5章 遠い部屋にあなたを閉じ込めた
1
今まで、私達は彼に騙されていたのか、わからなくなった。
貞金くんに搭載された本当の機能、それは記憶を読み取ること。
それは、喉から手が出るほど探し求めていた手がかりを有する患者だったが、何故か素直に喜べなくなった。彼が犯人に加担しているという可能性と、私達に隠し事をしているという欺瞞が、私を万全にしなかった。
その証拠というわけではないのだろうが、彼に通信を飛ばしても一切の反応がなかった。まるで教授みたいだ。だけど殺されているという可能性は、下向が今隔離されていることや、彼の能力を有用視する犯人のことを鑑みると薄い。
呼び出してから二分ほど待っていた茅島さんは、素直に諦めて端末を切る。
「怪しい」それだけ言って、私に話を振る。「素直に電話ぐらい出なさいよ」
「……彼、やっぱり……」
「まあそう決めつけるのは早計だと思うけど……」
何かを思い立って、彼女はまた端末で通信を飛ばした。忙しない。
短く呼び出し音が数回鳴り、声が聞こえてきたのは両ちゃんだった。
『もしもし、ふくみさん。どうしたんですか?』
「優花ちゃん、今何処にいる?」
『え? 自分の部屋ですけど』
「わかった。今から行くから、そこでじっとして待ってて」
『ああ、はい、どうぞ……』
端的にやり取りをして、彼女は切る。
話し終えると、痛み止めが切れてきたのだろうか、少し、顔の歪みを私に見せた。
「ふくみさんですか? 入って良いですよ」
茅島ふくみが雑なノックをすると、中から両ちゃんが顔も見せずにそんな間の抜けた声を聞かせたので、私は調子が狂った。まるで友達の家に呼ばれたみたいな感覚だった。呼ばれたことは殆どなかったが。
彼女は暗い部屋、自分のベッドの上で、簡易な照明とともに、一人で本を読んでいたらしかった。日本時間で言うと、現在は朝の八時前だったが、彼女の身体は既に目覚めているようだった。病院の生活リズムなのか、茅島ふくみといい彼女も早起きなのだろう。
机の上に目立つ大きな機械類が目に留まる。なんだ。スピーカーだろうか。それらが視界を奪う他には、目立った趣味の痕跡も見当たらない部屋だった。衣類は奥にある衣装ケースに綺麗にしまってあると思われる。
厚い紙束をぱたんと閉じて、こちらに向き直る彼女が、小動物のように愛らしく見えなくもなかった。
彼女は私にも気付いて軽い挨拶をすると、さっそく茅島ふくみに話を振る。彼女が大怪我をしたことには気付いていない。暗いから血の跡もよくわからない。
「ふくみさんの勧めてくれた本を読んでたんですけど、凄い面白いですね」
「ああ、これ? 確かに他には代えがたい麻薬みたいな作品ね」物騒な喩えを述べながら、彼女はそれを手にとった。「早速なんだけど優花ちゃん、雄一郎くんってどうしてる? 連絡したんだけど出なくて」
「え? まさかまだ寝てる? もう、朝弱いんだから……」彼女は呆れ返った。「昔から寝起き悪いんですよね。私、起こしに行きます」
「いえ、後で良いわ。それより訊きたいことがあるんだけど」彼女はそのまま本題を繰り出した。「優花ちゃん、彼の機能って知ってる?」
何をそんな当たり前なことを、という顔を両ちゃんはした。私達をどう見ても見下しているときの表情と違いはなかった。
「何言ってるんです? あれでしょ、腕力が増幅……」
「それが嘘だって言ったら?」
「嘘?」
「そう。そんな機能は彼の何処にも搭載されていない」
茅島ふくみは意地悪そうに、彼女に貞金くんのカルテを見せる。
訝しみながら、それを読んだ彼女は「そんなバカな」と頭を掻きながら呟いた。
「記憶を読める……? なんですかこれ。落書き? 彼がそんな機能持ってるなんて、聞いたことないです」
「ええ。私も初めて。職員の中で、誰もそんなことを知らなかった。でもカルテにはそう書かれている。作成されたのが去年。万一に偽装かもしれないけど、優花ちゃん、そもそも一度でも彼がその自慢の腕力を発揮した所、見たことがあるの?」
そう言われて私も思い返した。
確か初日。
談話室のキッチンで、偉そうに重い物を退かせようとしたが、彼の腕は言うことを効かなかった。あれは、単なる故障ではなかったのか……。
「ない、です」
「ええ。私もない。加賀谷さんも?」
「はい……」私は頷いた。
「でも、そうですね……」両ちゃんが顎に手を当てて、思い返しながら呟く。「確かに、彼の腕、ずっと調子悪かったんですよ。確かにふくみさんの言う通り、機能を使ってる所を見たことがないなと思ってたら、そういうこと、なんですか」
「おかしいと思うべきだった。だってここの専門は脳分野じゃない? 腕力って、人間工学? ちょっと分野違いでしょ」
両ちゃんの機能は記憶の外部保存、そして犯人のものとされるのは記憶の改竄、貞金くんが腕力に長けているとなれば、比べると少し浮いて見えることは事実だった。記憶を読み取れるほうが、ここの患者としては収まりが良い。
なにより売り払う際にブランド価値が付く、ということは言わないでおいた。
「優花ちゃん、あなたの機能も見せてもらえる? ごめん、疑ってるわけじゃないんだけど、どの程度の鮮度なのかなって」
茅島さんにそう頼まれると、断りきれないのが両優花だった。彼女は快く、笑顔で承諾する。
「はい、喜んで。ちょっと待ってくださいね」
自分の端末を立ち上げる両ちゃん。手付きを見るに、私よりも機械物を触り慣れていることは歴然としていた。
「記憶を保存してるサーバーって、サブ電源で動いてるの?」
「はい。これが消えたら……私は人格すら保てませんから、システムの保護優先度は結構高いんですよ。えっと……これですね」
眼の前に表示される、何の変哲もない動画ファイルが羅列されたウィンドウ。
無数に、ファイルが存在していて、わけがわからなくなった。
「本当は、私の感情度や印象度といったパラメーターも測定して、これと関連付けして保存されてて、同期の際にはそれに基づいて記憶の優先度が決められて選出されるんですけど、まあ人に見せるなら、この動画ファイルで十分ですよね」
「ごめんね」茅島さんが謝った。「プライバシーもあったもんじゃないわね」
「でもまあ、アクセスできるのは私だけですし……私の記憶力が乏しいのが問題なんですよ……」
「そんなことないわ。誰にだって、個体差はあるもの。私も耳を悪くしてたわ」
「……ふくみさんにそう言ってもらえると、うれしいです」
ちょっと同期するんで待ってて下さい、と彼女は私達に告げて、そのまま腰を据えて端末を操作し始めた。
手持ち無沙汰になってしまった。両ちゃんの邪魔をするのも悪いと思ったので、私達は彼女から離れて、並んでベッドに腰掛ける。
「茅島さんって、耳聞こえなかったんですか?」
私は今しがた気になったことを彼女に尋ねた。
「いいえ。その逆。聴覚過敏」
「過敏って……」
「聞こえすぎて耐えきれないってこと」
いつだっただろうか。彼女の口から私の声が心地良い、なんて聞こえた時もあった。彼女は昔、耳が聞こえすぎるあまりに、心を病んでしまったのだろうか。思い馳せてみたが、それは私の知るところではなかった。
それが転じて、このような人間離れした能力を得るものだから、技術というものの底力は凄まじいものだ。彼女を一人をそうやって救うことが出来たのだから。
「さっき腕力は分野違いだって言っていましたけど、茅島さんの能力って、脳にどう関係あるんですか?」
「加賀谷さんって時々子供みたいなこと訊くのね」
心底バカにされた気がした。
彼女についての評価を、また少し考えたくなった。
「耳から入った情報を最終的に処理するのは脳。音、つまり空気振動を人工の鼓膜で拾い、そこから機械的に電気信号に変換された聴覚情報を、処理能力の高い聴神経パーツを通して、脳に理解できる形で、タイムラグをほぼゼロにするためになるべくスマートに送り出す。つまり、私の機械化された聴覚機能は、私の脳に直接つながっているから、立派な脳神経外科の分野よ」
「それ、本当なんですか?」
「本で読んだわ」
「いつ?」
「十年前」
「覚えてないじゃないですか」
彼女はけたけた楽しそうに笑った。
ケガのことを気にせずに笑う、そんな彼女を見ることで、私は少し胸をなでおろす気分になった。
「まあその話は置いておいて、でもね、結局基本的には、脳に手を加えて直接脳全体を機械化するなんてこと、現代の科学でもまだ不可能ね。普通、私みたいな機能でも、その情報処理は生身の脳が直接行うわけ。そうなると、例えばあなたが耳を私と同じパーツを用いて機械化した所で、私と同等のスペックを得られるかと言えば、そうでもない。最終的には本人の処理能力次第ってことよ」
「じゃあ、茅島さんは、耳が聞こえすぎたあまりに、聞くという行為に測らずとも長けていった、ってことですか?」
「そういうことらしいわよ」
「……そうなると、人の記憶を操作できる犯人って、一体なんなんでしょう」
「どうしたらそんな機能を操ることに慣れていくのか、私には検討もつかないわ。そんな機能を望む人生ってのも想像つかない。根本的に相容れないのかもしれない」
「もしかして虚言癖かも」
と両ちゃんが口を挟んだ。
「理想の自分を作ることに特化してると、そういう機能に適正が生まれるんじゃないですか」
「まあ人を殺しておいて名乗り出ないんだから、その時点で立派な嘘吐きよ」茅島ふくみが面白くもないという風に笑う。「同期、終わったの?」
「はい。さっそく見てみます?」
両ちゃんが動画ファイルを指さしたので、茅島さんは頷いた。
「本当にごめんなさいね」
「良いんですよ。どの辺り観ます?」
「指定なし。適当に」
その指示のとおりに、何も考えずにファイルを開く彼女。
ウィンドウがもう一つ現れ、再生される。
環境音。談話室。彼女の視界と彼女の声。貞金くんと話しているらしい。他愛ない話、どうでもいい話、興味が無い話、そんな物が繰り広げられていた。
「結構なものね……」
茅島さんが感嘆するほどに、映像は鮮明だった。確かに、脳に直接電極を差し込んで引き抜いたみたいな動画だった。何か悪いことをしているみたいな精神状態になってくる。
「何処まで遡れるの?」
「えっと待って下さいね、たしかステーションに来た日からずっと……」
突然に、話しながらファイルを探していた彼女の手が止まった。
私にはなにが起こったのかわからなかった。不具合が起きたのだろうか。そんな程度の想像しか思い浮かばなかった。
「どうしたの?」茅島さんが、心配して肩をたたいて声を掛けた。
「おかしい…………」両ちゃんは漸く自分を取り戻して、口から声を出した。「無いんですよ」
「無いって、なにが?」
「…………記憶が、所々、欠けてるんです。時間が合いません」
慌てていくつか動画ファイルを再生する彼女。
流れ始める映像と音声。私の知らない彼女のワンシーンだった。誰かと話しているようだったが、よくわからなかった。
映像が、先程よりも不鮮明。年月の経過に因る劣化かと思ったが、どうやら違うらしい。
明らかに、不自然とも言える程度に、画面全体にノイズが乗っていた。音声も同等だ。支離滅裂な印象を受ける。
それは、まだ私が夢想に耽る時にする想像のほうが、少しくらいは鮮やかだった。こんな映像では、バックアップなんて取らないほうがマシとでもいう風に……
「そんな……もっと、綺麗なはずです! どうして……」
「誰かに手を加えられているのかしら」
「まさか……サーバーに保存されたデータファイルですよ!」
「データだって、記憶だって、言ってしまえば電気信号だわ……」
改竄可能であることに変わりはない、と彼女は物々しく告げた。
私は、何処に潜んでいるとも知らない犯人の、気でも狂ってしまいそうなその機能性に、理解が追いつかなくなった。
2
隣の部屋だった。歩けば数歩と言った位置関係。
貞金くんの部屋を叩き壊すような強さでノックした茅島さんは、こういう時に遠慮がない。
先程、両ちゃんに連絡をとってもらい、彼の返事が無事に聞こえたことを確認するやいなや、茅島さんは飛び出して、貞金雄一郎の部屋の扉を叩きに向かった。
中から貞金くんが現れる。見た目から判断するに、眠っていたようだが。
すこし苛立ちを見せながら、彼は私達に対して不満そうに言った。
「なんですか」
それに反するように、すべての人間に好印象を与えてやるという底なしの意識を感じるような微笑みを、茅島ふくみは見せた。
「おはよう貞金雄一郎くん、これ朝ごはん」
彼女は貞金くんに食料を手渡した。いつも彼女が食べている栄養食品。久利の部屋にあったものを、いつの間にか拝借していたのだろう。私はもう食べ飽きたので、しばらくは口にしたくなかった。
「ああ、ありがとうございます……」不満そうな顔はそのままに、貞金くんは軽い会釈をした。「怖くて出歩きたくなかったんですよね」
「下向なら、もう心配いらないわ」
「え、どうしてですか?」
「話は中でしていい?」
「はあ、どうぞ」
室内へ歩み、彼は机に備え付けられている座り心地の悪そうな椅子、そして私達はベッドにぎゅうぎゅう詰めになって座った。さすがに三人は狭い。
両ちゃんよりも物が多い室内(茅島ふくみに比べれば物は大幅に少ないが)で、茅島さんは貞金くんに質問をぶつけた。
「あなた、本当の能力は?」
単刀直入だった。
そんなバカげたことを問われても、と彼はへそで茶を沸かしたような顔をしただけだった。
「なに言ってるんですか。腕力ですよ腕力。見たことありませんかね?」
彼は腕を、何も隠していないと主張するみたいに、振った。
「無いから言ってるのよ。いいこと、それはただの思いこみよ。犯人があなたにそう思い込ませたの。記憶改竄能力を使って」
「記憶改竄って……なんです? そんなこと出来るんですか?」
「そう。現にあなたがその証拠。あなたに搭載された本当の機能っていうのは、記憶を読み取ること。あなたは覚えてないかも知れないけど、犯人の犯行を手伝ったことがあるはずよ」
矢継ぎ早に、急所に凶器を投げていく茅島さん。身体が痛むのだろうか、焦りを少し感じた。
突拍子もない彼女の質問に、彼は煮え切らない顔をしていた。
「なんですか……それじゃあ俺が犯人の一味だって言うんですか。ないですよ。そんなこと、絶対ない。そんな機能、俺には搭載されてませんよ」
答えをすべて聞き終える前に、茅島さんは彼にカルテを見せた。
目を通して、二、三秒で、彼は白くなっていった。
「…………嘘だ。これは、犯人がその改竄能力でっち上げた……」
「紙は書き換えが効かないわよ。これはスキャンしたものだけど、原本は饒平名さんが持ってる」
「でも……」
そうして彼女は、貞金くんを睨みながら、自信を崩さずに自分の頭を叩いた。
「じゃあ使ってみましょうよ。私は今怪我をしている。その理由は教えてあげないけど、この頭ではハッキリ記憶してる。さあ、私が怪我した理由は何でしょう?」
「え、ふくみさん、怪我してるんですか?」
両ちゃんが口を挟むのを、私は「後で教えてあげるから」と止めた。
ふざけてるんですか、と呟きながら立ち上がり、口を真一文字に結び、貞金くんは茅島さんのことを見下ろす。
目をつむって、片手で髪をかきあげて額を晒している彼女。
「……そんな機能、俺になかったらどうするんですか」
「謝るわ」
「……試すだけですよ。どうしたら?」
「私が知るわけないわよ。使い方は、あなたの身体の方がよく知ってる」
彼は舌打ちしながら、茅島さんの額に、風船を触るくらいの慎重さで手を当てる。
擽ったそうに一瞬身を捩った茅島さんが、すこしだけ面白かった。
「……ああ、こうか」
呟いた貞金くんに、茅島さんは声を掛ける。
「使い方、思い出した?」
「はい。そのままで静かにしていて下さい」
何の物音も聞こえない状態が、一分程度過ぎて行った。次第に聞こえていた彼らの呼吸の音も、私の耳から遠のいた。息をすることが悪い事のように思える。両ちゃんも口を手で塞いでいた。
風が吹いても、倒れそうにないほど、その場に固定された二人。
そろそろ酸素が足りなくなってきた時に、貞金くんはゆっくりと目を開けて、告げた。
「下向さんに、刺された」
「……正解よ」
茅島ふくみは、ずっと固まっていた反動か、背伸びをしながら姿勢を崩してベッドに寝転がる。ただでさえ狭いのに。
「ほら、あなた、使えるじゃない」
「…………」
貞金くんは、言い当てた。茅島さんは一言も彼に具体的な説明をしていないし、住ノ江さんだって彼らが怖がるから、とわざわざ伝えずにいた。
……彼は本当に、記憶が読める。
機能を使えないのではなく、機能を忘れていただけだった。
ようやく必要な因子が、揃ったような気がした。
「ああ…………なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう。ふくみ姉さん、怪我、大丈夫なんですか?」
「まあ死ぬような怪我じゃないわ」
彼とて、忘れたくて忘れていたわけではない。悲しそうに呟く彼を見ていると、私はそう強く感じた。
両ちゃんはそれでも訝しみながら尋ねた。
「本当? 本当に、雄一郎くん、記憶が読めるの?」
「ああ、間違いない……。今実演したんだから、自分が一番わかってるさ。そうだよ。俺は人の記憶が読めるんだ。そんな機能を、喉から手が出るほど欲しがっていたんだよ。……他人の気持ちがずっとわからなくて、そのことを悩んでいた。特にあの…………いや、これ以上はいいや」
「まあ恋の話は置いておきましょう」
「……勝手に言っておいてください」
人の記憶が読めることで、人の気持ちをわかろうだなんて、傲慢も甚だしいな、と私はそう感じずにはいられなかったが、口を閉ざした。
ましてや恋だなんて。
「それで、誰に協力してたの?」身体を起こして、茅島さんが訊く。彼を疑う様子は、もう感じられない。
「それが………………思い出せない。すみません」思案する格好をして、彼は謝る。「でもそうだ、誰かのためにこの機能を使ってたことは、確かなんですよ。自分ひとりじゃ、恥ずかしくてあんまり使いたくないんですよ。人の記憶を辿るって、悪い事してるみたいじゃないですか。あ……」
途中で口から声を、漏らす彼。
「なにか思い出した?」
「……そうだ。地図です。俺は、色んな人の記憶を読んで、その記憶がどういう風に整理整頓されているか、っていう地図みたいなものを書いていました。例えば幼少期ならこの辺り、好きなフレーズや座右の銘ならこの辺り、自分の個人情報ならここ、とかね。大まかでしたけど」貞金くんは腕でジェスチャーした。よくわからなかった。「でも、何故か俺は楽しいと思ってました……個人的には、遊びとか軽いリハビリテーションのつもりだったんですかね」
「それを犯人にいいように使われてたんだわ」
「まさかそんな、犯罪に使われていたなんて、考えもしませんでした……なにより自分が全く覚えていないことが、悔しくて……。俺、知らない間に犯人を手伝ってたんですか……」
「いいのよ。別に、あなたの罪じゃない」
「……そう信じたいです」
「報われれるわ」
ともあれ、少しきっかけを与えるだけで、失われた記憶を思い出すことが出来るのは、私にとって夢や希望や僥倖の類だった。本当に忘れたくないことは、私自身を助けるために、ずっと脳にとどまっているに違いはなかった。
きっかけ、ね。と茅島さんが呟いた。同じようなことを考えていたらしい。
「きっかけで元に戻るか……。犯人は記憶を部分的には削除したのかもしれないけど、完全に消すなんていうのは、難しいのかしら。となると小ケ谷響子も沼山も、あれでまだ頭の中には記憶が含まれている。あの状態は記憶を失ったんじゃなくて、後に改竄を作業的にやりやすくするための前段階じゃないかしら。記憶にロックを掛けてるのよ」
「なんでそんな回りくどいことを?」私は訊く。「さっさと手を出した先から記憶を消したり書き換えれば済む話じゃないですか。段階踏む必要あるんですか?」
「手間と、貞金くんが問題よ」茅島ふくみは得意げに語る。「例えば、彼の機能を隠蔽するためだけに、すべての記憶を逐一完全に消去していると、単純に作業量が増えて収集がつかない。そして貞金くんに早い段階で記憶操作に協力させると、彼に何を見せてしまうかわからない。最悪、貞金くんに自分が犯人であるとバレてしまう。ロックを掛けて沼山や小ヶ谷みたいな状態になるなら、記憶にロックをかけるという行為は、なおさら都合がいいわ。だからまず全員の記憶にひとまずロックを掛けて、具体的な記憶の内容にアクセスできない状態にする。その人に自分がロックを掛けた瞬間とか、そんな都合の悪い記憶は、貞金くんに見られたくないじゃない。そして自分の安全が確保されてから、貞金くんに『犯人の仕業』とかまあ極論『疫病』でも良いわ。そんなことを吹き込んで、記憶にロックを掛けた人から記憶を読み取って、全員分の地図を描かせて、彼の記憶もロック。あとは安全に、彼の機能に関する部分と、自分の機能や犯行に関する部分を、消したり改竄したりっていう算段だったんでしょうね」
まるで見てきたかのようにそう言う茅島さん。
「……それが犯人の手口……」両ちゃんが呟く。「私の保存された記憶も、変に弄ったんだ……」
「……仮説だけどだけどね。ロックされた記憶では地図が書けないなんてことだったら、覆るわよ」
「その場合だったら……」
「貞金くんは、犯人の正体を知りながら協力していたってことなる」
そして、少し息が上がっている彼女を、私は心配する。
3
主に下向に関係することを、貞金くんたちにざっと教えて、茅島ふくみは立ち上がり、窓際に腰掛けた。地球と彼女が一緒に私の視界に入ってくる。彼女は外を眺めている。呼吸を深くしている。おそらく、痛みを忘れようとしている。
手口が仮にでもわかったところで、話は止まった。そこまでたどり着いても、犯人を突き止めるような決定的な証拠があるわけでもなかった。なにか追い詰める糸口が見つかればいいが、それすらも思いつかない。
記憶の改竄と、記憶の読み取り。一体いつ、そしてどの部分を改竄されたのかがわかれば話は速いのだが、当然ながらされた側である私達にとって、それは自分の身の振り方よりも難しい問題だった。
「さて……」一服していた茅島さんが、息を長く吐きながら言った。それは統計的に判断すると、なにか思いついた時のような、すこし凛々しくて、やや鼻につく顔つきだった。「あなた達、覚えてる限りで、今までの行動を教えてくれる?」
問われて、両ちゃんと貞金くんが顔を見合わせた。ふたりともベッドに腰を下ろし、私はと言うと一つだけある椅子を占領した。
「ええ……」両ちゃんが話す。「まあ、ナキさんに部屋にいろって言われたんで、ずっと鍵かけて篭ってましたけど、えっと、一回だけ出たんだっけ?」
そう話を振られた貞金くんが継いだ。
「うん。じっとしていられないからって、搬入口と通信室に、緊急起動コードを解読しようと思って。結果は……駄目でしたけど」
「それはいつ?」
「昨日の昼から、数時間ってところですかね」
同じ時刻、私達は小ヶ谷響子達に巻き込まれていたことは、記憶に新しかった。
その前の日の夜から事件は始まり、朝から茅島さんに叩き起こされ、小ヶ谷響子達と薬品管理室で犯人に襲われた。そして小ヶ谷響子が大怪我をして、下向が私を人質にし、茅島ふくみを刺した。思い出すだけでも身体が疲れてきた。今まで経験した中でも特に酷い一日だった。
その裏で、なにか彼らなりに思うところがあって、貢献しようとしていたのだろうか。起動コードが解けていればもっと良かったのだが、結局、事態は好転していない。
「下向には?」
「襲われていません。見かけてもいませんし、運が良かったのか……」
「誰かと会った?」
「いえ、なるべく会わないようにしてたんで」
「じゃあ、院長が殺された時間はなにしてた?」
突然そんな話題を振る彼女に、貞金くんは面食らう。両ちゃんも驚いたように息を吸った。
「殺された時間? わかったんですか?」
尋ねる彼に、彼女は続けた。
「ああ、ごめん。言い忘れていたわ。彼が殺されたのは、私達がみんなで美味しくご飯を食べていた時間なんだけど」
「顔合わせの時ですか……」貞金くんは思い出して言った。「え、でもあの時って……」
「談話室に……」両ちゃんが挟んだ。「みんないました、よね……? 院長以外……」
「そう。誠にそのとおり」なにが嬉しいのか、茅島さんは微笑みながら手を叩いた。「あの時間は間違いなく、みんな談話室に集まっていた。アリバイという観点で言えば、殺された院長以外は、全員にそれが存在するわけ」
「アリバイ……」
書物でしか見かけないような単語を、初めて肉声で聞いて、私は話してはいけないことを話しているような、少し変な背徳感を帯びた気持ちになった。
「そりゃ、所々抜けたりして、いなくなった人もいるけど、誰も人を殺してるほど余裕のあるまとまった時間じゃない。あの犯行、せめて一時間は必要なところかしら。ねえ、あなたたちみんな、あの時誰と一緒にいたか覚えてる?」
思い出す。いや、その必要すらない。私はずっと住ノ江さんといたし、茅島ふくみや患者二人、院長を除く職員全員に教授、小ヶ谷響子らと沼山が揃っていたことを、鮮明に覚えていた。
そのことを口にすると、貞金くんが大げさなくらい頷いた。
「はい。確かにそうです。俺たち患者三人ずっと一緒に座ってました」
「私もハッキリ覚えてる」と茅島さん。「あまり患者が、ただのお客さんと深く関わるべきじゃないって、岩脇さんだかが言っていたから、その通りに少し距離をおいていた。まるで腫れ物のようね。職員と小ケ谷さんたちも、そこからよく見えたわ。もちろん加賀谷さんとナキさんも」
両ちゃんもそれを否定はしなかった。
全員、記憶の上ではおかしな点は全く無かった。地球の、例えば大学の教室内であればそれで良いのかもしれないが、しかし今は記憶自体に信頼が置けない、気味が悪いくらい特殊な状況下だった。そのことは、私達の誰もがよくわかっている。
どうすればいいのか、先が見えない。
一生解けない数学の問題を解かされている気分になる。
私は膝を抱えて、俯いた。何も出来ない。何も出来ない自分が、風呂場にできるカビのように不快になる。
「そして電気が消えて、下向が暴れだした。危ないと思ったから、私は目につく人をエレベーターの方に逃したわ。で結局、加賀谷さんが残されてたわけだけど……」
と言い、そこで思い出したのか茅島ふくみは貞金くんたちに、院長の生命とメインシステムのつながりについて、簡単に説明した。
「それじゃあ、停電を引き起こしたのは犯人じゃないんですか?」貞金くんが目を丸くした。「院長のセキュリティだったのか……」
「ええ。あいつは電気なんて、もともと消すつもりじゃなかった。院長を殺すとシステムが落ちるなんて事自体、犯人は知らなかったのよ。だから私、犯人は記憶を読めないんじゃないかと思って」
ライフラインを止めながら、自分の正体を隠して殺人だなんて、支離滅裂としか言いようがない。そんなの、殺すことが目的ならステーションに穴でも開けるほうが手っ取り早い。どうせ今の状況では、犯人とて近い将来助からないというのに。
「みんな、突然の停電に驚いてました」両ちゃんが言った。「あの中に犯人がいるなんて、私、未だに信じられないです」
「除外すべき人間、か」
息を吐きながら茅島さんが呟く。話し相手なんて何処にもいないかのように、目は窓の外を向いていた。
「ねえ、消去法で考えて、誰がまず犯人から除外できると思う?」
「茅島さんは違うと思いますよ」私は何も考えずに口を挟んだ。
「ありがとう。じゃああなたも違うわね」
「もっと理知的に考えて下さい」
茅島ふくみはこっちを向いて、拗ねたような顔をする。
私は自分なりに、外せる人物を考えていく。兎にも角にも、犯人でない人物といえば、被害者は間違いなくそうだろうと、私は思い至った。
今は、私自身だって、犯人である可能性を捨てきれない。
「……えっと、小ケ谷響子は、被害者なので外せると思います」必死で考えたその結果を、私は口にする。「じゃあ、沼山も、かな」
「となると、私、あなた、挽地、久利も襲われてるから犯人ではない。この記憶が偽装である可能性は、ひとまず置いておきましょう」
そう急に並べられると、私も返答に困った。
えっと、挽地は被害者で、久利も実際仲は悪かっただけで、襲われた側ではあるから、犯人ではないと思われる。小ヶ谷響子が襲われた時の様子は、私の目で見れば、演技とは思えない。
今まであまり好きじゃなかった久利のことを、そうやって思い出していると、彼女のことで、気になることが一つあった。
「そういえば茅島さん。久利って、談話室で何の喧嘩してたんですか?」
止めに入った茅島さんなら知っているだろうと思って、彼女に尋ねると、
予想もしない答えが帰ってきた。
「…………なにそれ? 談話室で喧嘩?」
「何言ってるんですか、茅島さん、止めに入ってたじゃないですか。ほら、あの三人がいきなり喧嘩して、久利が出ていった……」
その後普通に三人が仲良くしていた時、私はなんて変わり身の激しい人間たちだ、などと思ったことを覚えていた。
だけど、茅島ふくみは首をかしげるばかりだった。
「ちょっとまって、おかしいわよ、それ……。そんな記憶、私にないわよ」
……。
「雄一郎くんは?」
「え、知りませんよ」
「優花ちゃん?」
「いえ、存じません……」
彼女らは、訝しげに私を見た。
何も嘘を言っていないのに、どうしてそんな目で見られなければならないのか。
しっ、と言い茅島ふくみは私を観察した。こういう顔つきの時は、私の呼吸や心拍数に気を注いでいる。なるべく平常でいるように、私は私に言い聞かせた。逆に変な汗が出てきた。
「嘘は言ってない。加賀谷さんほどわかりやすい人もいないわ」彼女が歩んで、私の側に立つ。「それ、確かなの?」
「ちょっと、疑わないでください……。久利さんが、なにか小ケ谷さんらに怒って、飛び出していったじゃないですか」
「消し忘れ、ですかね」
貞金くんが、ボソリとそう呟いた。私はとりあえず、首を縦に振ってそれに頷く。
「犯人による記憶の消し忘れってこと?」茅島さんが貞金くんに向いた。「確かに犯行時刻ね。私達からは綺麗サッパリ取り除いて、彼女から取り除くのを忘れてた、と」
「……まあ、犯人も人間ですし、そういうミスくらいあるんじゃないですか」
「どうだろう。彼女からその記憶を消すと何かが不味かったのかな……」茅島さんはまた私を見た。すこしだけ、興奮していた。「確かに、私達だって談話室にいたわ。けどそんなあいつらが喧嘩してたなんて記憶ない。あなたにしかない記憶がある。心当たりは? 他にその前後でなにか無かった?」
「ちょっと待ってくださいよ……」
そう問い詰められて、私は思い出す。好奇心に火のついた茅島さんを止めることは、あまり簡単なことじゃなかった。私は言うとおりにして、彼女が破裂しない内に、そそくさと記憶を辿った。
だけど何もおかしな所はない。
「……すみません、とくに変わったことは、無かったような。ずっと住ノ江さんと話してましたし、イマイチ他のことに覚えがないっていうのもあるんですけど……」
「……あなた、他人に興味なかったわね」茅島さんは悔しそうに爪をかんだ。「もう少しだと思ったんだけどな……」
「じゃあ、俺の機能で記憶を読みますよ」と、貞金くんが強い口調で言った。「俺ならその時にどんな状況だったのか読み取れます」
今までの彼の中で、一番頼もしかったので、私は少しだけ、彼を認めたくなった。
なるほど、その手が……
「ふくみさん、私、それを動画ファイルに書き出せます!」両ちゃんが嬉しそうに声を上げた。「スクリーンに投影することだって、可能です!」
二人にそう告げられた茅島さんは、こみ上げる好奇心を押さえきれなかったのか、身体が震えていた。
「なにがあったのか、確かめてやろうじゃない」
4
私は座っていた椅子に、きちんとした姿勢で座り直した。
呼吸が早くなる。なにせこんな体験は初めて。
自分の記憶を、他人に読み取られるなんて、死ぬまでされないと思っていた。
「いいですか、じっとしてて下さいよ。なるべくなにも考えないで」
貞金くんが、私の額に触れた。瞬間に、奥歯を噛んだ。他人に肌を触れられる行為は、一生慣れないものだ。それから彼は力を込めるでもなく、離すでもなく、手をそのままにした。くすぐったいと言えば、その通りだ。声を上げて笑い出したかった。
「いけそう?」
私が気が散る、という理由で、視界に入らないドアの方へ追いやった茅島さんが、不躾にも尋ねてくる。両ちゃんも隣りにいる。その質問自体、私はよくわからなかったので黙ったままだったが、貞金くんが答えた。
「出来なくはない、ですかね。えっと……こうかな」
そう呟きながら、彼は目を閉じた。
もう記憶が、吸い出されているのだろうか。私自身に、身体的な変化は感じられなかった。
何も考えるな、というので、授業で教わった瞑想の方法を思い出す。
まず人差し指と親指の先を合わせて膝の上へ置き、目を閉じて、数字を数えながらゆっくり息を吸い、数字を数えながら息を吐く、というたったこれだけのステップだが、意識は常に数えている数字と呼吸の音に集中するのが重要だと教わった。脳というのは常に雑念を吐き捨て続ける習性があり、何も考えないという行為は、はっきり言って難易度があまりにも高いらしく、脳をその雑念から脱却し、何も考えないという状態に持っていくためには、数字や呼吸というものに集中することが合理的である、という考えがあるらしい。そもそもの目的として、呼吸を制御することで、筋肉を制御し、そしてそれに対応する精神状態を制御するというものがあり、
集中できなくなって目を開けると、貞金くんが端末で表示させてある広めのキャンバスに、指先で雑な地図を書き記す。これが彼の言っていた、記憶を読み取っている時に書く記憶の地図なのだろう。
なんだか、脳を解剖されているみたいで、薄ら寒くなった。
しばらく見ていると、順調に私の記憶を暴き続ける貞金くんだったが、繋がっている部分の間に、空白が多いことに私は気付いた。
私の視線を意識したのか知らないが、彼は言った。
「ここ、消えてます」
空白部分を指す。
地図の文字を読んで、時期から推察すると、合宿に来る直前だった。あまり思い出したくもなかった。
「なんで消したのかしら」茅島さんは呟く。「合宿の前って、なんかあったの?」
「いえ、特には……」
友人と喧嘩したことぐらいしか記憶になかった。確かにその他のことは殆ど覚えていなかったというか、そんな精神状態じゃなかった。改竄されたのか本当に覚えていないのかわからなかった。欲を言えば、そのまま嫌な思い出ごと、全てを消し去っていてほしかった。
しかしそれでも、私の知らない間に、記憶を消されているという事実を目の当たりにして、息を呑むことしか出来ない。全てが偽り……幻……。そう告げられても、おかしな所がないという現状。
もはや血液の循環が気持ち悪い。座り直すことも出来ないことに苛立つ。
そんな私のことを無視して、彼は続けた。
やがて地図に丸をつけた。
「ここですね、談話室での記憶。確かに消されていはいないようです。この辺り一帯、犯行時刻前後三十分ぐらいを吸い出します」
「やったわね。お疲れ」
彼らから失われた時間が、私の頭には確かに残っていた。人よりも歳を取るのが早いような錯覚を少しだけ覚えた。何も嬉しくない。
両ちゃんが、いつの間に取ってきたのか、長いコードのようなものを、貞金くんに手渡す。
「これ、繋いでくれたらこっちでファイルに書き出すよ」
うん、と頷いて、彼は自分の身体ぁら差込口を探した。上着を脱いで肌を顕にすると、肩先にジャックがあった。彼の腕は機械部品なんだという思いが、私の中で強くなった。
そのジャックにコードを差し込み、両ちゃんに片方を手渡す。彼女の差込口は、首の付根にあった。
人間同士が、変なコードで繋がれている光景は、あまりこの世のものとは思えなかった。
「変った絵面ね」
茅島さんが野次を飛ばすと、貞金くんは「あまり見ないで下さい」と恥ずかしがる。
しばらく時間がかかりますから、と彼らは言って、目をつむって、身体を少しも動かすことすらなくなった。時間が固まってしまったみたいだ。
私は、茅島さんに目で合図すると、彼女は私の側まで来た。来て欲しい、ということが伝わったらしい。
屈んで、私に目線を合わせながら、彼女が問いかける。姉に声を掛けられる妹みたいな構図だ、と思った。真っ直ぐに見られると、少し照れを覚える。
「なくなってた記憶に、覚えある?」
「あるわけ無いですよ。今まで、ずっと違和感すら無かったんだし……」
「そうでしょうね、なくなってるんだもの」
彼女は、貞金くんの書いた地図を、愛おしそうに眺めた。ここと、私の頭の中には、犯人を暴く手がかりが本当に含まれているのだろうか……。
私も地図が気になって、ざっと目を通した。ステーションのことから、大学の二年と半分の期間、高校の三年間、中学の三年間……果ては小学校の入学まで遡ってあった。そんな所まで必要か? と私の疑問は喉まで出かかったが、必要なのだろうと思い直した。
空白。
何か私は大事なことを忘れているぞ、と告げられているような脅迫。
座っているのに、揺らされているみたいな錯覚。
「どうしたの?」
私の顔が深刻そうだったのか、茅島さんが、また私を心配そうに覗き込んだ。
彼女の長い髪の毛が、膝のあたりに降って来て、くすぐったい。
「いえ……なんでも」
「記憶なんて、いつか戻るわよ。貞金くんを見なさい」
ちょっと突いただけで、自分の機能を思い出した彼。
「茅島さんって、地球に戻るつもり無いんですか?」
かつては地球に生まれたがその事を忘れている彼女に、そんな意味があるのかわからないことを尋ねてみた。
「今となってはないこともないけど」考えもせずに彼女はそう答えた。
「意外ですね。究極の静寂はどうしたんですか」
「まあ……今回いろいろあってね、ここを出てもいいかなって思ってる。私が安らげる場所は、宇宙の静寂以外にもどこかにはあるはずよ。今では、そう思う」
そのまま「ていうかこの施設って、もう駄目じゃない?」と聞き返されると、確かにそうですね、と私も頷いて笑うしか無かった。
滅びを待つだけの施設に、思い入れがあるはずもなく。
ここで死にたいなら別問題だが、そんな魅力も感じない。
「どうするんですか、地球に下りたら」
「考えてないんだけど、そうね……」
彼女は腕を組みながら、恥ずかしそうに私に囁く。
「……探偵、でもやろうかな。大昔の本に出てくるみたいな名探偵。私の耳って、凄いと思わない? この機能を使えば、荒稼ぎできると思うんだけど」
あまりに現実味のない答えに、私は言葉を失ってしまったが、彼女の言うことを否定するつもりもなかった。探偵という職業、都市部の犯罪率の大幅な増加で、かつてよりも増加傾向にあるらしいことは、母親から与太話として聞いたことがあった。
「茅島さん、似合いますよ、探偵」
「そうかな……?」顔を背けて照れる彼女。
「何かあったら依頼しに行きますね」
「浮気調査だけはやめてよね」
そんな軽口を叩きあっている内に、動画ファイルの書き出しが終わったらしく、両ちゃんは目を開けてから、声を上げながら思いっきりあくびをした。
「あーー、疲れた。出来ましたよ」
新しい動画ファイルが、彼女の端末の画面に浮かび上がっていた。特別なもののように、深い思い入れを感じる。
「ふう、疲れるな、これって……」
貞金くんがコードを抜きながら嘆いた。
「早速再生してくれる?」
茅島さんにそう言われた両ちゃんは、速やかに動画ファイルを開く。心の準備が出来ていなかった私は、狼狽えそうになった。
躊躇なく両ちゃんが再生する。
画面いっぱいに映ったのは、住ノ江ナキさん。当然だった、私は彼女としかまともに話をしていなかったからだ。私の声(久しぶりに頭蓋骨を通さない純粋な自分の肉声を聞くと、どうしようもなく恥ずかしくなった)らしい音声も流れて、それに対する受け答えを行っていた。
彼女の奥にはきちんと座っている茅島さんらこの三名。小ヶ谷響子らもばっちり確認できた。
「あの三人が喧嘩してたなんて、知らなかった」茅島さんが、見ながら呟いた。「ずっと、あの三人は完成されたグループだな、って思ってたのよ。誰もつけ入る隙のない、出来上がった集まり。でもなんで彼女らの喧嘩を、私達から消して、加賀谷さんには残したのかしら」
「さあ……」
動画ファイルは一時間ほどだった。犯行時刻と思われる時間帯を眺めに切り取ったようだ。
つまり、ここに長時間いない人間が、必然的に犯人となりうる。
だけど、これだけの動画で、どうやって探せば良いのだろうか。
「何もおかしな所、ありませんね」
「……やるわね、犯人も」楽しそうに呟く茅島さん。「優花ちゃん、音楽好きだっけ」
茅島ふくみは急に脈絡のなさそうな話を彼女に振った。
首を傾げながら、両ちゃんは答えた。
「え? はい。サイケからなんでも聴きます」
「サイケだかなんだかはよくわからないけど、部屋にあったスピーカーで聴くの?」
「はい。あれって、高いんですよ。ナキさんに頼んで、去年の誕生日に買ってもらったんですけど、凄い良い音で、臨場感があって全く違う音楽体験っていうか……」
「へえ、私は音楽嫌いだから良さは理解できないけど……」どこか茅島さんらしいことを述べた。「それ、ちょっと借りても良い? お金くらい出すわよ」
「いえ、お金なんて結構ですけど、何に使うんです?」
「それに繋いで動画を再生して。純度の高い音を聞いて、私がこの場に誰がいないかを、見つける。この場にいない人間が、犯人よ」
両ちゃんの部屋に戻って、高級スピーカーとやらを観察する。
机の上、左右一つずつ、合計で二つ置いてある。その間にはよくわからない機械がいくつか置いてあったが、専用の音楽プレイヤーとアナログミキサーだとか彼女は言った。意味がわからなかった。
スピーカーの大きさは私の顔ふたつ分くらいある。スピーカーに使われているところを見たこともないような素材でできているが、何より驚いたのは重さだった。とても片手では持ち上がらない。取っ手がついているので、運び出すような事例が想定されているのだろうか。こんなスピーカー、一体何に使うのかわからない。音楽鑑賞と言うには少々大げさだった。
その高級スピーカーと彼女の端末をつなぐと、さっきのファイルの音が、吹き飛ばされそうなくらい大きくなって聞こえた。
映画を専門施設で観ているみたいだった。私の声まで、まるで演技のように聞こえた。何処が落ち着く声なのか、まるで理解できなかったが。
中央にある例のミキサーだとかいう機械を触りながら両ちゃんが茅島さんに尋ねた。音が変化しているらしいが、全く違いがわからない。
「こんな感じで良いですか?」
「ええ、ありがとう。凄いわね、これ。端末の下らない備え付けのスピーカーじゃ、羽虫の羽ばたきだって聞こえなかったわ」茅島ふくみは端末を指で忌々しげに弾く。「見つけてやるわよ、犯人……」
意気込んだ茅島さんは、動画を凝視する。
見えているうちで、既に患者ら、小ヶ谷響子ら、住ノ江ナキと私が映っている。除外。
となると職員連中だろうか。私の視界には映っていなかった。
わかるわけがない、と思っていると、ずっと目を見開いていた茅島さんが、静かに目を閉じていた。
「……この服の材質は、岩脇さん。この声は下向。そしてこの咀嚼音は教授。声の反響から言うと、饒平名さんもいるわ」
相変わらずとんでもない機能だ。私と両ちゃんは思わず拍手したくなったが、彼女の邪魔になりそうな行為は謹んだ。
しかし、彼女が口にした名前を照らし合わせると、いなくなった人物は一人としていない。しばらく動画を流していても、その状況は少しも変わらなかった。
そして久利の喧嘩の部分。口論。グラスが割れる音。何処かへ向かって、久利が走っていく。この時に彼女は院長を殺したのだろうか、と邪推しないこともなかったが、茅島さんは打ち消した。
「彼女……トイレに行ったわ。あの時使用中じゃなかった?」
ああ、なるほど。彼女は何も三階から出ていったわけじゃなかったのか。彼女がトイレにさえ行っていなければ、私も死体を見つけることはなかったのかもしれないと、嘆いたところで意味がない。
おかしい。
それでもおかしさは拭えない。
おかしな点がないということに、おかしさがあった。
「……畜生。こんないい音で聞いてもわからないなんて……」
「……記憶の中の音響も、改竄されてるんですか」
貞金くんがそう尋ねると、茅島さんは頷く。
「…………音量を上げて、もう一度再生して。そんなのはただの幻影よ」
ぐん、と声が近くなる。自分の声が耳障りだった。
耳が痛い。
それでも彼女は止めなかった。
「加賀谷さんとナキさんは声から歴然。小ヶ谷は彼女の体重と椅子の軋みが一致するから存在する。久利、足音が本物。挽地は、近くの下向の食器の音が跳ね返っているから、存在してる。同じ理由で下向もいる。岩脇、いる。饒平名、教授、沼山、いる…………」
更に音を上げろと指示する彼女。
心臓に悪い響き方。
壊れるんじゃないかと心配するほどの音量。
もう彼女が何を言っているのか、わからなくなった。
両ちゃんは耳をふさいで蹲っている。貞金くんはバスルームへ避難した。
耳が、限界だ……
茅島さんは、しきりに、グラスが割れる音を再生している。
パリン、
と鼓膜が千切れそうなナイフみたいな音がずっとしている。
パリン、
パリン、
「茅島さん……! 耳が……!」
耐えきれない。
パリン、
そんな音ばかりを暴力的に浴びせられる。
駄目だ。
私も部屋から逃げようとすると、
急に彼女は再生をやめて、
ベッドに倒れ込んだ。
「茅島さん!」
そう発音したはずなのに、何も聞こえなかった。
耳が機能していない。
ずっと耳の奥から壊れたような音が聞こえていて、むしろ静かだった。
彼女を抱き起こす。
茅島さんは、息を上げながら、私に微笑みを見せた。
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