4章 幸い想う人もいない
1
血だ。血が滴っている。
小ヶ谷響子から流れ出た血は、彼女を抱き起こそうとした私達の手にべっとりと付着した。
幸いの暗闇だった。血の赤さが目立たなかった。
「響子さん! 響子さん!」久利が焦燥にかられて呼びかけた。倒れてきた棚を動かせる力は、彼女にはなかった。「ああ……どうすれば……」
いつの間にか何処かへ通信していた茅島さんが、切ってこちらに向き直った。
「棚を退かせましょう。加賀谷さんは下から、久利さんはそっちの端を持って」
そう指示されて、私達は頷いて従った。三人いればなんとかなるもので、不可能なくらいにずっしりとした重みを感じた棚が、重力に抵抗するように起き上がり、空いた隙間から、私が小ヶ谷響子を引っ張り出した。手を離すと、棚はまた、地面を押しつぶした。
問題は応急処置。圧迫とガラクタで身体の大部分に傷が入っている。出血が深刻だった。このままでは彼女は、間違いなく……
小ヶ谷響子に大雑把に包帯を巻くと、三人で彼女を抱えて運び出した。軽い。人の命なんて、こんなに軽いものなのか。
茅島さんは、廊下に上着を脱いで広げ、その上に小ヶ谷を寝かせた。横になった小ヶ谷は、息をしているのかもわからないほど静かだった。髪を乱して、息がしやすいように顔は上を向けてあるが、闇の中に転がるただの肉片となんの違いもない。
「何処行ったのかしら、あいつ……」茅島さんが呟く。その声色には歴然とした怒りが篭っていた。
「挽地さん、ですか」
「許せないわよ、あんな態度。冷静じゃなかったとは言え、逃げるなんて人格を疑うわ」
「響子さん……」と久利が、小ヶ谷の側にへたりこんでいる。歩く気力もなさそうなくらい、床にへばりついているみたいだった。「大丈夫なの、響子さんは……」
「見た所、急を要する事態ね。出血の量が多すぎる。私の頭の何倍血が出てるのかしら」
「茅島さんは、さっき何処に連絡をしてたの?」
「ああ、住ノ江ナキさんに。すぐに薬品管理室に来てって」
「響子さんのことは?」
「勿論伝えた。岩脇さんと饒平名さんにも声かけるって。あとは彼女たちに任せる他ないわよ。まあプロだからなんとかしてくれると思うけど、この程度の怪我なら、彼女たちなら大丈夫よ、きっと」
「はあ、よかった……死ぬことはないんですね……」久利がゆっくりと息を吐いた。安堵だった。そして小ケ谷響子の手を触る。「私、もう響子さん死んじゃうのかと思って…………彼女が死んだら私、生きてる意味ないですよ」
優秀だった面影が全く無い小ケ谷響子を、彼女はずっと見つめている。。
ふふ、となにか子供でも見守るように、茅島ふくみは彼女に笑いかけた。
「あなた、一途よね」
「ええ、よく言われる」
「はは、それ自分で言うの」
茅島さんは、小ケ谷を挟んで向かい側の床に腰掛けた。大きなエレベーターが開くと、踏まれそうな位置だった。手持ち無沙汰だったので、私もその横に座った。臀部が痛くなった。
久利はずっとなにかを言いたそうにしていたが、それを察した茅島さんが、先に尋ねた。彼女に隠し事は厳しい。私がよく知っている。
「どうしたの。小ケ谷さんなら大丈夫だって」
「いえ、違うんです……あの、挽地ユノ……あいつがあんな奴だなんて思わなくて」茅島さんの顔を見ながら、久利が口を開く。「いえ、少しは思ってたんですけど、そんなのずっと隠してるんだと思ってました。私達は、そうやってバランスも取ってきたつもりだったので……。でも響子さんがこうなってから、堰を切ったように……私、なんか、もう人が信じられません……私だって、おかしかったと言えば、否定はできないけど……私達って、なんで上手く行ってたのかな」
「ふん、まあ……」茅島さんが鬱陶しそうに包帯をいじる。「あなた達の行動って、私から言わせてみれば、誰も褒められたものではないわ。もちろん私だって、追い詰められてどうしようかと思っていたけど。みんな冷静さを欠いていたのよ。小ケ谷響子さんや、挽地ユノさんでさえも。彼女たちのことは、今一番冷静になっているあなたがわかってあげるべきじゃないかしら」
「それは、なんとなく頭では理解してるんですけど……」久利は顔を伏せた。「わかってるけど、過ちは消えないわ。私も、ユノも、響子さんも……みんなのやりたいことが、全部裏目に出たみたい……」
「ねえ、あなたは、ユノさんと仲直りできそう?」
「……それは向こう次第です」ふ、と笑う彼女。「わかってますよ、ええ。わかってます。状況に踊らされて、彼女が正常でないことも、私だって心細くなってることも、わかってる。わかってるんですよ……だから、向こうが正気に戻ってから、いつもどおり接してくれれば、それで良いって、頭では思ってるんです……ユノのことは、響子さんが関わっていなければ、もっと純粋に友達だったんじゃないかって、考えることもありましたし」
そこまで言って久利は歯ぎしりをした。目を覚まさない小ヶ谷響子の手を、愛おしそうに握った。
「でも、私はずっと響子さんの友人だったし、それ以外の私なんて、私だって知らない。彼女と死ぬまで一緒にいようと思ってる。だから、響子さんをこんな目に遭わせて、謝ってもらっても、土下座なんかされても、それじゃいけないって思ってても、心から許せる自信なんかないですよ。でも響子さんだって彼女がどういう人間なのか知ってたし、知ってて自分の最も近い所に置いていた。響子さんの態度が大人なんでしょうね。私に出来るかな、そんなこと……彼女を許せるかしら……」
「成長とはね」茅島ふくみが、厳かに言葉を紡いだ。「それを望む人間のもとに与えられるのよ」
茅島ふくみがそんな事を言うなんて、意外だった。もっと夢のないことを言うような人間かと思っていた。
「はい……私、響子さんみたいになりたい。ずっとそう思ってきた……。挽地ユノにだって、認められるくらい、私だって響子さんに近づきたい……。だから、響子さんには、私の目標として、そして友人として生きていて欲しい。その響子さんが望むなら、挽地ユノのことも認めたいわ」
話していると、ばたばたと、足音が聞こえた。私を安心させるように、茅島さんが「ナキさん達よ」と告げた。
「ごめん……遅くなりました」住ノ江が息を切らせながら言う。その後ろから、岩脇さん、饒平名さんが同じように走ってきた。マラソンみたいだ、と少し思った。
「どうしました?」茅島さんが尋ねた。
「いえ、ちょっと、下向さんに襲われかけて……」
嫌な名。
「全然怪我はないんだけど、見つかったかと思った」
「あいつ、何処にいたんですか?」
「えっとね、三階。談話室。食料でも集めようと思って行ったら……」
「私達も一緒だった」岩脇が、饒平名を手で指し示しながら言葉を継いだ。「慌ててエレベーターに走った」
「着けられてませんか?」
「うん、それは大丈夫だと思うけど」住ノ江さんが後ろを向いた。私も目を凝らしたが、もちろん誰もいなかった。そもそも暗さで見えない。「そうだ、ふくみちゃん達は? 怪我はない? 襲われたんですって?」
茅島ふくみは自分の長い髪を捲りあげた。私が締め付けた白い包帯が飾りみたいに覗いた。最も血を吸って変色していたが。
「見ての通りです。私なんかより小ケ谷さんを……」
茅島さんが指し示すと、住ノ江さんと饒平名さんが、小ケ谷響子の回りを囲んだ。久利は居場所がなくなったので私の近くに立った。こうして彼女と並んでいると、大学にいた頃のことを思い出して、現実から顔を背けたい気持ちが、胃液のように広がっていった。
「酷い怪我ね……棚に挟まれて?」
「はい、さっき伝えたとおりです」
「なんとか、なりますよね?」久利が恐る恐る訊いた。「私、彼女が死んじゃったらどうしたらいいか……」
無表情で、彼女の近くに真っ直ぐに立っている岩脇さんが、口だけでそれに答える。腕を組みながら、小ケ谷を診る二人のことを見守っていた。
「任せといて、出来る限りのことはする。だけどこんなメインシステムが落ちてる中じゃあ、ね」そう呟いた声は、冷たい印象だった。「もし危険なくらいの怪我だったら、手術もできないから」
「やっぱり、復旧は厳しいですか」
茅島ふくみが尋ねると、岩脇さんは渋い顔をして唸った。
「試してみたわ、いろいろ。でも駄目。メインシステムが完全にロックされてる。えっと、メインシステムってのは、主にライフラインを司るものなんだけど、これが落ちると、施設の大凡の機能がダウンする。そうなるとサブシステムしか生きてないんだけど、サブシステムで動くものなんて、エレベーターと脱出ポッド、重力制御、少量の非常電灯とかそんな程度」
「ロックされてるって、やっぱり犯人が意図的に操作できないようにしたんですかね」
「私には、そうとしか考えられないな」
妙な断定口調で、彼女が述べる。
「犯人、私達を絶対逃したくないのよ。私達を徹底的にいたぶりたいという猟奇性をまざまざ感じる。下向くんもこんなふうに追い詰めて。彼だって被害者よ。あなたも犯人に襲われたんでしょ?」
「はい。でも暗闇って犯人にとっても不利だと思うんですけど」
それを聞くと、岩脇さんは茅島ふくみに悪びれる様子もなく人差し指を向けた。
「じゃああなた、最優先で狙われるね。これだけ人数がいる中で、あなただけが暗闇の影響を受けないんだから」
「……でしょうね。そんなフシがありました」
「あなたの機能は、犯人にとって最も脅威だよ。電気を落としたのは良くても、暗闇を自由に動ける人間がいるなんて反則でしょ。あなたをさっさと消したいって、私でも真っ先に思う」
「気をつけますよ」
「死なないことを祈るわ」
話題がそのまま終わりそうだったが、ちょっと待ってください、と私は口を出した。
「えっと、脱出ポッドは動くんですか?」
「あなた、聞いてなかったの? 動くことは動く。残念ながらこれ用のパスコードがわからないからただの鉄塊よ。あの時下向くんが『緊急起動コードが認証しない』って言ってたと思うけど」
ケロっとした表情で岩脇さんは、私に馬鹿にしたように告げた。。
「あ、そっか……」
「推測だけど、犯人は脱出ポッドの緊急起動用のパスコードも変更した。念には念を入れたんでしょ」
「そうなると」
深刻な口調で呟く茅島さん。
「いよいよ私達が取るべき手段が限られましたね」
今にも立ち上がって、さっさと犯人を捕まえましょう、と宣言するように叫びだしそうな茅島ふくみを、小ケ谷響子を診ていた饒平名さんが遮る。
「小ケ谷さんはまあ、息はある。でさあ、紗里」紗里、とは岩脇さんの名前だった。久しぶりに思い出した。どうでもいい知識だった。「私もあんまり詳しく覚えてないんだけど、その話でなんとなく思い出したよ。そういえばさ、院長の部屋に、メインシステムのロック解除コードとかなかったっけ」
「解除コード? あったかな……いや――」
岩脇さんは、急に取り憑かれたように端末を開いて黙り込んだ。
解除コード。口で反芻する。なんて素晴らしい単語。私は一人心の中で、鼻歌を歌いたくなるくらいの真新しい希望を、大事に抱えて温めた。
じっと私が期待をして見つめていると、やがて彼女は顔を上げた。
「そう言われたら、なんかあったかも……たしか非常時に備えて、後手は用意してるって、昔院長が言ってたような……あれって、解除コードのことなの?」
「どうかな、あの院長だからね……」
「まあね……」
「でも、見つかるんですか」
聞くだけだった久利が、訝しんで口を挟んだ。
「……可能性は低い」岩脇さんが俯いた。「院長、用意はすれど、そういうものの保管は凄く雑だったから、あったとしても見つかるかは別問題。それに……」
ちらりと茅島さんを見る岩脇さん。
その視線に答えるように、茅島ふくみが久利に説明した。
「私が推測する通りなら、犯人の機能は記憶操作。記憶をいじられて、解除コードがあるなんていうガセを信じ込まされてるのかもよ、ってこと。犯人に因って、ぬか喜びを与えられてる。もしくは、院長の部屋に私達をおびき寄せようとして、改竄して仕込んでいる」
「そんな……」
「でもセキュリティ上で言えば、解除コードを用意するのは、当たり前じゃないか? 再起動できないなんて、欠陥も良いところだよ」
そう断言する饒平名さん。一理ぐらいはある。現に今、誰かの悪意で困った状況になっているのだし、常識の範囲で言えば、用意しておくのが自然だった。むしろこの事件をきっかけに、そういう意識がステーションに生まれるかもしれないが、どのみちこのステーションに未来はない。
わかったわ、と言いながら、茅島ふくみが立ち上がって、肉の薄い背中を、ぐいと伸ばして背伸びをした。細さも相まって、腕を無理矢理持ち上げたソフトビニール人形みたいだった。
「他に望みもないし、私と加賀谷さんで院長の部屋を調べてくるわ。罠かもしれないのに、大人数で行くこともないでしょ」
そういう茅島ふくみの意見には、下向や犯人に目立つような行動を取りたくないという意図が含まれていた。少なくとも私にはそう感じた。
そもそも何故私が含まれているのだろうか。疑問に思ったが、断るつもりもないので私は静観した。今は茅島ふくみと一緒にいるほうが、最も安全だと打算した。卑しい女。
だが、久利は彼女に反対する。
「そんなの、二人だけだなんて駄目ですよ。私も行きます」
「あなた、再三言うけど、危険なのはわかってる? 人数が減ったからって、私が守れる自信なんてないし、犯人が私達を明確に貶めようとしている狂った人間だっていう事実も据え置きよ」
「はい。いいんです。響子さんに出来ることをしたい。彼女を救える方法があるなら、私は身を粉にでもして動くわ。自分の身も自分で守るし、危険な目に遭っても、茅島さんは私のことを見捨ててくれても良い。いないものと思って欲しい。私は、自分の力で響子さんの助けになりたい」
今までの久利とは、少し様子が違う。
まっすぐ見据えられた瞳は、瞬きすらそぐわないほど一点に、穴でも空けるみたいに注がれていた。あの茅島ふくみでさえ、気圧されるように身を縮めた。
それは、決意の表れでもあった。
久利友里絵のこういう所。昔から好きになれない彼女の性質。小ケ谷を盲信して、自意識を風の中に忘れてきたような、一言で言えば脆弱な女だと思っていたが、今の彼女を見ると、偏にそう思うことは出来なかった。
彼女なりの信念だろうか。好き嫌いで言えば嫌いだったが、理解できないわけではなかった。
久利友里絵の宣言に折れ、茅島ふくみは長いため息を吐いた。
「あなたのそういう性格、大事にしたほうが良いと思う」
「ええ、よく言われます」
「誰に?」
「響子さんですよ」
そういう彼女の笑顔は、私では絶対に出せないものだった。
2
小ヶ谷響子を全員で手術室に運んだ。
六人もいれば造作もないことだった。薬品管理室から運び出した時の二割程度の力で彼女の身体が浮いた。より命を軽く感じた。
大きめのエレベーターは乗り心地がよく、薄暗い手術室に備えられている木綿のような大きなベッドも、ひとまず怪我人を寝かせる上では最上のものだった。
私、茅島さん、久利さんで院長の部屋へ向かおうと、再びエレベーターに乗ろうとすると、岩脇さんの声が掛かった。
曰く、あなた達だけじゃ、院長の端末もロクに触れないでしょ、とのことだった。
冷たい氷のような声と、張り付いたみたいに固まった表情でそう言われると、断ろうにも足がすくんでしまった。それを茅島ふくみは二つ返事で承諾した。
岩脇紗里。私と同じくらいの、肩まで伸びている髪の長さに、ある一定の親近感を覚えたが、それは思い込みだろう。動きやすさを重視した服装は、私のものとは大きく違う。地球が滅亡したって、私が着ないような種類の、もっと健康的であることを趣味にする人たちが好んで身につけそうな服だった。身長こそ私より少し低かったが、別に勝った気分にはならない。
私の、体型を隠すような布の多い服装は、どちらかと言うと饒平名さんに近かったが、彼女は彼女で、首から上が私よりも大人びた造形だった。私程度では並ぶこともおぞましかった。ちなみに彼女の身長は、茅島ふくみと同程度。つまり、一般に見て、あまり高い方ではない。
もっとも、茅島ふくみの隣りにいるだけで、容姿上のコンプレックスを刺激されるのだが。
住ノ江さんと饒平名さんに小ケ谷さんのことを任せて、私達はいよいよもって、院長の部屋に向かった。
茅島が慎重に周りを、靴音や壁を叩いて調べながら、時間を掛けて二階へたどり着く。
厳かな扉。『院長室』。
ここが院長の部屋か、と思うと、川に薬品を流したような緊張が走る。彼が殺されたと思しき部屋。
「鍵、持ってるんですか?」
茅島ふくみがそう尋ねると、岩脇さんはポケットから物々しい鍵を取り出した。こんな形状のものは久しぶりに見る。
鉄で出来た、電子ロックが主流になった最近では、あまり見かけないタイプのものだった。私の実家の物置ですら、電子制御のカードキーだったはずだが、こんな鍵、どうやって使うのだろうか。
「院長、知ってると思うけどアナログが好きでね。あなた達の部屋にも、電子ロックともう一つ物理ロックが備え付けられてるでしょ。セキュリティもそうだけど、院長が電子ロックじゃ安心できないからって、わざわざ業者呼んで取り付けたよ」
岩脇さんが鍵を遠慮も程々に差し込んで回すと、ドアの質量が軽くなったような音がした。開いたのだろうか。
先陣を切って、茅島さんが手をかけて、押し開く。
ドアが動くと、隙間から影が漏れ出す。中は、やはり真っ暗であること以外は一見普通だった。人が死んだとは到底思えないほど片付いている。足跡一つつかないような材質の床、部屋の中央には備え付けのコンピューター。机の上は雑多に小物が置かれていて、控えめに言って、散らかっているという印象を受けた。
そして何より、入り口以外の壁を全て占領している、三つの大きな本棚が圧巻だった。全て紙の書類、資料やファイル、果ては単なる娯楽用の書物などが、隅から隅まで押し込められている。
仕事部屋、書斎。知らない人間を徹底的に拒むような、高尚な雰囲気が漂っている。図書室よりも、よほど卒論の参考になりそうな部屋だ、と私は呑気にそんな事を考えた。
茅島ふくみは、真っ先に中央のコンピューターに近づく。
「電源入るんですか?」
「ええ。院長の部屋とあと通信室かな、この辺りはサブ電源も繋いであるから。重要なデータも入ってるわけだし……」
岩脇さんが電源を触ると、備え付けられた画面が煌々と光った。私は直視することが苦痛になって、目を細めた。
暗い画面からなにかの文字、データのロード、それから、待ちわびていたみたいにパスワードの入力画面が、私達をせき止めるような格好で現れた。「パスワードを入力して下さい」。その文字が、こんなに憎かったことは、このステーションに来てから芽生えた感情だった。
それでも期待を込めて見つめていた、岩脇の手が凍ってしまったのかと思ったくらい、微動だにせず止まった。
たまりかねて、真横で見ていたせっかちな久利が彼女に声を掛けた。
「どうしたんですか、パスワードわからないんですか?」
うーんと、と呟いてから岩脇さんは、久利ではなく後ろで見ていた私達に、振り返って声を掛けた。
「ちょっと待って、えっと、茅島さんと加賀谷さん、そこの本棚の下から二番目の何処か、右の方だったかな、そこに、たしか『真昼』っていうタイトルの本があったはずなんだけど、探してもらえる?」
冷静に、そう指示されると断る気にもなれなかったので、私は茅島さんに倣って同意した。その彼女の話し方を聴いてる内に、段々岩脇さんという人間が見えて来る気がした。
彼女は感情に左右されない、努めて頭に血が上らない人間だった。医者に向いているかどうかは偏見だったが、きっと腕は良いのだろう。
本棚の言われた場所を探す。意外にも茅島さんよりも先に、私はその本を見つけ出して引っ張り出した。茅島ふくみよりも目が良い事をまた私は証明した。『真昼』。何度も確認したが、間違いなかった。
「あ、ねえ、加賀谷さん」茅島ふくみが、私の近くで跪きながら言った。こんな側に、いつの間にいたんだろうか。「これ、落ちたわよ。その本に挟んであったんじゃない?」
「え、あ、すみません」
私は慌てて受け取った。ひらりとした一枚の紙だった。手先の感覚が面白い。そうそう触ったことがない質感だったので、私は珍しくなった。なんだろう、この紙……
とりあえず本だけを岩脇さんに手渡すと、岩脇さんがお礼を言いながら私に話す。
「ありがとう。この本にね、パスワードがメモしてあるって知っててさ。院長忘れっぽいから、私には教えてくれた。その時は、代わりに仕事やれって意味だと思ってたけど」
「信頼されてるんですね」久利が余計なことを言った。
「ええ……それでも解除用のコードは教えて貰ってないけどね。でも、残念。院長を殺すなんて、どんなに性格がネジ曲がっていたって、私には理解できないよ」
もうちょっとかかるから待ってて、と私達に言い残して、岩湧さんはまたコンピューターに顔を合わせた。
思い出したように、さっきの妙な質感の紙を、私は掌の上で広げた。当然暗くて見えなかったが、ライトを照らすと溜飲が下がった。
「これ……写真、ですね」
「へえ……」茅島さんが首を伸ばして私の手を覗き込んだ。「珍しいわね。わざわざ写真なんか紙に印刷するなんて」
「記憶ないのになんで珍しいって知ってるんですか?」
「それは、紙に印刷された写真の実物を見たことないもの。然るに珍しいのかなって」
端末上で画像を投影することが容易になった時代から、わざわざ印刷用紙に個人的な写真を出力することは、少々レトロな趣味であると言わざるを得なかった。院長のアナログ好きが、こういう所に現れている。古い建築の私の実家でさえ、写真の類を印刷したものなんて、たかだか数枚という程度だった。
写真を眺めると、多少なりとも驚くに値する人物が、院長と笑顔で写り込んでいた。
肩を組んで、楽しそうに映っている、私のよく知る人物……
「教授だ、これ……柿林教授……」
「ああ、こっち? へえ、今に比べると若いわね。ここ二十年以内って所かしら」
「ええ……古い知り合いなんで、別におかしいわけではないんですけど、ちょっとびっくりしました」
「そうね。こんな笑顔、見せるような人には見えなかったわ」
裏を確認したが日付はわからない。だが、随分と汚れていて、本当に二十年余りが経過した写真であることを疑う要素はない。大事な写真だから、大事なパスワードをメモした本に挟んであった、さほど不思議な話でもなかった。
私から写真を取り上げて、茅島さんが、ぼそぼそと唸り始めた。
「教授、何処行ったのかしら」私の方も向かずに彼女は訊いた。「ねえ、こんなに古い交友関係だとしたらさ、教授だって昔ここにどんな患者がいたのか、少しくらいなら知ってるんじゃない?」
「どうでしょうね。ゼミ合宿は毎年やってたみたいですし、その際にここにも何回か来てたみたいですけど、教授も関係者じゃないですから……」
話も聞いていなかったように、茅島さんが急に私に写真を突き出した。
「これって、何の汚れだと思う?」
「何って……経年劣化ですか?」
「私が見るに、これは血だと思うわ」
突拍子もない事を、大真面目な顔をして、茅島ふくみは囁く。私は頭の隅で少し、また変なことを言い始めたな、と唱えた。
「血の跡、ですか……」
眺める。表面の部分。確かに、液体が跳ねたような汚れを慌てて拭いたみたいな、と言われればそういう風にしか見えなくなる汚れが全体的に。
「慌てて拭いたんでしょうね。薄くなってるけど、これは経年のものじゃなくて、もっと最近の……」茅島さんが岩脇さんのいる方を指差す。机のことだった。「元々写真立てか何かに入って、机の上に出てたんだと思う。写真を飾るのは、まあまともな趣味じゃない? そして何か刃物で刺して殺した。その時に辺りに血がついて、気付いてから大急ぎで拭いた。でもあんまり綺麗じゃない。捨てたら捨てたで、見つかったら不味い。切り刻むのもゴミが出るから好ましくない。そうだ、じゃあ見つからないところへ隠そう。そして本棚から適当に本を抜き出して、そこにしまった。写真立ては、捨てたのか、まだこの部屋にあるか、そのどちらか」
「……ありえなくはないですね」そしてぎょっとして、私は辺りを、首をぐるりと回して見回した。「って言うことは、やっぱりこの辺り……」
「大なり小なり血しぶきが飛んだってこと」
「血しぶき……」
そんなことを耳元で言われて、身体が震える。
私をよそに、茅島さんが辺りをキョロキョロし始めた。血の跡を探している。ゾッとして私は「やめてくださいよ」と叫んだ。しかし彼女は、私の言うことは無視して、また質問を投げかけた。
「ねえ。それにしては……本棚が綺麗すぎない?」
そう言われてからライトで照らすと、シミが目立つような箇所が、浮かび上がってこなかった。おかしい。血が飛んだのなら、本の背表紙にだって……
「加賀谷さん」
彼女が手招きする。端末の拡大機能を使いながら、本棚の前で屈んでいる。なにか見つけたらしい。この女もなかなか私よりも目ざとい部分がある。
「ほら、これ見て」
茅島さんが指さした本を凝視する。血の跡。確かに付着していたが、細長い楕円になっている跡。その端が、途切れていた。まるで、そう、
「パズルのピースを途中で捨てたみたいじゃない? 血の付着した複数の本を、引き抜いて捨てたのよ」
「じゃあ、やっぱりここで……」
他の本も調べてみると、本来あるべき場所の本が、明後日の方へ行っていたり、カバーが掛け変えられていた。つまり本の背に飛び散った血痕を、著しくバラバラにすることで、一見して目立たなくした、ということだろう。
犯行現場はここで決まりだった。私は今、人が殺された空間にいるのだと思いこんでしまうと、人に言えない程度に気持ちが悪くなってきた。
一方で、茅島さんはずっと四つん這いで這い回りながら、細かく現場を調べていた。脳でドーパミンかアドレナリンが分泌されて気持ちいいのかもしれない。呼吸も荒くなって、明らかに興奮していた。
「他の場所は拭けば取れる。じゃあ、机の上の物はこれだけ……? 写真、他になにか移されたものはないかしら」
私は気持ち悪さを誤魔化すために、辺りにライトを当てる。浮かび上がる仰々しい本棚が、一層気味が悪く映った。こんな空間で勉強したいかと言われれば、どちらかと言えば断りたかった。
背表紙。記される文字、タイトル。カルテのようなものを探したが、ない。趣味の本と院長の日報、よくわからない病気に関する書物。もう用はない。凶器が挟まっているでもなく、まだ何処かに隠された写真があるのかもしれないが、もうどうでも良い。
やがて、棚の上に無造作に置いてある時計を見つけた。背が私よりも低い茅島さんでは、見つけられないかも知れない位置に、その時計は追いやられていた。
考えてみれば、あんな所に、しかも見えない位置に時計があることは不自然だった。元々は机の上に置いてあり、犯人にとって都合が悪くなって棚の上に隠した、と来れば合点も行く。
背伸びをして、手を伸ばす。時計が手に触れる。足と背中が釣りそうだった。殴られた箇所がこんな時に痛む。息を止めて、やっとの思いで時計を手に取ると、私よりも頭一つ分くらい背の低い茅島さんに、自慢げにそれを渡した。
彼女は素直に私を褒めた。ドーパミンが出そうだった。
「凄いじゃない。よく見つけたわね。これは、アナログ時計よ。こんなのまだ現存してたんだ、本でしか見たことなかった」
チクタクと時を刻み、気を抜けば盤面の読み方もわからなくなりそうなほど、古ぼけた針が細やかに、それでいて狂いなく動く。古いお城を思わせる荘厳なシルエットが、なんとも鼻についた。院長らしい趣味だ、と私は彼のことをよく知らないままそう思った。
「埃は溜まってた?」
急にそう尋ねられると、何のことかわからずに狼狽した。答えを聞くまでもなく彼女は、私の手をひょいと掴んで開かせた。
「埃が袖についてる」茅島さんは、私にアナログ時計の頭頂部を見せる。「見て。これには埃が被ってない。毎日とは言わないけど、比較的頻繁に掃除されてたってこと。要するにこんなに綺麗なもの、棚の上に置かれたのは、ごく最近ってことね」
「犯人が置いたんでしょうか」
「間違いない。時計をなんとしても見られたくなかったのよ。かと言って持ち出すと不審に思われる。机の上では存在感を放ってる方だと思うし。だから棚の上にこっそり追いやった。なくなってても、ああ、ここにあるんだ、という程度で終わらせるために……」
「隠したってことは、血がついてるんですか?」
茅島さんは、アナログ時計をひっくり返したり回したりしながら、全面を観察した。背中、底、とにかく入念だった。
やがて彼女は指で示した。
「見て、盤面に付着してる。この数字の手前」
あまりにも小さな血痕だった。言われなければわからない。八の近くにそれは、ニキビのような狡猾さで存在していた。
「ほんとですね」私は相槌を打った。
「もっとよく見てくれる? 私じゃもう限界。目が疲れる」
私はアナログ時計を彼女から受け取り、丁寧に眺めた。
何もわからない。普通見逃してしまいそうなほどの、小さな血の跡しか残されていない。
でも、
でもなにか引っかかるような……
「この血痕……」
私は茅島さんに説明するために、ゆっくりと口を開いた。
「ちょっと形が切れてないですか」
どれ、と彼女が私の顔の真横にずいと割り込んできた。それでも見えなかったので、端末の拡大鏡機能を使って、彼女に見せた。
そこまでして、茅島ふくみが感嘆の声を上げた。
「本当だわ……。ちょっと半円になってる。これって……何かで遮られた?」
「……何でしょう、写真立てとか」
……。
「はは、バカね。眼の前にあるじゃない」
彼女は盤面を指さした。
そこにあるものは……
「針よ」
「……ああ、そっか。回ってますもんね」なるほど、私は頷いた。
茅島さんは拡大機能をそのまま使って針を調べると、短針の方に、途切れた片割れが存在していた。惨劇を前にして、相も変わらずクルクル回っていたのか。
「つまりどういうことかわかる?」嬉しそうに、彼女は私に尋ねる。
「いえ……」
「この短針がここ、およそ八時半の位置にあった時に、血しぶきが飛んだってこと。要するに言わなくてもわかるわよね」
そうか……
「院長の殺害時刻だ、これ」
「アナログ時計も捨てたもんじゃないわね」
茅島ふくみは、机の上に、感謝の念でも表すかのように、ゆっくりと時計を置いた。
3
「つまり院長は」
茅島ふくみが、もはや何の悩みもないという顔をして、私に説明した。
「この時計が指し示す八時半に殺された。そして八時半っていうのは私達が何をしていた時間か。殺された日が死体発見日と同じだというなら、私達が談話室で集合していた時間になる」
そして、と二の句をつごうとした茅島ふくみに、久利から気怠そうな声がかかった。忘れていたが、コンピューターの中身を彼女たちに漁って貰っていたのだった。ある程度の目処が付いたのだろうか。
「茅島さん、加賀谷さん、白熱してないで、ちょっと見てよ」
「どうしたの?」
画面を覗き込むと、よく意味のわからない数字や、文字で埋め尽くされていた。こういう画面は、どうも苦手だった。社会に順応できていない自分が浮き彫りになりそうなことが、何よりも嫌だった。
岩脇さんが、私達の方を見ずに言った。
「残念だけど、解除コードは見つからないわ。ごめんなさい」
「いえ。犯人に消された、という可能性もありますし」
「ところで」彼女は画面を指で示した。指紋が残りそうなほど強かった。「この欄に見覚えはないかしら?」
私と茅島さんは、ずいと目を凝らした。『A 〇〇◯万円』。たしかにそう書かれているし、見覚えがないわけではなかったが、果たして何処で……
「これ、小ケ谷さんが見つけてきた伝票にあったやつじゃない?」
茅島ふくみが、私の顔を確かめるように、見つめた。私はすぐに思い出して、首を立てに二回ほど振った。
「そう、そうなんですよ。響子さんが気になっていたんですけど」当然のように、久利が口を挟んだ。「私も気になって、岩脇さんに伝えたんですけど、このAっての、見覚えあるんですよね」
「ええ。でも……」
そう言うと、岩脇さんは予想外に唸りながら困った顔をした。
「こんな額、ここに務めてても、一回だって見たこともない。手術代の請求か、それとも高額なパーツの発注なのかという線が、普通に考えれば妥当だけど、それにしたってこの額…………」
画面を操作し続ける彼女。
認識不能な数字が移り変わっていく。段々目が回ってきたので、私は目をそらした。酔わないのか、茅島ふくみはずっと横顔を私に見せていた。
「ほら、パーツの発注はこれ。一番高くても、こんな程度しか行かないでしょ」岩脇さんがまた画面を指でつついた。「手術代は全部こっちに書いてる。でも、こんなもんよ」
「はい、確かに……」茅島ふくみが、自分の耳を押さえながらそう呟いた。額の高さを実感しているのだろうか。
それにしてもこれよりも高い物とは一体……
「売上なのか出費なのかすらわからないんですか」久利が尋ねた。
「いえ、これは請求書だから、ステーションの売り上げになるんだけど……」
謎の金額が明記された謎の伝票。
それは私達を恐怖させるには、十分な材料だった。
「響子さんは……恐れていたんだわ……」久利が顔を青くしてボソリと呟く。「こんな意味不明な記述でも、響子さんはちゃんと恐れていた……。ねえ、茅島さんは、なにか心当たりないの?」
「ないわよそんなの。私は単なる患者よ? 内情なんて知らないって。パーツの値段だって知らなかったんだから」
「じゃあ加賀谷さん、なにか思い付く?」敵対している風でもなく、久利が珍しく私に話しかけた。彼女の中で、私の評価が変わったのかも知れない。「あなた、ゼミじゃ優秀じゃない。こんな金額の取引、なにか考えられる?」
「いえ……なにも」
本当に何も思いつかなかった。さっきまで人生に於いて、人件費以上に金がかかる部分はないと思っていた。この額はそんな程度のものではないことは、一目瞭然だった。
「あなたや茅島さんがこれじゃあ型なしですね……。私は何も思いかないわ。響子さんがいてくれたら……」
「小ケ谷さんならなんて言うと思う?」
「さあ。私じゃ想像つきません」
突然、岩脇さんが声を上げた。
「ねえ、ちょっと、これ見て」
言われて画面に集中する。
表示されているものは、何処で見つけてきたのか、一つの長い文章だった。
「ロックが掛かってた。怪しいと思ってさ、さっきのパスワードで解除したんだけど」岩脇さんの声が震えていた。「なんだと思う、これ」
凝視する。
「嘘……」
久利がそう声を漏らした。気持ちは理解できた。
『Aは有能。手術以来、機械化部分の適合性もよく、搭載した機能も従来の試験体以上の性能を発揮。それでいて暴走することもなく、運用も安定している。想定以上だ。このまま経過を見守ろう』
『Aの代金は〇〇◯万円を見積もっている』
「岩脇さん……これって……」茅島ふくみが、一番に口を開いた。
「人身、売買……?」
浮世離れした、その単語。
私自身、院長のことは何も知らないまでも、そんな人道に反するような行為に手を染めている外道には見えない。いや、そう見えればいいというわけではなかったが、教授の古くからの知人が、救いようのない人間だという事実に、私は少し目眩がした。
教授は、このことを何処まで知っていたのだろうか……。
人身売買……。声に出せば単純な言葉の組み合わせだったが、その意味は字面よりも遥かに重かった。
そして、私は茅島ふくみを見た。彼女だって、ここの患者である以上は、売られる運命にあったはずだが。
「本当、なんですか、それって……」
奥歯を噛み締めて、震えながら茅島ふくみは尋ねた。
「そんなの……知らない……」岩脇が慌てて言う。「だって、患者はみんな、退院して元気にやってるって……院長が……手紙だって見せてくれたのよ……」
「私は、売られようとしてたんですか……?」
「知らないってそんなの!」
怒鳴られて、茅島ふくみは黙った。
「……ごめんなさい。でも、本当に知らないの。院長しかこの件には噛んでなかったと思う。信じて」
間。
しばらく黙っていた茅島ふくみが、返した。
「患者を売って、何処に流していたのか、書いてありますか」
「いえ……」
「そうですか……」俯きながら、彼女は呟いた。「知る由もないか、院長が死んじゃったんだもの」
身売りされる立場だと知らされた人間は、どういう反応をするのが平均的なのだろうか。彼女を見ていても、気持は良くわからなかった。
「ねえ、茅島さん、教授なら……」私は慌てながら、茅島さんに声を掛けた。「教授なら、古い知り合いですし、なにか知ってるんじゃないでしょうか」
「…………教授、そうね、悪くないわ。最良だと思う」
首を振って咳払いをする彼女。
気が落ちる前に、気持ちを整える、強い彼女。
「……教授。あの人何処に行ったのかしら」深呼吸をして、いつもどおりの話し方を吐き出す茅島ふくみ。
「連絡してみますか?」
「そうね、でも、出ないじゃなかったっけ」
茅島さんが久利を見て尋ねると、久利は眉を寄せた。怒っている。
「まったく、そうですよ。生徒が心配して連絡取ってるっていうのに。響子さんも大変なことになってるのに、あんな態度じゃ教員が務まるのも不思議な話ですよ」久利が端末を開く。「じゃあちょっと電話してみますね」
だが、数回の呼び出し音が鳴った状態が、終りを迎えることはなかった。久利は諦めて、端末を閉じて舌打ちを漏らした。
「あいつなんで出ないんだよ……」
「嫌われてるんじゃないの?」
「そ、そんなことない、と思いたいんですけど……」久利が言いにくそうに、口をつぐんだ。「響子さんはずっと評価されてましたし、関係も良かったんですけど、私とユノは、まあ、響子さんと一緒にいるだけでしたからね。授業態度が悪くなかったかと言えば、嘘になります」
じゃあ私が掛けようか、と茅島ふくみが端末を開いたが、結果は同じだった。
教授がここまで人と距離を取る人間だとは思わなかった。よほど下向や得体の知れない犯人に、むごたらしく殺されるのが嫌なのだろう。ゼミ生でさえ誰も信用していないという意思を私は感じた。
いや、それともすでに殺されているのか……
「ちっ、駄目」茅島さんは嘆く。「どうする? こうなったら足と耳で探す? 三時間位あれば全ての部屋まで回れるけど」
「待って下さい」
声を出して茅島ふくみを制したのは、私だった。
ほとんど無意識の域だったので、何を話すのか、考えながら喋った。
「えっと……私なら、教授に認められてますので、いや、その、変な意味じゃないんですけど、教授だって出てくれるんじゃないですかね……」
「あなたが?」久利友里絵が訝しんだ目で私を見てくる。「いえ、ゼミ内で教授の評価は響子さんと並んでたしかに良かったし、気に入られてるんだろうなとは思ってた。でもそれとこれって関係あるかしら? あいつ気難しいでしょ」
「……他に教授が出てくれそうな人もいないですし……」
「わかったわ」茅島さんが、手を叩いた。「加賀谷さん、端末で教授を呼び出してみてくれる? 駄目だったら、虱潰しで探しましょう」
そんなことを茅島さんに言われると、緊張で手汗が出てきた。
端末をゆっくりとした動作で開いた。
二人が見ている。岩脇さんも、椅子に座って、じっと私の様子をうかがっていた。
電話画面を呼び出す。柿林教授。『か』行は思いの外項目が多かった。教授、いとこ、私の母、妹、そして茅島ふくみなどが記されていた。
短距離通信で呼び出すと、数回のコール音が鳴り始める。
プッ、
『加賀谷くんか……?』
「え、あ、教授、はい、ゼミの加賀谷、彩佳、ですけど……」
驚いた顔の久利と、なに日常の電話みたいなこと言ってんのと小声で告げる茅島。
『どうした……? 他のみんなはどうした?』
「いえ、あの、教授が出られないから……」
『犯人が端末を奪ったかも知れないだろ、信じられるか……。君のことは信頼してるから出てみたが、まさかな……』
「…………。あの、教授。小ケ谷さんが大怪我をしまして、」
『なに、本当か? 下向だな!?』
「いえ教授、真犯人に襲われたんです。沼山くんも、記憶を消されて」
『どういうことだ……? 状況が読めない』
「えっと、話が込み入ってるので、会いに行っていいですか? 今何処です?」
『ああ、地下だ。重力と書かれた扉をこじ開けて、閉じこもった。いいか、なるべく気をつけてきてくれ。着けられるなよ』
「はい、急いでいきます……」
プツンと切られた電話に、少し寂しさを感じた。
「重力プラント」茅島さんが口にする。「あんな所にいたのね……でも地下なんて、襲われたら逃げ場ないじゃない。長居させるのは危険だわ」
「ええ、行きましょう」私は頷いた。
「久利さんは?」
「私は、あまり好かれてないようなので」久利が苦笑いを見せた。「そろそろ響子さんのことが気になりますし、そっちはあなたたちにお任せする」
「私ももう少しここを調べるわ」岩脇も被せる。「何かあったら茅島さんに連絡してあげる」
「加賀谷さん」
久利が私の方を向いた。
「頼んだわよ」
思わず私は、はいと答えてしまった。
4
地下の空気を吸うのは何時間ぶりだろう。サブシステムから供給される電源によって、未だちゃんとした灯りが照らされている空間を見ていると、不思議なほど深い安心感を覚えてしまう。さながら自宅の風呂に目を瞑って浸かっている時のようだった。それがたとえ、無機質な素材で作られた、およそ生活感の存在しない地獄のような場所であっても、私には天国に違いなかった。
随分汚れているな、と自分の衣類を見て思う。薬品管理室で這いつくばっていたのが原因だった。気に入ってはいたが、気に入らない服も別に持ち合わせていない。
そして、明確な灯りの下で見る茅島ふくみの顔は、幾分久しぶりだった。
精密に描かれた絵画のような顔の造形が、展示物のみたいなライトを浴びていると、大きめのハンマーでそれを粉々に砕いてしまいたくなるような、ある種よくわからない衝動を抱えずにはいられなかった。なに、私の顔汚れてる? と彼女が訊いてきたので、私は誤魔化すのに必死になった。
『重力』の扉をノックをしてから押し開く茅島さんの行動は、一切の躊躇いがない。中から下向や犯人が飛び出して来ても不思議ではなかったが、心配性の私が抱く杞憂だった。
蓋を開けてみれば、物々しい機械と、その前に身を小さくして座っている教授がいるだけだった。
「こんな所にいたんですね」
茅島ふくみが教授を睨みながら声を掛けると、彼は飛び退いて驚いた。
「か、加賀谷くん! 君一人じゃないのか!?」
「え、はい、すみません……」
頭を下げて謝ろうとした私を、茅島ふくみは肩を掴んで止めた。
「いいのよ。私が勝手に着いてきたんだから。ねえ、教授」茅島さんは、そして教授に向き直る。「状況説明から行きますか。沼山くんが襲われたことはご存知かしら?」
手短に、そして迅速に、彼女は事件のあらましを説明した。
小ヶ谷響子が大怪我をした所まで伝えると、それまで黙って聞いていた教授は、そんなことを想像だにしなかったらしく口を開いた。
「知らない……知らないんだ……私は、ずっと隠れていた」
「何故ですか教授。そんなに下向や犯人が恐ろしいと?」
茅島ふくみは疲れたのか、壁に凭れ掛かった。私はいる場所がないので、その隣りに並んだ。
「……あいつだ」やがて教授は言う。「院長。立沢基義、あいつが殺されてから、私はもうだめだと思って隠れていた」
「どうしてですか?」
「このステーションのシステムだよ。何も、メインシステムが止まったのは、犯人の所為ではないんだ。院長の生命活動が止まると、自動的に数時間後だかにメインシステムがダウンするようになっている。宇宙に施設を構えた時から仕組まれているらしく、セキュリティのためだ、とあいつは言っていた。サブ電源で駆動するもの、つまり重力と少量の電力、それ以外が止まる。私も初めは信じてはいなかったが、下向のパスコードも受け付けないし、怪しいと思っていたところにあの停電だ。あいつは本当にそんな破天荒なセキュリティを仕組んでいたんだとそこでやっと気づいたよ」
院長の生命活動の停止が原因……?
とんでもない事実を急に突きつけられた。
てっきりずっと犯人が意図的にシステムを落としたのかと思っていたが、真相は犯人の意図しないものだったなんて、私の想像力では導き出せなかった。
そんな情報を聞いても、努めて冷静に、そのままの姿勢で、茅島さんは言葉を継いだ。
「それを解除して、メインシステムを再起動する方法は?」
「解除用のパスコードがある。あいつが言っていた」
「探したけど見つからなかった」
「残念だが、それはあいつの頭の中にしかない」
「ああ……そりゃ見つからないわけだ」
ため息を吐いて、茅島さんは、無意識に腕を組んだ。踵で壁も蹴り続けている。苛立ち、そういうものを感じた。
「でも、じゃあ何故犯人は解除コードを入力しないんです? 記憶が読めるんではないんですか? 何度も言うようですけど、暗闇であるメリットが犯人には存在しません」
「確かに、今の状況だと茅島さん、有利ですね」話に加わりたくて、私は言う。「何度も助けてもらいましたし」
「ええ。暗闇でさえなければ、それか私さえいなければ、犯人はもっと円滑に計画を進められてるわよ」茅島さんは自信げに言う。人並み外れた機能を持っている人間特有の自己肯定感のように見えた。「それとも、なにか前提が間違ってるんだわ。例えば、そう、犯人は記憶操作はできても、記憶を読むことは出来ないとか」
「それなら……」
説明がつかないこともなかった。解除しないのは解除できないからだ。
だが……
「記憶を読めないと、記憶の何処を改竄するのか、難しいんじゃないですか? 改竄が上手く行ったのかのチェックも出来ないですし。仕組みはわからないですけど」
「まあ、そうね。そんな能力を持ったことはないけど、指針がない状態でいじくるには危険でしょうね、記憶って」茅島さんはおもむろに髪を触りながら話した。「じゃあ、読めるやつがもう一人いるのよ」
「犯人と、もうひとり、ですか?」
「私達を襲った犯人と、もうひとり別に」彼女が、良いことを思いついた時の顔をして、笑っていた。「これが探していたもうひとりの患者っていう説は、十分にありえるんじゃない。なんでそいつが今すぐ解除コードを入力しないのかっていう問題については、犯人と協力関係にあるわけじゃないから、かもね。記憶を読める機能があるとして、みんなにそう名乗り出れば、それはそれで犯人じゃないかと疑われるし、勝手に解除コードを入力したら、それこそ犯人の思惑通りになっちゃうじゃない」
「私達の中に、記憶を読める人と、記憶を改竄できる人が別々に……その根拠は?」
「別に、ないわよ。思いつき」そんなことを堂々と胸を張って言う茅島さん。「ねえ、教授はどう思いますか? そんな機能を搭載された患者のこと、なにかご存知ですか?」
「いや、知らんな……」教授は目も合わせずに、首を振った。「そもそもそんな記憶操作や記憶を読むことに特化した機能を持つ患者自体…………」
そこで、教授の口が止まった。
見逃す茅島ふくみではなかった。
「なんです、教授」
「いや、なんでもない。気のせいだ」彼は手で髭を触る。
「嘘」
茅島ふくみは、教授にゆっくりと歩を進めて、彼を真っ直ぐに見ながら、そう言い切った。
段々と教授が追いつめられたネズミのように見えてきた。
「あなた、今嘘をつきましたね。呼吸が荒くなって、唾を飲み込んだ。手のひらが発汗して、手のひらに触れたときの音が変化した。嘘をつき慣れていない人が嘘をついた時の反応なんですけど」
「…………」
教授は、そのまま何も言わなくなった。茅島さんのことを、ずっと直視していない。
その様子を見ながら茅島ふくみは、すこしほくそ笑んだ。
そして告げる。
「人身売買のことと関係があるんですか?」
まるで、最後通告のような、
「な……何処で知った!?」
教授の反応は歴然だった。今にも掴みかかりそうなぐらい、し過ぎているほどに狼狽えていた。
「伝票とメモ書きが、院長のコンピューターから出てきました。教授、あなたなにか知ってるんですね?」
「……………………知らん」
「私に嘘は通じないって、わからないんですか?」
「ハッタリだ」
「では、あなたの今の心境を当ててみましょう。ズバリ『まずい』。後ろめたいこと、バレてしまったら困ることを必死で隠してる。こっち見ない、不必要な大声、会話のリズムの乱れ、そんなところから現れているわ。こんなの猿でもわかる」
「くっ………………」
教授を真上から見下ろして、勝ち誇った茅島ふくみの顔。
やがて教授は、諦めたように顔を伏せて、私達に話し始めた。
「……そうだ。そうだよ。人身売買。このステーションは人身売買に手を染めていた。それも設立当初という大昔から、そんなことが行われていたと立沢院長は、ある時私に自慢げに言っていたんだ。これからは機械化技術を施した人材が必要とされてくる。そこで、私達が腕の立つ人材を一から製造し、今後の競争にいち早く名乗り出ようじゃないか、なんて夢を語るように、あいつはそんな恐ろしいことを、ビールジョッキ片手に言っていたんだよ……」
「…………治療ではなく患者を売り払うために機械化事業を?」
「ああ、そんなところだ。退院後の末路なんて、大凡七割がでっち上げだろう。このステーションは、機械化を施し、その機能が満足に扱えるまで育てきった患者を、退院と称していろいろな組織に流していた。患者の能力を欲しがる、真っ当じゃない組織さ……」
胃痛。
貞金くん、両ちゃん、そして茅島さんのことを考えてしまう。茅島ふくみの能力が、他の二人に比べて大きく優れていた。商品価値としては、申し分ないだろうと私のような素人でも判断がついた。
「あなた、それでも正気だったの」茅島さんは、自分の身を心配するよりも先に、意外にも教授を叱咤した。「こんな所に生徒を連れてきて、何するつもりだったんですか」
「こんなところでも、表向きは医療施設だ。立沢とは知人であることも嘘じゃない。ゼミ合宿に訪れても、おかしな点なんてない」
「嘘」
「…………」
そして、ゆっくりと顔を上げて、私を見つめる教授。
程なくして、私は思い至った。いや、思い至ると言うには、あまりにも遅すぎた。嫌な汗が身体を、ミミズのみたいに這って、気味が悪かった。
「……生徒を売って、金を貰っていた」
――。
「確かに、我々には記憶を操作できる装置がある、と立沢が言っていたこともあるし、それなら足がつかないように出来るとも聞いた。だが、まさかそれが、一人の患者の能力として搭載されているだなんて……。現に、彼の専攻は元々脳の分野だ。記憶改竄装置を小さくして患者に搭載しようと考えるのは、道理といえば道理だが……」
勝手に、視界が悪くなった。
なんだ
「あれ……?」
「ちょっと、大丈夫?」
茅島さんが私に声を掛けたと同時に気付いた。
涙が流れていた。
「……辛い?」
「………………なんで、」
駄目になってしまう前に、私は思ったことを口にした。嗚咽が混じって、自分でも意味がわからなかった。
「そんな人だったなんて……教授が……。ずっと、私は……別に、そんなにいい先生だって思いませんでしたけど…………だけど、私を褒めてくれたり…………あと留学の話とか……私みたいな人間の塵みたいなのに、良くしてくれたじゃないですか……でも…………教授は……そういう目的だったんですか……。ずっと私を…………商品だと思っていたんですか…………私が、こんな私でも、いつか人に評価されることがあるって……教えてくれたのは…………嘘だったんですか…………?」
間。
「そうだ」
「……………………」
「すまん…………私は、若い才能に嫉妬していたんだ。加賀谷くんの才能や、小ヶ谷くんのカリスマ性が、私には怖かった。羨ましかったとさえ言える。君と小ヶ谷くんを、ここに売ってしまおうと考えて……ゼミ合宿に連れてきた。今までだってそうしてきた。売ってしまった生徒は、行方不明という形で片付けられた。スパンを空ければ、思いの外変な噂も立たなかった……。すまない……私は…………こんな人間だ。自分が生徒よりも劣っていることが、何よりも怖いんだよ……」
「あなた、最低だわ」
茅島さんの声が聞こえた。明らかに、怒りを含んでいた。
「頭おかしいわよ。青は藍より出でて藍より青し、なんて言葉、あなたには理解できないわけ」
「…………なんとでも言え。甘んじて受け入れる。私は最低だ。最低の人間なんだよ……あの時から、ずっと…………私はもうまともに生きられないんだ……」
「……弁解なら聞いてあげるわ」
「……昔、私の妻子がある事件に巻き込まれてね。詳細は省くが、権力側の暴走に起因する中規模の事件だ。その時私は一人娘を喪った。助けられなかったのは、私の無力さが原因だった。そう思っている。そう思ってずっと今まで生きてきた。その所為でか、妻とも離婚したよ。私の無力さに耐えかねたのだろう。娘……生きていれば、君たちと同じような年頃だろうか。なんで私の娘は死んでしまって、他の子供達はこの年まで生き、将来まであるのか。そう考えると、心の底から腹が立った。私は、この歳になって、もう肉体的にも精神的にも成長することも望めない。昔感じた無力さを覆すことはできない。だけど君たちには成長があるし、娘が生きるはずだった人生を謳歌している。腹が立つよそりゃあ。無茶苦茶にしてやりたいと思った。もともと嫉妬深い人間だった。そんな時に、立沢の奴からこの話が舞い込んだ。私を止められる抑止力は、何もなかった。私は気に入らない、優秀な生徒を一人か二人ほど立沢に売り渡し、自分が彼らの人生をコントロールしているという状況に酔い、同時に自分より優秀な人材を消すことで、無力さを忘れることが……」
「…………もういいわ」
遮って、茅島さんは私の肩を抱いた。
「出ましょう?」
私は何も言えず、ただ首を縦に振った。
教授を置いて、そのまま入り口の物々しい扉をくぐる。外の空気はあまり変わらなかったが、ずっと息をしやすかった。
「収まった?」
私のことを気遣う彼女。
「…………いいえ」
「聞くだけなら聞くわ。私も似たような立場だったんだけど」
「………………私のことを、認めてくれた先生でした。私、ずっと自分が他人より劣ってるって、二十年くらいずっと思ってて、でも……人に褒められたのなんて初めてで……、期待されるのはちょっと迷惑でしたけど、でも……そんなに嫌じゃなかった…………嬉しかった……嬉しかったんだよ……裏切られた時が辛いから……素直に喜ばなかったんだけど…………全然意味なかった……辛いよ……なんで……」
この女の前で泣くことに、もうあまり抵抗がなくなっていた。
不意をつくように、聞いたこともないような、優しい声がする。
「あなたがどんな勉強をしてきたかなんて、私は知らないけど、それでもあなたが教授に嫉妬されるほど、認められていたのは、紛れもない事実よ。人の嫉妬なんて、中々浴びられるもんじゃない。考えように因っては気持ちいいわよ。落ち着かないなら、泣くだけ泣くと、ストレスが排出されるわ。人間の身体っていうのは、そういう構造になってる」
……。
「なんなら私の胸でも貸してあげるわ。ほら」
「…………幾らですか」
「言い値で」
軽口を叩かれながら、私の身体は、彼女に吸い寄せられていた。
彼女の胸は、不思議なほど暖かくなかった。
変な気分だ。
それでも私は、一頻り泣いた。
5
お腹が空いた、と茅島ふくみが言ったので、気がつくと私も酷い空腹感を感じていた。思えば、小ケ谷の件やいろいろで、朝以来何も食べてなかった。何かを食べるという行為自体を、もはや懐かしむようになっていた。
さて食料があると言えば、談話室か冷蔵室が相場だったが、談話室は下向が彷徨いていたという話を聞いていたので、大いに気が進まなかったが、冷蔵室も死体が安置されており、出来れば取りやめたかったが、茅島さんは元気そうに「じゃあ冷蔵室へ行きましょう」と私の肩を叩きながら言う。私はまた泣きそうになった。
冷蔵室は相変わらず、骨が動かなくなりそうなくらいの室温で、死んでしまうならここが良いとさえ思った。
山積みのダンボールやボックスの中から、食料をなにか適当に探そうと思った矢先に、茅島ふくみは院長の死体がある方へ向かって、出てこなくなった。
勘弁してくれ、と私は呟いた。
「茅島さん……」
「ごめん」奥から彼女の声が聞こえた。「だって、あんな話聞いた後だと、気になっちゃって。加賀谷さんは食料探してて」
彼女はまだ犯人を探そうとしていた。それはわかっていたのだが、私なんてまだ早く家に帰りたいとしか思わないのに、こんな彼女との差を見せつけられると、少し悔しい気持ちが浮かび上がってくる。
私と彼女の埋められない差。
今はそれを真剣に考えてしまう。慰められて、余計に気になってしまった。彼女と私の共通点なんて、性別と年齢と売られようとしていたという事実くらいしかないのかもしれない。
「死体は引きずられてここに…………犯人は男性? 嫌でも、院長、そんなに重くないし、地球より重力はやや軽いから……うーん……」
一人で喋る彼女を尻目に、言われた通り私は食料を探した。探すまでもなく、その辺りに乱雑に積んであるものを、何も考えずに拾えばそれでも良かった。朝食べた栄養保存食、なんでもよかった私は、これを六つほど手に取った。彼女もエネルギー効率がどうとか言っていたから、これが私に出来るもっとも優れた選択だと思われた。
「茅島さん、食料見つけたんで」
「もうちょっと待って」
「戻りましょうよ」
「もう少し……」
「…………」
寒い氷漬けになりそうな場所で、待ちぼうけを食らう。凍えてしまうので早くして欲しい、なんて私が訴えられるものでもなかった。
「読めないんですかね、死体から記憶って」ぼそりと私は言う。
「死体から? さあ。難しいんじゃないの。記憶が保持される期間がどれくらいなのかわからないし、読む人の機能の精度にも因る、のかも知れないけど」茅島ふくみが出てくる気配がない。「でもいい考えね。さっさと記憶を読める患者を探してやらせてみる?」
「……そりゃ出来るなら」
「ま、期待するだけ無駄でしょうね。彼の記憶があれば、犯人、パスコード、ステーションにいた患者のことまで全部わかるっていうのに、こうしている内に失われる脳細胞のことを考えると、泣きそう。もう流石に手遅れかな……」
思い付きの話はそうして却下された。
なにか食料を探すか……。
暇だった私は、変わったものが食べたくなり、更に食料を探し始めた。何か見つけても、茅島ふくみに分けないで一人で全部食べよう、などと意地の悪い子供のようなことを胸に誓って死にたくなった。
他に、変わった食料……。
そして私は、白い息を吐きながら、震える手で、奥の方の荷物を動かし始める。栄養食。栄養食。栄養食。そんな物ばかりだ。見ているだけで、栄養過多になりそうだった。素手で触っていると、血が浮き出そうなほどに、掌に痛みが走った。夢中になるほど物を退かせている。ビールほど重いボックスはそのままにした。
奥に、地味な箱が積んである。数個。その側面を手で謎るようにして、読んだ。即席ラーメン、と書いてあった。探せばあるものだ、と私は自分に感心し、箱を動かすと、軽い。中身は入っているのだろうか。久しく食べてないので、出来れば口にしたいのだが、
そして私は、
その箱の奥、小さな隙間から、見てはいけないものを見つけてしまった。
ああ、どうして見ないふりをしなかったのだろうか。
どうして、私はあなたを見つけてしまったのだろうか。
床に、音を立てながら倒れ込む、
掛かったビニールシートから覗く、
人間の
足
――死体
私は叫び声を上げていた。
「どうしたの!?」
茅島さんが傍に駆け寄ってくる。思わず抱きついてしまった。
私は、彼女の肩越しに指を指す。
茅島さんが近寄り、シートを剥いだ。
転がる死体……
それも二体。
「なに……」
茅島さんも、生唾を飲み込んだ。
「一体いつの間に……?」
「でも…………」私は、声を絞り出した。「見たことないです、こんな人たち……誰なんですか、茅島さん……?」
そう。死体は全裸の、成人男性と、やや幼い女の子。詳しい相貌はよくわからなかったが、体格や雰囲気でそう判断した。こんな人、ステーションに来て以来、私は見たこともなかった。
身体の表面が完全に氷結している。死後それなりに時間が経っているらしい。
そして、白い息を吐き出しながら、茅島ふくみが言う。
「私も……知らないわ。初めて見た……退院したはずの患者かしら……」
「茅島さんでも知らないんですか……?」
「ええ。私だって、こう見えてここに来て日が浅いから」
とにかく、誰かに知らせましょう、と茅島さんが私に指示をした。自分の端末はバッテリーの問題からあまり使いたくないらしかった。
「誰が良いですか?」
「岩…………いえ、教授にしましょう。彼、岩脇さんたちより、昔のこと知ってるじゃない。さっきのあれでなんだと思うけど」
私は短距離通信を飛ばした。
すんなり返答をよこした教授へ、死体が見つかったのですぐに冷蔵室へ来て下さい、とだけ伝えた。彼は驚きながらも、冷静な口調で承った。
食事も喉を通らない気分だ。外でじっと待っていると、やがて足音が聞こえた。音を聞いただけで茅島さんは教授に「ご足労掛けます」と声を掛けた。
中の死体二つを見た教授は、しばらく唸って考えていた。もしかしたら、なにか知っているのかも知れないと私は期待をかけた。
「……知らないな」期待はずれだった。「比較的古い死体だ。凍っているから詳しくはわからんが……。少なくとも見た記憶はない」
それは、記憶を操作されているかも知れないので今は覚えがない、という意味も含まれているようだった。
「となると、院長よりも前に殺されてたってことですか?」
茅島ふくみがそう尋ねると、院長は頷いた。
「しかも他殺だろう。全裸で冷蔵室に入って自殺しないとも言えないが。岩脇くんか饒平名くんに診てもらったほうが確実かな」
「あ、じゃあ私、連絡してみます」
茅島さんに番号を教えてもらい、岩脇さんに掛ける。まだ院長室でコンピューターを触っていたのか定かではないが、コール音から程なくして、岩脇さんの応答が聞こえた。
死体のことを伝えると、息を呑みながら、「ちょっと直接見に行けないから、写真を撮ってきて」と彼女は言った。予想を外れて、今彼女は沼山の部屋にいるとも告げられる。断る理由もなかったが、気味が悪かったので、写真は茅島さんに頼んだ。
まるで標本のように正確に、彼女はシャッターを切った。
6
教授も連れ立って、岩脇さんがいるという沼山の部屋へ向かった。ともすれば教授は足手まといになるかも知れなかったが、彼にも沼山の様子を見てもらうことが出来ることは利点だった。
ドアを数回ノックすると、岩脇さんが顔を出した。いつもの仏頂面だった。
「ああ、入って」
中では沼山がベッドに寝かされていた。相変わらず、譫言のような言葉を時々発していて、様子は変わっていない。状況は好転していないことを、嫌でも目の前に晒されている気分だった。
「住ノ江から、そろそろ沼山くんの様子を見に行ってくれて頼まれてね。言われるまでもなく私も気になってた」彼女は沼山の側に立ちながら言う。「まあ、そういう仕事してるし、小ケ谷さんも危険な状態ではあるけど、少し安定してきたから」
「さっそくですけど」
茅島ふくみが端末を開いた。
画面いっぱいに死体が映った。
「この二人なんですけど、見覚えありますか?」
「……酷いね…………」
しげしげと死体の写真を眺める岩脇さん。職業柄、死体を見ることに抵抗がないのだろうか、眉一つ動かさなかったが、しばらくして首を傾げながら唸った。
「……知らないな。私結構古くからいるんだけど、そんな私でも知らない人って…………でも、なんとなく見覚えがあるような、ないような……」そして彼女は恐る恐る尋ねた。「死因も、ちょっとわからないな。あとで実物を見に行ってみるけど……ひょっとして、下向くんがやったの?」
「いや、彼じゃない」教授が説明した。「この死体は院長よりも古いんだよ。君のほうが専門家だろう?」
「ああ、ええ。確かに、痛み方が院長より酷い。そっか、つまり下向くんがおかしくなるより前からあったってことか」
なんだ、よかった、と安堵する彼女を見て、私は違和感を覚える。
勇気を振り絞って、私は彼女に訊いた。
「あの、なんで安心を……?」
「え? いや、下向くんが人を殺して無くてよかったな、って」
それを聞いて、ずいと身を乗り出す茅島さん。
「ちょっと待ってくださいよ。加賀谷さんは下向に殺されかけたんですよ。殺してなくても、ある程度罪はあると思うんですけど」
「え、殺されかけた? 大丈夫?」
気味が悪いほど、岩脇さんは私に近づいて、頭を下げた。あまり見られない光景だった。
「怪我はない? ごめんなさいね、代わりに謝る」
「いえ、そんな、怪我はないですけど……」私は眉をひそめた。「あの、あなたと下向さんって、どんな……」
「あれ、言ってなかったっけ。いえ、大したことじゃないんだけど、私達、昔から交際しててね」
あまり聞きたくないような返事が帰ってきたので、私は下を出して耳を塞ぎたくなった。
茅島さんがそれでも興味深そうに、更に質問を重ねた。
「……それ、初めて聞きました。いつからですか?」
「おかしいな。ここに来た当時からずっと付き合ってるんだけど、あまり表立って言ったことはなかったっけ。少なくとも亜紀なら知ってるわよ。饒平名亜紀。大学も一緒で、私と同時にここに入ったんだもの」
と楽しそうに、岩脇さんは思い出を語り始める。
「あんな人の何処が良かったんですか」
「はは、ズバリ訊くのね。でも、確かに彼、昔はあんな人じゃなかった。優しくて、仕事熱心。それでいて、私のことを大事に思ってくれる、理想的な交際相手だったんだけど、ここ最近は、なんていうか、落ち着きがなかったわ。昔みたいな優しさを感じられる場面なんて、めっきりなくなった」
優しそうな下向を想像すると、脳が矛盾を感じたので辞めた。岩脇さんと二人でいる所を思い浮かべると、あまりにも現実味のない絵面になりそうだった。
「いや、彼だってね、悪気があるわけじゃないのよ。多分。よそよそしくなったのだって、あんな風におかしくなったのだって、なにか理由が、そう、追い詰められているんじゃないかな。患者との仲も、私達ほど良くはなかったし、それで信頼していた院長が殺されたとなっちゃ、正気でいられるほうがおかしいよね。殺されかけたあなたは気の毒なんだけど、私が代わりに謝る。ごめんなさい。だけど彼のこともわかってあげて欲しい」
「…………考えておきます」私は、呟くようにそう答える。
「そう。ありがとう。最近様子がおかしかったことは本当だよ」
「例えば?」茅島さんが突っ込む。
「忙しそう、落ち着きがない、ってことは話したわね。なんか、生活リズムが今までと違うっていうか、いつもより規則的になってたし、私のほうが寝坊するなんてこと、今までには全く無かったんだけど、最近じゃ顕著で……」
「朝型になった、ということですか」
「ええ。仕事が溜まってるでもなく、何故か起きなきゃいけないみたいに目覚めて、それで何をするでもなく……。あ、そうそう。仕事をほとんどしなくなったわね。簡単な雑用と、どうでも良い掃除とか、そんなのばっかり。以前は自分ひとりでも何でも出来たっていうのに、今じゃ私達に任せきり。私と亜紀でカバーして、回らなくなったら住ノ江にまで手伝わせてさ。変わってしまったわね、彼」
遠い思い出を、ガムでも噛むように味わいながら、岩脇さんは話し終えたのか、愛おしそうに目を瞑った。
下向のことをわかった気になろうと思った。だけどますます不審だった。急に変わってしまった彼。以前と違い、神経質になってしまった彼。原因は考えてもわからなかった。
急に、目を開いて、岩脇さんが私達に言う。
「ねえ、彼のこと、助けてくれない?」
私達が最後の望みとでも言うように、彼女はじっと目を合わせてきた。
「なんでです? こっちは殺されかけたんですよ」
「……お願い。これは私のわがまま。彼に責任を取らせる為に、彼を説得してほしいの」
無理な願いということだけは伝わってきた。
私にそのつもりは全く無かったが、茅島さんは、岩脇さんを見ながら端的に答えた。
「元よりそのつもりよ。うろうろされると邪魔なんだから」
「……ありがとう」そうして中々見せることもない微笑みを、岩脇さんは私達に見せた。少し素敵だと思ってしまった。「そうだ、亜紀にも訊いてみてよ。彼女、こういう精神療養の分野、得意だったから」
「ええ、参考にします」
茅島ふくみはそう言いながら、全く笑っていなかった。
7
眠たくなってきた、と思ったら、時刻はもう夜の九時を回っていた。
茅島ふくみに朝叩き起こされたので、明らかに睡眠時間が足りていなかったのだが、当の茅島さんは、眠そうな顔ひとつ見せなかった。そういえば、睡眠に執着がなさそうな顔をしていた。根本的に身体の構造が違うのだろう。もしくは、機械化されて電池駆動になっているのかもしれない。
饒平名亜紀にも写真を見せてみる、ということで彼女に連絡を取ると、手術室から移動していなかった。住ノ江さんも久利もいるらしいことは、電話越しの物音で察した。
ここからでも、手術室は少し遠かった。長い廊下。眠気で歩くことがさらに嫌になった。
医療セクション、薬品管理室の前にあった大きなエレベーターに乗って、二階で降りると、そこが目的の手術室であることは知っての通り。ちなみにエレベーターは二階までしか行かず、三階があるにはあるのだが、手術室から吹き抜けになっており、施設としては。なにがあるのかは知らない。
降りて、住ノ江さんと久利に挨拶をし、手術台に赤子みたいに寝かされている小ヶ谷響子を横目に見て、部屋の隅でコンピューターを触っている饒平名に、私達は声を掛けた。
「饒平名さん」茅島さんが明瞭な発音で言った。「訊きたいことがあるんですけど」
「なに? 犯人じゃないよ私は」
振り向きながら、そんな冗談を言う彼女。いや、冗談ではないのかも知れないが。
「見てもらいたい写真があるんですけど、これ、誰かわかりますか。死体なんですけど大丈夫ですか?」
「まあ、見慣れてるから大丈夫だけど……」
端的に説明しながら、茅島さんはさっきと同じように、端末から写真を表示させて、饒平名さんに向けた。見たくなかったので、私は目を瞑った。
饒平名さんは、意外にも即答した。
「知らない。あ、でも見覚えある……」
「岩脇さんもそう言っていました。昔の患者ですか?」
そう言われると、饒平名さんは頭を抱えた。
「……待って、思い出せそうなんだけど。あー、えっと…………確かに患者だった、と思う。この女の子の方はね。男の方はごめん、ちょっと思い出せないな」
取っ掛かりを見つけた、という顔をする茅島さん。反射的に指を鳴らした。
「どんな女の子でした? 身体は機械化されていましたか?」
「そうね…………」饒平名さんは死体の画像を見ながら考え込んだ。「絵を…………絵を描くことが好きだった、そうそう。そんな女の子だよ。絵を描くことが好きな女の子」
……絵?
「茅島さん」私は耳元で囁いた。「絵って、あの図書館で見た……?」
「ええ……きっと」茅島さんは饒平名さんを向く。「私、この子のこと、全然覚えてないんですけど、私と会ったことは? いえ、絵に描かれてるから当然会ったことはあるんですけど」
「ああ、それは一緒だった期間が短かったからじゃない。最初、あなたはあまり人と打ち解ける方じゃなかったし、茅島ちゃんが殆ど会わない内に、あの娘は退院…………」そこまで言って、饒平名さんは息を呑んだ。「……そうか、死んでるってことは、退院なんて、やっぱり…………」
「嘘ですね。院長が人身売買を行う都合で流したストーリーでしょう」
人身売買のことは、饒平名さんも知っていた。岩脇さんに電話で教えてもらったのだろう。
「……そう考えると悲しくなるわ」それでも饒平名さんは悲しそうに俯いた。「あなた達が思ってる以上の患者が出入りしてて、その数だけ私達は身を削って働いたんだよ。その末路がこれなんてね、いざ覚悟決めてても、嫌な気持ちになるものね」
「……改めて聞きますけど、どんな娘でした?」
「……そう言えばあなた、加賀谷さん、だっけ。あなたその娘に雰囲気が似てるわ。年齢はぜんぜん違うんだけど」
急に指を向けられて、私は狼狽えた。私に似ている人間なんて、可哀想だ。そもそも、生涯で誰か他人に似ているなんて、数える程度しか言われたことがなかったので、どういう反応をすれば良いのかわからなかった。
「似てますか、私に」
「おとなしくて、あまり人に心を開かなくて、でも笑うと笑顔が可愛い」私を見つめながら、饒平名さんは、思い出の中の女の子を眺めていた。「いい娘だったわ。絵も、私達へのお礼だってさ。まあ私は描いてもらえてないんだけどね。あんまり遊んであげてる暇がなかったから」
話せば思い出すものね、と饒平名はつぶやいた。そして、彼女が死んでしまったことを今更身に沁みたのか、少し涙を見せた。
私はその女の子が、一体どんな人間だったのか、全く知る由もなかったが、少なくとも、これだけ慕われているのだから、私なんかよりも、年齢は若いながらずっと出来た人間であることが伺い知れる。彼女ではなく、私なんかが生きているのが、急にたまらなく恥ずかしくなる。
感傷に浸る様子もなく、茅島さんは話を切り替えた。
「もう一つ良いでしょうか。思い出話のついでなんですけど」そしてすこし小声になる彼女。「岩脇さんと、下向のことなんですけど」
その単語を聞いた瞬間に、饒平名亜紀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そこ、私に訊く?」
「他に岩脇さんに詳しい人、いないじゃないですか」
「…………あいつ、絶対おかしいよ、下向」
話は唐突に始まった。饒平名さんは自分がさっきまでコンピューターを触っていたことを、もう完全に忘れてしまっているみたいだった。もし彼女が喫煙者なら、葉巻を一本吸っているタイミングだった。
「愚痴になるけど、文句言わないでね。下向、あいつ、前はあんなんじゃなかったわ。もっと頭が良い、人が良い、そして乱暴じゃない。でも今のあいつは真逆だよ。別に善人でいろって言ってるんじゃないけど、人に迷惑かけんなって言いたいよ。乱暴。人を傷つける。認められないよね、あれじゃ。前のように優しかったから、神経質な紗里と釣り合うと思ったのに、私も見る目がないもんだよ」
「下向さんと岩脇さんが交際してる、っていうのは」
「本当よ。私は最初、その恋の相談を受けて、まあ信用できなかったから反対したんだけど、結局下向のやつに直接説得されたんだよね。私を言いくるめてどうすんのって話なんだけど。でも、なんでそれで許したかって言うと、だって…………その時は、こんないい人間見たことないなって、そう思ってたよ」
「岩脇さんも、下向さんは昔はもっと違う人だって言ってましたね。私が来た時には、もう既にあんな人だったと記憶してるんですけど」
「うん、まあ、いつの頃からかちょっと忘れちゃったけど、あいつは変わった。昔のあいつは……仕事もできたし、私でも頼れるし、別に交際相手としての興味は全く無かったけど、言うことが理性的でわかりやすい。怒ることも少なくて、友達には一人いたら気持ちいい、っていうタイプじゃないかしら。私も最終的には仲良くなってたし、何より口が上手い。あいつを嫌ってる人なんて、まあ客観的に見てもいなかったな」
ここまで二人の人間から褒めちぎられていた下向が、どうしてあんなふうに変わってしまったのか、私は環境が人を変える力が、恐ろしくて仕方がなくなった。
「最初は、交際に反対していたんですって?」茅島ふくみが、そんなことには興味なさそうだったのに、随分と乗り出して尋ねていた。
「……ええ」饒平名さんは頷いた。「私は、紗里の一番の友人だった」
不意にコンピューターを触りながら、饒平名さんは写真を表示させた。昔の、饒平名さんと岩脇さんが映っている写真だった。仲が良さそうに、どこでも、いつも一緒にいる二人、ということが、説明を受けないでも伝わってきた。
「彼女の一番の理解者は自分だと思ってた。だって、私の一番の理解者は彼女だから。そうじゃないと困った。でもそれだけに、急に出てきたお前なんかに、紗里の何をわかってんのよ、なんてムキになっちゃって。それでもあいつは、私みたいな人間相手でも自分の評価を、マイナスからプラスの高いところまで、自力で持っていった。紛れもなく本人の実力よ。それで時間を掛けて下向と仲良くはなって、最終的に交際を許したんだけど、二人が付き合い始めてから、ちょっと私は距離を感じるかな」
やがてひとつの写真に手を止めた。
「大学時代だよ。私達、昔からの知り合いでね。彼女がこの道に進むって聞いた時は、迷わず私もついていった。勉強は大変だったけど、そんなに苦じゃなかった。その方がお互い利があると信じていたから。だけどここに来て、彼女には私なんていなくても、その代りが作れるんだなって、嫌って言うほどに、理解させられたよ」
私も、
そんなことを漠然と考えていたことが、あったような……
「あいつ、紗里ね、下向と付き合ってから、今までだったら私に相談してたようなことまで、全部下向に振るようになってさ。日常生活から仕事や趣味やどうでもいいことまで、全部。いや、それは別にいいんだよ。恋人ってそういうものだと私だって思ってるから。それは良いんだけど、友人としては、ちょっと面白くないかな。私の我儘だけどさ」
「下向さんが、院長が死んでおかしくなってからは、どうだったんですか、岩脇さん」
「それでも何も変わらない。あんなに狂った人のことをずっと心配してたし、なにか追い詰められてるんだって、ずっと庇ってる。あいつのために、よくわからない調べ物もしてたよ。それで、私があんな人間のことをいつまで信じてるんだって言ったら、本気で怒ってた。なんでこんなになってまで、あいつのことを信用するのかな……。私に頼ってくれてもいいのにね。昔みたいにさ。でも……私は何も変わってないのに、彼女は変わり過ぎたみたい」
悲しそうにそう呟いた彼女の顔を、私は見つめていることが出来なかった。
8
気分が下がっていた私たちに、声を掛けてくれたのは、住ノ江さんだった。
隅に座って、何もしていなかった私達を、彼女は気にかけたらしい。
「ごめんなさい加賀谷さん、ふくみちゃん。時間空いてます?」
「ええ。大丈夫です」茅島ふくみが頷いた。
「ちょっとね、薬品管理室から薬を取ってきて欲しいんだけど。私じゃ、あの中はね」
そう言われて、散々散らかった室内を思い出す。確かに、なるべくなら入りたくはなかった。
それでも茅島さんは嫌な顔ひとつしなかった。
「良いですよ。どんな薬ですか?」
「ええっと、消毒薬と、ガーゼが足りなくて……」
「小ケ谷さんの為ですね。彼女、容態は?」
「うん。まだ意識はないし、目覚めたって沼山くんみたいになってると思うけど、死ぬことはないんじゃないかな」
「待ってて下さい、すぐ取ってきます」
当然のように私を連れて、二人でエレベーターに乗り込んだ。大きいエレベーターでは、二人でも十分に空間を持て余した。
「あの時以来じゃない?」急に彼女は話しかけた。
「何がですか?」
「落ち着いた状態で二人で下りエレベーターに乗るの」
「別に、何回も乗ってるじゃないですか」
「でも今、ふと思い出しちゃって。思い出したんだからこれが二回目」
「…………思い出したくありません」
「まだ私のこと嫌い?」
「はい」
「嘘ね」
「……本当ですよ」
「ま、嫌いなりに随分打ち解けたと思うわ。あなたにしては上出来」
「……ありがとうございます」
何故かお礼を言ってしまう私。
彼女のことをまだ嫌いなのか、自分でもよくわからなかった。いや、好きになる要素がないのだから、あんなことをされた人間、嫌いになればよかった。だけど、私を気にかけてくれる人間がいることは、少しだけ心地だよく、そういう意味では最低の人間だと自分のことを呪った。
彼女の胸で泣いたことを思い出す。
首を振ってかき消した。
結局、もう好きなのか嫌いなのかわからなくなった。自分にとって都合がいいから、そばにいるだけで、そんな好き嫌いを気にするほど、心に余裕があるわけではなかったのかも知れない。
私は今、茅島ふくみになんて、興味を持っている暇がない。
「あの時は……ごめんなさいね」
「……良いですよ。許しませんけど」
「許してくれなくてもいいわ。私はあなたを地球に送り返す、そう約束したんだから、どう思われようと構わない」
一階。エレベーターがおもむろに開く。
「ええっと、薬ね。薬……」
茅島さんが数歩先に出て進み、私もそれに続こうと数歩歩みだした時、
急に身体が動かなくなって、私は驚いた。
何だ……?
「動くな」
耳元でそう叫ばれて、初めて自分の状況が理解できた。
茅島さんは、すでに振り返っていた。
「下向……!」
「お前、動くな。こいつを殺す」
視界の隅に、輝くもの、ナイフ。
私は刃物を持った下向に、羽交い締めにされているらしい。そう言えば息苦しくなっていた。踵が浮いている。
茅島さんは、下向と私をじっと睨んだまま、その場で立ち尽くした。
「何考えてんの」
下向は懐からなにかを取り出して、彼女の足元へ投げた。
――手錠。
「それを付けて、そこの部屋に入ってろ」
「……何の意味があるの?」
「黙れ、早くしろ」
手錠を拾った茅島さんは、自分の両手にゆっくりと嵌めた。しっかりと止まった手錠は、彼女の自由を奪った。両手を、自分の股の前で下げている。
何もできなくなったとしても、彼女の気丈な表情は変わらなかった。
「これで良い?」
「ああ。お前が邪魔だったんだよ。こいつに隙が出来るの待ってたんだ」
「うかつだった……音が反射しないように物陰に隠れてたわけ?」
「はやくその部屋に入れ」
脅されても、茅島さんはその場に立ったまま、ずっと視線を外さなかった。部屋へ入ることには従わなかった。
「おい、早くしろ」
しぶしぶ、茅島さんは部屋の中へ入って、ドアを閉めた。
そして下向は持っていた鍵で、速やかに錠をする。
茅島さんは、出ることが不可能な、完全な密室に、閉じ込められた。
「……二度と出てくんな」
彼が乗り込むと、エレベーターは動き始める。
彼と二人きりで、密室へ押し込められる。
顔を見上げられない。
見てしまえば、両目を潰されそうな雰囲気を感じた。
話しかけようなら突き飛ばされて、吐くまで殴打されそうだった。
圧。
目をつむって呼吸を止めているしか、私にできることはなかった。
手術室へ押し入った下向は、ナイフで私の命を脅かしながら、まず饒平名さんを中央へ座らせて、住ノ江さんを部屋の隅に追いやって縛った。その様子を、私は黙って見ているしか無かったことが歯がゆかった。
それでも私は違和感に気づいた。
教授と久利がいない。上手く逃げたのだろうか……。それとも、私を助ける機会を伺ってくれているのだろうか、と都合のいい妄想をした自分を軽蔑した。
下向の体温が、背中にこびりついている。生暖かい、私が求めたことのある人の温もりとは程遠く不快だった。皮膚から爛れてしまいそうだ。ナイフで刺されたほうがマシなのかも知れない。
床に座ったまま両手を上げていた饒平名さんが、私の頭の真上を睨みながら口を開いた。確かにその辺りに、下向の顔があることは感覚的にわかっていた。
「……何考えてるの」
「黙れ」下向はそれだけ言って彼女を制した。「おい。端末開いて、紗里を呼べ」
「…………」
歯ぎしりをしながら、彼女は言うとおりに、岩脇さんを呼び出した。電話での言葉遣いは端的だった。余計なことは、何も伝わっていなかった。
沈黙。
ナイフを差し向けられる状況に、私は慣れてしまった。
このナイフが私の命を奪うことなんて、想像できなくなった。それ自体を異常だと感じた。恐怖心が摩耗している。
饒平名さんが長いため息を吐いた。
「それで、私をどうしたい?」
「お前が犯人なんだろ」
突然の言葉に、饒平名さんが狼狽した。それは、そんなことを言われると思っていなかったような顔だった。私も意外に思う。彼が犯人の目星をつけていたなんて。
「は? 違う」
「……まあなんとでも言え」
「証拠はあるわけ?」
そう尋ねた時に、エレベーターが動き、ドアが開いた。
岩脇さんが、いつもと変わらない顔を覗かせたが、下向を見て息を呑んだ。
「……マリト」
「驚かせたか」
「いえ、別に。あなたらしいかなって」
「……どういう意味だよ」
平然と、下向と会話する岩脇さんに、私は驚きを隠せない。いや、彼女は下向の理解者であるということは、歴然としていたのだけれど、赤の他人を羽交い締めにしながらナイフを突きつけるような人間を、真っ当に扱うのもおかしい。私は憤りを撒き散らしたくなった。
饒平名さんの顔が強張っている。私と同じ気持ちなのかも知れない。
そして、私は不審に思った。饒平名さんの背後、奥の方、灯りがなくて薄暗い部分に、ちらりと人影が見えた。
久利友里絵だ。さっきからこっちの様子を伺っていたらしい。端末を触りながら、随分余裕だ。
向こうも、私と目が合ったことを確認すると、微笑みながら、指で頭上の方を指さした。
――上を見ろ?
眼球だけで見上げると、三階のガラス張りの窓から、薄暗いながらも、教授がこちらを見下ろしているのを確認できる。彼も私に気付いたように手を振った。呑気なものだ。彼らが逃げていないことに私は驚く。
何か策でもあるのか。そんな甘い期待を、仄かに胸に抱いていると、久利が口で私に何かを伝えた。
『だいじょうぶだから』
必死で読み取ったその言葉。
その言葉を、私は信じるしか無かった。
この状況から救い出してくれるなら、いっそあんたでも誰でも良い。好きでもない人物に、生殺与奪を握られていても文句はない。
チラついたナイフの切れ味を、再び胸に刻んだ。
幸い、下向は彼女らに気付いていないようだが……
「やっぱり、あんたなの……?」
さっきから下向と何かを話していた岩脇が、急に饒平名さんに声を掛ける。
その声は、どう聞いても同僚に話しかけるものでは無い。
饒平名さんが反論した。
「違う! 犯人なわけ無いでしょ! あんたずっと一緒にいたでしょ!」冷静さを欠いていた。「まだあんた下向なんて信じるわけ!? そいつがどれだけ私達に迷惑かけたと思ってるんだよ!?」
「黙れ!」
下向が叫ぶ。
空白。
「俺はずっと調べてたんだ。まず疑問に思ったのが、医者である俺が、何の医療知識も持ち合わせていないこと……。そして紗里と俺との関係のことが、記憶はあれどなんの現実性もないこと。当然、疑うべきは記憶の操作だ。俺はそもそも医者なんかじゃなく、患者なんじゃないかと思った。そこでカルテをすべて読み漁った。所々捨てられていて存在しなかったが、手術はお前が主に受け持っていたじゃないか」
考えられるは一つ、と彼は私の頭の上で言う。
「お前が、俺の記憶をいじったんだ……! 何の知識もない一般人を、このステーションの医者の立場に座らせやがった。なあ、教えてくれよ、俺は……誰なんだ……」
「あなたは……下向マリトでしょ」
「嘘言え。下向マリト……その名前で職員名簿を探し出した。厳重にロックが掛かっていたが、紗里に頼んで解除させた。裏で連絡をとっていたのさ。そして確かに下向マリトというスタッフは実在した。だが……出てきた顔写真は、まったく知らない男の顔だ」
「知らないよ! そんなの!」
「俺は一体誰なんだよ! あの男は誰だ!」
「知らないって! お願いよ! 信じて……!」
泣き崩れる饒平名さんに、岩脇さんが食って掛かった。明確に怒りが込められた声色を、聞くのが辛かった。
「あんたが一番怪しいのよ! 昔から私にずっとつきまとって! 私と彼のことずっと気に入らなかったじゃない! 嫉妬したのよこの女! だから…………本物の下向マリトを殺したんじゃない!」
「違う…………違うよ……私はあんたを……」
「うるさい! 死んで詫びろ! それしか私の心は癒せないんだよ!」
『あら、えらく賑やかね。混ぜて下さる?』
――不意。
完全に、不意だった。
同時に私の胸は踊った。
――ああ、
何処からかともなく、そんな声が響いて、三人の罵り合いを、綺麗に流した。
首をぐるりと回して、見回す饒平名さん。
――この声…………
『私抜きで楽しそうじゃない』
――茅島ふくみ!
「お前! 何処にいやがる!」
下向があらぬ方向に叫ぶ。
『自分で探しなさい』
「お前、動くなって言っただろ!」
『そんなの、誰が言うこと聞くのよ』
下向が私を引き摺ったまま、声のする方向へ歩む。
エレベーター。
でも、岩脇さんが使ってから、一度も動いていないはずだが……
「出てこい、こいつを殺す」
ナイフを顔に突きつけられる。
不思議と、そんなことがどうでも良くなった。
『探すことも出来ないわけ?』
何も答えずに、エレベーターを覗き込む。
確かにこの中から声は聞こえているが、中には誰もいな――
それが、
彼の運の尽き。
「甘いわね」
彼女は、
天井から現れ、
下向の顔を蹴り飛ばす。
吹き飛ばされる下向と、床に投げ捨てられる私。
息苦しさから開放されると同時に、身体を起こして茅島ふくみを見た。
間違いなく、彼女だった。
「ふう。タイミングばっちりね」
端末を閉じる彼女。
そうか、久利や教授と連絡を取りながら、下向がここに顔を突っ込むのを待っていたのか……。
ではいつの間にエレベーターのメンテナンスハッチを開けて上部なんかに……。
きっと、岩脇さんが来る前に、予め潜んでいたのか。
茅島ふくみなら、そんな姑息な見通しを立てられるはずだった。
彼女は呆然としている私に気付いて、向かって笑いかけた。
「なに? 寂しかった?」
「茅島さん…………」
叫び声が私の耳を劈く。
「てめえ! ふざけやがって!」
ナイフ。
速い。
彼は、茅島さんに向かって、ナイフを構えながら身体をぶつけに来た。
正気じゃない。
止める時間もない。
茅島ふくみは身構えたが、彼女の予想は外れた。
彼は私にまっすぐ向かってくる。
――あ、
死ぬ、と私は思った。そんなことを思う余裕があることが意外だった。
でももう、どうすることもなく……
ただ、私を失う彼女の顔を見るのが辛くて――
「加賀谷さ……!」
名前を呼ばれると同時に、
脇から茅島ふくみの姿、
私は突き飛ばされ、
彼女は身体を投げうって、
輝く凶器から、私を防いだ。
血、
滴る血。
手と、お腹、鮮血に染まるその部分が、彼女が倒れ込む時に見えた。
「あ…………」
言葉にならない声が聞こえる。
派手な音を立てて彼女が床と一体になる。
地面に模様を描いていく。
「茅島さん!」
久利と教授が、下向を取り押さえている。
どうでもいい。
「離せ! 俺は、犯人じゃ……!」
下向が暴れている。
どうでも良い
教授が必死の形相で、彼を止めている。
どうでも良い。
「いい加減にしなさいよ! あんた、どれだけ迷惑かけてると思ってんのよ! 人を刺した時点で、犯人は犯人よ!」
久利が諭した。
どうでも良い。
言葉を失う下向。
どうでも良かった。
そんなことより、茅島さんだ。彼女の安否だ。他のことはどうでも良かった。
彼女は、血に濡れた身体を、無理矢理起き上がらせた。
私は息を呑んだ。
「あんたは…………やりすぎたわ……………………」
激痛にうずくまる茅島さん。
見ていられなくなった。
私はようやく、抜けた腰を起こした。
「茅島さん! 嫌! 死んじゃ嫌だ……!」
動かなくなる彼女。
抱きとめると、私の手まで赤くなった。
どうでもいい。
何もしない岩脇さん、それに声を掛ける饒平名さん。
「……何してんのよ、私ら何の仕事してると思ってんの」
「……ごめん」
「いいから、早く」
無言で頷く岩脇さん。
そして下向は、次第に抵抗を止めた。
「…………紗里、俺を何処かに閉じ込めてくれ」
9
時計をぼーっと眺めると朝の六時だった。
うとうとと小刻みな睡眠にいざなわれたが、まとまった睡眠は取っていない。だけど眠れる気分じゃなかった。
ベッドに茅島ふくみが眠っている。何時間も眺めていたその顔を、改めて観察するが、死んではいないようだった。浅いながらも呼吸を繰り返している。
ここは手術室に繋がっている、術後の患者が寝かされる病室。小ヶ谷響子も何処かの部屋にいるらしいとは聞いた。
茅島ふくみの怪我は、派手な出血に比べれば、思いのほか軽傷だったと饒平名さんが言っていた。勿論放っておけば死んでしまうが、処置が早ければ治りも早いだろう、という言葉をずっと覚えていた。
また座ったまま眠ってしまおうか、と思った時に、薄っすらとした彼女の瞼が、痙攣しながら持ち上がる様子が見えた。
私は待ちに待ったその瞬間に、身を乗り出して声を掛けた。迷惑だった、と自分でも思った。
ああ、なんでこんなに、彼女の目覚めを、待っていた自分がいるのだろう。
私の心は、何処か彼女という存在に毒されてしまったのか。
どうでもいい女に、この顔は見せる表情じゃない。
もっと大切な人のために、取っておいたつもりだったのに、顔が少しも緩まない。
「茅島さん!」
呼びかけられて、彼女は首をこちらに向けた。
状況はあまり理解してないまでも、私を見つけると微笑みかける。
「……なに泣いてんのよ」
「茅島さん……よかった……」
私は涙を腕で拭った。
腕を持ち上げて、手を動かし、腹部に巻かれた包帯を見て、彼女は呟く。饒平名さんが苦労したであろう手首の手錠は、綺麗に外れていた。
「生きてる……まあ、死ぬような怪我じゃないか」
「なに言ってるんですか! 馬鹿なこと言ってるんじゃないですよ!」私は思わず声を上げた。「だって……茅島さんずっと目を覚まさないから…………」
「いやね、まだ死ぬつもりなんてないわ」呑気に彼女は言う。話すと傷口が痛むのか顔をしかめた。「なによ、私のこと嫌いじゃないの?」
「……嫌いです。嫌いなはずなのに……なんでか、どうしてもあなたのことを嫌えないんです……」
本音。
その本音を疑う私。
利害関係から出た言葉ではなかった。
「それはきっと」
「なんですか……?」
「私が、あなたに好かれるように、ずっと振る舞っていたからよ」
私達はそうして笑った。
なんだか自信満々に、そんな事を言う彼女が、不意にバカバカしく見えた。
変な気分。いつからか私はずっと変な気分だ。彼女が目覚めたときか、彼女が刺されたときか、彼女が助けに来た時か、彼女に慰められた時か、わからないけど、純粋に彼女のことを友人だと思っている自分が、どう見てもおかしかった。
彼女は身体を起こした。止めようとしても聞かないだろうと思って、私はただ見守った。
痛むお腹を押さえながらも、彼女は言った。
「…………この程度の痛みなら大丈夫。実力の八割って所」
「……これからどうするんですか?」
「当然、犯人を探す。私、犯人を許せないわ。人の平穏を乱すって、最低の行為だと思うんだけど」
「下向さんも、結局利用されてただけなんですかね」
「ええ。あいつは、ただ都合がいいから狂わされていたのか、計算外でトチ狂ったのか、定かじゃないけど、単なる哀れな人間よ」
よっ、と彼女はベッドから立ち上がった。服が、流石に乾いてはいたが、まだ血で染まっていた。変な模様の服を着る女にしか見えなかった。
まだ本調子じゃないのか、彼女がよろめいた。
慌てて支える私。
「ああ、ありがとう……」
「いえ……」
顔が近くて、そのまま吸い込まれそうになった。
その顔が苦痛に少しゆがんでいることに、私は妙な背徳感を覚えた。
支えた指先から、彼女の体温が伝わる。
間違いなく生きている。
この今にも折れそうな身体を、出来る限り支えようと、私は彼女に悟られない程度にさり気なく、心に誓った。
お前はそんな人間だっただろうか。
「ちょっと、なにしてんのあんた達……」
とそこで、久利友里絵が、急に扉を開けて入ってきた。
「ああ茅島さん、動いちゃ駄目だって!」
「久利さん」
まっすぐ彼女を見つめる茅島さん。身体の痛みなんて、まるでないかのように、背筋が伸びた。
「私には、やることがあるので、止めないで」
「犯人、ですか?」
「ええ」
「……わかったんですか?」
「それはまだ。これから追い詰めに行くわ」
「…………そう」久利はため息を吐いた。「饒平名さんたちには、私が上手く言っておくから、さっさと見つけてきてくださいね。早くこんなところに別れを告げたいですから」
「ありがとう」茅島さんが微笑んだ。「私に任せなさい」
彼女を支えながら廊下に出た。滑りの悪い床だった。歩いている内に、彼女は私の助けもいらなくなった。
「強いですね、茅島さんって」
さっきから思っていたことを私が言うと、彼女は謙遜した。
「別に。結局嫌になって宇宙に逃げてきた人間だから、そうでもないわよ。ああ、でも犯人は許さないわ。私の記憶だって取り戻す。奪われたままじゃ、気が済まないもの」
「そういう所が強いんですよ……私……茅島さんみたいになりたい」
「じゃあ、耳でも改造する?」
私は首を振った。
「はは、そうよね。でも……」
「なんですか」
「成長っていうのはね、それを望むものに与えられるんだって、私は思うわ」
「昨日聞きましたよそれ」
「あなたは、そう望む人間だと思う」
歩いていると、薬品管理室の前で、彼女は急に座り込んだ。
「痛…………」
「だ、大丈夫ですか?」
「…………平気。でもちょっと休憩……」
壁にもたれかかる彼女。私はその近くに座った。
呼吸を荒くしていた彼女が、落ち着きを取り戻し始めたので、私は気になっていたことを、彼女にぶつけた。
「ねえ茅島さん。手術室まではどうやって?」
「蹴破った。見ればわかるわよ、ほら」
彼女は薬品管理室の扉を指差す。
確かに半壊だったので、私は納得した。元々、そう丈夫なドアでもないし、犯人との格闘で損傷を負っていた可能性もある。しかし彼女のことだから、もっと頭を使って脱出したのかと思っていたら、案外拍子抜けだ。
「そして、耳を澄ましてると人が来る気配がして、歩き方で岩脇さんだってわかって、多分これは下向の呼び出しを受けて手術室に行くな、と踏んだわけ。私がエレベーターを動かして、下向に警戒されて、最悪あなたが殺されるのなんてそんなの勘弁だから、これを利用しない手はないな、と思った。先にエレベーターの天井を開けて、そこに隠れてたの。挟まれて潰されなくてホッとしたわ」
「無茶ですよ……」
「でも結果は上々でしょ?」彼女は笑う。「後は耳と、それだけじゃよくわからない部分もあったから、久利と教授にメッセージを送ってもらって状況を把握し、下向をおびき寄せて、所定のタイミングで飛び出してあなたを助けた、というわけよ」
「……ありがとうございます」
「いえ、当然のことよ」
「私あのままだったら……」
「うん、まあ、そんなことよりさ……」恥ずかしくなったのか、顔を赤くしながら、茅島さんは話題を変えた。「下向、どうなった?」
「ああ、彼なら、教授らに取り押さえられて、使ってない個室があるそうなので、そこに鍵をかけて……」
茅島さんを刺してから、彼の心は急速に萎んでいった。自分から閉じ込めておいてくれ、願った時には、可愛そうな小動物くらいの風体だった。それを岩脇さんらが、無言で承諾した。
思えば、彼はずっと妙だったし、気になることも多数口にしていた。
「彼、自分が別人だって言ってました……」
「ええ。そこは聞いていたわ。自分は下向じゃないって」
そして、本物の下向は殺されていると岩脇さんが言っていた。
「殺されていた青年……彼こそが本当の下向なんでしょうね」
「ええ……私もそう思います。岩脇さん、下向に頼まれていろいろ調べてたって……」
「じゃあ今の下向は誰なのかしら。患者であるとは思うけれど、もしかしたら何でもない人? 記憶を植え付けられて成り変わらせるのであれば、たとえただの客人でも良いわけで……」
「だから医療のこと何も知らなかったし、前とは別人みたいになってたんだ……」
「それに誰も気が付かなかったのは、全員が彼を下向だと思い込むように記憶を操作されていたからね」
「あ、そうだ、茅島さん」
そう言って私は、端末からファイルを呼び出した。岩脇さんから送ってもらった、実際の書類をスキャナーで読み取ったデータだった。
それはカルテ。
「茅島さんが起きたら見せてあげてくれって、岩脇さんが」
「…………貞金くんのカルテ? 何処にあったの?」
「下向が持っていました。それを岩脇さんに読み取ってもらって、実物は今饒平名さんが……」
無言で目を通すと、茅島さんは音を立てて息を呑んだ。
「……本当なの、これ……」
「……はい」
そこに書かれていた記述。
「貞金くんの機能は、記憶の読み取り……」
腕力を強化されているなんて、嘘っぱちだった。
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