第1話 春に舞い降りた美しい雪

 介護施設職員の入れ替わりは早い。

 先月2人辞めてしまった。

 しかも1人は退職届も出さずに出社拒否をしている状態だ。

(また辞められなくなった)

 私も早く辞めたいのだが。

 そう思いながら出社しスタッフルームに入る。

 今日は9時~18時の日勤なので8時には出勤する。

 出勤簿に8時45分に出勤、とサインをした後シフト表を見ると一番下に『詩節』と書かれていた。

(ああ、今日から入るって言っていたな)

 多分新人の名前だろう。

 新しくこの『介護付き有料老人ホームグット温』のスタッフとして1人入社してくる様だ。

 随分珍しい名前だなぁ、何て読むのだろう?


 食事介助が終わった9時過ぎ、施設長の藤原さんに連れられてスタッフルームから出て来た新人さん。

 珍しく今風の凄い美人だった。

 髪が長くてシルエットも細くて、何より介護施設のスタッフらしくないいい香りが少し離れた所にいる私にも届いた。

「じゃあみんな集まって下さ~い」

 施設長がパンパン、と大きく手を叩く。

 フロアにいるスタッフ一同が集まった。

「今日からこの素晴らしい『グット温』の新しい家族となります詩節美雪(しせつみゆき)さんです。2階リーダーの山田さん、詩節さんに色々教えてあげて下さい。まぁ他の介護施設もご経験なさっているみたいなので即戦力だと思いますけど、ね」

 そう言って詩節さんの方をポンポン、と叩くと下の事務所に続く扉を開け施設長は出て行った。

「ずいぶん細いのね。重い利用者様を持ち上げたりできるのかしら?」

「続くのかしらね?」

「どうせ元お水かヤンキーでしょ? 介護なんて簡単だと思って。無理無理~」

 年配女性スタッフのひそひそ声。

「まぁ任せて。私が立派な介護士に育ててあげるから」

 ニヤッと笑う山田リーダー。

「さぁ詩節さん、私が2階リーダーの山田です。ここでの仕事を教えてあげるからついてきて」

 手招きする2階リーダー様に深々と頭を下げて笑顔でついて行く詩節さん。

 今回は続くといいなぁ。


 私の心配とは裏腹に詩節さんは物凄く仕事のできる人だった。

 ネブライザーの使い方、体温の測り方は看護師よりも手際が良く、初日から入浴介助までやっていた。

 山田リーダーも満足気だ。

 『グット温』に物凄いイケメンや美人さんが入社してくる場合、訳有り、元お水、元ヤンキーという割合が非常に多いのだが、詩節さんはそのどれにも当てはまりそうもない位に清楚だし人当りも良い。

 これは利用者様からも人気が出るなぁ、なんて考えていたらあっという間に17時になってしまった。

 この時間になると入所者様を食事室に集合させなくてはならない。

 山田リーダーは適度にたばこ休憩に行っていたが、平スタッフやパートさん達は結局利用者様達と食べる昼食の時間以外、今日もほとんど休憩を取る事無く働く事になってしまった。

 初日から辞めたいと思う人が出たり、実際辞めてしまう人が出たりしてしまうのはこういった激務が原因だと思う。

 しかし詩節さんは文句1つ言う事無く、笑顔で『グット温』の社訓でもある奉仕、ボランティア、元気、を地で実行している。

 よくこんな素敵な人が入社したなぁ。

 

 食事の時間は17時半。

 スタッフは利用者であるお年寄りと一緒に食事をする。

 私達は利用者様達と家族なのだから、が施設長の口癖だ。

 しかし施設長が利用者様達と食事をするのは利用者様家族がいる時しか見た事がないのだが。

 あと朝食1回250円、昼食夕食1回300円の『賄い料』を給料から引かれるのが地味にきつい。

 家族コンセプト、という言葉が素敵でここに入社したのだけど、徹底的に色々な場面で給料が圧迫されていた。


 車いすの利用者様も含めて、漸く今日も全員着席してもらった。

「よーし。じゃあいただきます」

 山田リーダー挨拶の後、食事になる。

 この時間には18時からの夜勤スタッフが来ていて1人で食事ができない利用者様の食事介助をするのだが、夜スタッフは少ないので結局私達日勤者が手伝わなくてはならない。

 その為に一緒に食事をさせているのだ、と気が付いたのはずいぶん経ってからだった。

 頭のいい人はすぐ辞めるのだが、私は逃げ出すのが遅かった為、辞められない立場になってしまっていた。

「おい、あの子は誰だ?」

 私の隣に座っている男性Y者(要注意利用者)の北川様が話しかけて来た。

「あっ、はい。今日からこの『グット温』の新しい家族になった詩節さんです」

 『グット温』はアットホームな雰囲気が売りなのでスタッフの事は家族、と呼んで下さいと利用者様達に言っている。

「ふぅん、新しい家族ねぇ。今度の子は続くのかねぇ」

「いや、どうでしょうか」

「じゃあ俺が教育してやらないとなぁ」

 ニヤッと笑う北川様。

 またいびりをやるのかな。

 そういう事をするから本当の家族から捨てられたんだぞ。

 言いたいけど言える訳もなく、ただ曖昧に笑顔で終始する私。

「よし、じゃあ後で俺の部屋に来る様に言っておけよ」

 そう言って車いすを器用に回すと、自分の部屋に戻っていく北川様。 

 もう終業時間はとっくに終わっているのだが、利用者様のご要望には応えなくてはならない。

 私達は家族なのだから。


「詩節さんすみません」

 利用者様達が各自部屋に戻った後、テーブルを拭いていた詩節さんに話しかける私。

 細くて背が高い体が動きを止める。

 一纏めに縛られた長い髪を揺らせて白くて小さな顔がこちらを向いた。

 少し灰色の両眼が私を捕らえる。

(本当に綺麗な人だなぁ)

 言葉を発せず、ただその素敵な姿を見続ける私。

「どうしました?」

 綺麗な声で現実に引き戻してくれた詩節さん。

 いかん、見とれてしまった。

「もう終業時間をとっくに過ぎているのに申し訳ないのですが、北川様が部屋に来るようにとの事でしたので……」

 頭を何回も下げながら要件を言う私。

 断られたらどうしよう、と心配だったが、

「わかりました。行きましょう、吉岡さん」

 何でも無い様に笑顔で言ってくれた詩節さん。

「助かります。じゃあ一緒に行きましょう」

 安堵する私。

 良かった。

 本当にいい人みたいだ。

 先導する私の後ろを、なぜか楽しげに着いてきた詩節さん。

 ん?

 もう名前を憶えてくれたのかな?

 まだ自己紹介もしていなかったと思うのだが。

「何故私の名前を知っているのですか?」

 思わず聞いてみる。

 すると、

「美雪ですよ、美雪。お忘れですか?」

 物凄く楽しそうに私に話しかけてくる詩節さん。

 あれっ、知り合いだっけ?

 全然思い出せない。

 なので、

「名字変わっています?」

 可能性がありそうな事を聞いてみた。

「結婚なんてしていませんよ」

 とても楽しそうな詩節さん。

「申し訳ないけど思い出せません。同級生?」

 失礼な話だが聞いてみた。

 しかし、

「じゃあ、思い出したら、言って下さいね」

 ゆっくりと意味深に言葉を区切りながら言った後、私の顔を見つめ続ける詩節さん。

 ドギマギしながら、改めて詩節さんを見る私。

 いや、

 こんな美人、

 今までの人生で会った事無いと思うのだけれども。


 コンコンコン

「北川様、詩節さんをお連れしました」

「おう入れ!」

 横柄な返事が部屋の中からしたので引戸を開ける。

 車いすに座ってニヤニヤしている北川様。

 また無茶ぶりをするのだろうなぁ。

 詩節さん、辞めないといいなぁ。

 そんな事を考えていると、

「おいねーちゃん。手が疲れたからよぅ、マッサージしてくれ」

 手を前に出す北川様。

 異臭がする。

 まさか!

 今回の北川様のいびり、もとい教育、は度が過ぎていた。


 手には大量に茶色い物がこびりついていたのだ!


 ポータブルトイレを見ると出したばかりであろう大便があった。

 いくらなんでもやり過ぎだ。

 しかし注意なんかして北川様から苦情が出てしまったら、ただでさえ少ない給料がまた懲戒減給になってしまう。

 どうしよう。

 オロオロするばかりの私。

 私の脇をすり抜ける様に通り、北川様の前に立つ詩節さん。

 どうするのだろう。

 そして北川様の前にしゃがんだ詩節さん。

 まさかやるのか!

「おらっ、この手をマッサするんだよ!」

 大便のついた手で美しい詩節さんの顔をペタペタ触る北川様。

 止めろ!

 言いたいけど声が出ない。

 そんな自分が情けない。

 

 しかし、


 素敵な、


 見とれる位美しい笑顔の詩節さんは、


「はい、北川様」


 その手を取り、丹念にマッサージを開始した。


 声を出して笑い出す北川様。

 唖然とする私。

「おい、臭いだろ。おい!」

 笑いながら聞く北川様。

「いいえ、そんな事無いですよ」

 事も無げに返す詩節さん。

 嫌な顔一つせず。

 その異常ともいえるこの状況を見て思った。

 この人は本物、介護のプロフェッショナルだ、と。

 

 

 ケアステーションに戻る途中、流しで手と顔を洗う詩節さん。

「すみません、北川様もあんな無茶を言うのは久しぶりでして……」

 恐縮して小さくなっている私。

「別にあれ位、介護の仕事をしていればよくある事じゃないですか」

 全然気にしていない感じで穏やかに言う詩節さん。

 手を洗い終え、美しいブランド物だろうハンカチで丁寧に両手を拭く。

「一緒に帰りましょう。吉岡さん」

 そして楽しそうに私を誘った。

 私の腕を、白くコンクリートの様に冷たい詩節さんの手が掴む。

「わっ、わかりました。行きましょう」

 急の事でドキドキする私。

「まだこの仕事、やっていらしたのですね」

 詩節さんが早口で小さく呟いたが、胸のドキドキの方が勝ってしまい何の事か聞き返す事が出来なかった。

 

 申送り帳を書いて、退社する私達。

 終業時間は18時だが、時計は20時を過ぎていた。



 初春の夜。

 まだ寒い帰り道。

 月光が詩節さんの美しい顔を更に美しく照らす。

 その美しい顔に見とれつつも、一生懸命誰だったか思い出そうとする私。

「何か?」

 そんな私に気が付いたのか、詩節さんが話しかけてきた。

「いや、別に」

 慌てて目を逸らし、下を向く私。

 クスクスと笑いながら、屈んで私の目を覗き込む詩節さん。

「吉岡さん好みになれたと思いますけど、どうですか?」

 意味深な言葉を私に投げかける。

「何がですか?」

 聞き返す私に、

「何がでしょうね」

 上機嫌で返す詩節さん。

「多分思い出してもらえないと思うので気にしないで下さいね。でも、思い出したら……思い出してくれたら……嬉しいな。じゃあ私こっちなので。失礼します」

 深々と頭を下げると、駅の方向に歩いて行った。


 本当に誰なのだろうか。

 正直全くわからなかった。

 

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