図書室

葵 一

図書室

 名札に「柚ノ木」と印字された少年が図書室に入ると借りていた本を、受付カウンターに座って本を読んでいる女子生徒に渡した。ここで受付をしているのは図書委員なので彼女も図書委員ということになる。

 本を受け取ると貸出票をチェックして貸し出した本がきちんと返却されているか、本に破損などがないか簡単にチェックし、問題がなかったようで顔を上げると蚊の鳴くような声で、

「……いいです……」

 と言った。

 彼が図書室を利用するのは決まって金曜。高校に入学して図書室を利用し始めてから一年半、このサイクルは変わっていない。

 別に本の虫というわけではない。むしろ中学までは読書へ情熱を傾けるようなことはなく、殆ど本に触れることもなかった。それが中学三年の後半に読書感想文用でとある本を一冊借りて読み終えると、そのままそのシリーズ全てを一通り読破してしまった。以来、本にかける時間が増えたのだ。

 彼が通う高校では通常の教室一つ分を図書室として開放しているが、それに見合うだけの蔵書量しかない。しかし、ふた月に一回は交流のある他校と、本棚一つ分くらい図書交換が行われるのでスペース以上の蔵書量となる。交換の対象となるのは主に貸し出しや閲覧頻度の低いものが優先的となる。場合によってはそれらの頻度が高くても、他校から交換希望の本もあったりするので在庫があればそれを含めることもある。

 ただ、その交換図書の処理以外にもやることが多いので図書委員は人気がない。

 柚ノ木はいつも興味のありそうな本を背表紙で判断し、手にとって軽く目を通す。気に入らなければ戻して次を探す。それを何度か繰り返して相性の良さそうな一冊を見つける。

 図書室内は柚ノ木と図書委員を含めても三人しかいない。

 この図書室には本しか置いておらず、借りずにその場で読むための机や椅子はない。代わりに扉一つを隔てた隣に自習室があるので、そこで閲覧利用で本を読むことができる。辞書などの一般的に貸し出し頻度の低い類はそっちに棚を設けてある。

 柚ノ木は今回の気になる本を見つけると、受付カウンターに持って行き、生徒手帳と一緒に渡した。彼女は受け取った本のタイトルと生徒手帳のクラスと名前を貸出票に書き、これも簡単に本の状態を確認してから無言で、しかし無表情ながら目は合わせて彼に差し出した。

 通常ならば貸し出し期間は一週間であることを告げるところだが、定期的に訪れるためすでに顔を覚えているようで、そのあたりはよく省かれた。柚ノ木も受付をしている彼女の顔は覚えているので、あまり人と接するのが得意ではないであろうことは理解している。対応は最初と殆ど変わらず、変化したのはこの部分くらいである。

 普段通り借りた本をその場で鞄に入れると図書室を出て帰路についた。


 草木は青を減らし日照時間も短くなって朝晩の冷え込みが日中にまで広がりだした11月下旬。

 柚ノ木はいつものように図書室へ向かう。スライドドアに手をかけ、ガラガラと音を立てて開けたが受付に誰もいない。受付の中の床に、山積みになった本が所狭しと並んでいる。それを見て交換図書の時期なのは察しがついたので、特に気にすることなく借りていた本をカウンターに置いて待つことにした。

 いくらもしないうちにドアの開く音に気づいたからか、いつもの彼女は数冊の本を抱えて早足で戻ってきた。

「……返却ですね……」

 カウンターに抱えた本を置き、ぼそぼそと喋って手早く貸し本と貸出票を確認し、

「……いいです……」

 そしていつものように小さな声でそう告げた。

 再び交換図書に出すメモを持った彼女が忙しない感じでウロウロしている中、歯抜けになった本棚を柚ノ木もいつも通り眺めながら借りる本を物色する。時折、彼女は自習室に持ち込むための閲覧許可の記入対応もしながらなので、あまり作業は捗っているように見えなかった。ここでは貸し出しより自習室での利用のほうが多いので、この対応に追われるのも仕方がなかった。

 やがて疲れたように受付に戻るとメモにシャープペンシルで何かを書き込み、運んだ本の上に置いて自習室へ入っていった。自習室にはウォーターサーバーがあるのでそれを飲みに行ったのかもしれないと思った。

 自習室と図書室を繋ぐドアが開いたとき、あっちは窓を開けていたのか図書室内に風が吹き込んでメモがはらりと落ちた。柚ノ木はそれを拾い上げ、戻そうとするときに丁寧な字で書かれたリストに目がいく。印のついている題目とついていない題目。さっきカウンターに置かれた本の題目に印がついている。印のついていないものが見つかっていない本だと容易に理解できた。

(さっきこれ見た気がするな。)

 メモを戻し、新しい記憶の断片を繋ぎ合わせて本の在り処を辿る。印のついてなかった内の二冊がさっきまで見ていた本棚の上の段にまとまってあったので、抜き取るとカウンターに置いてメモに印もつけておいた。

 自分の本探しに戻ると一息ついた彼女も戻ってきたようで、メモを手にしてまた図書室内を断続的に歩き回る。

 今回の一冊を手に取り、受付へ持って行く。さっきと同じように図書委員の彼女も早足に受付に戻り貸出し処理をするが、

「……あ、あの……」

 生徒手帳と本を受け渡しながら彼女が口を開いた。

「はい」

「……い、いえ……なんでも……」

 口篭って何かを言いかけた彼女に首を傾げながら、柚ノ木も追求せずそのまま図書室を出た。


 2月中旬。今学年最後の期末テストも目前に控えているこの時期、自習室の利用者はいつもに増して多かった。いつもは一人の図書室の受付も閲覧管理係と貸出・返却係の二人体制で対応するほどである。

 しかし、柚ノ木は別に他者に倣うように自習室へ勉強をしに来たわけではない。テスト勉強もするがそれは家でやったり、クラスの仲のいい友達と教室で対策を練るくらいで集中的に行ったりしない。たとえ現状の成績が振るわなくても、だ。

 借りていた本を返却し、本棚に並んだ本を見渡す。

 各種試験や学年変更などが考慮され、11月の交換図書を最後に次回は新学期からだと以前にクラスの図書委員から聞いた覚えがあった。その分11月には大量に交換が行われるので、まだまだ手に取っていない本はたくさんある。

 だが柚ノ木は前回の交換図書から大量に入荷された『坂口安吾』を好んで読んでいた。それでも坂口安吾の作品を片っ端から読むわけではなく、他の本と変わらず手に取って軽く目を通してから今週の一冊を選ぶ。

 見るところが定まっているので決まるのも早かった。閲覧管理係をしている女子生徒が席を立って図書室を出るのと入れ替わりで、見慣れた受付係の女子生徒に本を手渡した。彼が生徒手帳をどこにしまったのか探している間、いつもの彼女はいつものように本をチェックして貸出票に記入を済ませていく。柚ノ木がようやく見つかった生徒手帳を渡すと貸出票に氏名とクラスが追記されていくが、今日の彼女はどこか雰囲気が違った。出来るだけ彼のことを見ないようにしている風に取れる。

 記入を終えて本と生徒手帳が渡されたので両手で受け取る。しかし、本の質感とは違う何かが本の下に隠れて左手の指のところにあった。普段なら目を見るように渡してくれる彼女も、俯くようにして顔を上げず終始無言のまま。確認しようとすると閲覧利用の生徒が来たため彼女が対応に追われてしまい、その場での確認を諦めた。

 柚ノ木はそれらを持ったまま邪魔にならないよう図書室から離れて確認した。本の下に隠されたそれは、特別に包装も何もされていないパッケージそのままのミルクチョコレートだった。だが、何故これをくれたのかはわからない。

 とりあえず鞄に本とチョコレートをしまい、生徒手帳は上着のポケットに入れて下校した。

 家に帰りダラダラとテレビを見ながら過ごしていると、ニュースの特集などでようやくチョコレートをくれた理由を理解した。

「そっか、今日バレンタインか」

 理解した瞬間から徐々に、柚ノ木は名前も知らないあの女子生徒のことを妙に意識しだした。

 手紙か何かも一緒にあるかと思い部屋に戻って鞄から本とチョコレートを出したが、特にそれらしいものはない。それでも、坂口安吾を読みながら食べたチョコレートは、いつもより甘く感じた。


 寒さも和らぎ日中の寒暖が交互にやってくる3月中旬。

 柚ノ木はチョコレートを貰って以来、あの女子生徒を意識してしまってどこか図書室に足を運ぶことに躊躇しかかっていた。どんな態度で接すればいいのか悩んだ。それでもサイクルを変えることなく図書室に赴いたが、幸か不幸か彼女が受付に座っていることはなかった。心なしか落胆したことも事実である。

 春休み直前の今日、柚ノ木はどこか祈るように左胸に手を当てて図書室に向かう。スライドドアを開けて中に入ると、彼女は受付に座って本を読んでいるのが見えた。彼女の元へ歩くと当然、彼女も柚ノ木に気がついて読んでいた本を脇に置く。

「あの、返却をお願いします」

 いつもなら本を出せば済むことを今日は言葉にした。女子生徒は小さな声で、

「……はい……」

 と返事をした。

 鞄を足元に置いて本を出すとき、上着の左胸ポケットへ入れていた薄く小さい包みも出して、彼女がしたように本の下に忍ばせ手渡した。本のチェックをする彼女はもちろんすぐに気がつく。包みを手に取り柚ノ木と目が合ったところで、彼は緊張から擦れた声で告げる。

「バレンタインの、お返しです……」

 考えるようにゆっくり何回か瞬きするくらいの間があってから、驚いたように彼女の目が見開いて一気に耳まで赤くなった。

「あ、あ、あ、あの、あの」

 彼女の目が泳ぎ、口をパクパクさせながらしどろもどろになる。しかし、急に立ち上がり躓きながら慌てて受付から抜け出すと、包みを握ったまま柚ノ木の後ろを駆け抜け図書室を出て行ってしまった。

 色恋の経験や知識がそれほどない柚ノ木は、この反応をどう捉えて良いか分からない。とりあえず本の返却が完了していないのと本を借りることもできないので彼女が戻ってくるのを待つしかなかった。

 受付デスクの端に置かれていた『席を外しています。しばらくおまちください。』の札をカウンター越しに掴むと見える場所へ移動させた。三年生が卒業したのとあと一週間で春休みというのもあってか自習室に殆ど人もおらず、さして問題もなさそうである。

 ただ、柚ノ木は自分が留まっていると彼女が戻って来づらいかもしれないことに気付き、今日のところは本を借りることを諦めて帰ることにした。返却した本に関しては特に手荒く扱ったり破損させたりしていないので大丈夫だろうと判断した。

 彼が本も借りず、本を借りること以外の目的で図書室を利用したのはこれが始めてだった。


 春休みが明けると新学期が始まり、三年生に昇級した柚ノ木にとっても大事な時期となった。進路は進学を希望しているが、テストの成績が芳しくない為、教師からは苦言を呈された。

 部活もやっておらず時間はあるので、仕方なく自習室を使うことにした。それでも本を借りるのをやめる気はなかった。

 4月最初の週、新入生が部活の勧誘を受けたり見学する様を校内のあちこちで見かけながら、早速、図書室に向かう。

 図書室のドアに手をかける直前、

(そういえば……あの子、また図書委員なのかな……。)

 3月の最後の週は木曜までだったので、ホワイトデーに会ったのが最後である。最後までクラスは一緒にならなかったので、何組の誰なのか名前も分からないだけでなく、あの行動の良し悪しについても分からない。

 一つ深呼吸してドアを開けると、彼女は以前と変わらず本を読んでいた。入ってきたのが柚ノ木だと分かるや否や、カウンターに隠れるように身を縮こまらせてしまった。彼女の行動はなんにせよ、どうやら図書委員として最後まで努めるらしかった。

 なんだか申し訳ない気がして柚ノ木も彼女のほうを見たりしないようにしながら本を探す。それでもやはり何回かに一回は一瞬でも彼女に視線が移る。不思議にも自習室にも図書室にも誰もおらず、二人きりなのが余計に意識させていた。

 本探しに集中できないので坂口安吾から一冊選んで持っていった。新しい生徒手帳も渡し、目を合わせないまま受け取った彼女も書き込んでいく。

(この子は、俺の名前とか知ってるんだよな。)

 作業しづらそうにしている彼女から視線を外し、窓から見える空を見ながら今更ながらそんなことを考えた。

 こうして顔を合わせて必要以外の口も利かず一連の決まった作業を繰り返すだけなのに、あちらには自分の情報は知られていて、自分は彼女のことを何も知らない。個人の情報を扱うものならばこの状態は何でもそうだが、このときの柚ノ木にはそれが奇妙に思えた。

 書き込みが終わり、女子生徒はやはり顔を伏せるように本を渡してきたが、本は二冊に増えていた。

「あの、俺が借りたのは一冊だけなんだけど……」

 一瞬だけ上目遣いに柚ノ木へ視線を送ると消え入るような声で、

「……頂いたもので買った本です……あなたにも、読んでほしいから……」

 あのとき表立って渡すのに嵩張るものではさすがに柚ノ木も恥ずかしかった。そこで柚ノ木が悩みに悩んで、彼女が二年間『図書委員』で『よく本を読んでいる』ことに着目し、お返しとして選んだのが図書カードだった。500円分ではあるが、好き嫌いがあるかもしれないお菓子より目立たず、好みを尊重できると思ったわけである。

 二人しかいない図書室で、柚ノ木は心臓の激しい鼓動とは対照的に体は風船にでもなったかのようにふわふわとした感じを覚え、どこかへ飛んでいかないよう両手でしっかりとそれを受け取った。

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