第5話 1ペニーのために殺し合うことだってある
「やればできるじゃないか!」
リョウはご満悦だ。
「君の評価を上方修正しないといけないな」
「もう二度と泥棒なんてさせないでくれ。さっさと帳簿の中身を確認してしまおう」
「まあ、そう慌てるな。まずは乾杯だ」
バクスター清掃社の事務所から一ブロックほど離れた場所のパブだ。ぼくらは店の奥のボックス席に陣取っていた。昼間から飲んでいる男たちの声で、店内はざわめきに包まれている。
「乾杯と言っても、君のはジンジャー・ビアだろ」
ショウガ味の炭酸飲料。
「仕事中は飲酒しない主義なんだよ。私はそれほどお酒に強くないからね。……では、ワトソンくんが悪事に手を染めたことを祝して、乾杯」
グラスを軽くぶつける。
「それにしてもホームズ、君には驚かされてばかりだ。あんな声が出せるなんて思わなかったよ」
「ふむ?」
「火事だわ、という悲鳴。あれは君だろう?」
「かなり声を変えたつもりだったが、気付かれてしまったか」
「毎日聞いていれば嫌でも分かるようになるさ。しかし、タイミングよく火事が起きるとは……。まさか放火したわけではないだろうな」
リョウは肩をすくめた。
「さすがの私でも、そんな凶悪犯罪には走らないよ。あれは発煙筒を使ったんだ」
「発え――何だって?」
「発煙筒。火をつけると煙が出るやつ。知らないのか?」
バカにしないでほしい。
「それぐらい知っているよ! ぼくが聞きたいのは、なぜ君がそんなものを持っていたのかということで――」
「今日の一件で君にも分かっただろうが、いざというときに便利だからね。部屋を出るときにポケットに忍ばせておいたんだ。……ワトソンくんと別れたあと、私はすぐにあの喫茶店に向かった。暖炉の近くの席に陣取って、コーヒーを注文した。あとは簡単だ。人目を盗んで、暖炉にそれを放り込めばいい」
喜色満面である。イタズラに成功した悪童みたいな顔。
「さてと、収穫を見せてもらおうか」
「ほら」
ぼくが現金出納帳を渡すと、リョウの表情はますます輝いた。
「で、それは何なんだ?」
「読んで字の如くだ。現金の出し入れを記載する帳簿だよ」
そろばんを取り出しながら、リョウは答える。
「当座預金の入出金履歴によれば、バクスター氏は毎月一回、多額の現金を出し入れしていただろう?」
第三週の後半に一〇〇ポンド以上を引き出し、翌週の前半には入金するか、さらに引き出すかしていた。
「彼がマメな人間なら、現金の使用目的をこの帳簿に記入しているはずなんだ。逆に、もしも記入がなければ――」
「何か後ろ暗いことにお金を使った可能性が高い?」
「そういうこと」
ふむふむと鼻歌のような声を漏らしながら、リョウは帳簿を読んでいく。素早くページをめくりつつ、指先がパチパチと珠(たま)を弾く。刷毛(はけ)のように長いまつげの下で、黒々とした瞳がせわしなく動く。
ぼくはエールに口を付けた。苦い味が広がる。
「本当に、盗む必要があったのかな?」
「何を?」
「その帳簿を。……ぼくたちが知りたいのはジョエル少年の行き先であって、バクスター清掃社の経営状態じゃない」
「それは、まあ……。そうだな」
「帳簿を見たって、ヒントにしかならないだろう。だったら、バクスターさんに直接訊いてもよかったじゃないか。ジョエル少年を捜しています、行き先を知りませんか、って」
リョウは帳簿から目を上げた。きょとんとした顔でぼくを見る。
「なるほど、名案だ」
「だろう? だったら――」
「君は何も分かっていない」
嘲(あざけ)るような口調だった。
「J・J・ブラザーズの言葉を忘れたのか? あの双子によれば、『ジョエル少年は家出したのだろう』とバクスター氏は言ったそうじゃないか。ワトソンくんが尋ねても、同じ答えが返ってきただけだ」
むっとしてぼくは答える。
「決めつけるのはよくないぞ。たしかにあの双子は、歳のわりにはしっかりした受け答えをしていたよ。けれど、それでも子供だ。大人のぼくが訊けば、違う答えが聞けたかもしれない」
「君が大人かどうかには議論の余地があると思うね」
「何だとぉ……!」
「人間をごまかすのは簡単なんだよ、ワトソンくん。貧乏人を助けていれば善人に見えるし、にこにこと笑っていればイイやつに見える。比べて、帳簿をごまかすのは難しい。だから私は伝聞や証言を重視しない。小切手や領収証に書かれた金額のほうが信頼できる」
ぼくは頭を抱えた。
「なんてこった! ホームズ、君はずいぶん寂しい人間だな!!」
そして、すぐに後悔した。
相手が、ざっくりと傷ついた表情を浮かべていたから。
「……ああ、そうだな」
リョウは微笑んだ。
「私は寂しい人間だ。それでも信じているんだよ――」
まるで、自分自身を笑っているみたいだった。
「人間はすぐに嘘をつくけれど、お金は嘘をつかない」
彼女は帳簿に視線を落とすと、再び数字を追いかけ始めた。何かを振り払うように、パッ、パッとページを繰っていく。
「少し言い過ぎた。ごめ――」
「やめろ、謝らないでくれ」
出口を塞がれて、ぼくは黙るしかなかった。
ある数学者が言うには、集団としての人間は一個の統計的な確率だという。結果や反応を予想できるし、計算できる。けれど、個人としての人間は完全な謎だそうだ。だとすれば、リョウ・ホームズほど深遠な謎はほかにない。
またしても、あの疑問が脳裏をよぎる。
なあ、ホームズ。君はいったい、どこで育ったんだ?
君はいったい何者なんだ――?
彼女の暗い表情は、顔を上げたときには消えていた。
「見つけたぞ!」
いつもの、やや自信過剰ぎみのリョウだった。
「……見つけたというと、例の一〇〇ポンドの使途か?」
「いいや、残念ながらそれは分からない。銀行からカネを引き出したことさえ、この帳簿には記載されていない」
「じゃあ、やっぱり……」
ロイ・バクスターは怪しげな商売に手を染めていたのだろうか。たとえば法律で禁じられた武器や薬品の取引でもしていたのだろうか。
「ところが、だ。バクスター氏も詰めが甘いね。帳簿上に重大な手かがりを残している。ここを見てくれ」
彼女の爪は健康的な薄桃色だ。その細い指先が、ページの一点を示していた。
――グレート・ウェスタン鉄道/一等車・特別客室/一一シリング。
「汽車の切符? それにしては、かなり割高だけど……」
「帳簿の摘要欄には何と書いてある?」
――一月二十日(金)パディントン駅午前八時三〇分発
「この日付は、一月の第三金曜日……。そうか! バクスター氏が銀行から一〇〇ポンドを引き出した翌日だ!!」
「その通り。この現金出納帳によれば、バスクター氏は毎月その列車の切符を買っているんだ。どうやら彼は月に一回、決まって第三金曜日に北西部の街へ出かけていたらしい」
「ううむ、その街にどんな用事があったんだろう?」
「行き先はそれほど重要じゃない」
リョウは別のページをめくってみせる。
「というのも、ロンドンに戻ってくる日付はまちまちだからだ。ご覧のとおり、帰りの切符の購入代金も帳簿に記されている。これを見ると――金曜日に出発して、翌日の土曜日に戻ることもあれば、日曜日の汽車で帰宅する場合もある。料金だって、帰路ではずっと安い客車を利用している」
ところが、とリョウは言った。
「ロンドンを出発するときは、必ず同じ列車を利用しているんだ。パディントン駅午前八時三〇分発の一等車だ。金額から言って、豪華な車内設備の整った特別仕様の列車に違いない」
「つまり、その列車に乗ることそのものがバクスター氏の目的だった?」
「少なくとも、週末を景勝地で過ごすことが目的とは思えないね」
もしもそうなら、出発日のほうがまちまちになるはずだ。仕事が少なければ早めに休日に入れるし、忙しければ出発が遅れるだろう。一方で、ロンドンに戻るのは日曜日の夜遅くになるはずだ。
けれど、実際のロイ・バクスターはまるで正反対の行動をしている。
「この列車こそが、問題の焦点だ」
リョウは得意げに言った。
「豪華な客室のなかで、バクスター氏がいったい何をしていたのか。ここにジョエル少年失踪の謎を解く鍵がある。確証を得るためにはあと二、三の手がかりが欲しいが、とはいえ、私の計算では――」
帳簿に目を落として、ぼくは「お?」と声を漏らした。
「ねえ、ホームズ。これは何だろう?」
「これ?」
ぼくが指し示したのは、帳簿の最後のページ――。つまり、いちばん新しい取引について記載されたページだった。
「バクスター氏が問題の列車に乗るのは、毎月第三金曜日なんだよね?」
「そのはずだ」
「ところが、今週の火曜日にも同じ切符を買っているんだよ」
リョウの顔が見る間に険しくなっていく。
「私としたことが、これを見落とすとはね」
「摘要欄によれば、出発は十月二十六日金曜日と書かれている。つまり――」
「明日、だな」
彼女はグラスに手を伸ばし、ジンジャー・ビアでくちびるを湿らせた。ショウガの辛さに顔をしかめる。
「参ったな。手がかりを集めるなんて悠長なことは言っていられないかもしれない」
「と、言うと?」
「バクスター氏は先月まで、毎月一回、第三金曜日の列車に乗っていた。ところが今月に限って二回、第四金曜日の列車にも乗ろうとしている。このことが示すのは、事態の急変だ。私の計算では、彼は間違いなく何らかの事件に関係している。そして、その事件は今になって急速に動き始めているらしい」
「どうする? ぼくたちも同じ列車に乗るかい?」
リョウはすぐには答えず、グラスの中の弾ける泡を見つめていた。
「……少し、考えさせてほしい」
「そうは言っても、あまり時間は残っていないぞ」
何しろその列車は、明日の朝八時三〇分にはパディントン駅を発車してしまうのだ。乗車するつもりなら、今夜中に旅の準備を済ませなければならない。
「悩むことはないだろう。何を恐れているんだ?」
「私が恐れているのはね、ワトソンくん。計算違いだ。……言っただろう、確証を得るには手がかりが足りないって。会計の仕事には細心の注意と最大限の厳密さが求められる。こんなところで計算を間違えるようでは、会計探偵の名折れだよ」
冗談めかして、ぼくは言った。
「計算違いだって!? そんなものを恐れるなんて、君らしくないな。ホワイト・チャペルを一人で歩き回って平気な顔をしていられる――」
ぼくは少し身を乗り出して、声を落とした。
「――そんな勇猛果敢なレディなんだろう、君は?」
リョウは黙って、グラスを置いた。
ごとっ、と重たい音がした。
「そんなものを恐れるなんて?」
今までになく低い声で、彼女は言った。
ぞくりと背筋が粟立った。表面的には彼女は顔色一つ変えていないように見える。真っ直ぐにぼくを見つめる視線は、いつにも増して美しくさえある。それでも、彼女が猛烈に怒っていることは明らかだった。
「よくもそんなことが言えるな、ワトソンくん。君はお金の力を過小評価しているよ。言ったはずだ、人間は一ペニーのために殺し合うことだってある生き物だとね。……わずか一ペニーの計算違いでも、十二回繰り返せば一シリングの間違いになる。それが二十回重なれば一ポンドだ。計算結果が一ポンドも違えば、誰かの人生をめちゃくちゃにするには充分だ」
負債の返済額に一ポンド足りなければ、企業が倒産し、そこで働く人々が路頭に迷ってもおかしくない――。
彼女はまるで、火を落とした直後の石炭だ。赤い炎を噴き出すわけではないし、煙も明かりも出さない。真っ黒に冷え切っていると思って素手で握ってから、ようやく熱さに気付くのだ。火ぶくれができるほどの高熱を宿していると。
「何より許せないのは」リョウは小さくつぶやいた。「私を女扱いしたことだ。仕事中なのに」
ぼくは慌てた。
「ご、ごめ――」
「だから、謝罪はいらない。謝るくらいなら仕事をまっとうしてくれ」
「まっとう、というと……?」
「この現金出納帳を、盗んだままにはしておけないだろう?」
「まさか、バクスター清掃社の事務所に戻せと!?」
彼女の瞳に浮かんだ怒りは、いつの間にかイジワルな光へと変わっていた。
「それとも警察に出頭するかい? 私は帳簿泥棒です、って。現金出納帳は警察官の手でロイ・バクスター氏に返してもらおう。……ただし、私が盗みに関わっていることは黙っておいてくれよ」
「なんてやつだ」
探偵が聞いて呆れる。
「あの事務所に帳簿を戻すと言っても、いったいどうやって?」
リョウはポケットから、大ぶりな葉巻の包装紙のようなものを取り出した。
「ここに予備の発煙筒がある」
「冗談だろ……」
「さっきと同じ作戦でいこう。そういえば、喫茶店の隣には軽食屋があったね。今度はあちらでボヤ騒ぎを起こすことにするよ」
「えっと、ぼくは?」
「優秀な助手を持つことができて、私は幸せだ」
「助手になった覚えはないッ!」
「まあ、そう言うな。君のセールスマン姿、なかなか様になっていたよ。博物学の仕事よりも向いているんじゃないか?」
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