第4話 お金の力を前に、慈悲など無力だ


 声が震えないよう、必死でこらえた。


「こちらの《北ウェールズ鉱石コレクション》は、稀少な岩石九種類の標本です。バクスター様のような知的な紳士であれば、ぜひマントルピースに飾っておくべき逸品でございますよ」


 ぼくの必死の営業トークを、ロイ・バクスターは一蹴した。


「そんな石ころ九個で五ポンドだと? バカバカしいにもほどがある」


 ひどく痩せているせいで、実際よりも年老いて見える。ひさしのように張り出した眉が、奥まった目に陰気な影を落としていた。身につけた衣服は仕立てがよく、ほつれ一つ見つからない。が、手入れを怠っているのだろう。なんとなく埃っぽくて、薄汚れていた。


「学習教材のセールスマンだというから部屋に通したのに……。うちの会社に無駄遣いする余裕はないんだ」


 バクスターの事務所に、ぼくは単身で突入した。もちろんリョウの指令だ。現金出納帳を盗んでこい、大丈夫、チャンスは作るから――。リョウによれば、その帳簿はすぐに見つかる場所に置かれているはずだという。

 広さは、ぼくらの部屋の半分程度だろうか。手狭な事務所だ。しかし清掃社を名乗るだけあって掃除は行き届いていた。古い建物のはずだが、窓ガラスには一点の曇りもない。余計な調度品の類いはなく、マホガニーの机が部屋の中央にでんと据えられている。

 そして、その机の上に問題の帳簿があった。

 表紙には暗褐色の革が貼られ、型押し加工で『現金出納帳(キャッシュ・ジャーナル)』という文字があしらわれている。ついさっきまで記帳していたのだろう。バクスターの手もとに無造作に置かれている。


「む、無駄とおっしゃらずに――」


 裏返りそうな声をなんとか押しとどめて、ぼくは演技を続けた。


「博物学のなかでも、地質学は王様です。ウェールズ地方の鉱物について学ぶことは、必ずや教養として役立つはず。バクスター様の会社では、子供も雇っているとうかがいました。彼らの教育にもってこいではありませんか」


「セールスマンのお兄さん、あんたは現実を知らん」


 バクスターは頬杖をついた。背後の窓から差し込む光で、彼の顔は逆光になる。表情はよく分からなかった。


「イースト・エンドの孤児たちは野犬も同然だ。徒党を組んで路地裏をうろつきまわり、相手が警察官だろうと恐れずに襲いかかる。彼らに必要なのは、読み書きと礼儀作法。必要最低限の教育であって、教養ではないんだよ」


 どうしても、視線が机の上の現金出納帳に吸い寄せられてしまう。

 これを盗んで、リョウはどうするつもりなのだろう。というか、もしもバレたらどれくらいの罪に問われるのだろう。まさか縛り首ということはないだろうけれど。

あまりじろじろと見つめていても怪しまれる。ごまかすために、ぼくは口を開いた。


「あなたは、その……。何かの理想に燃えて事業を始めたのではありませんか?」


「理想だと?」


「以前は『浮浪児たちに慈悲と仕事を!』と書かれたチラシを配っておられたはずです。貧しい子供に教育と収入を与えたくて会社を興されたのではないかと愚考した次第なのですが――」


「だから教養も必要だと言いたいのか?」


 バクスターは憮然として答えた。


「たしかにロンドンに来たばかりのころは、私もそう考えていた。というより、家内の影響だな」


「奥様の?」


 たしか一年ほど前に亡くなったという話だった。


「うちの家内は慈善活動に熱心でね。子供たちの賃金をめぐって、しょっちゅうケンカをしたものだよ。本音をいえば私だって、もっとたっぷりと支払ってやりたいさ。しかし給料の払いすぎで会社が倒産したら本末転倒だろう。子供たちは再び、路地裏の世界に戻らざるをえなくなる」


 冷ややかな口調だった。


「お金の力を前に、慈悲など無力だ」


 返す言葉が見つからず、ぼくは押し黙った。部屋ににわかに沈黙が落ちる。


「さてと、話は終わりだ。セールスマンのお兄さん、君にはそろそろご遠慮いただけると助かるんだがね。こう見えて、私は暇を持て余しているわけではない――」


 そのときだ。


「――火事だわ! 誰か助けてぇ!!」


 表通りで若い女が叫んだ。

 ぎくりとして、バクスターはふり返った。窓の向こうがざわざわと騒がしくなる。


「いったい何事でしょう?」


 ぼくが言うと、バクスターは椅子から立ち上がった。そのまま窓に近づく。

 ――しめた!

 ぼくも立ち上がる。

 通りにはレンガ造りの建物が続いている。ロンドンではどこにでもある光景だ。騒ぎの原因は、向かいの一階に入居している喫茶店のようだ。ドアや窓の隙間から、白い煙がじわりと染み出していた。


「それほど火の手は大きくなさそうだな」


 窓の外を見つめたまま、バクスターはつぶやいた。背をぼくに向けたまま、問題の帳簿を視界の外に追いやったまま、である。


「ああ、それなら良かった!」


 答えつつ、帳簿をつまみ上げる。

 そして書類かばんに滑り込ませた。よし、大きな音はしなかった!


「ううむ、あれならすぐに消火できるだろうが……」


 バクスターは、まだぶつぶつ言っている。


「では、ぼくはそろそろ失礼いたしますね」


「ああ、そうかい。次に来るときには格安の文房具でも持ってきてくれよ」


 そう答える間にも、バスクターは窓の外から目を離さなかった。


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