第6話 帳尻は合った。総決算だ
冬が近づくと、ロンドンの日没は急に早くなる。
午後三時を過ぎれば薄暗くなり始め、五時には真っ暗になってしまう。ぼくらがベイカー街に戻ったときには、すでに日がとっぷりと暮れていた。工場や鉄道から吐き出された排気が急激に冷やされて、濃密な霧が発生する。
帰りの馬車のなかで、ぼくたちの会話は乏しかった。バクスター清掃社への二度目の潜入は成功したし、気付かれずに現金出納帳を戻すことができた。そのこと自体はリョウも嬉しそうに褒めてくれた。
けれど、パブでの言い争いが後を引いていたのだ。
お互いに何となく気を遣ってしまい、いつものように遠慮のない冗談を交わせなかった。もしかしたらリョウは事件についての〝計算〟を続けていたのかもしれない。馬車の窓におでこをくっつけて、流れる街並みをぼんやりと眺めていた。窓の向こうで渦巻く、灰色の霧。
「着いたよ」
「ああ」
ぼくのほうに目も向けず、ひらりと飛び降りる。レンガの街には明かりが灯り、肉の焼ける美味そうな匂いが漂っていた。もうすぐ夕食の時間だ。
下宿のドアを開けようとしたときだ。
「うぅーあぁあー!! ぶ、ぶたないでぇー!!」
「こらっ! 大人しくこっちに来い!!」
「あぁあー!! うわぁー!!」
霧の向こうから、男たちの怒声が響いた。警察官とおぼしき一群が、誰かを連行しようとしているらしい。一ブロック離れた場所まではっきり届くほどの大声で揉めに揉めている。風向きが変わり、霧に一筋の切れ目が生じた瞬間、ガス灯の明かりで男たちの顔が闇に浮かんだ。警察官に引っ張られているのは――。
「……ミスター・スロウ?」
ぼくたちは顔を見合わせた。
次の瞬間には、警察官たちに向かって駆け出していた。
「いったい何ごとだ?」
「誰かと思えば、リョウ・ランカスターさん! そういえばご近所にお住まいでしたな」
ボロをまとった男を締め上げながら警察官は答えた。周囲の制服警官に対する態度から見て、警部の立場にあるのだろう。ミスター・スロウは身をよじって暴れているが、警部の万力のような腕からは逃れられない。
「お騒がせして申し訳ありませんね。この男が……っと、この、じっとしていろッ……誘拐を働こうとしていまして、現行犯で取り押さえたんですよ」
「誘拐だと?」
「信じられない……。ねえ、ミスター。本当かい?」
彼は怯えきって、今にも泣き出しそうな顔をしていた。とてもぼくの質問には答えられそうにない。
「本当ですとも!」と警部。「この男、みすぼらしい姿とは裏腹にかなりの怪力です。年端もいかない子供を連れ去るなんて、わけありませんよ」
リョウは首をかしげる。
「解せないな。数ある犯罪のなかでも誘拐はもっとも成功率が低いと聞いたことがある。身代金をきちんと手に入れるには、ずば抜けた頭脳と水も漏らさぬ計画が必要だ。その男に、そんな計画を考えられるとは思えない」
警部は渋面を浮かべた。
「そりゃあ、そうでしょう。誘拐の目的がカネだとは限らない。こういう男だからこそ手段を選ばず、自分に正直になりすぎてしまうんじゃありませんかね」
「それは偏見ではないか?」
「ランカスターさんこそ、先入観を持ってはなりませんぞ。この男を無垢だと思ったら大間違い、一丁前に言い訳までしてみせたんですよ! 誘拐ではない、子供たちを助けようとしたとか何とか――。まあ、同じ言葉を繰り返すだけで、要領を得ない説明でしたがね」
ぼくはきょろきょろと周囲を見回した。
「警部、あなたは現行犯で逮捕したとおっしゃいましたか?」
「ええ、ちょっとした聞き込み捜査の帰り道だったんですよ。この男が二人の子供を連れ去ろうとしているところに出くわしたんです。嫌がる少年たちの手を引いて、無理やりリージェンツ・パークに連れ込もうと……」
「じゃあ、肝心の子供たちはどこにいるの?」
「はい? すぐそこに――」
警部の顔に驚愕が浮かび、ゆっくりと怒りに染まっていった。
「も、もうしわけありません……」
おずおずと手を挙げたのは、年若い制服警官だ。
「ついさっきまで保護していたのですが、目を離したすきに……えっと、その……この霧に紛れて、逃げられてしまって……」
「なんだとぉッ!?」
警部の渾身の怒鳴り声が街を震わせた。
眠りを妨げられたカラスたちが飛び立ち、ギャアギャアと頭上を舞う。
「いったい何を考えているんだ! あの双子は重要な証人なんだぞ!?」
「すっ、すみっ、ずびばぜぇん!!」
「貴様というやつは――」
「待ってくれ、警部!」
今にも部下に殴りかかりそうな彼を、リョウが止めた。
「双子、と言ったか?」
「ええ、そうですとも。十歳ぐらいの双子です。気味が悪いほど息がぴったりで……」
「その二人、どんな格好をしていた?」
「暗くて細かい部分までは見えませんでしたが、名門私立学校(パブリック・スクール)の制服みたいなものを身につけていましたよ」
「ふむ、なるほどね……」
リョウは目配せをよこした。ぼくはうなずいてみせる。
間違いない、その二人はJ・J・ブラザーズ。ぼくたちの依頼人だ。
「それでは私たちはそろそろ失礼するよ、警部。お勤めご苦労様だ」
リョウはきびすを返すと、下宿に向かって歩き始めた。
「え? 待ってよ! まだ警部に訊くことがあるんじゃないの!?」
慌ててぼくも追いかける。
突然態度を変えたぼくらを、警察官たちはぽかんと眺めていた。
「油を売っている暇はないぞ、ワトソンくん。明日の朝は早い。何しろ私たちは、ちょっとした旅行に出なければならないからな」
「それじゃあ、もしかして――」
リョウの口調に、いつもの余裕はなかった。
「そうだ、私たちも例の列車に乗ろう。もはや計算を間違える余地はない」
「だけど、たしか……手がかりが足りないって――?」
「揃ったんだよ、その手かがりが」
彼女は振り返った。黒髪がふわりと広がる。白いキャンバスに一筆の黒いインクを走らせたような光景。
「帳尻は合った。総決算だ」
※続きは、書籍にてお楽しみ下さいませ。
書籍試し読み『会計探偵リョウ・ホームズ 』 Rootport /「L-エンタメ小説」/プライム書籍編集部 @prime-edi
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