エピローグ



 その後、通りがかりの船に私達たちは助け出された。

 船員に日本語が通じないことに苦労したが、ふくみの持っていた学生書を提示したら、日本人であることを理解してもらえた。その後の連絡は全て任せて、私は通された部屋で眠った。客船らしく、設備が整っていたが、細かく調べるほどの元気はなかった。

 茅島ふくみは医務室へ運ばれた。緊迫した様子もなかったので、死んだということはないと私は予想した。会わせてもらえなかったので、様子も知らなかった。

 翌日に近くの港で降ろされ、すぐに病院で精密検査を受けることになった。まだ日本語が通じなかったが、そこから数日経った後に、また更に別の病院へ船で連れて行かれた。次の場所でも、検査を受けたと思えば、また別の病院へ。

 そんなことを数度繰り返している内に、日本に戻ってこられた。言葉が通じた時の安心感は、筆舌に尽くし難かった。スタッフに、ここは政府公認の大きな病院であることを説明され、更に検査のため数日入院してもらうと説明された。

 気がつけば、夏が終わっていた。

 十日ほどの入院の後、私は近日中の退院を命じられた。

 その間に、警察を名乗る人達が来て、様々なことを質問された。

 ステーション。事件。犯人。そこのスタッフ。住ノ江。私の名前、ゼミ。そして人身売買。知っている範囲で、よどみなく答えたつもりだった。

 逆に、私から質問をして、わかったこともある。小ケ谷や久利、挽地。患者の二人やそして教授もこの病院にいたらしい。小ヶ谷はまだ入院しており、患者の二人は何処かそういう施設に移されたと聞いた。なるほど、ここに関係者を集めていたのか。そんなことよりも私は、茅島ふくみのことが気がかりだったが、何も教えてくれなかった。

 退院の日。

 親が面談に来た。母親だった。私を連れて帰るつもりはなかったが、顔だけを見せに来たらしい。パフォーマンスだろう。母親からは、あなたが行方不明になって届け出を出していた、と聞いた。ゼミ合宿も、行き先は全く違う場所を伝えられていたらしかった。私は謝ったが、あなたのせいじゃないわ、なんてしなくてもいい気遣いで、私をねぎらった。私はこの人のこういう部分が好きになれなかった。

 母親が帰り、一人でろくに無い荷物をまとめていると、スタッフから呼び出された。少し位の高い人物らしい。私に事件のことを説明したい、という理由だった。

 狭い事務室のような場所。一般患者をこんな所に呼び出すのはどうかと思った。

 事務椅子に腰掛けて、私を待っていたのは女の人だった。高圧的な瞳を有していて、話しかけづらかった。この施設の顧問だかなんだか言った。比較的若い見た目だったが、電子タバコの匂いがきつかった。

 彼女はまず最初に、茅島ふくみのことを説明した。彼女の意識は既に戻っているし、身体の傷も治っている。だけど退院はできない。そんなこと端的に説明されても、納得がいかなかった。なんでですか、と抗議すると、彼女は、今現在社会で起きている事件に起因すると答えた。そんな話、普通に生きていれば数度聞く。身体を機械化した人たちが、なにをヤケになっているのか知らないが、各地でテロ行為を行っていたり、別になんでもないような軽犯罪を起こしている、と。

 茅島ふくみの機能は強力だった。あれほどの機能を搭載しても、彼女のように使いこなせる人間はそういない。うちで保護しなければ、テロ団体に狙われる。勧誘という意味だ。住ノ江ナキもスカウトされていたと聞いた。

 どうでもよかった。うちで保護する、なんて格好のいいことを言っていたが、私はあまりこの人を信用できなかった。

 住ノ江ナキの死体は、まあステーションがあんな状態だから上がっていない、と女はタバコを吹かせながら言う。私は海原で空を見上げた時に見た、ステーションの残骸を思い出した。

「ふくみは……茅島ふくみは、これからどうなるんですか。学校に、戻れるんですか?」

 私は、最も気がかりだったことを、女に尋ねた。

「…………無理だ。それは、彼女の状態を見ればわかる。そうだ、彼女が君に会いたがっていたから、ここを去る前に、顔を見せてあげるといい」

 面談室は廊下の先にある。それだけ伝えられた。

 女も扉の前まではついて来た。

 入る直前に、彼女は告げた。

「茅島ふくみさんは、記憶を完全に失っている。忘れているのではなく、消去されている。所々断片のようなものは、かすか覚えているらしいが、もとに戻ること、つまり思い出して今までの『茅島ふくみ』に戻れる、ということは決してないだろう」



 扉をくぐった。

 そこには、彼女がいた。

 よれた病衣を身にまとって、寸分も変わらない程の美しい顔をして、しなやかで長い髪もそのままに。

 私は、そのまま立ち尽くした。

 ガラスで仕切られた隔たりの向こう。椅子に座って、彼女は宙を眺めていた。刑務所かここは。私は憤った。

 声をかけることが出来なかったが、向こうから私に気付いた。

 虚ろ。眠たそうな、はっきりしない瞳で、彼女は私を認めた。

「あ、かがやさん、ですね……」

 たどたどしい言葉。まるで暗記した物事を、口に出しているだけみたいな……

「これ、あなたに宛てた手紙、私の、かばんのなかに、はいってたんですけど……渡したほうが、いいのかなって……」

 ガラスの隙間から、紙切れを渡される。本の、白いページを破いて作ったであろう、古びた白い紙。

 震えながら、努めて冷静を心がけながら、私は手を伸ばして紙を掴んだ。

「うん…………ありがとう」

 私が礼を言うと、彼女は笑いかけながら、奥の扉の向こうへ去った。歩き方も、おかしかった。そんなことすらも、忘れてしまったというのだろうか……

 あっけないほど一瞬で、取り残される。

 誰もいなくなった部屋で、私はその手紙を開いた。

 整った字で表現された『彼女』に、私は再会した。

『加賀谷彩佳へ

 ごめんなさい。このメッセージがあなたに伝わることすらあやしいのに。私はこれから住ノ江ナキに因って記憶を消されてしまうし、もしかしたら殺されるかもしれない。あなたはもう、ついさっき消されてしまったけれど、これだけは伝えたい。

 今までありがとう。そしてごめんなさい。それだけを、ずっと言いたかった。喧嘩したことを気にしているなら、これで綺麗にして欲しい。もう何のことか覚えていなかったら、この手紙ごと忘れてくれてもいい。

 ここから生きて帰れるのかわからないけど、私のことで悩んでいるなら、私のことを忘れて欲しい。忘れて、普通の学生生活に戻ればいい。

 この手紙を読んだら、住之江ナキに見つからないように、私には伝えて。忘れていると思うけど、きっと力になれると思う。

 本当に、ごめんなさい。

 どうかあなたが救われますように。

                    茅島ふくみ』

 …………

 ………………

 ……ふざけやがって………………

 自分だけ…………自分だけ謝っておいて、それで綺麗にして忘れろなんて、

 なんて自分勝手……

 畜生…………

 自分だけが勝手に謝った気になって、自分だけ勝手に消えて、

 残された私は、どうあなたに謝ったら良いの。

 なんであの時、自分ひとりで、抱え込んだんだよ。

 理解できない。

 一度殴らなければ気が済まない。

 だけどあなたは、もういない。

 私の友達だったあなたは……

 私だって…………謝りたかったのに、それだけ伝える相手が、もういない。あなたはもういないの。私を置いて、何処かへ行ってしまった。

 死んだわけでもないのに、あなたがこの世から消えてなくなってしまったことが、私には耐えられなくなった。

 声を上げて泣いた。

 何か、胸のつかえのようなものを、吐き出さなければ気がすまなかった。

 茅島ふくみ。

 その名前が指し示す人物は、見つからなくなった。

 彼女という、私の周囲を、まるで毒のように周っていた衛星が、

 プツッと糸がちぎれたように、私の中の、宇宙の彼方へ解き放たれて、

 手の届かない所へ、追いつけないほどのスピードで、遠くへ、とても遠くへ、跡形も残さずに消えてしまった。

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