或る劇作家の惑乱

猫田芳仁

或る劇作家の惑乱

 最悪の出会いだった。


 あれから数年を経てなお、レジナルドはそう思う。出会い方、その後の関係、そしてでレジナルドが逃げ出すに至るまでのすべてを総合して、最悪の出会いであるといって申し分ない、悲惨な出会いだった。どのくらいに悲惨かと言えば、いまだに時折夢に出て、冷汗びっしょりで目覚めるくらいに非業の出会いだった。


 その恐るべき出会いがあったのは、一昨年に遡る。あれはまだレジナルドが、まったくと言ってよいほど名前の売れていないないひよっこ劇作家だった時の話だ。


 ★★★


「ピープ・ショウなら今夜はないよ」


 いかにも馬鹿にし腐った様子で、くわえ煙草のその男は高圧的に言い放った。相手はもちろんレジナルドだ。レジナルドはむっとして、そして彼に感じた仄かな恐れを払い落そうとして、見ず知らずのその男に食って掛かった。


「僕はそんな低俗なものを見に来たのではありません」

「では今夜の舞台が高尚だとでも? 実に都合よくめでたい頭だな。花畑が満開か?」


 これには返す言葉もなく、レジナルドは悔しさから唇をひどく噛みしめて、黙った。今夜あるのはサーカスだ。それも、見世物小屋に近いような小さいサーカス団である。


 高尚とは、お世辞にも言い難かった。

 それでもレジナルドは、最後の抵抗をする。


「僕は取材に来ているんです。面白半分のあなたと一緒にしないでいただけますか」

「新聞かね」

「いえ。僕は劇作家です。次の台本のためにあちこち回っているのです」


 そこまでレジナルドが言うと、相手はあからさまに軽蔑を表に出して鼻で笑った。上背と肩幅があるので、結構、怖い。


「劇作家。劇作家ねえ。ふぅん」

「劇作家とは同席したくないとでもおっしゃるか」


 その食いつきも、負け犬の遠吠えさながら。ちゃんと自覚しているから、余計に自分の胸が痛む。


「いんや。………ほうら、幕が上がるぞ。台本のネタにするのなら、些細なことも見逃さないように、眼を皿のようにして舞台上を観察していたまえよ、坊や」


 むしゃくしゃした気持ちのまま、レジナルドはサーカスに見入った。演目が進むたびに、薄皮が剥がれるがごとく、例の傲慢な観客への苛立たしさは目減りしてゆき、最終的には感動だけが残った。最後まで見終わって、さて帰ろうと思うと、隣にいたはずのいけ好かない観客は姿を消していた。

 気が付かなかったが、途中で帰ったのだろうか。

 そうだとしたら、ずいぶんもったいないことをする奴だ。最後まで見てこその舞台なのだから。いい舞台を見ることのできた感動と満足を半分、嫌な奴に会ってしまったなという残念さ半分で、レジナルドは家路に就いた。


 ***


 あの晩のサーカスは実に素晴らしいものだった。


 それは日をまたいでも揺らぐことのないレジナルドの評価であり、今後の脚本に多大なる影響を与えることは予想された。しかし、特定の団体に偏ってしまってはいけない。その手のあれこれに関してしっかり知識のある人間がレジナルドの脚本を見たならば「ああ、いついつのどこそこの公演をまねたのね」と簡単に見通されてしまう。それは避けたかった。避けねばならない。自分の評判のためにも、自分のプライドのためにも。

 ということでレジナルドはコーヒーハウスの席をもう長いこと占領しながら、ああでもないこうでもないと手帳に自分にしかわからぬほど汚い字で、込み入った考察だの、演出だのを書き連ねていた。今晩も違う団体の演目があるので、それも見に行くつもりだ。経験は、多いに越したことはない。「自分がやった」でなくとも「自分が見た」ならば十分に役に立つ。其れを信念に、レジナルドはいつもやってきた。これからもきっとそうする。

 ふと、あの男のことを思い出した。レジナルドに実に不愉快な思いをさせた、あの、長身の男だ。

 彼は恐ろしかった。いったい何故であろうか。

 見ず知らずの自分にいきなり話しかけてきたせいか。否。レジナルドは人見知りをしないたちだ。

 しょっぱなから馬鹿にしてきたせいか。保留。そもそも劇作家という職業柄、まっとうなお仕事でお稼ぎになっていらっしゃる方々からの風当たりは強い。売れないのだからなおさらだ。慣れている。

 背丈があったからか。これが一番かもしれない。レジナルドとて指摘されるほど背が小さいわけではないが、あの男はとびぬけて長身だった。スポーツでもやっているのか、ひょろひょろした感じは受けない。絵に描いたようなインドア派で自主的に運動をしたことがないレジナルドには、その時点で差をつけられているように思えた。

 そして、容姿だ。こればかりは褒めちぎるしか、レジナルドは術を持ち合わせていない。光の加減で青紫に輝く、良く整えられた銀髪。その下にある、険の強い琥珀色の瞳。左目の下に傷があったが化粧で隠せそうな程度だったし、結構いい線に行くのではないだろうか。濃い目の顔立ちに褐色の肌、好き嫌いは分かれるだろうが、総合的には美貌と言って差し支えあるまい。ちょいと年かさだったがそれもまたいい味を出していた。色悪の役どころで芝居に出したらさぞ人気が取れるだろうなというところまで考えて、いつも舞台に始終する自分の頭にレジナルドは苦笑した。

 そんなことを考えているうちに、結局あいつの何が怖かったのか、よくわからなくなってしまった。

 さて、そろそろ舞台の時間である。

 勘定を済ませて、レジナルドは店を出た。


 ***


 素晴らしい舞台だった。

 特に女優がいい。愛憎の渦に呑まれて、少しずつだが確実に、常軌を逸してゆく過程を鮮やかに演じていた。周囲の俳優も彼女に消化されないだけの実力は有していたが、やはり、一歩、見劣りした。

 レジナルドは本当の愛憎を知らない。女性といわゆる「お付き合い」をしたことがないからだ。自分で女と付き合いたいという気持ちは、今のところないけれども、舞台に活かせるならぜひそういった交際をしてみたいと思う。そういう一般のよくいる男性とは常軌を逸した思いが、お付き合いするかもしれない女性を遠ざけているのはとうの昔にわかっていた。だけれど別に、後悔だとか、逡巡だとか、そういったものはかけらもない。いつのころからかレジナルドには、「舞台に活かせるか」「活かせないか」の二択しかないのだ。一山いくらの安い女に、イミテーションの愛を語っている時間があったら、その時間を脚本の構想に費やしたほうが途方もなくましだ。生産的だ。目玉が飛び出るくらいの時間の節約だ。冗談でもなんでもなく、心の底からレジナルドはそう思っていた。次の脚本には「運命の女」ものを書きたいと思っている。だけれど、サーカスの騒がしさを眼前にしたならば活劇を、愛憎劇を目にしたならばそういうものを、作りたくて仕方なくなってくる。レジナルドは自分の節操のなさに、独りで、苦笑した。

 だが物を作る人間ならば、仕方ないことだとレジナルドは思う。目の前にわくわくする技法を釣りさげられて、つんと黙っていられるようながちがちの自制心では、劇作家などやっていられないのだ。傍目からは仕事をしていないように見えても、メモ帳の中身は日々、果てしなく膨張している。その事実に病的な興奮を覚えつつ、レジナルドはいい加減眠ることにした。明日は少し遠出するつもりだったからだ。四駅先の町に来るサーカスを見に行く予定だった。先ほど呑んだ真っ赤なワインのせいだろうか。とろとろと、実に心地のよい眠りに首を絞められて、レジナルドは意識を手放した。


 ***


 かなり、早く行ったつもりだった。

 それでも、舐めていたと自省するしかないような有様だった。

 それもそのはず、今日この街にやってくるサーカス団はかなりの有名どころで、そもそもこんな辺鄙なことろで公演をするなんてめったにないことなのだ。会場はそのサーカス団の熱烈なファン、「有名」の二文字に踊らされてやってきた愚かな人々、なにか面白いものが見られそうだとやってきたもっと愚かな人々で溢れかえっていた。できればちゃんと席に座ってじっくり観察したいところだが、この混み具合では立ち見できるだけでもありがたいと思うべきか。公演の間ずうっと立っているのはなかなかにつらい。それでも見たいとレジナルドが覚悟を決めかけたちょうどその時だった。


「ここ、空いているよ」


 正に天使のささやきであった。礼の言葉が喉元を過ぎて出かかったが、相手の姿を認めてレジナルドはそれを直前で飲み下した。


「……あんたか」


 天使は見間違うはずもない、この間の「色悪」だった。

 残念ながら、悪魔のささやきであった、らしい。


「隣は嫌か?」

「あんたさえ、劇作家の隣が嫌じゃなければ喜んで」


 劇作家、のところに、たっぷりと嫌味を染ませて言ったつもりだったが、色悪はにやりと唇をゆがめただけだった。


「さっさとお座りよ。埋まっちまうぜ」


「そうだね、どうも」


 それから、演目が終わるまで、隣同士で見たは見たのだが、会話は全くなかった。当然だ。サーカスに限らず舞台というのは、くっちゃべりながら観るものではない。隣が悪魔ではなおさらである。

 二人が言葉を交わしたのは、すべての演目が終わり、周りの観客たちがいそいそと帰り支度を始めるころだった。


「サーカス、好きなのかい」

「大嫌い」


 レジナルドはてっきり、正反対の答えを期待していたのだが、これはいったいどうしたことだろう。その大嫌いなものを見に来ているとは何事か。前に会った時だって、サーカスの観客席だったのに。レジナルドは、当然の疑問を提示する。


「じゃあ、なんでわざわざ見に来ているんだ。嫌いなら、来なければいいのに」


「――兄が」絞り出すように色悪は言った。「兄が、サーカスを、大好きで……なかなか会えない、から。サーカスを見ると、兄を思い出す……から」


 色悪の眉間に、くっきりと皺が刻まれている。その様相に、レジナルドの胸を罪悪感が穿った。


「……なんだか悪いことを聞いてしまったね。すまない」

「わたしこそ、面倒くさいことを喋ってしまって悪かったな」


 しばしの沈黙が流れた。互いの手はそれぞれに帰り支度をしているのだが、そこはかとなく動作が鈍い。様子をうかがおうと色悪へ、ちらと目をやったレジナルドだったが、それが運の尽きになるとは思ってもみなかった。

 レジナルドの目を真正面からとらえているのは、色悪の目であった。陳腐極まる「吸い込まれてしまいそうな」という表現がぴったりくる、琥珀色の目だった。

 わざわざ自分から視線を外すのもはばかられ、かといて未来永劫見つめ合っていたいわけでもなく、レジナルドは困った。その困りに対する救済か――はたまた追い打ちか。色悪はかすかに口元をほころばせて「贔屓の店があるのだが、一緒に、一杯どうだ」と話しかけてきた。レジナルドとは言えば暇である。次に見に行く予定の公演に影響さえなければ。すでにこの男に決して少なくない興味を抱いていたレジナルドは、二つ返事で了承した。


 ***


 色悪にくっついていった先は、入り組んだ路地にある一軒の酒場だった。小さくて古そうな店ではあったものの、重厚な構えで、とてもじゃないがレジナルドのような貧乏人が入って許されそうな様子ではなかった。それを免罪符にさんざん店の前で相談という名の言い争いをしたのだけれど、突然饒舌になった色悪にあれよあれよと言いくるめられ、結局奥のボックス席へと連行されてしまった。普段金のないレジナルドとしては、どの酒がどんな味でどのくらい高く、コストパフォーマンスの点で優れているのはどれなのか、全く分からない。この店の品書きには聞いたこともないような酒が溢れかえっている。カクテルの名前なのか、酒そのものの名前なのかすらわからない。察したらしい色悪は「カクテルがいい? ストレートがいい?」「どういうたぐいの酒が好き?」「そもそも酒、飲める?」等々世話を焼いてくれて、その結果レジナルドの前にやってきたのは背の高いグラスに入ったジョン・コリンズだった。色悪そのひとは慣れた様子でマスターに「いつものを」と申しつけ、さほど待たずに銀のゴブレットで供された。店の照明が暗いせいだろうか、その中身は濃い赤ワインよりも陰鬱に、真っ黒く淀んで見えた。


「こんないい店の常連だなんて、あんた、さぞいい身分なんだろうねえ」

「今は、ね。昔はきっと、あんたより貧乏だったろうよ」

「とてもそうは見えないけれど」

「実はそうなんだ」


 ぎこちなく互いを探り合いながら、少しずつ、自分のグラスに口をつけてゆく。完璧に過ぎる配合のジョン・コリンズを舐めながらも、レジナルドは不思議と酔わなかった。もともとが、特別酒に強いわけではない。しかし「こいつを探ったらいいネタに仕上がるに違いない」という劇作家の本能が、酒のまわりを多少、遅らせていた。

 反対に色悪のほうが、「酔っている」ことを隠す気もなく、如実に表現していた。元の肌の色が濃いせいで、上気した感じは受けない。が、話し方、身振り手振りに色濃くなげやりさが滲み出て、目元の蕩け具合もよくできあがっていた。


「なあ、飲みすぎじゃあないのかい」

「大丈夫だ、このくらいならそうさな、歩いて家まで帰れる……ちゃあ言い過ぎか。結構遠いもんでね」

「そうなのか、つき合わせて悪かったね」

「いや、劇作家と話したのは初めてだから、充分な収益だよ」


「ところで」レジナルドは今までずっと思ってきた疑問を口にする。女性に年齢を聞くよりも慎重な話し方で。「あんたは、どういう人なんだい」

 レジナルドの行く先、行く先、現れて、サーカス好きな兄貴が好きで、でもサーカスは大嫌い。堅気の勤め人にも見えないし、かといってレジナルドが知り尽くしているこの辺の舞台関係者でもない。そして羽振りはすこぶるよさそう。

 気になるではないか。

 ネタにできそうではないか。

 レジナルドの欲望むき出しの問いかけに帰ってきた答えは、単純明快にして、無慈悲。


「秘密」


 あからさまにしょげ返るレジナルドを見て、色悪はゆっくりと二杯目のゴブレットを傾けた。


「知ったらあんたはわたしをきらいになるよ」

「今だから言うけれど、あんたのことについては最初から嫌いでしかなかった」

「だろうね。あんなこと言ったもの」

「でも今はそこまで嫌いでもないかな」


 おべっかでもなんでもなく、それがレジナルドの正直な気持ちだった。素性を知らぬ、得体の知れぬ相手だからこそ言えることもある。劇作家としての言葉を、これほどきっちり受け止めてくれた相手がいただろうか。まっとうなお仕事についていらっしゃる方々は、劇作家などやくざな商売と嫌な顔すらなさるのに。現金だがそのことだけで、好き嫌いの天秤の「好き」の皿には二つ三つ、小ぶりな錘が載っていた。


「褒めてもなんにも出ないぜ」

「出るさ。僕への好意が」

「劇作家って生き物は、本当に口が減らないな」

「書くのばっかり得意で、喋れないやつも何人か知っているけれどね」


 ゴブレットの残り少ない中身をきゅうっと空けて、色悪は笑った。


「なあ劇作家。サーカスに行こう。一緒に」

「あんたの、嫌いな?」

「ああ。私はサーカスが嫌いだが、その中でも飛びっきりに嫌いなサーカスの公演がもうすぐある。来月の末頃だ。どうだい」


 願ってもない申し出だった。

 サーカス嫌いのくせに、兄のためにサーカスを観ることをやめられない弟。これだけでも”おいしい”ネタには違いない。それを、さらに掘り下げられるのだ。


「喜んで。ただし、条件があるよ」

「なんなりと」

「公演の前でも、後でも構わない。君がそのサーカスを、よそのどのサーカスよりも嫌っている理由を教えてもらえないだろうか。そしたら、僕は喜んでついてゆくよ」


 空っぽのゴブレットに赤黒い舌を這わせつつ、色悪は悩んでいる風だった。レジナルドも黙ってそれを見守った。よほど言いたくない理由でもあるのだろう。時間はずるずると過ぎていった。焦れたレジナルドの舌の付け根まで「やっぱり、いいよ」と出てきた正にその時、ゴブレットの足がテーブルに降りて涼しい音を立てる。


「いいだろう」

「本当に?」

「本当に。ただし、理由を教えるのは公演の後だ。構わないな」

「構わないとも。そんじゃ、詳しい日取りが決まったら連絡しておくれ」


 今夜は色悪が払うというのでそれに甘えて、その晩は別れた。レジナルドは色悪がそれほどまでにそのサーカスを嫌いな理由をいろいろと想像しながら、連絡がくるときを待った。


 ***


 待ち合わせのその日が来ても、そのサーカスを色悪が嫌いに嫌っている理由は、レジナルドにはわからなかった。候補自体は数あれど、これに違いないという理由は絞れなかった。レジナルドは混乱した。そしてその混乱は、サーカスの公演を見てさらにひどいものになった。

 大嫌いというくらいだし、癖のあるサーカス団をレジナルドは想像していたのだが、実際のところ全く可もなく不可もない、一山いくらの田舎のサーカス団だった。一通りの芸人は揃っているし、面白くないわけでもないが、どこにでもある、絶望的に無個性なサーカス団なのであった。

 色悪の時間的都合で夜の部を見に行ったので、終わるころにはもう結構な、いい時間だった。混乱の終息のためにレジナルドが例の「約束」を催促すると、すでに覚悟を決めてきた様子の色悪はレジナルドをあの晩の店へと誘った。以前はボックス席に二人で座って話をしたのだが、色悪が店主に何事か耳打ちすると、隠し扉の先の個室に通された。ご丁寧に、鍵までかかる。いったいどんな恐ろしい秘密を聞かされるのかと身構えるレジナルドに、色悪は薄く笑った。


「そう怖がらなくてもいい。わたしと、あのサーカスとこの部屋にはね、切っても切れない因縁があるのさ。だからこの部屋でしゃべろうと思っただけで、鍵のかかった部屋できみをどうこうしようなんて思っちゃいない。不安なら、そら、こいつはきみが持っていな」


 無造作に放られる鍵をついつい目で追って、律義に捕まえてしまうレジナルド。一見どこにでもある銀色の鍵だが、番号を振っているところが気になる。この酒場には似たような隠し部屋がたくさん存在しているのだろうか。たったそれだけの推測でもう、レジナルドは新作の短編を一本書きおろせそうなほどにときめいた。その心情を知ってか知らずか、色悪は二、三度ゴブレットの縁に唇を滑らせ、重大な決心をした様子で、レジナルドの目をまっすぐに見た。


「わたしは、あのサーカスにいたころがあるんだ」


 真ん丸な目で凝視するレジナルドに構わず、色悪は言葉を重ねた。


「わたしは孤児で、七つか八つか、とにかくそこいらの年頃で、あのサーカスに雑用係として拾われた。ああ、芸の練習も血が滲むほどしたともさ。自分で言うのもなんだが、それなりの腕前だったと思うよ。だけれど常に、わたしより上手い奴は間違いなくいて、結局舞台に立ったのは、偶然、代打で一期だけだよ」


 それは不幸な身の上話に他ならなかった。レジナルドのかかわる劇場くんだりでは、わざわざ口に出すのも面倒なほどにありふれた、典型的な身の上話だ。おそらくサーカスの業界でもそうなのだろう、色悪はいったん言葉を切って、伺うようにレジナルドを見た。何も言わずにうなずくレジナルド。それを承諾と取って、色悪は蕩けそうな視線を明後日にやって、続けた。


「その代打の時の話だ。観客の一人がわたしを気に入ってくれて、公演のない日や午後から暇な日なんかは、ちょくちょく誘ってくれるようになった。彼の行きつけのバーで一杯やって、他愛もないお喋りをして――幸せだった。あの人と一緒にいるときのわたしは、きっと世界で一番の果報者だった。

 そしてわたしはあの人にそそのかされて、サーカスから逃げ出した。本当にそれだけの、つまらない話だよ」

「つまらないだなんて。十分にドラマチックじゃないか。回顧録でも書いたら、売れるさ、きっと」


 そう言えば色悪はくつくつと、心底面白そうに笑った。


「本当に面白いのはここからなんだけれど……正直、外で言えるような話じゃないんだよねえ」

「……聞かせてくれる意思はあるわけだ」

「ふふ。ないでもないかな」

「悪い奴」

「褒めてもなんにも出ないぜ」

「出るさ」

「君への好意が?」


 どちらからともなく共犯者じみた忍び笑いがぽろぽろこぼれて、それは色悪の押し殺した囁きでちぎれた。


「うち、くる?」

「今から?」

「今から。タクシーを拾えば、そんなにかからないから」

「――そこで、聞かせてくれる?」

「さあ、どうしようかな」

「悪い奴」

「褒めてもワインと缶詰しか出ないぜ」

「好かれたもんだな、僕も」

「全くだ」


 キスができそうなほどの間合いで二人して笑い、会計を済ませたのちに肩を組んでタクシーを拾った。きっとタクシーの運転手には、十年来の悪友の如く見えたであろう。


 ***


 色悪が運転手に住所を告げた時点で生じた微かな不安は、目的地に近づくにつれ加速度的に膨れ上がっていった。タクシーが向かっていくのは、まぎれもなく高級住宅街であった。いわゆるセレブの別荘が軒を連ねているあたりだ。相手が自分が思っていた以上の金持ちなのではないのかと、レジナルドは内心で震え上がった。色悪が会計をしている間だって、心休まるときは一瞬たりとも無かった。タクシーを降りて、レジナルドに一言もかけず会計を済ませた後の色悪は、恩を着せるでもなくつらっとしていたものだから、少し、気分的に楽ではあった。だが、レジナルドの不安を払拭するまでには至らない。


「うち、ここだから」


 指された先は、ひときわ大きくて立派な門のある家だった。生活が違いすぎる。普段身を浸している其れそのものが違いすぎる。それだけでもう、レジナルドはどうやって逃げ出そうか必死で考えていた。どうしている間にも色悪はてきぱきと無駄に二か所ある鍵を流れ作業でぱちぱち外して「さあどうぞ」とレジナルドを奥へと誘い込む。

 一人で住むには広すぎるくらいに広い家だ。リビングのテーブルにも椅子は二脚あり、打ち合わせというよりは恋人や気心の知れた相手と歓談する場所に思えた。

 お高いワインはそりゃあもう美味しかったし、色悪のウィットに富んだ冗談(ただし、舞台関係者向け)には存分に笑わせてもらった。

 もともとレジナルドはあまり、酒を飲むほうではない。耳触りの良い冗談と、口触りの良いつまみとに惑わされて、いつの間にか杯を、重ねさせられていたのが運の尽き。酔いはとろとろと眠気を催すまでになって、其れでも尚色悪の酌を止める気にはなれなかった。

 気が付いた時にはすでに遅く、レジナルドの気は遠くなりつつあった。色悪が笑い半分に何か言っているのが遠く聞こえる。一抹の後悔に首を絞められて、レジナルドは意識を手放した。


 ***


 レジナルドは勧められるままに呑み続けたことをこれ以上ないほど後悔した。

 さほど親しくない他人の家で痛飲したせいではない。目が覚めた時、すでに外が夕暮れ色に染まりつつあったためでもない。もっと切羽詰まった、痛切で、命にかかわりそうな点において強く激しく後悔した。

 目を覚ましたレジナルドの足首にはそれこそフィクションでしか見たことがないような鍵付きの足枷が嵌っており、その足枷から延びる鎖はベッドの足に繋がっていた。


「嘘だろう」


 声に出しても夢は醒めない。


「嘘だろう」


 なぜならこれは夢ではないから。


「嘘だろう」


 枷を鎖をベッドの足を、矯めつ眇めつ眺めて見分、見ているだけでは飽き足らず、触って弄って確かめて、擦れる痛みに眉をしかめて、結局分かったことはと言えば、自力ではどうしようもないことくらい。


「……嘘、だろう」


 こんな金のない劇作家、寝所につないで何になろう。真っ先に思い付いたのが、強引に過ぎる男色家。レジナルドはこれでなかなかかわいい顔をしているものだから、その手のお兄さんに言い寄られたこともある。しかしいきなり鎖につなぐのはやりすぎだ。その次に連想したのが、臓器売買。これなら重たい鎖にも納得のいく理由が付く。商品に逃げられりゃ、そりゃ困る。少し悩んで、快楽殺人鬼。これが一番、怖い。臓器売買より怖い。なんてったって前者は中身が目当てだけれど、後者はわざわざ嬲って苦しむ様子を観察して悦に入るものだって、レジナルドは(映画や小説で)知っていた。結局この三択、うれしいものは一つもないが、最後のアイデアがいっとうしんどいものに思えた。どうかあんまり辛い目には合わせられませんようにとレジナルドが慣れぬ祈りを神に捧げ始めたころ(丁度、太陽がすっかり沈もうとしていたころ)、この悪夢の屋敷のあるじたる色悪が、両のポッケに手を突っ込んでいかにも偉そうに現れた。


「おはよう」


 開口一番おはようときた。彼が現れたそのとき、見事なタイミングで日は沈み切った。なにがおはようだ、水商売でもあるまいに。普段ならばそう言い返すとき・ところ、レジナルドの唇は鉛にすげ変わったように重たくて彼は喋ることすらままならない。思考もいつもよりキレがない。いくら呑みすぎたにしたって、これは常軌を逸している。


「こういうの、はじめて?」


 色悪の手元にちらつく、きらきらした何か。よくよく見ればそれは室内のわずかな光を集めて反射する、細身の注射器だった。はっとして自身を改めると、肘の内側にごく小さな、だけれどはっきりとした注射跡があった。

 少なくとも、ちゃんとした病院以外で注射をされてしまったのははじめてである。そういう意味を込めて、ゆっくり、レジナルドは頷いた。ついでに言うと監禁されてしまうのもはじめてではある。だがこの状況で求められている「初めて」はおそらくそれではないのかという心もとない推測の果てに、レジナルドはそのタイミングで頷くことを選んだのだった。


「それ、寝てる間に打ったのね。……どう、だった?」

「……って、言われても」


 色悪はいくらか興奮している様子ではあるが、彼のときめきに返して差し上げるだけのときめきをレジナルドは持っていない。色悪はその「クスリ」によって彼の体に劇的な変化が訪れたのを期待しているのであろうが、そういうものはまるでない。「いつもよりだるい」「動きたくない」「喋りたくない」「そうっとしておいてくれ」というものばかりだ。とにもかくにも中核を成すのはたとえようもない、深い、深いだるさだった。酒とも違う尋常では無いだるさを、心地いいと感じる自分がいることにささやかな恐怖を、感じないでもない。


「よく、わからないよ」


 レジナルドは今まで、その手の薬を飲んだことも打ったこともない。なのでどんな感じがしたら「標準」の効き方なのか、まったくもってわからない。それをきっちり伝えたところ、色悪はなんだかんだと医者の問診みたいな質問を重ねてきて、素直にレジナルドが答えるごとに、実に満足げな顔になっていった。自分の返答がどんな作用を与えているのかレジナルドにはわからない。しかし、だ。色悪の浮かべている表情は実にうれしそうで、それを見ている、それだけで、「ああ、自分は理想的な反応を返しているのだなぁ」という歪み果てた自負が地獄の底から這い上がってくる。

 そして問診さながらの口調のままで「シャツのボタン、外して」などというものだから、それこそ病院の診察の気分のままで、レジナルドは二個ばかり、ふらふらとした指使いで胸襟をくつろげた。正直、ぼうっとしていて、何も考えてはいやしなかった。それに対して色悪は恋人にもここまではすまいという病的なまでの丁寧さでレジナルドの首筋に手指を這わせて「細いね」と熱っぽい吐息のままにささやき、そして――そして、その怪物はごく自然な動作でレジナルドの頸動脈に唇を寄せた。ぶちぶちと皮膚に穴が開く音が耳に届いても、不思議と不快感はなかった。ただ、言葉にできない、だけれど明確な悦楽だけが、怒涛のように脳味噌の裏側にまで押し寄せてくる。いくら錯覚だと自信に言い聞かせたところで、細めた目に入ってくる世界は先ほどとはくらべもののならないようなそれだった。

 極彩色。 

 極彩色だ。

 さっきまで趣味のいいテーブル、気の利いたカーテン、そうとしか思っていなかったはずのものが様々に色味を変えながら美しく光り輝いている。呆けたように見入っていたレジナルドだが、かさかさする違和感を思えて、のろのろと視線を下に下げる。


「わ」


 思わず声が出た。

 座り込んだレジナルドと抱き留める色悪を囲むようにして、薔薇が咲いていた。薔薇は最初こそつぼみばかりだったが次々に開花し、だけれど薔薇のそれではない、お菓子じみた甘い香りを漂わせる。

 世界中が自分を祝福していると、レジナルドは感じた。

 そして同時に、その祝福する世界そのものが――「嘘」なのだと、わかった。

 色悪がレジナルドの首筋から顔を上げたとたんに「楽園」はひとしずくの残滓も残さず消え去った。

 しかし、あの楽園で見たものを全面否定するだけの体力は、レジナルドには残されていないのであった。

 ひどく満ち足りた様子の色悪はぐったりしたレジナルドをベッドに寝かせ、自分もその横に潜り込んだ。思わず身を固くするレジナルドだったが、色悪は目を閉じ、すうっと息を長く一つ吐いてそれきり動かなくなった。うっすらとほほ笑んで、それはもう穏やかな死に顔だった。


(死に顔?)


 直感的に降ってきたそのフレーズに、レジナルドは力なく自嘲の色を唇へ纏わせる。なんとはなしにのろのろと、指の背で誘拐犯の頬に触れる。

 冷たい。

 過ごしやすい温度の部屋にずっといたというのに、冬に外から帰ってきたかのような不吉な冷たさだった。レジナルドは恐る恐る、つたなくしか動かぬ指で色悪のネクタイを緩め、シャツのボタンを外す。その間も色悪はぴくりともしないまま、マネキンのように身を任せている。レジナルドの指が、色悪の剥き出しの首に触れた。頬と同じく冷たい。レジナルドの嫌な予感は際限なく膨張していく。色悪の首周りを弄れども弄れども、少なくともレジナルドがけだるさに抗して意識を保っている間は、生者の証たる血管の脈動を見つけることはできなかった。

 しばらくはそうやって色悪の首周りを弄り倒していたレジナルドだが、打たれた怪しい薬のせいか、この状況そのものにやられているのか、いつの間にやらぐっすりと、色悪の横で眠り込んでしまった。


 ***


 翌日。

 昨夜のことがすべて悪夢だったらいいと思いながら目覚めたレジナルドだが、残念ながら現実は非情である。昨夜と同じベッド。色悪本人が出かけているらしいのが救いだが、彼の香水の匂いが寝具にこびりついていて嫌でも昨夜の出来事を思い出させる。ほとんど無意識に首筋を探れば、ふさがりかけた傷口が指先に触る。頸動脈の真上だ。打たれた薬のせいか、まだ頭がぐらぐらする。感情に押し流されるまま、深く考えずレジナルドはその単語を口にした。


「吸血鬼」


 そうとしか考えられなかった。確かに昨夜、レジナルドはあの男に血を吸われた。少なくとも、記憶の上では。

 遮光カーテンを開けると、外はもう夕暮れ時だった。ずいぶん長い間眠っていたようだ。


「どうしよう」


 思わず口に出す。

 が、どうしようもないことはレジナルド自身がわかり切っていた。いまこの家から外に出て、周囲に助けを求めれば警察くらいは呼んでもらえるだろう。だが、警察相手に「吸血鬼に襲われました」なんて口が裂けても言えるわけがない。それをぼかしつつ説明するやり方がいまいち思いつかない。口惜しいことこの上ないが、いっそ強姦されたことにして警察に届けようか。そこでふっと気づいたのだが、レジナルドはこの家の住所を知らない。大まかな区画はわかるのでそれと犯人の特徴を伝えれば、と思ったのだが、そこでさらに恐ろしい事実に気が付く。


 レジナルドは色悪の顔を、まったく思い出せないのだ。


 体格がよかったこと、エキゾチックな褐色の肌をしていたことはかろうじて記憶にあった。だが顔の細部が思い出せない。髪は薄い色だったような気がするがそれだけだ。目の色も、顔だちも、例えばテレビタレントで誰に似ているだとか、そういうことも一切思い出せない。ひょっとしたらこれも薬のせいだろうか。恐ろしいことだ。

 レジナルドが必死で思案している間に日はとっぷりと暮れ、悪夢の運び手が部屋に帰ってきた。


「元気だったか?」

「――あんたがいなけりゃ、もっとね」

「素直でよろしい」


 色悪は控えめなあくびを一つして、レジナルドの横、ベッドの上に無遠慮に座った。懐から出した煙草に火をつけようとして、レジナルドに「吸っていい?」と尋ねた。まったくもって、くだらないところで気遣いのできる男だ。煙草は好きでも嫌いでもないレジナルドは「どうぞ」と言って顔をそむけた。チェストの上の凝った細工の灰皿を引き寄せて、色悪は実に旨そうに煙を吸い込んだ。


「あんたはやっぱり、人間じゃないのかい」

「そうだよ。人様の頸動脈にかぶりつく人間がどこにいる」

「よほど特殊な性癖だったらあるいは」

「そうだったほうが、わたしも救われらぁ」


 紫煙を吐き出す色悪の表情には、葛藤と悦楽が半々に見え隠れする。


「それも、相手にクスリをきめないと満足できないと来ている」


 チェストの引き出しから、パック済みの注射器が出てくる。思わず身構えたレジナルドだったが、色悪はすぐに引き出しを閉じた。


「悪いけれど、君はしばらく”飼う”つもりでいるんだ。連日連夜ぶち込んで早々に壊してしまっちゃつまらないから、今日は無しだよ――不満かい?」

「願ったり、叶ったりさ。――僕はそういうの、あまり好きじゃないからな」


 どちらともなく交し合う、嘘っぱちの睦言。

 結局その晩、レジナルドの頸動脈に穴が開くことはなかった。


 ***


 翌日も結局レジナルドは夕暮れも近い昼過ぎに目覚め、色悪が不在のベッドでぼうっと時を過ごした。

 昨夜は怪しい薬こそ打たれていなかったとはいえ、まだショックが尾を引いていることは明らかだ。とっちらかった頭のまま、色悪について少しだけ、レジナルドは考えた。

 たぶん、金持ちである。

 たぶん、吸血鬼である。

 たぶん、自分を死ぬまで飼う気である。

 以上三つだ。

 こんな映画さながらの状況に置かれてもなおレジナルドは、逃げることを諦めてはいなかった――と言ったら語弊があるかもしれない。逃げられたらいいな、と思って、過去に見た舞台や映画の、鮮やかな一発逆転劇を延々と頭の中で再生し続けていた。

 毎日ではないにせよ、ここにいる限り薬を打たれて血を吸われる。それを繰り返すたび、間違いなく体力は落ちてゆく。脱出を試みるならば、なるたけ早いほうがいい。だけれど色悪の行動や性格を把握する時間、さらにはここから出ていく道順を把握する時間も必要だった。時間も必要だわ、早さも必要だわで、レジナルドは軽い絶望を覚えた。だけれど本書きの宿命で、ここから無事に(しかも、できるだけ華麗に)脱出する方法をついつい考えてしまう。

 そんなふうに思いを馳せているうちに時間は矢のように過ぎ、夜がやってくる。

 つまり、彼がやってくる。


「ごきげんいかが?」

「最悪だよ」


 それだけのやり取りでけらけらと、色悪は壊れたおもちゃのように笑う。腹を抱えて、映画みたいに大仰に。


「それでこそだ。それでこそだよ。もっと楽しませておくれ、かわいいひと」


 ひいひいと笑い交じりに吐き出して、実にわざとらしく色悪は笑った。そして迷いない動作でチェストから注射器入りのパックを引き出したのち、素早く袋を引きちぎって鋭い針を晒した。


「連日連夜ぶちこむことは、しないんじゃあなかったのか」

「だって一日空けただろうが」


 そう言って色悪は力なく投げ出されたままのレジナルドの手を取って、肘の内側を繊細な動作で探ると、狙いたがわず目当ての血管へ針を差し入れた。レジナルドの血管には、ひどく冷やっこい感覚ばかりが明瞭に侵略してくる。とはいっても実際その冷たい薬液が効果を発揮するまでには多少のタイムラグがあり、ひとつため息をついて、彼はその「襲撃」に備える。

 だけれど備えたところで何の「備え」にもならず、無様に「薬効」に押し流されるであろうことは前の晩からわかっていた。わかっていたが、やめられない。そんな彼の心境を知ってのことだろう。色悪は実に愉快そうに、レジナルドの体中に薬が回ってゆくのを、にやにやしながら見守っていた。レジナルドの無垢な肢体は速やかに薬液を吸い上げて、かつてない陶酔と悦楽の世界へ、気持ちが嫌といっても引っ張り込んでゆく。慣れ親しんだアルコールの酔いとはまた違う、だがしかし酩酊には違いない其れ。ゆっくり、だが確実にレジナルドの体をじわじわと蹂躙していく薬のほうはと言えば、酒よりもぼうっとして、夢見心地とはこういうものだろうか、とレジナルドへ思わせる程度には効いてきていた。ぼうっとして、胸の内が幸せでいっぱいいっぱい。でも辛うじて、周りに注意を払う程度の理性は居座っている。そんなふうに「まとも」をちょびっとだけにしろキープしている相手というのは最高の遊び相手だ。これから起こる狂乱の一夜に思いを馳せて、とびっきりに期待をして、色悪は口の中で牙を舐めた。必死の抵抗もむなしく、すっかり出来上がってきた様子のレジナルド。彼に色悪は烈しく欲望をそそられたらしかった。


「……ん」


 むずがゆそうにレジナルドが逃げるそぶりを見せる。愛撫が落とされた場所は、耳だった。

 耳自体への愛撫は珍しいものではないが、アンバーは「耳にしか」しないことで意地悪をするのが大好きらしかった。軽く食み、ちろりと舐め上げて、レジナルドの反応を見る。

 気だるげな声で、いかにも面倒そうに拒絶するレジナルド。見ようによっては恋人同士がじゃれあっているようにも取れる。

 しばらくレジナルドの押し殺した笑い声を堪能したのち、耳の付け根、さらにその下へとゆっくり下がっていく。一片の理性でその行き先に気づいたらしいレジナルドは、慌てて身じろぎをするけれども、本人が期待したほどの動きを取ることはできない。その間にも着々と、色悪の唇の軌跡は下へ下へと下がってゆき、ついにレジナルドが一番恐れている場所――頸動脈の真上にたどり着いた。冷やっこい感触と恐怖とで、レジナルドの喉が無様に震える。二度、三度と煽るようにねちっこく舐め上げたのち、色悪の牙は、レジナルドの頸動脈にしずしずとめり込んできた。その衝撃と言ったら、ほかに例えるものも思いつかないほどだ。レジナルドは華奢な背を弓なりにそらせて、人外の悦楽に震えた。申し訳程度の抵抗などものともせず、やすやすとレジナルドは組み敷かれ、醜態を晒す羽目になる。今度の悦楽はやや浅く、視覚が壊れるようなものではなかった。が、今回は質より量で責めに来ているらしくって、小刻みに牙を抜き差しする色悪の喉からは、ひっきりなしに睦言ともとれる譫言がレジナルドの首筋に降り注いだ。


「嗚呼――嗚呼、君はなんて美味なんだろう。一息に干してしまうのはもったいないけれど、もたもたして、ほかの野良犬どもに食われたらことだ。そうだ、いい考えがある。君はずっとここにいたらいい。

 お酒が好きなら好きなだけ呑ませてあげよう。煙草もお気に入りの銘柄を切らさず置いておこう。煙草だけじゃない、お好みなら大麻も吸わせてあげる。眠れない夜には睡眠導入剤をウヰスキーで呑んで、寝室に阿片を焚こうね」


そうやって色悪はとぎれとぎれに、彼の命の泉から清水を吸い上げ続け、それはレジナルドの意識が朦朧とし始めるまで続いた。

 失血か酩酊か、どちらのだるさかもわからないままベッドに転がされたレジナルドは、慈しむ動作で額を撫でてくる色悪の手のひらを感じながら、意識を手放した。


 ***


 次にレジナルドが目を覚ました時、眼前にあるその状況は期待せざるを得ない事態以外の何物でもなかった。

 昨晩、あれほど消耗したにも関わらず、体に感じる違和感は「貧血気味かも」といったところだ。行動するのに、致命的なわけではない。

 試しに、すぐ横で寝こけている色悪の頬を何度か撫でる。一回目は触れるか触れないかでそっと、二回目以降は、割と無遠慮に。三回目は、軽いビンタもお見舞いしてやった。

 それでも、彼は。起きない。

 そもそもが。生きているのかいないのか、怪しいのだ。日が沈んで夜になれば、生きている証明を刻みはじめるのだろうか。ひとしきりその動かなさを確かめたレジナルドは、続いて気になる、別の事項を確かめることにした。

 それは自分だった。着ているものは昨夜と同じだ。胸元の乱れも。こわごわ指を差し出して、頸動脈の真上を撫でれば、ざらついた治りかけの傷口が自己主張する。ふう、と、独り言めいた溜息ひとつついたのち、レジナルドはぐぐっと立ち上がった。手を上に。伸びをして。次、下へ。前屈。じっとしていると体も心もさらに弱ってしまう気がして、レジナルドは起きるたびに簡単な体操をしていた。昔ラジオで習ったような、何をどう曲げればどこの不調に効くだとか、うろ覚えにもほどがあったが、そのうろ覚え体操は少なからずレジナルドを支えていた。その体操のおかけで、レジナルドは「それ」に気が付いた。

 かがんだ時に見える自分の足。そこにふと違和感を覚えたレジナルドは、監禁者の隣で体操をしているというふざけた状況をすぐさま収束させて、自分の足首を注視した。それだけではなく、動かしてみる。くるくる回してみる。念のため、反対側の足にも同じ動作を一セット。


「……なんてこったい」


 悲哀ではなく、希望を込めてレジナルドはささやいた。立ち上がる。歩き出す。後ろの死人を起こさないように、忍び足で。扉を開けて、廊下に出たら、も一度閉めて。


「……やった、のかな」


 満腹の眠気にか、昼と夜の呪縛にか、そのどっちかに身を任せて、色悪は幸せそうに眠っている。

 彼は気づいていない。今夜に限って生き餌の足首に枷がかかっていないことを。

 逃げ切れる。いや、逃げ切らねばならない。

 腕時計を確認した。四時。今の時期なら、日の入りまでにしばらくある。それまでにこの屋敷を出て、なるべく遠くまで逃げる必要がある。ここはオフシーズンの別荘地。お隣さんに助けを求めても、そこは、空き家だ。

 人がいそうな場所。レジナルドはこのあたりに土地勘が全くない。最高なのはタクシーを呼んでのせていってもらうことだ。早速手持ちの携帯電話で、最寄りのタクシー会社に電話をしだすレジナルド。今日はちょっと人手が足りず、一五分ほどかかるとのことだがレジナルドは快諾した。一五分はもちろん三〇分経ってもまだ日は沈まないだろう。あとはあの色悪だ。白黒映画の吸血鬼がごとく、どうか夕日が最後の一片を地平線に食われるまで死んだように眠っていておくれ。

 それからの一五分は、彼の人生で一番長い一五分、だったかもしれない。

 家の外であれ中であれ、何か物音がしてはびくつき、彼が起きてきたのかと家の奥を伺い、おそらく半年分の冷や汗を流したに違いない。そのくらい、彼の服の背中はじっとりと湿っていた。

 そして運命の一五分が過ぎ去り、約束通りに何の緊張感もないフォルムのタクシーが、屋敷の前に一台、止まった。


「最寄りの駅まで、お願いします」


 声が不自然に震えていやしなかっただろうか。外見に変なところはないだろうか。無頓着な運転手はレジナルドの精一杯の防御に気を配ることすらしなかった。そのほうがよかった。タクシーの扉が閉まる。安堵のため息が漏れる。鈍感なタクシー運転手は、ここでもっとも気づいてはいけない事実に、まったくの善意から気が付いた。


「お友達、手を振っていますよ」


 心臓が止まる心地だった。

 隙だらけの部屋着に着替えた色悪が、屈託大ありの笑顔で玄関先から手を振っていた。レジナルドは残り僅かな気力を振り絞ってその悪魔に向かって手を振り、そこで意識をなくした。


 ★★★


 結局のところ、色悪が本当に吸血鬼だったのか、薬物中毒の変態だったのかはよくわからない。しかしどちらにしても、鮮烈な体験だったのは確かだ。レジナルドは度重なる発作や吐き気に悩まされながら、一連の経験を何年もかけて脚本に仕上げていった。そうすることで、この忌まわしい記憶を大衆と共有してしまうことで「薄める」ことを狙ったのかもしれない。

 さすがにそのまま脚本にするわけにはゆかず、色悪のポジションを「妖艶な美女」に変更した。これはおおむね好評で、「現代のファム・ファタール」「まさしく毒婦」などと称されて、瞬く間にヒット作品となった。中身があまりにも現実離れしているせいで、「事実では?」との詮索は一切されなかった。

 今日もその作品にかかわるパーティがある。劇作家であるレジナルドは、主役と言ってよい役どころだが、派手好みではないために隅っこでシャンパンに舌鼓を打っていることが多い。

 そんなレジナルドに、つかつかと歩み寄ってくる人影、ひとつ。


「舞台、おめでとうございます。一度行きましたけれど、また行きたくなる作品でしたね」


「そうですか? ……まあ、舞台はやっぱり役者さんの力っていうか……脚本なんて所詮裏方ですよ」

「それでは、こちらもご迷惑?」


 声のするほうから現れたのは、小ぶりながらもかわいらしい花束。白い花をメインに据えて、清純なイメージを与えてくる。


「いえ――でも、花束なんてもらったのは初めてで――す――」


 レジナルドの語尾が凍り付く。

 ウインクをひとつ残して、しゃれたスーツの「色悪」は人ごみに消えた。

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或る劇作家の惑乱 猫田芳仁 @CatYoshihito

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