第4話 春の雪月花

 朝日が昇る。

 薄汚い今住んでいるアパートから、何回その様子を見たであろうか。

 そしてその度に、何回絶望した事であろうか。

 出勤の時間が近づく。

 春の朝。

 まだ寒い。 

 しかし、

「朝になりましたね」

 窓から外を見ている私の後ろから、詩節さんの声が届く。

「ええ、つき合わせてしまってすみません」

 謝る私。

「いいえ、別に」

 何でも無い様に言ってくれる詩節さん。

「しかし、これを持って行くとその日のうちに辞められるのですか?」

 昨日家に来てくれた詩節さんは、今までのシフト表と給料明細を出す様に言った。

 そして徹夜で計算をし、書類を書き始めた。

 とても綺麗な女性が、家のアパートに来てくれる。

 壮絶な勘違いをしてしまった私。

 まぁ、そりゃ、そうだよなぁ。

 でも、

「そうです吉岡さん、これで貴方はあそこから解放されますよ」

 魅力的な笑顔で、とても魅力的な事を言ってくれた。

 そして今までかかって、何やら資料を作ってくれていたのだ。

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げてお礼を言う私に、何でも無い、と言う風に手を振る詩節さん。

「でも、私がいなくなってしまうとシフトが」

「回らなくなって困るのは、吉岡さんではないですよね」

 私の言葉の後に、言葉を被せてくる詩節さん。

「吉岡さんは辞めたくないのですか、あんな所」

「……辞めたいです。ずっと辞めたかったです」

 本心を言う私。

 クスッと笑う詩節さん。

「介護職は真面目な人がやると大変ですね」

 そして深いため息をついた。

「だから私は」

 詩節さんは私から視線を逸らし、

「介護士を軽視、搾取、そして奴隷の様に扱う奴らを」

 汚く狭いアパートの一室に、

「決して許さない!」

 静かに熱い、詩節さんの声が凛と響く。

 窓から光が差し込んできた。

 もう日は上りきっていた。

 


 グット温のケアステーションに2人で出勤した。

 そして出勤簿に出勤時間を記入せず、鷲掴みにして自分の手提げに突っ込んだ詩節さん。

「ちょっと! 何出勤時間の30分前なんかに来ているの! 社員なんだから1時間位前に来るのが常識でしょ!」

 7時早番の山田リーダーが私達を怒鳴る。

 が、気にしない。

「なな、何、2人で、なな、仲良く歩いちゃっているの。は、早く着替えて、佐藤さんのトイレケア!」

 同じく早番の富山さんが怒鳴る。

 が、気にしない。

「おー、美雪ちゃんー、私服可愛いねぇ。ちょっとこっち来て!」

「おい美雪。俺の股を掻け!」

「美雪さん、私の、おトイレを綺麗にさせてあげる。わ、か、っ、た?」

 詩節さんに気づき、佐藤様、北川様、山寺様のお三方が騒ぎ出した。

 それを鼻で笑った詩節さん。

 まるで相手にする様子もなく、事務室へ向かう。


 ゴンゴンゴン

 コンクリートで叩いた様な、物凄い音のノックの後、

「失礼します」

 そう言って詩節さんは事務室に入って行った。

 遅れて入る私。

 中には事務員の他に、奥のソファーで能天気に旅行のパンフレットを広げている施設長の藤原さん、オーナーの寺沢さんがいた。

 旅行なんて、何年も行っていないのに。

 怒りがこみ上げて来た。

 詩節さんが退職届を、旅行のパンフレットの上に置いた。

「はっ? 何これ?」

 怒りの形相で見上げる藤原さん。

 私もその隣に退職届を置いた。

 更に怒りの形相で、私達を睨む藤原さん。

「お前たちは本当に無責任だな。家族であるお年寄りを置き去りにして、家族であるスタッフを置いて逃げ出すんだな」

 物凄く低い声で、私達を責める様に言う。

 この言い方に言い返せず、私はここに居続ける選択しかできなかった。

 しかし、

「家族である私達に、嘘の求人を出しておいて、それ、言います?」

 まるで意に介さず、煽る様に言う詩節さん。

「嘘~? 嘘は面接の時、一生懸命、辞めずに頑張ります、って言っていたお前らだろうが!」


 ガコン 


 そしてゴミ箱を蹴とばす

 

 怖い。


 怖すぎて私は何も言えず、下を向く。

「まぁまぁ。これからも頑張れるよなぁ、君達」

 オーナーの寺沢さんが、私達を嘗め回す様に見ながら言う。


 はい、


 と、私が答えるより早く、


 詩節さんが出勤簿と、昨日渡したシフト表を机の上に投げつけた。

「嘘はあなた達でしょ。これ何? 全然違うんだけど」

 寺沢さんの顔色が少し変わった。

「それは奉仕活動の為の出勤だから、何の問題もない。大体、我々は家族だと言ったはずだぞ。家族の事をするのは休みの日にするのが当たり前だ!」

 机をドン、と叩く藤原さん。

「へぇ~、そうなんだ。じゃあこのシフト表を厚労省に持って行っても良いのですね」

 今度は藤原さんの顔色が変わった。

「3対1基準をかなり満たしていないようですけど、良いのですよ、ね」

 更に煽る様に言う詩節さん。

「そ、そんな事をするなんて! だ、駄目だ!」

 怒鳴る物の、かなり動揺しているのが丸わかりの藤原さん。

「え~、だって家族だから大丈夫なのですよねぇ。厚労省の人にもそう言ってあげたらどうですかぁ~」

 笑いながら煽る詩節さん。

「わかった、もう退職でいいから」

 引きつりながら、退職届を手に取る寺沢さん。

 真っ赤な顔で怒りを表すものの、額に汗を浮かべ、沈黙してしまった藤原さん。

 その様子を蔑むように見た詩節さん。

「あ、あと」

 そう言って、

「吉岡さんの今まで払われていなかった残業代も、お願いしますね。出勤簿で退勤時間がわからない、なんていうのは無しです、よ!」


 ゴン!!


 机の真ん中に思い切り、私の不払い残業代計算した紙を叩きつける。

 ビクッ、とした寺沢さんと藤原さん。

 その2人に向かって、

「家族なんだったら、子供にばっかり面倒見てもらわないで、与える事もやって下さいね。吉岡さんの残業代、私の計算以下だったらこれ持って行っちゃうかも~」

 ヒラヒラとシフト表を、寺沢さんと藤原さんの前で揺らした後、

「じゃあ失礼します」

 深々と頭を下げて、私の手を掴むと、堂々とした様子で事務室を後にした。

 


 外はまだお昼前。

 物凄い解放感に包まれながら、詩節さんと共に歩く。

「じゃあ吉岡さん。残業代、楽しみにしておいてくださいね。私はまだまだやる事があるので、これで失礼します」

 そう言って深々と頭を下げると、駅の方向へ向かおうとする詩節さん。

「あ、あの」

 呼び止めようとする私。

 振り返り、少し寂しそうに笑いながら、

「介護の、下らない、戦いは、まだ、終わらないのですよ。吉岡さん」

 そう言うと足早に、私から距離をとる様に、駅の方向へ向かう詩節さん。

「君は誰なの?」

 大きな声で聴いてみたが、更に足早になった詩節さんからは、その返事が帰ってくる事がなかった。 

 春風が吹き、桜の花びらが2人の間に流れた。

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