第2話 ミスター・スロウ


 下宿を出たら、少女の悲鳴にぶつかった。


「放してください! ああ、もう! 放してったら!!」


 どこかの家の使用人だろう。メイド服を着た十四、五歳の少女が、ボロボロの衣服をまとった男に絡まれていた。


「――放してよぉ!!」


 男の顔は垢で真っ黒で、ひげはぼさぼさに伸びている。


「持ってあげる……持ってあげる……」


 そう繰り返しながら、男は少女の買い物かばんを奪おうとしていた。おそらく買ったばかり日用品で、かばんはぱんぱんに膨れている。


「おや、あれはミスター・スロウじゃないか」


「のろまさん(ミスター・スロウ)?」


「君は初めて見るのかな? 彼はこの辺りにときどき現れるホームレスだよ。本名は誰も知らないが、みんなからはそのあだ名で呼ばれている。噂では、リージェンツ・パークの茂みに隠れて暮らしているらしい。決して悪意のある男ではないが――」


 彼女は自分のこめかみを指さした。


「ここに少しばかりハンディキャップがあるようでね。……おい、ミスター!!」


 リョウが声をかけると、男はびくりと怯えた表情をした。

 少女のほうもこちらに気付いた。


「助けてくださ――きゃあ!?」


 強烈な力で引っ張られて、彼女は振り飛ばされそうになる。

 男はかばんを握ったまま逃げようとした。というより、驚いてかばんから手を放すのを忘れたという雰囲気だった。

 たまらず、ぼくは駆け寄った。


「落ち着いて、ミスター」


「ぶ、ぶたないで……ぶたないで……」


「大丈夫、ぶったりしないよ」


「かばん、重い……重い……」


「そうだね。重そうだから、この子のかばんを持ってあげようとしたんだね。だけど、安心して。彼女は一人で大丈夫だから」


 緊張してこわばった男の手から力が抜け、やがて、するりとかばんを放した。


「彼女は一人で大丈夫……彼女は一人で大丈夫……」


 ぶつぶつとつぶやきながら、男は離れていった。ふらふらと危なっかしい足取りだ。すれ違う人に怒鳴られたり、こづかれたりしながら、レンガ造りの街に消えた。

「やるじゃないか」とリョウ。「なぜ彼がひったくりを犯そうとしているのではないと分かったんだ?」


「悪意のある男ではない――。そう言ったのは君だぞ、ホームズ」


 ぺこぺこと頭を下げる少女を尻目に、ぼくたちは辻馬車を捕まえた。一頭立ての軽装二輪馬車(ハンサム・キャブ)だ。


「……どちらまで?」


「金融街(シティ)に向かってくれ」

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