もなかったから、ずっとまごまごと意味のない言葉の羅列を繰り返していたように思う。
結局見かねたアリソンが、「ニナもきっと疲れたでしょう? 今日は早く眠ったほうがいいわ」と助け舟を出してくれるまで、わたしはずっとされるがままだった。
人混みからわたしをかばうように寮の自室までついてきてくれたアリソンにお礼を言って見送ったあと、わたしは自分のベッドに腰を下ろす。
ルームメイトのビビは階下の騒ぎには我関せずで、ひとり鉱石テレビを観ていた。どうやら彼女にとっては、決闘の勝敗よりも、画面の向こうの男の子のほうがより重大な関心ごとのようだった。
わたしはビビと、あまり多くないいくつかの言葉を交わして寝床につく。
消灯してすぐに寝入ってしまったビビとは違って、わたしはどうしても眠れず、寝返りのたびに身体のあちこちの傷が小さく傷んだ。
「……勝ったんだ」
実感がわいたのは、その段になってようやくのことだった。潮が満ちるように、どこか遠くから感情の波が押し寄せてくる。ずきずきと熱を持つ傷が、それが夢でないことを教えてくれる。痛む身体をさするとなんだか誇らしい気分が湧いてきて、たとえ近い将来この傷がいくつかの痕になったとしても、わたしはきっとそれらをずっと愛せるだろうと思った。
抱えたくすぶる決闘の予熱とは裏腹に、静かな夜だった。
聞こえるのは虫の鳴き声と夜鷹の囀り、それと、ビビの穏やかな寝息だけだった。窓際に立てかけた《ヘルター・スケルター》も、月明かりに照らされてぐったりと眠っているように見える。
目を閉じ、わたしは思う。
ナコト先輩に会いたかった。
どうしても、今すぐに。
彼女の、春の大地を黒く濡らす雨のような笑顔が、そのときは何よりも見たかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます