第2話 潜むナイトジャスミン

 徐々に梅雨の兆しが見える5月下旬。夜も蒸し暑い日々が続いていた。

 道行く人の足取りは重く、湿気た空気にうんざりとする。

 そうした『空気』が寄り集ると、やつらが出てくる。

 退魔師の中では妖魔と呼ばれる者達。妖しく人を誘う魔の者達。


 大阪の中心部であろうとも一本大通りを外れると途端に人通りが少なくなる。

 人気の薄れた場所、普段人が寄り付かない寂れた立体駐車場に1人の女性が立ち尽くしている。スーツとカバンを持った、仕事帰りのOLといった風体。道に迷った様子ではなく、ぼうっと視線は定まらず虚ろに佇む。ふと、駐車場の奥から風が来る。OLは歩き始めた赤ん坊のようによたよたと、少しずつ風に導かれるまま奥へ『招かれた』。

 街灯から遠ざかり、暗がりの方へ行く。すると徐々にOLの眼に光が戻った。臭いだ。むせ返るような鉄錆の臭い、腐った肉の香り、そして蜜を飲まされたかのような甘ったるい花の匂い。それらの悪臭に思わず意識が戻った。

「あ、れ私なんでここに」

 OLはぼうっとした頭を振る。しかし足取りは奥の方へと続く。状況と悪臭と異変に困惑の表情は恐れに染まる。

手荒く四方に車駐車されている空間。その真ん中に、10人ほどの『鬼』と『女のような形をした鬼』がいた。

OLは叫ぼうとしたが、悲鳴は上がらない。金縛りにあったかのように息が詰まり――事実、鬼の金縛りによってOLはただただ鬼たちの元へ引き寄せられていく。鬼は暗がりにあっても尚目立つほど赤く塗れている。最低限の部位が隠されている程度のぼろきれを纏っているが、血濡れて赤色の方が多い。にちゃり、にちゃりと鬼たちはなにかの肉を頬張っている。

【アァ……】

 鬼たちは恍惚とした表情でOLを向く。目尻を下げ、降格を上げ、さぞかし嬉しそうに笑っていた。一瞬、甘ったるい香りが強さを増す。OLは吐きそうになるがそれすらもできなかった。鬼たちが肉塊を平らげ、次のOL≪にく≫へ飛びかかろうとしたとき、女の人食い鬼が手で制した。

【おや意識があるのか。アァ……この夜香木の香水のおかげかね】

 人食い鬼は自身の体を愛おしそうに嗅ぎ――OLを引き摺りこむ。

 まさしく鬼の形相。女の形をした人食い鬼はOLを力強くフェンスへ押さえつける。

【アァアアアア! 忌々しい! 私も若い時はお前のようだった。だがどうだい。今や腐臭と死臭を隠すために臭いのきつい香水で誤魔化す始末さ。手に負えないよ。だが、だがね。それも今日でおしまいさ。お前を喰って、皮をはいで、馴染んだら街中へ入ってたんまり肉を食ってやるのさァ。子供達の分も稼がなきゃいけないからネェ】

 女人食い鬼は女の首を絞める。絞殺などではなく、首をへし折る勢いで力を込める。OLは死を覚悟し、逃れようとするができて足を小さくばたつかせるのみ。ヒールがカツン、とアスファルトへ転がる。

「か、た、すけて!」

【ヒヒッ! この期に及んでいい面の厚さだ。被りがいがあるよ。さぁ、私の皮となり!】

 さぁへし折るぞという時だった。後ろの鬼たちが叫ぶ。女人食い鬼が何事かと振り向けば、頭にぴしゃりと水がかかった。

 雨漏りの考えはすぐに過ぎ、瞬時に背中へ猛烈な熱さと痛みを感じる。熱湯を浴びせられたかのような、鋭い痛み。

【アガアアアア! な、だ、があああああ!】

 何だ、誰だ。言葉は痛みを紛らわせる叫びとなるのみ。女人食い鬼たちはたまらず地面へOLを地面へ落とし、狩場から転がり飛び出る。自身たちからは肉の焦げた臭いが立ち込めている。

 立体駐車場には誰も来られないはずだ。誰もいないはずだ。

 しかし今一人の小柄な少女が立っていた。凛々しくもあどけない小柄な少女。よく似合う玩具の鉄砲を片手に、十字架をもう片手に。少女はカソックを身に纏っている。改造が施されているのか、スリットからは膝まである長いソックス、スニーカーがみえた。

 一見すると、ただの食いでのない小童。しかし、その空気はこの場にあっても澄んでいた。赤いと灰色の空間を埋め尽くすほどの『青い霊気』が迸る。霊気は冷気となり、吹き抜ける夜風を冷やかなものとした。

 女人食い鬼は勇み立つ少女を前にして鬼たちと笑う。獲物への舌なめずりではない。明確な嘲笑だった。

【よもや、とは思うが迷子ではあるまい。おぬし、退魔師よな? 仲間はどうした】

「ご明察の通り、ではありますが性格には祓魔師です。人食い鬼さん。此度は1人、悪魔払い任務で参りました」

 少女は水鉄砲の銃口を外さず、視線を鬼たちへ向けたまま正直に答える。

 確かに女人食い鬼は周りの気配を探るがそれといったものは感じられない。

 女人食い鬼はククッと喉を鳴らす。傷の痛みよりも片腹の痛みで悶えそうだった。

 コイツは、バカだ。

 最初の攻撃こそ不意をくらったがそれまで。囲まれては一撃与える毎に喉笛を噛み切れるのはたやすい。確かに霊気の質こそ強いようだが、頭が悪いようでは喰われるが定め。

 女人食い鬼は静かに息を吸うと微笑んだ。

【去ね】

 その一言と共に子供の鬼たちが飛びかかる。女人食い鬼も続こうとして、怖気が走った。

 少女は瞬時に水鉄砲を空中へ散布。ミスト状になった水に触れた鬼から皮膚が焼けていく。聖水入りの水鉄砲。鬼たちが苦しみながらも手を伸ばす。

 しかしどうだろう。見えざる何者かが少女に触れることを禁じるかのように、少女に触れた鬼の半身は目前で消し飛んだ。少女の首元から小さなメダルが見えた。

【小賢しい退魔師め!】

「祓魔師です」

 鬼たちは次々に特攻をしかける。その都度メダルから霊気が漏れるが次第に薄れて行っていた。女人食い鬼は見逃さず、霧を振り払い、少女へ飛びかかる。

【失せなッ!】

 女人食い鬼は下から大きく腕を振りかぶり、爪で少女のカソックを捉える。深く肉を抉るかに思われたが、カソックに仕込みが施されているのか薄く皮を割くに留まった。少女は痛みに顔をしかめることもなく、牽制の水鉄砲を放ち距離を保つ。間髪入れず子供の鬼たちが襲い掛かる。

 矢継ぎ早に繰り返される攻防。退魔師は確かに鬼たちの数を減らし残り3人ほど。だが目に見えて霊気の密度が薄くなっている。

 女人食い鬼はは腹をかかえて笑った。調子がいいのは口だけ。片腹痛いとはこのことか! 女はさてこの後嬲り殺しにして食べるかと考えを巡らせながら、自身の腹をさする。

 ふと固い感触がする。視線を落とすと少女の手に持っていた十字架が刺さっていた。先の攻防の一瞬をついて刺したのか。ただ何の力もない十字のようだ。こんなものは痛みのうちにすら入らない。

 女人食い鬼は煩わしそうに抜こうとして――表情が強張った。抜くことができない。

 鬼たちの悲鳴を割いて、少女の祈りの言葉が立体駐車場に響く。

『大天使ミカエルよ。戦いにおいて我らを守り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。主の御力によりて地獄へ閉じ込め給え。アーメン《かくあれかし》』

 祈りが立体駐車場に反響する。祈りの言葉は何重にも重なり、鬼たちを苦しめる。女人食い鬼には十字架を音叉として体内と外から浄化する。

【おのれェェエエエ!】

 祈りの言葉をかき消さんと叫ぶ人食い鬼だったが、それを断末魔に掻き消えた。


「任務、完了。いてて……」

 カソックを抑えながら少女は狩場へ向かう。OLは耳を塞いで怯えた様子だった。少女をみてもその表情は変わらない。

「ご安心を。助けにきましたので」

「あ、あなた……なに? 誰よ!」

少女は少し考えた後OLにゆっくり近づく。怯えるOLの手を優しく、しかし拒否を許さず手に取る。すると次第にOLの顔が安らいでいった。不自然なほどに、不安が収まっていく。そして安らぎは次第に眠気へと移っていく。

「は、え?」

 少女は困ったように苦笑する。

「一応守秘義務があるので。嘘は嫌いですし……近所の高校生ってことで」


少女は女性を抱えて立体駐車場を後にする。カソックからスマホを取り出し、「掃除係」に伝達する。無機質な男性の声がした。

『所属、ランク、名前を』

「扇花教会所属退魔師、ランク:B。瑞城愛実です」

『確認しました。すぐに向かいます』

 端的な報告のあと電話を切る。愛実はふと後ろを振り向いた。

 後には人食い鬼が残した服のボロとナイトジャスミンの香水瓶だけが転がっていた。

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アザレア ジョーケン @jogatuji

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