第3話 こんなときに、性別を持ち出すな


 シティ・オブ・ロンドンは世界の中心だ。

 テムズ川の北岸に広がる、この都市でも最も歴史の古い地区の一つ。銀行や証券会社が覇を競いあい、日夜、膨大な額のマネーが動く。シティではこの世のすべてのものが証券化されて取引されている。北は北極海のニシンから、南は喜望峰のダイヤモンドまで。カリブ海の砂糖、中国の茶、日本の生糸……。あらゆるモノが、電報とサイン一つで売買できる。

 カネさえあれば世界のすべてが手に入る街――。

 それが、シティだ。


 銀行のオーナーは小太りの紳士だった。固めたひげが、ピンと天井を向いている。


「ご無沙汰しているね、オーナー。『三つの偽造債券』事件以来かな?」


「はあ……。その節は大変お世話になりました」


 さっと握手を交わして、ぼくたちは来客用の椅子に腰を下ろした。

リョウはまだ若く、ロンドンに来てからの日も浅いはずだ。しかし、そのわずかな期間に数え切れないほどの会計事件を解決してきたらしい。この街のお金持ちには、リョウに恩義を感じている者が少なくない。


「突然のご連絡でびっくりしましたよ」


 おでこの汗を拭きながらオーナーは言った。彼の言葉にはアメリカ風の訛りがあった。


「本日はどういったご用件でしょう。他ならぬあなたのご依頼ならば何百ポンドでもご用意いたしますが……。お借り入れというわけではなさそうですな」


「いかにも」リョウはうなずく。「私が必要としているのはお金ではなく情報だよ。この銀行は、ロイ・バクスター清掃社と取引があるのだろう?」


「へ? はあ、まあ……。どうしてそれをご存じなのかは分かりませんが、たしかにバクスター社はお取引先の一つですな」


「やっぱりね、思った通りだ」


 リョウの言葉に、オーナーは目を剥いた。


「い、今のは当てずっぽうでいらっしゃったのですか!?」


「まさか。計算の結果、この銀行があの会社のメインバンクである可能性がいちばん高いと踏んだだけさ。でも、おかげで大幅に手間が省けそうだ。……少し頼みにくいことを頼むが、聞いてもらえるかな?」


 オーナーはごくりとつばを飲んだ。贅肉に包まれたのど仏が上下する。


「……うかがいましょう。ですが、お応えできるとは限りませんぞ」


「ロイ・バクスター清掃社の当座預金の入出金明細を見せてほしい」


「なっ!?」


 オーナーは思わず腰を浮かせた。


「いったい何の目的で?」


「申し訳ないが、それは言えない」


「いくらなんでも滅茶苦茶ですよ。口座の入出金情報なんて秘密中の秘密。目的の分からない第三者にお見せするわけにはいきません!」


「ご心配には及ばないよ。ちょっとした与信調査みたいなものさ。拝見した内容は外には漏らさないし、そもそも帳簿を見せてもらったこと自体を口外しない」


「しかし――」


「おや、先ほどオーナーは何百ポンドでも貸してくれると言ったはずだね。何の後ろ盾もない東洋人の私にそれだけの信用をかけてくれるなら、この件でも信じてほしいな」


 ううむ、とオーナーは唸った。


「あなたお一人でしたら、私もこれほど渋りません。しかしですね、こちらの方はどなたですか?」


 と、ぼくを指し示す。


「申し遅れました。ぼくは――」


「彼はエラズマス・〝ワトソン〟・フッカーくん。手っ取り早くワトソンくんと呼んでくれてかまわない。私の助手だ」


 オーナーは腕組みをして、ぼくをまじまじと見つめた。頭の先からつま先まで、ゆうに二往復は観察しただろう。

 諦めたように腕をほどくと、「かしこまりました」とつぶやいた。


「それでは、帳簿をお持ちします。しばしお待ちを」


 面倒な客の持ち込んだ、面倒な依頼だ。さっさと片付けてしまったほうが得だと考えたのかもしれない。オーナーは大股で部屋を横切ると、ドアの向こうに消えた。


「――おい、ホームズ! どういうつもりだ!」


 たまらず、ぼくは食ってかかった。


「ぼくは君の助手になった覚えはないぞ!?」


「そうカリカリしないでくれ。あのオーナーを説得するための方便だよ」


「ふんっ」ぼくは鼻を鳴らす。「やっぱり、ぼくは来ないほうが良かったんじゃないか? オーナーを説得するために、つく必要のない嘘をつく羽目になった」


「だったら、本当に私の助手になるかい?」


 瞳をイタズラっぽく光らせて、リョウは首をかしげてみせた。

 黒いインクのような髪が、さらさらと流れる。男装しているとはいえ、その表情だけを切り抜けば抜群の美人だ。


「そうすれば、嘘ではなくなる」


 のちに彼女から聞いた話では、このときすでにぼくのことを助手にしたいと望んでいたらしい。冗談めかした口調は、照れ隠しだったそうだ。けれど当時のぼくは彼女の気持ちなど知るよしもなかった。


「それにしても、よく分かったね。ここがロイ・バクスター清掃社の取引銀行だと」


「言っただろう。計算の結果だ」


「納得いかないよ。いったいどんな計算をしたっていうんだ」


 彼女は目を丸くした。「そんなことも分からないの?」と言いたげな顔。


「君も気付いただろうが、ここのオーナーはアメリカ人だ。そして、この銀行は中小企業との取引が多い。ロンドンで事業を興したアメリカ人の多くが、この銀行に口座を開くんだよ。ロイ・バクスターもその例に漏れないと考えたわけさ」


「待ってくれ。ロイ・バクスターがアメリカ人だなんて聞いていない」


「聞かずとも分かるだろう?」


 こともなげにリョウは言う。ぼくは首を振った。


「全然分からない」


「あの双子――J・J・ブラザーズは、ロイ・バクスターにはトランプの趣味があると言っていた。『ブラック・ジャック』というのは、君たちイギリス人が『トゥウェンティ・ワン』と呼ぶゲームのアメリカでの呼び名だよ」


「なぜ、そんな知識を?」


「私が生まれ育った港町には、世界中の船乗りが集まっていたんだ」


「ホームズ、君はいったい――」


 どこで育ったんだ、という質問はできなかった。

 オーナーが戻ってきたからだ。大きな帳簿を抱えて、ふーふー言いながらドアを押し開ける。


「お待たせしました。すぐにご用意できたのは、直近の二年分だけでしたよ。もっと昔の取引記録は、別棟の倉庫に保管しておりまして……」


「いや、二年分もあれば充分だよ。さっそく拝見しよう」


 黒檀の机に帳簿を広げると、リョウはまるでフルーツケーキを前にした子供みたいな顔になった。ページをびっしりと埋め尽くしているのは当座預金口座の入出金記録。ケシ粒のような数字の羅列だ。リョウはいそいそとそろばんを取り出すと、凄まじい勢いで弾き始めた。パチパチという軽快な音が、応接室の高い天井に響く。


「ふーむ、これは興味深い……!」


 鼻歌でも歌い出しそうな表情だ。


「なあ、ホームズ……。ごく初歩的なことを訊いてもいいかな?」


「作業の邪魔にならない範囲であれば」


「そもそも、『当座預金』とは何だ?」


 瞬間、部屋の空気が固まった。


「えっと、ワトソンくん……。君は本気で言っているのか?」


「ホームズさん、こちらの方は本当にあなたの助手でいらっしゃるのですか?」


「そのつもりだったが……。考えを改めたほうがいいかもしれない」


 呆然としながらリョウは言う。ぼくはあたふたと言い返した。


「し、知らないものは知らないよ。仕方ないだろう!」


「なんというか、あれだ――」


 リョウの口調は、哀れみを帯びていた。


「よくぞ今まで生きてこられたな、そんなことも知らずに」


「ええ、ええ、まったく。驚きです!」


 何なんだ、二人して。


「この際だから教えてあげよう、ワトソンくん。当座預金というのは、いわばサイフ代わりに使う、いちばんカネの出入りが激しい口座のことだ。貯金よりも運転資金を預けておくことが主な目的になる」


「企業はもちろん、個人で口座を開設なさるお客様も珍しくありません」


「普通の預金とはどう違うの?」


「いちばんの違いは、利子がつかないことだな」


「げっ、利子が……?」


「ですが、代わりに小切手をご利用いただけるようになります」


「小切手というと、あの手帳みたいなやつだよね。好きな金額を書き込めるようになっている――」


「そうだ」とリョウ。「金額の書き込まれた小切手を銀行に持ち込めば、それを現金に換えてもらえる。その現金は、小切手帳の持ち主の当座預金口座から支払われるんだ」


「つまり、当座預金の残高を超える金額を、小切手に書き込むことはできない?」


「原則としては、そうなる」


「不足ぶんを私ども銀行が立て替え払いする契約もございますよ。当座借越といいます」


 ぼくは首をひねった。


「だけど、なんでそんな面倒くさいことを? 小切手なんて使わなくても、現金で決済すればいいじゃないか」


「高額の取引では、現金よりも小切手のほうが便利なんだよ」


「盗難の危険性がずっと低くなりますからね。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)が設立されたのは一八二九年のこと。わずか六十年ほど前です。それ以前は、剣と銃で武装しなければロンドンの街を歩けなかったと言われています。今のようにポケットに金貨を詰めて外出できなかったんですよ、一昔前までは」


「それに、あまりにも金額が大きくなると物理的に現金を持ち運べなくなるだろう? 金貨は重たいからね」


「なるほど……」


 会話している間も、リョウの視線は帳簿のうえを走っていた。


「それで、ホームズ。何か分かった?」


「うん。私の計算結果に対して、一つ目の裏付けが取れた」


 彼女が指し示したのは、今年一月の入出金情報だった。


「ロイ・バクスター氏の事業は、あくまでも清掃業だ。得意先のなかには金持ちの屋敷もあるだろうが、それでも一回の料金はたかが知れている。氏は事務所の金庫にカネを貯め込むタイプではなく、小まめに銀行に預けていたようだ。入金額はいずれも小さい」


「一回ごとの出金額も、それほど大きくないね」


「製造業のように機械装置や工場を買うような商売ではないからね。多くても二〇ポンド以上の入出金は見つからない。だが――」


 ぼくは「あ」と声を漏らした。


「一月十九日木曜日に一〇〇ポンドも出金してるじゃないか! 現金で!!」


 リョウはうなずく。


「面白いのはここからだ」とページをめくる。「翌週月曜日の一月二十三日には、二〇〇ポンドを入金している。こちらも現金でね」


「はあ、本当でございますねえ……」


 ため息を漏らす銀行のオーナー。

 ぼくら二人は揃って彼を見た。


「ああっ、いえ、これは面目ない。当行はたくさんの企業様とお取引しておりますので、企業ごとの入出金は、えっと、その、私は把握しておりませんで――」

オーナーはおでこの汗をハンカチで拭きつつ、目を泳がせる。ぼくは言った。


「二〇〇ポンドと言えば大金だよ。覚えていても良さそうなものだけど」


「ええ、はい、おっしゃるとおりですが……」


 リョウはさらにページをめくる。


「まあいい。次はここ。二月の第三週――」


 やはり木曜日に一〇〇ポンドを出金していた。しかし週明けの月曜日に入金はなく、今度は三〇ポンド少々を引き下ろしている。


「この日は給料日でもないのに、まとまった現金を用意している。なぜだ?」


 自問自答するような口調だった。

 ページをめくっていくうちに、ぼくにもパターンが分かってきた。

 まず、毎月第三週の後半に一〇〇ポンド以上の出金がある。木曜日が多いが、水曜日の場合もある。一方、週明けの月曜日はまちまちだ。五〇ポンド超が入金される場合もあれば、一〇〇ポンド前後を出金している場合もある。平均的には出金額のほうが大きく、口座の残高は目減りし続けている。先月末――つまり九月末日には、ついに給料の支払いさえ危ぶまれる金額になっていた。


「この日までに、ロイ・バクスター氏は余剰資金をすっかり食いつぶしたわけだ」


「いわゆる自転車操業ってやつになったんだね。でも、どうしてだろう?」


「私の計算では――」


 言いかけて、リョウは口をつぐんだ。


「いいや、やめておこう。今はまだ結論は出せない」


「清掃業以外の、何かアブない商売に手を出したのかな?」


「その可能性は否定できない」


「あるいは、詐欺事件か何かに巻き込まれたとか……?」


「そういう可能性もあるだろう」


「でも、それが――」


 ――ジョエルという十四歳の少年の失踪と、どう関係しているんだろう?


「入出金明細から分かるのは、ここまでだな」


 リョウが言うと、オーナーはあからさまにホッとした表情を浮かべた。


「大したことはできませんでしたが、お役に立てましたでしょうか?」


「もちろんだ。このお礼はいつかきちんとさせてもらうよ。お金にまつわるトラブルでお困りのときは、いつでも相談して欲しい。オーナーからのご依頼なら、大負けに負けたご料金でお引き受けしよう」


 銀行を出ると、リョウはポケットサイズのロンドン市街地図を広げた。


「さて、次はオルドゲート地区の少し先だ。馬車を使うか徒歩で行くか迷う距離だが――」


「馬車にしよう」


「ワトソンくんらしからぬ断固とした口調だな。そんなに歩くのが嫌か? 運動不足は体に毒だぞ」


「ぼく一人だったら歩いていくさ。だけど、オルドゲートから一歩先はホワイト・チャペル地区――。極端に治安が悪くなる。できれば君には近づいてほしくない」


 このところホワイト・チャペルでは猟奇的な殺人事件が頻発して世間を騒がせているのだ。ところが、リョウは声を上げて笑った。


「さすがはこの国の紳士だ。だけど心配いらないよ。監査のためなら、私はどんな危険にも飛び込んでいくさ。君と出会う前は一人でホワイト・チャペルを歩き回ったこともあるんだぞ」


「だったらこれからは、そんな無謀なことは控えてほしい。君はレディなんだから」

彼女は眉をひそめると、すたすたと歩き始めた。


「わっ、ちょっ、待ってくれよ!」


「議論するだけ時間の無駄だ」


「何を怒っているんだよ」


「怒ってなどいない。不愉快になっただけだ」


 そして小声で付け足した。


「……こんなときに、性別を持ち出すな」


 ぼくも小声で言い返す。


「女扱いされたくなかったのなら、謝るよ」


「違う。女扱いされたくないわけじゃない」


「だったら――」


 彼女は立ち止まると、キッとぼくを見つめた。


「今は仕事中だ。それだけだ」


 そしてまた、すたすたと歩き始める。いったい何なんだ。


「なあ、ぼくたちはどこに向かっているんだ?」


「決まっているだろう。ロイ・バクスター清掃社の事務所だよ」


「は?」


「手っ取り早く、バクスター氏ご本人にお目文字いただこうじゃないか」

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