揺籃司祭と最初の果実

篠崎琴子

揺籃司祭と最初の果実

「あなたは僕のことすらも、愛していらっしゃるのだそうだけれど……それでも、僕には憎しみしか持てないんだ、兄上」

 静かに吐き捨てた僕のかたわらで、夜色の正装に身を包んだ妻が、石造りの墓碑へと花の冠を献じた。

 妻とは呼べども、彼女はまだ淑女と呼ぶには幼さの残る風情である。しかしその長い髪はきっちりと結い上げられて、耳元には我がティードリット家の紋入りの金具と宝石が揺れている。

 彼女も僕もいまはまだ、若い、というよりもなお、いとけないと称すべき年頃ではあるが、確かに既婚者なのだった。

「……お兄様とはいえ、司祭様よ。それに、儚くなられた方だわ。そういった言葉は、どうかしら」

「――わかっているけれど、ごめん、シュエラ……どうのみこんだらいいのか、まだわからないんだ。今回のことを。君も……そうだと、思うけれど」

「エディ、アール……」

 シュエラがわずか傷ましくも柳眉を寄せて、僕の、夫の名を呼んだ。声は抑えきれず震えている。

 少し離れた位置には、僕らにつけられた護衛がひとり。さらに離れた墓場の入り口には、さらに数名が控えていることだろう。

 夭折した司祭への哀悼に、無用な騒ぎたては不要だと大聖堂側が主張しなければ、ここには司祭の弟と、その妻と、一人のみならない武装の従者が立ち並んでいたはずだ。

 たった十四歳の夫と、十五歳の妻の絆はぎこちない。

 政略のものであるとはいえ、婚姻を結ぶまでに築いたはずの関係性は、結婚という此度の慶事と、そして成婚からたった十三秒間の後に、儀式の席へともたらされた訃報でもって、たやすくほつれてしまった。

「彼は、どうして……最後の最後まで、司祭であらせられたのか」

 僕の嘆息に、こたえを返す者はいない。わずかに、若い護衛から気遣わしげな視線は感じたが、言葉に迷ってかシュエラが微動だにしない以上、彼もそれ以上の気配りを、僕に向けることはなかった。

 エディアール・ティードリットとシュエラ・ミゼの婚礼のさなか、花婿の双子の兄である大聖堂の揺籃司祭ようらんしさいの、卒去そっきょの報せがもたらされた。

 まさに婚姻が成ったばかりの、うら若い新郎新婦の動揺は計り知れず、親族達は驚き、取り乱し、悲嘆に暮れ、そしてエディアールとシュエラの結婚式は打ち切られた。

 ただ、濃紺のインクで確かに記されたそれぞれの署名が、結婚契約書には踊っていた。

 ――エディアールの兄は、大聖堂の揺籃司祭ようらんしさいだった。

 すなわち、生まれ落ちたその日より、大聖堂へと奉納され、生涯を聖職者として育てられる子ども。よって個人の名はない。籍も市井にはない。還俗を許されることもない。俗世に縁は持たない。そういうことに、なっている。

 とはいえ、代々絶やさず揺籃司祭ようらんしさいを、聖堂に奉じるティードリット家だ。司祭達を通じて、実家は恩恵をうけたし、名誉を得た。そして大聖堂へ融通を願うすべも、脈々と一族の歴史を繋げるうちに手に入れた。

 すなわち、聖俗が血で調和されるならば、正しく彼らのように信心を持って、と……いまや皮肉にも謳われるほどに。

 けれどその歴史こそが、揺籃司祭ようらんしさいの『名門』である栄誉と、その威光がもたらす権力こそが、僕の兄弟を殺したのだった。

「シュエラは、先に馬車へ戻っているといい」

 しばらく墓碑をにらんでいたが、僕はやがて年上の妻に向かって言った。

 シュエラはわずかに逡巡したのち、ぎゅっと口元を引き結び、わずかに首肯してきびすを返す。耳打ちをして、彼女は護衛を連れて行った。きっと、墓場の入り口で、他の従者らと待っていることだろう。

 夫も妻も、互いへと視線を遣ることはなかった。

「どうして、あなたはのことを、愛してくださったんでしょうね……はこんなに、あなたの運命が憎いのに」

 双子の片割れへの恨み言がふたたび言葉としてこぼれたのは、墓碑の前でひとりになって、しばしの時間がたってからだった。

「流行病からも逃げて、聖堂のうちに籠って、そして待っていてくださればよろしかったのに。私がきちんと帰るまで――悪意にも甘言にもなにもかも耳を貸さないでいれば!」

 跪いて、祈りの姿勢のまま、小さく叫ぶ。

「罰なら罰として、尊い御方よ……エディアールではなくを、あなたの膝元のこの私を、屠られたらそれでよろしかった!」

 衝動が、とまらない。

 墓の下に眠れる兄弟と、のこの髪は同じ色だ。瞳の色も。声音も。恐ろしいほどに同じだ。と同じ色をした前髪の影で、同じ色の瞳をゆがめ、同じ声音で吐き連ねた。

「あるいは……あなたさますらも――を取り違えたもうたか……」

 我ら兄弟の父のように。母のように。親族のように。聖堂の聖職者達のように、重代の従者たちの、ように。

 ――ねじれにねじれた聖堂の内側にて、なかば強行されるように諭された慰問を断り切れず、不自然に急かされて赴いた先の土地で、揺籃司祭ようらんしさいは流行病を得た。

 すべては大聖堂の内側根を張り、聖俗の境を食い破って俗世の政界にすら蔓延る、派閥争いがもたらした悪意によることだろう。揺籃司祭ようらんしさいがそれまで渡り合ってきた老獪なお歴々からすれば、あまりに些末な顛末だった。

 けれども彼らがただひとつ、予期せず、考慮せず、知ることもなかった真実がある。病の蔓延る土地への慰問を強行されたはずの、彼らにとって目障りな揺籃司祭ようらんしさいは――本当はその時、じきに弟嫁となるはずだった少女をともなって、内々の夜会で親族から祝いの言葉を差し出されていたのだった。そして揺籃司祭ようらんしさいの名を被ったまま死んだのは、本物のエディアール・ティードリットだった。

 かくて俗世に遺されたのは、挙式に際したった数日、兄弟と身の上の入れ替わりを試みたがために……はからずも弟の名と身分を、儀式にて騙ってしまった正真の揺籃司祭ようらんしさいと、そしてエディアールとシュエラの名前が確かに記された結婚契約書だけだった。

 エディアールは、生まれてからずっと共に暮らしたこともない、月のうちにわずかな時間、面会を許されるにすぎなかった、こんな聖職の兄弟を、たしかに愛してくれていた。

 だから挙式に向けて多く集まる親族と、「仮初めでもいい、僕の名前を騙ってでもいい。兄上、あなたが、あなたを愛してあなたを尊ぶ、我がティードリットの血縁達と顔をあわせられるように」と……他愛ない入れ替わりを提案してきたのだ。

 おのれの晴れの日のことだというのに、エディアールは「もちろん、構わないんだ」と笑って、臆する双子の片割れを励ましすらした。義妹になるはずだったシュエラ・ミゼも「わたしも、それでよろしいのです。だって、好きな人のお願いは、叶えてあげたいでしょう?」と、無邪気にふたりの手をとって、ゆっくりと重ねてくれた。その無邪気さを、やがて神の名もろとも呪う未来など、その時は知らずに……彼女は、花嫁は笑んだ。

 揺籃司祭ようらんしさいが――このおのれがおそるおそる頷いて、兄弟がひそか入れ替わったのは、婚姻の挨拶のために無邪気な婚約者達が大聖堂を訪れた日のことだった。

 挙式は慣例通り、花婿の兄たる揺籃司祭ようらんしさいが執り行うはずだった。そして挙式の準備に際して親族達と間近でまみえ終えた私は、その一生の思い出を胸に据え、儀式を前におのれを演じる兄と入れ替わる――はずだったのに。

 正真のエディアールは、しかし予期せぬ病に倒れた。儀式は代理の者が執り行った。私とシュエラは、揺籃司祭ようらんしさいとして大聖堂にあるエディアールの回復を祈りながら、式に臨むほかなかった。二人の人生に穴を開けることはできなかった。

 そして大聖堂から足を踏み出すことすらままならず、悪化した病の床で、私の弟は死したのだった。かくして。エディアールと揺籃司祭ようらんしさいははもう二度と、まことの身の上に戻ることは許されなくなった。

 揺籃司祭ようらんしさい卒去そっきょ――その報せがもたらされた時のふたりの動揺は、正しく周囲にくみ取られることはなかった。

 それ以上、あの日のことを、私は克明に憶えてはいない。

「どうしようもないというのなら、エディアールとして、生きて」

 なにせ押し込められた初夜の床で、シュエラ・ミゼ・ティードリットとなった少女が絶望とともに囁くまで、私は双子の兄弟の死を信じることすらできずにいたのだから。

「結婚契約書は本物ですもの。わたしは、もはやどうしたってエディアール・ティードリットの妻か、未亡人かにしかなれません。そして健常な伴侶を正しく認められなければ、結婚ができなければ、修道院で柱を磨いて、エディアールを弔うこともできずに、あなたを恨むことすら許されずに、わたし自身を呪うことさえままならずに、慈悲深くて、でも残酷な神様の花嫁になるしかない……。なにひとつとしてエディアールではないし、いいえ、それどころかエディアールを奪った男の、しゅの花嫁として生きていくしか、ないのだわ。それだけは絶対に嫌」

 ――エディアールがいつくしんだシュエラを、不幸な修道女にも、不遇の未亡人にも、しないために。

 彼に幸せを願われた彼女のために、彼に代わって私ができることはたったひとつ。ただひとりきりおのれに愛情をくれた片割れの死の真実を、これからとして、一生かけて騙る嘘で、きれいに繕うことだけだった。

 十四歳と十五歳の私たちは、若すぎる。

 たとえば揺籃司祭ようらんしさいの死の真実を携えて、他の手段をたぐり寄せようと政略の盤上を正々堂々と渡り歩くには、未だ足取りはぎこちないにもほどがあるのだった。

 揺籃司祭ようらんしさいは死んだ。

 もう、彼は大聖堂にはいない。

 もはや棺の内側で、墓場と楽園の住人として、認められてひさしいのだ。

 そう、声高に認めることしか、たちにはできなかった。

「私の、ことを」

 ……どうしてあなたは、愛してくれたのか。いまとなってはもうわからない。

 本物の揺籃司祭ようらんしさいであった私には、彼女を置いて、あっけなくも私の顔をして死んでいったあなたの気持ちは、もう推し量ることしかできない。

 あなたが押しつけられた我が身の運命が、あなたのすべてを奪って生き残っているおのれの無様さが、こんなにも憎く恨めしいというのに……問いは、どうしたって尽きない。

 それでも同じ髪の色、同じ目の色、同じ声音の弟を騙って、この先おのれがとことわに、エディアールと呼ばれる以上。

 跪き、うつむいたままで、は誰にも見られないように小さな動作で、花冠の花をひとつ引きちぎった。口に運び、嚥下する。

 妻が夫に捧げたたったひとつの貞節の花は、どうにも、苦いものに思えた。

 立ち上がり、もう一度だけ手指を祈りの形に組んで、エディアール・ティードリットは来た道を引き返す。

 墓地の外では、既にシュエラは馬車の内側に乗り込んでいた。僕が彼女の隣に座ると、御者は随伴する騎馬の従者達に囲まれて、馬に鞭を打つ。

「エディアール」

 やがて舗装のされていない道にさしかかった頃、がたりときしむ車輪の音に紛れて、シュエラがぽつりと名を呼んだ。

「なにかな」

 言葉を返しても、返事はない。

 ふと妻の横顔へ振り向くと、彼女は嗚咽をこらえて泣いていた。――今日は、最初の、そしてきっと最後の……挨拶の日。揺籃司祭ようらんしさいとの、永訣の日。長い人生の中で特別に許された一日だった。

「あなたの、ことじゃない。あなたのことじゃあ、ないのよ……」

 エディアール・ティードリット。

 彼の名を呼んだ、彼女に対して。彼の名を被る僕にできることは、とてもいびつな行為だけだ。

 たとえば、夫が妻にするかのように、彼女の涙をぬぐうこと。弟が許嫁にそうしたように、彼女を引き寄せて、その泣き顔を隠してやること。花婿が花嫁にそうしたかったように、彼女を抱きしめて、なぐさめること。

 ……エディアール・ティードリット。

 正しく弟が行うだろう行為を、いまやおのれをと称する、もまたなぞってゆくことしか、きっとできないのだ。

「――これから僕たちは、きっと夫婦として生きていく努力をするだろう」

 問いは、つきない。たとえば私を愛してくれた兄弟よ。あなたの愛を、私は彼女にいかに捧げるのだろうか、とも。

「それが贖罪なんだと、信じてほしい」

 でなければ、誰ひとり、幸福に生きて、死ねはしないだろう。

 誰に言い聞かせたのかもわからずないまま、僕は妻に唇を寄せた。

 ――こうして僕は妻と互いに、つたなくも指先を重ねたのだった。

 だから。……これはきっと、最初の果実をもぐ仕草。

 僕らが交わす、原罪である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

揺籃司祭と最初の果実 篠崎琴子 @lir

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ