6章 君はすぐに見つかった
1
足音が、空間を満たしている。
薄暗い、それでも上に比べれば幾分かマシな電灯が、あたりを照らしている。眩しくて、目が潰れそうなほどだった。
コンクリートをむき出しに、人がつけ入る隙を感じさせない床、そして四方に成り立つ、触ると手が冷たくなりそうな扉が目立つ。というより、それ以外になにもない。
そう、ここは地下。ステーションの心臓部分と言っても良い場所だということは、いまさら言うまでもない。
エレベーターが降ってきたのが数秒前。それから足音が聞こえたのが今現在。
コツ、
コツ、
馬鹿みたいに、響き渡っているのを、私は黙って聞いている。
やがて、その足音が、持て余したように止まった。
静かになった。
呼吸が出し入れされる音が聞こえる。
一つ、二つ、三つ。
うち一つは自分のもの。もう一つは今の足音の主。
そしてもう一つは――
「ごきげんよう」
茅島ふくみ。彼女が物陰から飛び出して、場違いなほど丁寧な挨拶をする。
私も釣られて、身体を露わにする。
本当は、そんなことしたくなかった。
現れた人影は…………
「ご足労頂き感謝します」
茅島ふくみが、笑顔を崩さずに言う。まだ何事もないように。
「ここに呼び出した理由はわかりますか? いえ、言わずもがなですね」
返事をまたずに彼女は続ける。彼女の澄んだ音声が、耳の中で木霊していく。
「あなたが、犯人だからですよ」
断言。
何の躊躇もなく、彼女はそう述べた。
私は動揺を隠せないでいた。
何も尋ねることが出来ない。
なんで……
「なんであなたが、犯人なんですか……」
「そうよ。ふくみちゃん、ちょっとおかしいんじゃない?」
と、
犯人であるとされる、住ノ江ナキさんは、そう言った。
……。
紡がれる言葉に、なにもおかしな点はない。
そうだ。彼女が犯人であるはずがない。こんな冷静な反応、彼女が見せられるはずがない。だって人を殺してるんだ。彼女に限ってそれはない……
私は、改竄されたのか知らない記憶に基づいて、彼女を庇いたくなった。
「変なこと言わないで。私が犯人? いいですか? 犯人っていうのは、誰か適当に決めつければそれで良いっていうんじゃなくてね」
「いいえ。私は正気です」
努めて真顔を見せる茅島さん。
続ける。
「間違いなくあなたが院長を殺した。それはいつ? 談話室で全員が集まっていたあの時間です。あなたは抜け出して、院長を殺し、速やかに証拠を隠蔽し、死体を冷蔵室に突っ込んで、何事もなかったかのように談話室に戻った」
「何言ってるの? 私、ずっと談話室にいたじゃないの……」
「それは嘘です。加賀谷さんに残された記憶を読みました。雄一郎くんと優花ちゃんの協力です。観たのは犯行時刻のものなんですけど、何故か加賀谷さんにだけどの記憶が残されており、私達からは消されていた。まあその理由はともかくとして……」
「ちょっと待って? 記憶を読む? 何のこと?」
「口を出さないで」
茅島さんが叱咤した。
住ノ江ナキは、口を閉ざした。
「あの時、小ケ谷さんたち三人が喧嘩をしました。理由は些細なことでしょうけど、その時グラスが派手に割れましたね。大きな音がしたんですけど」
「知らないわ。喧嘩? そんなの覚えてない。いい加減にしてよ、人を犯人みたいに」
「聞いてくださいよ」茅島さんは話を止めなかった。「あなたの座っていた位置は加賀谷さんの真正面。そして小ケ谷さんたちがいた、もといグラスが割れた位置は、加賀谷さんの真正面奥、つまりあなたの真後ろ。だけど私は、グラスが割れる音を何度も聞いてみたんだけど」
「…………」
「通常、遮蔽物があれば音の伝わり方は変わるはずです。現に反射音で私は周囲を確認するんですけど。だけどあのグラスが割れたときの音を聞くと、何も遮蔽物がない場合と同じ伝わり方なんですよ。鮮明すぎる。それで漸く気づきました。私もまだまだですね。つまり、あの時間、加賀谷さんの眼の前には、誰もいなかったんですよ。ナキさん、あなた、本当にあの場にいたんですか? どこに行っていたんですか?」
そう言われて、住ノ江さんがとうとう怒る。
「は…………はあ? いたに決まってるわ。そんなの、あなたの耳の精度の問題でしょ? 自分の耳がそんなに良いと思ってるの? あのね、ふくみちゃん、イタズラで人を殺人者だ何だって決めつけるの、いい加減にしてほしいわ。私だって怒るよ。第一、動機なんて無いじゃない。私がなんで院長を殺さないといけないの。それにあなたの言う通り私が犯人だとしたら、患者じゃなくちゃいけないんだけど、私、身体の何処も機械じゃないわよ」
「動機は人身売買ですね」
住ノ江さんが止まった。
「あなたは患者で、それも記憶を改竄できる有能な商品だった。院長が売りに流さないはずもなく、かといって、おとなしく変な所に売られたい、なんて思う人間は、探したってそうそういない。あなたはその機能を使って、患者であることを隠してきたけど、院長は、自分で書いた昔の伝票でも見たんでしょうね。あなたが患者であることと、あなたの能力を思い出して、勝手に売りに流す契約を、まあ何処かの組織とした。請求書がすでに書かれていたもの。あなたが売られるのは時間の問題だった。記憶を操作されているということに気づいている院長は、早くあなたを処理したかったんでしょう。それにあなたには相当な値がついていた」
「…………」
「当然ながら売られたくなかったあなたは、その場で院長の記憶を消しても良かったが、結局は一時しのぎにしかならないだろうと思ったのか、殺すつもりで来訪した。持参した凶器で殺害。証拠を隠蔽し、冷蔵室に安置。談話室へ戻り、速やかに全員の記憶をロックして気を失わせて、貞金くんの記憶を復活。『みんなが大変なの、手を貸して』なんて言ったんでしょうけど、彼に記憶を読み取らせて、必要な部分を改竄。具体的には、自分の犯行時刻の記憶とロックを掛けた時の記憶を消し、消された直前と直後の記憶をつなげる。作業終了次第、彼自身にも自分の記憶を読み取らせて、地図を描かせる。それを参考にして自分の痕跡を消して、彼の機能に関する記憶を改竄する。その後、目覚めた私たちには、記憶に途切れた部分がないから不審にも思わない。あなたはそうやって、何食わぬ顔で談笑を再開した」
「…………」
「証拠は、加賀谷さんの記憶。そんなものを何故残したのかは推測の範囲だけど、彼女の記憶を操作すると、加賀谷さんとの関係が白紙に近づいてしまい、仲を保つためには都合が悪かった。一人くらいは自分を疑わない人間が欲しいものね。現に、彼女はあなたのことをまだ犯人だって信じきれていないわ」
何も言わない。
「地球で、それなりの施設でこの記憶を解析してもらえば、あなたをブタ箱へ送るくらいわけないと思うんだけど、どうかしら? あとはあなたが機械化されていることを証明するために、腕の皮でも剥げば良いんだけど、そこはあなた次第ね」
彼女の次の言葉を待った。
しかし、
「知らないわよそんなの!」
住ノ江は逃げた。
向かう先は……
「雄一郎くん!」
茅島ふくみが叫ぶ。
それを聞くが早いか、貞金くんが陰から飛び出す。
走ってきた住ノ江ともつれ合う。
彼は住ノ江の額を掴んで押さえつけた。
だが、跳ね飛ばされる。
転がってきた貞金くんの表情は、明るかった。
「記憶を…………読み取った……あなたの、犯行の瞬間と、変更後の緊急起動コード……これで少なくとも、脱出ポッドは起動できる……」
「やるじゃない」
だけど住ノ江は笑った。
「だからどうしたってのよ!」
彼女はまた走り始める。
扉、書かれているのは『動力』。
一体何を。
「雄一郎くん、あいつを止めて!」
貞金くんが走っていった、その後を追いかける。
しかし、
追いついた時には、
『警告、軌道制御エラー』
そんな機械音声が響く。
「あんた……なにやったの?」
茅島さんが睨む先には、住ノ江。
備え付けのコンピューターを叩き壊していた。
画面が割れて、何も映し出していない。
彼女の手には、ここに隠してあったのか、鉄の棒が握られている。
「軌道を変えたの」
警告音が鳴る。非常灯が点滅する。
「このステーションは、あと数時間で地球の大気圏へ突っ込みます」
「解除コードを知っていたの……?」
「知りませんね。だけど、私の機能は、コンピューターにエラーを起こさせるくらい、わけないんですよ。じゃないと優花ちゃんの記憶をいじれませんから。それに動力は、構造が単純ですし、電源もサブシステムで生きてますから、地球へ向かうという命令も簡単に受け付けてくれます」
本性。
彼女の本性を、私は見ている。
表情は変わらない。佇まいも変わらない。ただ単に、彼女が犯人であると認めただけで、私の中ではまだ解せなかった。
住ノ江は、笑顔で、私と話していた時と同じ顔で、続けた。
「この速度だと、そうですね、地球まで二時間くらいですか。ステーションには勿論大気圏突入が可能な設備なんてありませんから、燃え尽きて塵になるだけですよ。操作端末も破壊したので、たとえメインシステムを復帰させても、徒労に終わるだけです。もう、軌道は変えられないです」
「なんで私達から全てのパスコードを忘れさせたの?」
茅島さんが話を遮るように尋ねた。
住ノ江は、また笑う。
「いやね、だって、逃げられると困るじゃない。私はね、どうしてもここを、昔みたいにしたかったの。ずっとここで、暮らしたかったんです。だから、誰も逃がすわけには行かなかった。欠けちゃいけないんですよ。いわば家族なので」
そして、住ノ江は語る。
「私の機能っていうのは、ふくみちゃんの言う通りなんですけど、記憶操作。人の記憶を改竄することが主な機能なんですけど、私ともなれば意識だけを失わせたり、一時的に封印したり、ブランクデータを上書きして、記憶を消去することもできます。まあ、記憶っていうのは、複数の事柄を関連付けて脳に押し込めてありますから、それだけで完全に封印も消去も難しいんですけど。現に君、雄一郎くんは、私が記憶を戻す前に、自分の機能を思い出しましたね」
「私の記憶が無いのもあなたの仕業?」
「それは後で言うけど、答えは明確じゃない?」住ノ江が、不思議なほど落ち着いた口調で諭す。「動機はあなたの言う通りです。院長は、私が昔に重い病気を患った時からお世話になってる、いわば主治医なんですけど」
「何の病気よ」
「言いたくないですけど、余命が言い渡されました」
平然と答える。
「それで身体を部分的に機械へ取り替え、延命を施してくれた上に、こんな機能まで搭載してくれて、院長には感謝の念くらいはあるんですけど、彼も人間ですし、お金に目が眩むことだってあります。私を売ろうとしたんですけど」
「人身売買ね……」
「ええ。今までは何処かへ売られそうになると、院長の記憶を消して、取引先に断りを入れて、お茶を濁していたんですけど、それもやがて限界になった。院長が記憶を消された事自体に気づいたから。私は、話をつけに行ったんです。何故あの時間だったかは、まあ、見られては手間が増えるので、誰も来ないような時間帯を、と思って。殺すつもりでしたけど、一応説得を試みました。ですけどあいつ、まったく言うことを聞かなくて、しょうが無いので、刺しました」
――。
「家族に、あんな人、必要ありませんから」
「あなた、おかしいわ。あの冷蔵室にいた二人も殺したわけ? 殺して、今の下向をその立場に無理矢理押し込めたの?」
「ああ……これも話すと長いんですけど、良いでしょう。手短に」
彼女の話し始める内容。
「まず、あなた達大学生は、ここに来て二、三日、というわけではありません。あなた達が来たのは、八月の頭。四日、でしたっけ。ここには二十六日間ほど滞在していることになりますね。この辺りを誤魔化すのには、日記やデータや着替えの問題で苦労しましたが、なんとか」
「それ、本当なんですか……?」
「あら、加賀谷さん。ええ。本当のことです。あなた、友人と喧嘩中でしたよね。学生連中の中でも、あなたは簡単そうだったから、記憶を触るのは最後にしました。これをまあ、最初の事件、としましょう」
ふふ、と笑う。
「八月の頭から数日に渡った最初の事件。殺したのは青年。下向さんです。あの下向さんとは違って、本物のね。今の下向さんは、私が殺しちゃった代わりに仕立て上げた、紛い物のスタッフでしたが、家族を形成する上では、欠員を出すわけには行かなかったので、都合が良かった代役を。死体を見つけたのは、確かあなたでしたね、茅島ふくみさん。例によって冷蔵室に隠してあったものを。彼を殺したのは何処だったか忘れましたが、動機は覚えています。彼が、次は私を売ると決めたんです。院長とグルでした。とにかくそれを知った私は、抗議に行き、殺しました。生かす意味ないですから。一応記憶をいじろうとしましたけど、貞金雄一郎くんの協力がないと、記憶削除や改竄はメチャクチャになってしまうので。殺したほうが早いかな、とも思って」
「……正気じゃない」
「後の人たちは、順番に記憶をリセットして回りました。具体的には、脳全体に軽いロックを掛けて意識を失わせた後、全員を一箇所に集めて、貞金くんにお願いして記憶の地図を書かせて、それを参考に記憶改竄作業に当たりました。雄一郎くんは素直に言うことを聞いてくれましたし、記憶を読んでも私には何も言いませんでした。ふふふ。改竄の過程で、新しい役割を与える人には与えました。ですが、その意識を失わせる過程で苦労しました。順調に作業を進めて、最後に残ったのはあなた達。ふくみちゃんと加賀谷さんでした。加賀谷さんの部屋で、二人で隠れていましたよね。談話室からナイフを持っていったのを覚えています。まあ、あなたたちは喧嘩中だったので、一緒にいたくもなかったようですけど。私が部屋に押し入ると、ふくみちゃんが飛び出してきましたが、一度殴りました。でも逃げられた。部屋に隠れていたあなたは、ナイフこそ持っていましたが簡単に見つかったので、意識を失わせて、記憶をとりあえず思い出せない状態にした。そうそう。何か、机の下にメッセージを残していましたね。『逃げて』と。記憶を消されて何も知らない自分へ、せめてメッセージをと思ったんでしょうが、まあ、用心深いあなたの頭なら、むしろそんなもの、狂人の落書きで片付けると思ったので、無視しました。あとは逃げたふくみちゃん。図書室にいました。何か手紙を書いていたようですが、まあ、どうでもいいので無視して近づきました。『やるならやりなさいよ』なんてカッコつけて。そのまま気絶させました。そしてこれが本当に辛かったんですけど、引きずって全員を談話室に集めて、さっき話したとおりに記憶を改竄しました。これが最初の事件ですけど」
…………あ
「なにが手短よ。話が長いのよあんた」
「しっかり聞いてたくせに。それで、その後からですね、私が職員を装ったのは。あなたをここの患者に見立てたのもこの時からです。あなたは、ここにはまだたったの三週間程度しかいないんですよ」
ああ――
なんで、
あなたを、忘れていたのだろう。
「ちょっと、加賀谷さん、どうしたの?」
あの時のように、独りでに溢れてきた涙を止められなかった。
今、私は忘れていたことを、取り戻した。
何よりも大切なことを。
「いいえ…………なんでも……」
「わかってないのはあなただけですよ、ふくみちゃん」
思い出すと同時に、ずっと探していたあなたに出会えた気がした。
あなたに会わせる顔なんて、まだ用意していなかったのに。
「茅島ふくみさん、あなたはね、もともと加賀谷さんと同じ大学に通っていた、彼女の友人だったんですよ」
あなたはすぐに見つかった。
「私が……彼女の同級生?」
「はい。喧嘩中だった加賀谷さんの友人はあなたのこと。加賀谷さん、ふくみちゃんには、友人のこと、話さなかったんですか?」
「…………いえ、一度か二度ほど」
「それが私だって言うの?」
「そこまで言われても、思い出さないですか?」
「いいえ。そんな暇ない」
思い出さなくていい。
あなたとは、まだ会いたくない。
私みたいな惨めな人間を、あなたに見られたくない。
「そうですか。あの時は困りましたよ。初日からふたりとも、世界の終わりみたいな顔して、加賀谷さんは乗り物酔いで戻すし、あなたはずっと思いつめた顔をして晩御飯も食べなかった。それでも、私があなたをここの患者にしようと思ったのは、最初の事件で私と現在の下向さんを、患者から違う役割に変えたので、患者が減ってしまったことに因る補填です。丁度良く、あなたの耳はすでに機械化されていたので」
「私の耳はここで手術されたものじゃないの?」
「違いますよ。地球にいた時に、どこかの病院でしてもらったんでしょうが、そこまでは私は知りません。現にここでは取り扱ってないパーツで構成されている筈です。まあ、そんな事もあって、あなたをここの新しい患者として装うには、ものすごく都合が良かった。雄一郎くんと優花ちゃんのお姉さん役、見事でしたよ。おかげで楽できちゃった」
「そんなのどうでもいいわよ」
聞きたくなかったのか、彼女は話題を切り替える。
「もうひとりの死体は? 女の子の方」
「それはその次の事件なんですけど、これを第二の事件としましょう。八月の、まあ中頃、でしたっけ。あなたが患者になって、まだ間もない頃です。新しい患者が来たんですよ。可愛い女の子なんですけど。そう、そうです。あの絵を描いた娘。あなたたちも見た、と饒平名さんが言っていました。私もこの時は、職員を装うのに必死でした。なにせ、何の知識もないので、暇を見ては雄一郎くんを使って『あなたの機能練習の一環として』なんて口実をつけて、岩脇さんから記憶を抜き出して、自分に知識として付与していましたけど、それでも苦労しました。殺したのはその娘が来て数日後、ですね。動機は簡単なんですけど、まだ私も慣れていなかったので、仕方ない部分もあるんですけど、機械化能力を持っていることが、その娘にバレてしまって、仕方なく。最初は気絶だけして、雄一郎くんを呼んで、後で綺麗に消そうとしたんですけど、幼いですから、脳がまだ未発達で、少しいじっただけで自我に危険が及びました。そこから修正するよりも、殺したほうが彼女にとっても楽だなと思って、そうしました」
「…………酷い」
「あとは前回と同じように、全員の記憶を同じ方法で改竄しました。この頃から、段々貞金くん無しでも、大雑把な部分であれば記憶を消したり変えたりすることが出来るようになっていました。慣れですね。また残ったのはあなた達。記憶を消しても、あなた達の仲はずっと悪かった。当然ですね。私が、ふくみちゃんに、加賀谷さんと喧嘩するように、そういう軽い記憶とも言わないような悪い感情を植え付けていたからなんですけど。今度はふたりとも同じ部屋で仕留めました。その前に会話が聞こえたんです。『なにか、メッセージを残しましょう』『何をですか? どうしたらいいの!』『なんでもいいわよ! 逃げて、とか、ここは危険、とか! とにかく記憶を消されても、思い出さないと!』、まあ無駄でしたね。引きずるのは今度は面倒だったので、全員に一つだけ記憶を植え付けました。『倉庫に行かなければならない』と。みんな自分の足で歩いてきて面白かったです。記憶を改竄する作業が終わったあとは、患者だった青年を、下向に仕立て上げました。そして、あとから良いことを思いつきました。殺した娘の代わりを、加賀谷さん、あなたにしようって決めたんです」
指を差されたが興味がなかった。
「あなた、あの娘に雰囲気が似てるんですよ。だから今回の事件では、私に懐いてもらおうと思って、仲良くしたんです。あの子、あんなにいい子だったのに、殺してしまったのが惜しくて。まあ、やり直しと言ったら、大問題なんでしょうけど、もう一度頑張ろうって思ってました」
回想4
喧嘩の原因なんて、些細なことだった。
共同研究でレポートをまとめている時に、ふとした拍子に衝突した。
まあ、それ自体は全く無くはないことだったが、私は不意に、漏らしてしまった。「こんなことなら、留学の話を受けるんだった」なんて、彼女に対して、自慢げに。
しまった、と思った。
もう手遅れだった。
「は? なにそれ、聞いてないし」
友人、茅島ふくみは当然怒る。
「じゃあ共同研究はどうすんのよ。あんた、適当にほっぽりだして、自分だけ海外に逃げようって思ってたわけ? 真面目に取り組んでた私がバカみたいじゃないの。どうせ留学するからいいやなんて、こっそり思ってたから、あんたは適当なのよ。責任がない。興味がない。全部私がリードして進めてる。その自覚はあるの? 留学なんて、まぐれもいいところよ。勝手に行きなさいよ」
それだけ言われると、さすがの私の逆鱗に触れた。
「…………なんだよ、こっちだって、そんな話、もらいたくなかったよ! 留学なんてするつもり全く無かったんだから! そっちがそんな態度なら良いよ、留学でも何でもしてやる。あんたなんか二度と見たくない!」
「断るつもりだった、なんて。嘘も大概にしなさいよ。いいわよね、選べる人は。私なんて、人のお守りばっかりで、自分の結果が出せないんだけど、そんな話、一回ぐらい貰ってみたいわよ。ああ、羨ましい」
「……ふざけんな。誰がお守りだよ。あんたが好きでやってたんでしょ」
「好きじゃないわよ、あんたなんか。消えて」
「こっちだって頼んでないよ。あんたが消えてよ」
「誰がこの教室借りたと思ってるのよ。あなた、自分で借りられるの?」
そう言われて勢いで、私は飛び出す。資料や機材を、数個蹴飛ばしたような気がした。
駆け抜けた。
冷静になれるまで駆け抜けた。
息が上がった。
泣いてなんかいない。
そのはずだった。
そのつもりだった。
教授に呼び止められた。異変には気付いていない。
ずっと保留にしていた留学のことを聞かれて、私は顔を見られない内に承諾した。
断ろうと思っていた。
茅島ふくみとの共同研究を投げたくなかった。
だけどもういい。
もういいんだ。
そうして私は、一人の友人を失ったうえに、来たくもなかったゼミ合宿に呼び出され、今日に至る。
2
「さて、まあこの際だから今回のことも話しますけど」
住ノ江は顔色も変えずに言う。
茅島ふくみは、黙って真剣に聞いている。
「まあ、だいたいあなたの考えで正解です。また売られそうになったから、院長を殺した。それだけです。そして加賀谷さんと仲良くしなくちゃいけない。私に懐いてもらわないと、あの娘の代わりにはならないですから。記憶を一人だけ消さなかったのは、本当にそれが理由なんですよ。私との会話を覚えていてほしかった。私に懐いていて欲しかった。私の味方になっていてほしかった。だけど、あの時私がいないことを覚えていると、不都合がありますから、記憶を操作して、加賀谷さんの記憶の中に、私を作り上げた。想像で肉感や、それこそ音響面などの全てをでっち上げることは、ハッキリ言って難儀でしたが、まあ他の場面を参考にして設定しました。それでも深くは思い出さないと思いましたから、手を抜けるところは抜きました。でも……それが仇になりましたね。残念です……その音から追い詰められるなんて。グラスかあ……私はあなたほど耳がよくありませんから、そんな音が影響するなんて思いませんでしたね。さほど大きな音とも思いませんでしたし……」
「環境音との整合性だけなら完璧だったわ。あれは非日常的な音だったから、上手く取り繕えなかったのでしょうけど」
「褒めてるの?」
「そんなわけない。沼山くんは?」
「彼はまあ、孤立していて都合が良かったんで。記憶を封じて、外に出さないように、一つだけ覚えさせたんです。『鍵をかけて閉じこもらないといけない』って。荷物も、持っているメモリーカード等のデータも書き換えないといけなかったので、漁りました。パスワードは最初の事件の時から、全員分を予め雄一郎くんに読ませておいたので」
「じゃあ小ヶ谷響子。もとい私達を襲った理由」
「別に。大学生連中なら一緒に仕留めたほうが良いと思ったし、なるべくあなたを優先的に無力化したかったんですけど、寝ている間もあなたは警戒を怠っていないし、それ以外はずっと加賀谷さんと一緒にいたので、じゃあ逆に気にかける要素が多い大人数でいる時に襲えば、やりやすいかなと思って。死体が見つかった時から、こっそりと小ケ谷さんにはある記憶を植え付けてありました。『診療記録を図書室で見たことがある。医療セクションに移っているかもしれないと思った』っていう。まあ嘘なんですけど、おびき出すことには成功しました。雄一郎くんの言う、もうひとりの患者っていうのは、降って湧いた噂なんですけど、私から目を背けさせるという意味では、都合が良かったのでそのままにしました」
「結局私を襲えなかったのは、自分が怪我しそうになったから、ね」
「はい。まさかあそこで小ケ谷さんが飛び込んでくるとは思わなかったし、何もかも不意を打たれたので焦りました。だって、怪我をすると襲ったのが私だって、バレるじゃないですか」
「暗視ゴーグルは」
「もともとありました。有事の際にって、院長が持っていたんです」
「じゃあ下向は?」
「知りませんね。勝手におかしくなったんですけど。まあ、自分の立場とあまりに実感のなさには、当然嫌気が差すんでしょうけど。でも、まさかあそこまでおかしくなるなんて。人格を形成する際に、私の私怨が出たんでしょうね。元々の下向さんのこと、大嫌いでしたから」
「何故院長を殺した後に、私達から院長に関する記憶自体を消さなかったの?」
「どうせこの施設は彼の痕跡が多すぎて、少し記憶を誤魔化した程度では誰かすぐに思い出してしまう。しかも柿林教授から院長のことを消すと、彼の自我が壊れるんです。彼の大部分を構成しているのは、院長との記憶。むやみに消すと、性格まで変わっちゃうから、つもりどうしようもないから、院長に関する記憶はそのままにしました。院長は出張に行っているというカバーストーリーを植え付けてもよかったんですけど、院長不在でゼミ合宿をするような教授でもないですから、彼にはすぐにバレると思って。むしろ、どちらかと言えば、死体を見つけてほしかった。あいつは悪行に対して報いを受けたんだって、誰かに知ってほしかった。そんな思いもありました。死体なんて見つかっても、またやり直せば良かったし、そこまで隠蔽には躍起になっていませんでした」
「雄一郎くんの機能」
「忘れさせていたのは、単に覚えていると、それを誰かが使って、私という存在に迫られるので。都合がいい時だけ思い出させて、その後はすぐに忘れさせました。それでも雄一郎くんが私を疑うことはありませんでしたし、私の言う事ならなんでも聞いてくれました。ロックされた人の記憶を読んで、私が犯人だって知っても、君、私のことが好きなんだもの。それでも私のことを突き放すことはなかったよね? 犯人だって知っても、好きでいてくれたから、やりやすかったです」
「…………黙れ」
貞金くんが苦し紛れにそう言うと、住ノ江は微笑んだ。
「ロックされた記憶でも雄一郎くんは読めるの?」
「ええ。隠しようがないんです、彼からは。だからあえて何も変なことを考えないで、そのままお願いをしました。彼はいつも、記憶を読み取る時に私が犯人だって気づいていたんですけど、毎回何も言わないで私に従ってくれましたね。私のことが好きだから」
「…………ふくみ姉さん、ごめん。俺、こいつが犯人だって、わかってたのに……」
「謝ることじゃないわ」
住之江は、手を叩いて私達を見据えた。
「それで、どうする? ふくみちゃん。私のこと、許せない? でも、いまさら、そんなことしたって意味ないよ。どうせみんな死んじゃうんだし、最期くらい仲良くしない? 私は、ずっとここにいたかった。ここで安らかに死にたかった。病気で死ぬって言われて、家族も失って、やっと得られた私の居場所。手放したくない。邪魔な因子は排除する。そうしてでも私はここを保ちたかった。ここにずっといたい、出たくない。それだけ。だから、あなたたちは殺さなかったでしょ。ねえ、ふくみちゃん、加賀谷さん、雄一郎くん、ここでずっと、私と一緒に幸せに暮らしましょう?」
何を言っているのか分からない。
支離滅裂という言葉を、私は理解する。
手を差し伸べる住ノ江に、茅島さんは、
「寝言は寝て言いなさい。私はあなたを捕まえて、みんな雁首揃えて地球に帰るわ。って言ったら、あなたは大人しくしてくれる?」
「それこそ寝言ですね」
住ノ江は指の間接を鳴らした。
3
殺意、抑止、憎悪。それとも愛情、思いやり、思慮。
住ノ江から感じる感情を、よく理解できない。
十分に距離は取ってあるが、気がつけば内蔵を抉られそうな恐怖感もあった。
警告音と、警告灯が、うるさくチカチカ光っている。
落ち着けない。
気が散る。
歯ぎしりをしていると、茅島さんが私達に話す。
「加賀谷さん、雄一郎くん。無茶な話なのはわかってるけど、黙って聞いて」
「…………」
私は何も言えなくなったが、彼女は構わず告げた。
「あなたたちにしか頼めないんだけど、いい? 今すぐ、脱出ポッドを起動させに行ってくれないかしら。起動コードなら、さっき読み取ったでしょ。それがあればメインシステムが死んでいてもポッドは動くわ」
それは、自分を、見捨てろということなのだろうか。
バカげた話だ。
「そんなこと、出来ませんよ! 何言ってるんですか!」
私はそう怒鳴った。あまり効果はなかった。
貞金くんが努めて冷静に、私を制して、言った。
「わかりました。任せて下さい」
「貞金くんちょっと待ってよ、ふく……茅島さんはどうするんだよ! こんな奴放って逃げましょうよ!」
「それが出来たら苦労しないわよ。ここで取り逃がしたら、なにされるかわかんないわ」
「そんなこと知りませんよ! そんな奴置いて逃げればいいじゃないですか!」
「そう簡単に、こいつが見逃してくれるわけ無いわよ。酸素や重力を操作されたら、もうどうしようもないわよ」
「それでも嫌です!」
「お願いだから言う事聞いてよ!」
私は、そこまで言われて、頷くしかなかった。
「…………必ず、後で来ますよね」
彼女は、あっさりと、首を縦に振った。
「私を誰だと思ってるの。あなたの友人。こいつを縛り上げて、安全を確保したら、さっさと追いかける。それまで脱出ポッドの中で、じっと待っていなさい」
そう宣言する彼女は、美しい。
彼女が言うと、どんな言葉でも、味覚を支配するように、私の心を掴んだ。
「絶対ですよ……絶対……来て、ふくみ」
「ええ。任せて……彩佳」
最後かも知れない笑顔を、彼女は私に、選別であるかのように見せた。
受け取って私は、大げさに宝物のように胸にしまった。
「行きましょう、加賀谷さん」貞金くんが急かすように言う。
手を引かれながら、私は友人を、胸が痛くなるほど気味の悪い場所へ、置き去りにして、ここを去った。
○インタールード
チカチカと光る電気が鬱陶しい。
耳を刺すサイレンが、茅島ふくみを苛立たせた。
対峙するは、この事件の黒幕、住ノ江ナキ。
距離は数メートル。
それでも、彼女の耳にとっては、住ノ江の挙動を予測することなんて容易い。
「バカね、あなたたちって」
硬直していた空気が動き始める。
わざわざ様子を見ていた相手から、そんな声を掛けられると、茅島ふくみの心中は穏やかではなくなる。波風立たない水面に岩を投げ込まれた気分だった。
茅島は何も答えなかった。
惑わされるな。ただの雑談。自分がすることはたった一つ。こいつを軍門に下らせること。そのためには隙をついて、拾ったこの瓦礫で、頭を殴打すればいい。
イメージは完璧だった。
だが、向こうの余裕が気にかかる。住ノ江は、いつものように、変わらない笑顔で、スラリとした両手足を、まるで殺意なんかありませんよ、とでも言いたげに、ぶら下げているだけだった。
不本意ながら、人並み以上の洞察力を有する茅島ふくみは、そんなことは十分に感じ取っていたが、だからこそ同時に恐ろしかった。
この状況で、なにを偉そうに。
彼女は自分の耳を、少し忌まわしいと思うのと同時に、絶大に信頼していた。故に、相手がいくら記憶を好き放題に改竄できようが、この状況に於いて、自分に勝てる見込みは限りなく低い。今の自分の性能を限界まで注ぎ込めば、住ノ江の筋肉の伸び縮みする音を聞くことだって、実際不可能ではなかった。向こうが動く前に、数回程は殴り倒せる自信があるし、何度やってもそういう計算にしかならない。
じゃあ、何故、私は過去に二度も敗北を期したのか。
覚えていない以上、反省のしようもなかった。
慎重に行こう。耳を貸すな。口を開くな。殴り倒すことだけを考えろ。
昔の私のことは知らないが、敗北の味は私の身体が記憶している。
奴は危険。
気を抜けば、前と同じように、お前の時間は巻き戻される……いや、もう死ぬ以外の未来はない。
「本当に脱出ポッドが起動できると思う?」
「……壊したの、あんた」
「いいえ。あんな頑丈でアナログなもの、私にはどうしようもないんですよ。そうじゃなくて、ふくみちゃん」
「名前を呼ぶな」
「ふくみちゃん、私の頭から掠め取った緊急起動コードが、本物だと思ってるわけ?」
「…………」
「読まれると思っていたので、一応自分の記憶を捏造しておきましたが、功を奏しましたね。脱出ポッドなんて使われたら、私の苦労が台無しになっちゃう。みなさんに探してほしかったのは、メインシステムの解除コードですから」
「……糞だわ、あなたって」
「口が悪いわよ、ふくみちゃん」
「黙れ」
……。
「わたしはね、ふくみちゃん。こんなセキュリティ、さっさと解除して、元の生活に戻りたかったんですよ。それでシステムを復旧させようとしたり、起動コードの手がかりなんかをずっと探してたんだけど、でも間に合わなかった。あなたに追い詰められました。だから、全部なかったことにして、死にます。思い出が美しい内に、私の身体が元気な内に、全部なかったことにして死にます」
「そうやって何でもなかったことにしてるから、あなたは前に進めないんですよ」
言うが早いか、茅島ふくみは手に持っていた瓦礫を投げた。
開戦。
火蓋。
悪あがき。
彼女らの様子を形容するのに、様々な言葉があった。
茅島ふくみの投げた瓦礫は、住ノ江ではなく、天井の、ずっと部屋を照らし続けていた電灯に当たる。
割れる音が鳴る。
辺りが、闇に落とされた。
黄色い警告灯だけが、彼女達の表情を照らし出していた。
「私の機能、忘れたわけじゃないわよね」
茅島ふくみの狙い。自分の有利な条件を整えること。
警告音だけはどうしようもないが、そんなものは意識に因って気に留めないことだってできる。
とにかく相手の視界を奪うことは、彼女の優位を際立たせる。
彼女にとって、ここは蜘蛛の巣も同然だった。
砂埃のような軽さで、駆けた。
足音が自分の体重を浮き彫りにした。
手の届かない範囲も、自分の領域にした。
一歩、二歩、三歩、
瓦礫を拾う。
そのまま茅島は、住ノ江に直行する。
踏み出す。
音が、何らかの金属面に反射する。
やはりな。
彼女は身体を捻って、横へ飛んだ。
そこへ住ノ江の持っていた棒きれが飛んでくる。
「クソ……!」
「児戯ね」
茅島ふくみは、その場で足を振り上げる。
命中したのは、
住ノ江の掛けていた暗視ゴーグル。
「あ……」
空気を切りながら飛んでいくゴーグルを見届けずに、瓦礫を振りかぶって、住ノ江にぶつけに行った。
鈍い。
「痛……!」
腕でそれを防いだ住ノ江が、呻いた。
気にするな。
相手は最早人間じゃない。
しかし、咄嗟に髪を掴まれ、
額を押され、
床になぎ倒される。
頭を打って、目が回る。
天地がわからない。
が、
来る――
そう直感した茅島は、躊躇いなく身を転がした。
棒が床にこすれる音。
思いの外、重量を感じる。
死を逃れた。
死を逃れたのに身体が痛い。
ああ、
ナイフで刺された傷が開いたのか。
身体から生暖かいものが流れている実感。
息が乱れる。
足が鈍感になる。
「ふくみちゃん、痛いの?」
「しゃべるな……!」
「駄目よ、怪我してるんだから。見せて」
――気配。
逃げる。
棒。
振り回す音が続いていた。
自棄。
そんな言葉を実感した。
あいつは死のうとしている。
私を殺すことでさえ、どうでも良いと思っている。
止まない音。
しかしそんなヤケを起こした人間の末路はただ一つだ――
茅島ふくみは、音の切れ目を聞き、
「住ノ江――!」
瓦礫をねじ込む。
肉、
骨、
それらを抉る手応え。
殴り倒した。
音は鳴っていない。
沈黙した。
事件の首謀者は動かない。
床で住ノ江の血が広がる感覚。
はあ――
ため息。
もう、立てなくなった。
自身も床に倒れ込む。
痛みで何も考えられない。
……これじゃあ、加賀谷さんの所まで、行けそうにないかな。
だけど私は……こいつを叩きのめすことが出来たから、
それで、あなたも許してくれるだそうか。
なんて、
「痛いなら、見せてくれないと」
――住ノ江
知覚した時には、既に手遅れ、
腹を殴られる。
「う…………」
「バカですよ、あなた。さっき触れた時に、記憶をいじらせてもらった。『暗視ゴーグルを失った住ノ江ナキが、棒を振り続けている』という記憶を植え付けたの」
蹴られる。
「ああ……!」
蹴飛ばされた。
無残に朽ちる。
身体が動かない。
ボロ布のように。
そして、頭を掴まれる。
「あなただけは、入念に始末してあげる」
あ――
■
意識。
彼女は、そんな物があったのかさえ疑わしく思った。
ただ漠然と、宇宙空間を浮遊するデブリのような気分を感じていた。
手足の感覚を忘れた。元々あったのか、彼女にはわからなかった。
自分は――誰だっけ。
何をしていたのかも、
どうしてこんな事になっているのかも、
泡沫のように、弾けていくが、興味すら湧かない。
だけどなにか大切なものが失われている、嫌な喪失感だけがあった。
私は、負けてしまった。
誰に? 覚えていない。
よくわからない。
だけどまあ、そのまま死ぬほうが、賢いのかも知れない。
この世に未練を残すよりも、全部忘れてしまったほうが……
彼女。
そうだ。彼女が逃げてくれればそれで良い。
どうして? 覚えていない。
それだけが、私の目的。何故そんな脅迫を感じていたのかさえ、頭から抜けてしまったが。
いや、忘れてはいけない。現に忘れていたが、失ってはいけない記憶がここにあった。
彼女とは…………友人。だった。
本当に、どうでも良いことで喧嘩をしたが、彼女の態度が気に障った。何より、ずっと隠されていたことが、気に入らなかった。何のことかは忘れた。
本能で覚えていたのだろうか。彼女を生かさなければならないことを。少しでも、彼女に、罪滅ぼしというわけでもないが、貢献すれば、その気持が軽くなると思っていたのだろうか。
そうだ。あそこで最初に彼女を見た時、そう思った自分が、気持ち悪くて、認められなかった。
なので嫌われるようなことをした。はず。これは忘れていい。わざと危険な目に遭わせたこともあった。忘れよう。
彼女、無事に逃げられるだろうか。
絶望的な状況であることは、私を倒した■■■という人物から聞かされた。
どうか、あなたが、救われますように。
私のことなんて気にしないで、無事に地球に帰れますように。
あなたが生きていれば、他のことには興味がない。
そう、一つだけ、たったひとつだけ心残りがあるとすれば、あなたに直接謝ることが出来なかったこと。
最初、図書館で追いつめられた時、あなたに手紙を書いた。アナログが最も改竄の可能性が薄いからだ。
あれは一体、どこへやったのだろう。
加賀谷さん。
加賀谷彩佳。
彩佳……。
幸いに、名前をまだ覚えている。
あなたがあれを見つけてくれれば、
4
搬入口。
あまり立ち入らなかった場所に、私は望みを託していた。
久利、両ちゃんとも合流して、ポッドが起動したらみんなを集めよう、と相談した。今この部屋には四人の人間がいる。
ひときわ目立つ位置に、大きな脱出ポッドが構えてある。こんなに大きいのに、動かないのは完全に無駄だ。
それも起動コードをいれて、さっさと起動させれば終わり。
しかし、
「認証しない……?」
貞金くんが、接続されている端末に、要求されたパスコードを入力するが、徒労に終わった。
入力された語句が違うというエラーメッセージが吐かれるだけ。
動かない。
事実を突きつけられる。
「なんで!」
貞金くんがコンピューターを蹴った。
エラーメッセージは変わらない。
「記憶改竄……」私は呟く。「きっとあいつ、自分の記憶をいじって偽の脱出コードを植え付けたんだ……」
「なんでそんなこと!」
「……私達を弄んでるんだよ」
「誰も知らないわけ!? そんな大事なパスコード、なんで覚えてないの!」
耐えきれなくなった。久利が叫んだ。
「住ノ江ナキの機能よ。私達は全員、一度記憶をいじられていて、誰も脱出できないようにそれに関するコードは職員から取り除かれてて……」
「そんなの! ズルいじゃん! 何もしないまま、大気圏で燃えつきろって言うわけ!」
……。
為す術がなかった。
これを動かすパスコード、もしくは高望みだが、メインシステムを復帰させるコードさえわかれば、こんなポッドを使えるようにすることくらいは造作もない。
なんて、夢のよう。喉から手が出るほど、いずれかのパスコードが欲しい。どちらもとは言わない、片方だけでいいのに……
それでも、私には今、死ぬと言う選択肢がない。
彼女と一緒に、地球へ帰ること。
考えることはそれだけだ。
「優花、記憶を辿れよ! どっかで見たこと無いのか!?」
「都合よくそんなの探せないよ! 私はメインシステムに触らせてもらってないし! 雄一郎くんこそ、本当にちゃんと記憶読んだの!?」
「確かだよ! 住之江にやられたんだ!」
「好きだったから動揺してたんじゃないの!?」
「それは今関係ねえだろ!」
心なしか、ステーションの振動が大きくなっている。
時間が迫る。
何処かに、パスコード……
院長……彼の部屋に、解除コードすらなかった。
でも、何処かに……
「響子さんなら、こんな時…………やっぱり院長の部屋か。設定したのは彼だから、何かあっても……」
院長……
彼……
……
「そうか…………」
そう呟くと、久利が口らを見た。
「わかったよ、パスコードの在り処」
冷蔵室。
自分からここに足を踏み入れるなんて。
「ここにあるんですか?」
訝しんで尋ねる貞金くんに私は言う。
「院長の死体だよ。死体の記憶を読んで!」
何をバカなことを言っているんだ、という顔をされたが、彼は従う。
この室温、そして死んでいると言っても、そう日が経ってない。
ならば、脳細胞だって、記憶を未だ伴っている可能性が……
院長の死体の頭を掴んでいた貞金くんが叫んだ。
「…………本当だ!」
「何?」
「解除コード、これです! これがあればメインシステムを復帰できる!」
「本当なのそれ?」久利が訊く。
「やってみなければわかりませんが……」
「久利さん」割り込んで、私が言う。「みんなを搬入口へ集めて貰ってもいい? 私は教授を呼んで、沼山くんを連れてくる。あなたは小ケ谷さんを、岩脇さんと饒平名さんと。挽地さんは……連絡がついたら、呼んで。だめなら私が呼ぶよ」
目を見て話すと、久利が頷く。
「ええ、わかった……。加賀谷さん、あなた、急に変わったわ」
急じゃない。
「うん、まあ、茅島さんに鍛えられたから……」
思い出しただけだ。
苦い経験と、それに対する後悔を。
未だぐったりした沼山くんを、教授と二人で運んだ。
その途中でシステムが再起動したのか、今まで死んでいた電灯が復旧した。
久しぶり。
もう見たくもないが、ステーションの廊下が鮮明に映える。
そのまま急いで搬入口に行くと、ポッドが起動していた。院長から読み取った解除コードは正解だったようだ。
「加賀谷さん、やりました」
貞金くんが嬉しそうに、私に飛びつきそうになりながら言う。
「早く乗って下さい!」
教授と沼山をポッドへ送る。
中には両ちゃんしかいなかった。座り心地の悪そうなソファが備え付けられている以外には、何もなかった。柔らかい素材で出来ており、衝撃を和らげることに特化している。
腰掛けて、教授は私の顔を見て尋ねる。
「住ノ江くんが……本当か?」
「……はい。あの人は、記憶改竄の能力を。捕まえて、もうすぐ茅島さんが連れてくるところなんですけど」
やや嘘をついた。
「……そうか。茅島くんはいつ来る?」
「…………もうすぐです」
待っていると久利たちが。小ケ谷、岩脇、饒平名、そして両手を縛られた下向……。
彼らを押し込むと、ほとんどポッドは満員になった。茅島ふくみの席すら存在しないのかもしれない。
「ユノ……挽地は、連絡つかなかったわ……」
「私からしてみようか? 置いていくわけにも行かないよ」
「……メッセージも送ったんだけど、返事がない。あいつ……!」
そこへ、ふらりと人が現れる。
茅島ふくみかと思って振り返ると、挽地ユノ。
どこに隠れていたのか。
「あの、友里絵……」
なにか言いかける挽地を遮って、その顔を見ながら久利が、怒りながら叫んだ。
「バカじゃないの! 何処行ってたのよ! こんな時くらい素直に連絡とりなさいよ!」
「ごめん……顔合わせづらくて」
「…………もういいわよ。謝らないでいいから、黙って乗って……」
「……ごめん」
「地球へ還っても、いつもどおり接して……」
そう言われて、笑顔で頷く挽地。
茅島ふくみ以外の全員が揃った。こんな人数がいたことに、私は少し驚く。
揃ってしまったからには、待っていることが、不自然になった。
ふくみ……なにやってんの……
「茅島さん、来ないの?」と久利。
「……なにやってんだよ、あいつ」
「大丈夫かな」
時間が目減りしていく。
「あいつ……私を地球に送り返すって約束したんだから、見届けに来いよ……」
その時、端末が鳴る。
待ち焦がれたかのように画面を開くと、
『住ノ江ナキ』
そう表示されていたので、慌ててポッドから降りて、人から見られないように物陰で応答した。
「……何のつもりだよ」
無言。
「答えてよ」
『ふふ、あなた、私に挨拶もしないで、逃げるつもりなんですか?』
それだけ言われると、通信が切れた。
なんだ。
茅島ふくみはどうなった?
時間がない。
ここで時間を取られても不味い。
全員を道連れにしてしまう。
だけど茅島ふくみが気になる。
どうすれば……
どうしたら……
ポッドの前まで戻った、私の行動は早かった。
速やかにポッドの重い扉を閉め、中から声がかかることも気にせず、搬入口から離れた。
中から操作される前に、ステーション側の操作パネルのスイッチを押して、搬入口を隔離し、ハッチを開け、空気を排出して、宇宙空間と繋げた。
地球との間に、隔てるものはなにもなかった。
ポッドは間髪入れずに射出された。
呆気ない。
あっけなく私の脱出路は断たれた。
ああ、
これでいい。
心置きなく、茅島ふくみに会いに行ける。
5
明らかに施設全体の振動が強くなっている。
足を掬われながら、因縁のある場所へ。
『動力』
そう書かれた扉を、また見ることになるなんて、考えもしなかった。
その扉の前に、
茅島ふくみ。
彼女が――床に倒れている。
「ふくみ!」
私は口から発した、自分の言葉に驚いた。あまりにも必死で、怒りと驚きが混ぜ込められていた。
彼女は微塵も動かない。
それに、すぐ側には、あの忌々しい女が、彼女をまるで自分のものだと言いたげに、見下ろしていた。
ははははははは、
と、耳障りな笑い声を発して、女が息をする。
「なにがおかしいんだ」
「いえ、ただ、本当に来るとは思ってなかったので」
私が心を少しでも開いた人物と、同じ声で話す犯人の女。
「バカなんですか、あなたって。この子なんて、放って逃げてしまえばいいのに」
屈んで、無粋に茅島ふくみの顎に触れる女。
私は舌打ちをする。
「友達を、置いていけるわけないじゃん」
「なにが友達ですか。あなたたち、仲悪かったじゃない。極限状態に因る一時の気の迷いじゃないんですか、それ」
「彼女は私のすべてだよ。今こうしているのだって、彼女のおかげよ」
……。
「私には、彼女しかいない」
「は。美しい友情ですね。他の人達はどうしたんです? まさか逃した?」
「その通りよ。ポッドはもうない」
「……本当にバカなんですか?」
「否定できない。そこをどいて」
住ノ江の顔から、笑顔が消える。
未だ抵抗する彼女の思惑が見えない。
サイレンが大きく聞こえる。
「ふくみは生きてるの?」
人形のようだという使い古された表現しか、私は持ち合わせていなかったが、目を瞑ったままの彼女は、まるで人工物のように美しかった。
それだけに流血や怪我が、許せなかった。
「手を下していないから、死んではいないけど、どうでしょうね。私の機能で殺すなんてことは、相当工夫しないと難しいらしいので。人格は崩壊しているかもしれませんが」
拳を握った。
身体が落ち着かない。
「なに、したわけ」
「記憶を消しただけですよ」
このあと私が死んでしまうとしても、
たとえ記憶を失ってしまうとしても、
この住ノ江ナキという女だけは、この手で息の根を止めてやろうと胸に刻みこんだ。
「……私の記憶も消すの? それとも殺すの?」
「そうね」
楽しそうなその顔が気に入らない。
「記憶を消して、私に懐いてもらって、最期に私との信頼を最大級にして、一緒に死んでもらう」
「ふざけんな。私は、あなたを許せない」
「私を殺すの? 意味ないでしょ。私達の未来は、もう燃え尽きるだけなんだから」
「それでも良いよ……あなただけは許せない。あなたの亡骸を、このステーションと一緒に灰にしないと、私の気が済まないんだよ」
面白くなさそうに、住ノ江がため息をつく。
「…………ま、私を無事に殺して、残された時をふくみちゃんと過ごすのも、悪くないと思いますがね」
「彼女と脱出しますよ。生き残る」
「…………どうやって?」
驚いたように女が尋ねた。
「それはあなたに訊くよ。あなた、死ぬつもりなんて本当はないんでしょ。そんな顔してる」
まるで、もうステーションにも、私にも茅島ふくみにも興味が無いような、作られた面を貼り付けたような印象を、私は受けた。
それを聞くと、住ノ江は鼻で笑った。
「ふうん……。でも、それって可能なんですか?」
腕を鳴らしながら、ゆっくり近づいてくる彼女。
傷ついた彼女の腕から、血が滴っている。茅島さんが付けたものだろうか。その肉の隙間から、機械部分が見えるような気がした。気がしただけだろう。
「丸腰で来たんですか? 正気じゃないですね」
さて。
ようやく私は考えた。
勝てる見込みなんて、正直の所全く無かった。
ただ、私は茅島ふくみを探しに来ただけ。この女を退けるという事自体が、頭から抜けていた。彼女から通信が入った時、何故そのことを考えて武器を用意していなかったのか。自分を呪いたくなった。
近寄られる。
彼女の機能を使用されれば、私はすべてを忘れてしまい、そのまま屈辱の下に死ぬ。
運動能力で茅島ふくみに劣る私が、腕っぷしで住ノ江を止められるとも思っていない。体躯から考えても、住ノ江は私よりも背丈に恵まれている。
それに、人を数人殺しているような女、行動に躊躇いがない。
正面から向かえば自殺。かと言って回り込めるほど、速い足を持ち合わせていない。
近寄られる。
茅島ふくみは一体何で彼女を倒そうとしていなのか。
彼女が倒れているあたりを見ると、瓦礫が落ちていた。手で掴み上げられるギリギリの大きさのコンクリート片。本気で殴られれば、最悪死ぬ。
あれを取りにいけるほどの余裕はない。
持ち上げたところで、私に扱えるような武器にはならない。
――近寄られる。
じゃあ逃げようか。逃げれば冷静に武器を用意できるし、もっと有利な場所が用意できなくもない。茅島ふくみの部屋にでも行けば、何か殺傷能力を有する武器が一つくらいは転がっているかも知れない。
しかし、そうすると、彼女は茅島ふくみを躊躇いなく殺すだろう。本当にしないまでも、彼女に茅島ふくみの生殺与奪を握らせる状況を、これ以上作るべきではなかった。
考えても答えが出ない。
息を荒げる。
住ノ江の歩みは止まらない。
どうすればいい。
この部屋に存在しないのだろうか。辺りは一面コンクリート。ライフラインを司るだけの、面白みのない施設しか存在しない。あっても茅島ふくみが持っていた瓦礫の類しかない。
もしくは、すべてを投げ出して逃げる。
もしくは、降参する。
嫌だ。
そんな姿、ふくみに見せられない。
何か……
藁をも掴む思いで、何か……
私は何かを探した。
住ノ江との距離はもう余裕がない。
駆け出されれば、勝負は一瞬。
なのにあいつは驕っている。
なんでもいい、あいつを止められるような、何かを……
何か
――が――
あった。
それに気付いた時、
私は表情で悟られなかったか、心配になる。
ポケットを触った時、指に何かが、
――『近頃は機械化能力を悪用した犯罪が横行してて、』
中に手を入れてそのまま握りしめて、
――『あなたのことが本気で心配なの』
じっと住ノ江を待った。
――『こんなのプレゼントらしくないよ』
勝負は一瞬だった。
――『身体の機械部分にスタンガンは毒なの』
至近、
引きつけた住ノ江に向かって、
ポケット越しにスタンガンを発射した。
閃光と、火花が散る。
叫び声。
血。
神経が裂けるような音。
私は驚いて、尻餅をついた。
上着は焼けて、ポケットには穴。
住ノ江は動かない。
腕の皮膚がめくれ上がっている。
血が流れる。
奪ってきた命よりも、少量の血液が。
近寄って、私は彼女を確認する。
「……どんな気分ですか」
目だけでこちらを睨み、死にそうな掠れ声で、住ノ江ナキは言った。
「………………最悪ですね」
6
「そんな物を持っていたなんて…………不覚ですね……今までは…………使いもしなかったのに……」
住ノ江ナキは、床と一体になっている。
そして私は生きている。
「ふくみに貰ったんだよ。そんなこと、忘れていたけど」
「は…………くだらない…………」
住ノ江のことは放っておいて、私は急いで、ふくみの所へ駆け寄った。
「ふくみ! ねえ! 起きて!」
揺するが、返事がなかった。
傷口が開いていて、血が流れ出している。
スタンガンをベルトの間に挟んで、穴の空いた上着を脱ぎ、彼女のお腹に巻いて、彼女を助け起こす。引きずるような形になった。
「止められないわ、いまさら」
住ノ江が呟いた。よほどスタンガンが効いたのか、自分で動ける力はまったく残っていないらしい。流れ出す血を止めようとも思っていなかった。
ステーションの振動は、ハッキリと生活に支障をきたすほどになっていた。
「…………本当に死ぬ気だったの?」
「いえ…………あなたの考えが正解……死ぬつもりなんて、なかったんですよ」
「どうするつもりだった?」
「脱出用の乗り物はなにもポッドだけではないんです……。私は、脱出用カプセルを隠し持っていました……患者が多い時期に……院長が気まぐれで、備えとして買ったんですけど……それに乗り込めば、何処に落ちるかわかりませんが、大気圏くらいは突破できるでしょう……まあ、乗り心地は多分最悪なので、最終手段だったんですけど……」
音を立てて呼吸をする彼女に、私は囁く。
「……あなたも来ませんか。罪なら償わせてあげるけど」
「バカですね……興味ないですよ……」
「……でしょうね」
「私はね、ずっとここで暮らしたかった……ずっと……時間が止められれば、そうしていた……。地球なんて厳しいところだったし、あなたたちなら、私の気持ち、わかるでしょ。ずっと、自分の居心地がいい所に、居座っていたいっていう……」
「……今の私には、それこそ興味ないよ」
住ノ江がバカにしたように笑う。
「ふくみちゃんの言うとおりだったのかな……私は、なんでもなかったことにしすぎたのかな…………」
「…………カプセルは何処に?」
「……それは言わない」
「どうして?」
「最期の、抵抗です……」
……。
「わかった。ありがとう。いい来世を」
「……地獄で会いましょう」
7
軽い。
茅島ふくみがこんなに軽いなんて思わなかった。
引きずりながら私が向かった場所は、倉庫。あの時、小ケ谷響子が待っていた場所。
振動もさることながら、気温すら上がってきたような気がする。
ここにカプセルがなければ、いよいよお終いかな。私はそう思う。
ガラクタの山。私はそこにだけ目をつけていた。
茅島ふくみを寝そべらせて、ガラクタを取り除いた。殆どがさほど重くもないものばかりだった。
辺りが散らかる代わりに、姿を見せたのが、
予想のとおりに、脱出カプセル。服用するカプセルと、それほど形状の違いは見られない。大きさは人一人が入れる程度。こんなもので大丈夫なのかと心配になった。
これに入っていれば、生きたまま地球には到達できる、と住ノ江は言う。
まあ、落ちた先が火山や樹海や砂漠や北極や南極でない限りだろうが。
カプセルの蓋に力を込めると、上半分がスライドして口を開けた。中はクッション材で包まれている。寝心地は悪そうだったが、茅島ふくみを寝かせた。それだけで、私が入るスペースは限りなく、無い。
そのまま蓋を閉めようかと思った。
だけど私とて死ぬつもりがなかったので、一緒に中には入ろうとは思った。
ふと、カプセルの近くに、見覚えのあるものが落ちている。
鞄。
これは、記憶を無くす前の、大学生だった茅島ふくみが持っていたもの。間違いない。私があげたのだから、当然覚えていた。
それを拾って、カプセルに入り込んで、蓋を閉めた。
狭い。
目を覚まさない彼女を、私は腕を回して抱きしめた。
彼女をクッションにしようとしているのか、守っているのかは、自分でもよくわからなかった。
大丈夫……
大丈夫……
心の中で数回唱えた。
しばらくしていると、大きな揺れが、
8
目が覚める。
息苦しい。
地獄にでも落ちて、住ノ江が手招きしているのかと一瞬思ったが、どうやら生きているみたいだった。
身体が重い。
腕の中に、茅島ふくみ。
生きている。そう実感はしたが、証拠がなかった。カプセルの中は、外気から完全に遮断されている。つまり、ここが地球上の何処かすらわかっていないし、そもそも地球をそれて、宇宙空間に投げ出されている可能性だって、無いわけではなかった。
蓋を開けようとした手が止まる。開けたら死ぬ。そんな可能性もなくはない。
それでも、彼女と一緒なら、と私は蓋を開ける。
眩しさが目を突き刺した。
太陽、空…………
ちょうど棺桶みたいになったカプセルに乗って、私達がプカプカ浮かんでいるのは、大海原だった。
身体を起こす。
見たこともないくらいに、広大な海が眼の前に広がっている。潮騒が聞こえる。波に合わせて。身体が揺れる。地平線が、手が届きそうなくらい近くに見えた。
そして腹が立つくらいに、空が真っ青だった。
気温は少し寒いくらい。
潮風が、私を慈しむように吹きすさんだ。
いつ以来だろう。こんな景色を見るのは。生まれてから初めてかも知れない。本当に地球なのかすら、疑わしいと言えば疑わしかった。
だけど私達は……帰ってこれたんだ。
気が抜けた。
笑いながら、カプセルに倒れ込んだ。
疲れた。
本当に、疲れた……。
安堵のあまりに、また泣いてしまいそうにもなったが、もういい加減に堪えた。そろそろ彼女に、泣き虫だって馬鹿にされるかもしれない。
眠ろう。
眠っても良い。
もう、私達を取り巻く、思い出したくもない事件は、この空に塵となって、大気中へ消えてしまった。空をよく見ると、高いところで、流れ星のような線がいくつか引かれていたが、綺麗ではあったがどうでもよかった。
茅島ふくみを、未だ目を覚まさないふくみを抱きしめて、私は彼女につぶやいた。
「帰ってこれたよ、ふくみ」
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