いとしのデイジー
ささはらゆき
いとしのデイジー
――何が悪かったのかしら。
冷えきったオムレツを
今日のは特別よく出来たはずなのに。自信作は、手付かずのまま戻ってきた。
一日三度、彼の部屋に食事を届けにいくのが私の仕事だ。
部屋の中には入れてもらえない。ドアの下に開いた小窓から、食事を載せたトレーを差し込むだけ。
二人で食卓を囲んでいた時期もあった。いま振り返れば、ごくわずかな間だけだったけれど。
彼がこれからは自分の部屋で食べたいと言ったときも、私は止めなかった。
そうしたいなら、そうすればいい。
それが彼の望みなら、どうして反対する理由があるだろう?
――怒らせちゃったのかな。
食器を片付けながら、私は考えつづける。
いくら考えたって答えなんて出ないかもしれないけれど。
もし彼が怒っているのなら、私にはどうしようもない。
私には怒りという感情が分からないからだ。
怒りだけじゃない。憎しみも、悲しみも、悔しさも、私には分からない。死も、苦しみも、ネガティブなことはなにもかも。
私に理解出来るのは、楽しいことだけ。
毎日笑って、面白おかしく生きていくこと。それが私に許されたたったひとつの生き方だった。
生まれたときからそういうふうなのだから、仕方ない。
若くして巨万の富を築いた彼は、ある日を境に人前から姿を消した。
ただでさえ周りの人たちに嫌気が差していたうえに、誰よりも愛していた
何もかもを投げ出した彼は、街から遠く離れた湖のほとりにコテージを建てた。
地元の人でさえ足を踏み入れない山奥にひっそりと佇むコテージには、彼がこのさき誰とも顔を合わせずに生きていくのに必要な設備がひととおり揃っている。
株式を売却した利益のほとんどを費やしただけあって、どれも最先端のものばかり。
その一方で、ないものもある。
外部との連絡手段……情報を送受信出来る
外の世界がどうなろうと知ったことではないと彼は言う。世界が滅びたとしても、自分には関係のないことだと。
私は、世の中のあらゆるものから遠のいていった彼の、たったひとりの同居人だ。
――デイジー。
それが私の名前。彼が与えてくれた名前だ。
私が楽しいことしか考えられないのは、彼がそうであることを望んだから。
彼の言葉に対して否定や反論もしなければ、理不尽に怒ったり、わがままを言うこともない。どんなときも優しく微笑んで、彼にひたむきな愛を注ぐだけ。
彼のためにすべてを捧げ、彼のためだけに生きる存在――それが私。
ここには嫌なことはなにもない。
彼を苦しめるものはひとつもない。
彼と私の幸せな日々は、いつまでも続くはずだった。
――もうお前の顔など見たくない。
彼がそう言ったときも、私はいつもとおなじように微笑みを浮かべたままだった。
決して感情的に怒鳴り返したり、
私と彼のあいだには不必要なものだから。
落ち着いた声で『なぜ?』と尋ねた私に、彼は背を向けたまま、こう言った。
――お前はデイジーなんかじゃない。僕は馬鹿だ。どうかしていた……。
私は彼が何を言っているのか分からなかった。
私がデイジーでなければ、いったい何だと言うのだろう?
私はまぎれもなくデイジーだ。それは彼自身がだれよりもよく知っているはずなのに。
それっきり、彼は食事の時以外も自分の部屋に閉じこもったままになった。
私は彼の部屋に三度の食事を届け、口をつけた形跡のないそれを回収することを繰り返した。
――このままじゃいけない。
心から愛し合っている男と女でも、時には喧嘩をすると聞いたことがある。
そんなときは、どちらかから歩み寄っていかなければならないとも。
明くる日、私は意を決して彼の部屋のドアを叩いた。
鍵がかかっているとばかり思っていたドアは、しかし、あっさりと開いた。
手にしたトレーの上では、作りたてのシェパーズパイが湯気を立てている。彼の一番の大好物だ。きっと喜んでくれるだろう。
彼は窓辺のお気に入りの椅子に座っていた。
窓の外では、まぶしいほどの朝の光が湖面をきらきらと輝かせている。
「勝手に部屋に入ってごめんなさい。あなたのことが心配だったの――」
私は彼の顔を覗き込む。
――ああ、よかった。
彼は怒らなかった。
こうして私が近づいていっても、声を荒げることも、手を上げることもしない。
本当は優しい人なのだ。
硬直した右手に握られたままの拳銃も、私に向けられることはなかった。
私は彼の顔に手をかざし、開かれたままの瞼を閉ざしてやる。それだけで彼はおだやかな顔になった。
そのとき、彼の膝の上からなにかが落ちた。
拾い上げてみれば、それは一葉の古びた写真だ。
いまよりずっと若い彼の姿。質素な身なりから、まだ財産を手にする前に撮られたものらしい。
私が知らない彼のとなりでは、私と同じ顔の女性が微笑んでいた。
いとしのデイジー ささはらゆき @ijwuaslwmqexd2vqr5th
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