エピローグ

「それは、何かの小説ですか?」

「……ええ。昔読んでいた小説なんですが、最後まで読まないうちに失くしてしまって。どうして今更思い出したのかは分からないけれど、何となく真相が気になって……」

 微かだが暖かい光が照らす店内、カウンターを挟んで私はこの店の主人と会話をしている。丸くて広い温厚そうな顔立ちに、バーテンダーの格好はお世辞にも似合っているとは言えない。

 ここに来るのは、二回目だった。

「そうですねえ」

 主人はグラスを拭きながら思案するように首を傾げた。彼の手元でガラスと真っ白な布が軽快な音を立てる。

  一週間前この店に来たとき、私は酔いつぶれてしまった。主人が言うには私はおかしな事を繰り返し呟き、ふらふらとしながらも自分の足で帰っていったらしい

 そして私は、気がつけば自宅のベッドの上にいたのだった。

「個人的には、夢の中に出ているから浮浪者は事件に関わっていたはずだ、っていうのに違和感がありますねえ」

「というのは?」

「うーん。僕も夢診断とかその辺に明るいわけじゃあないんですけど、浮浪者は三十年前にいたのではなく、その事件における何かの象徴としての姿だった、とかはどうですかね。野心的でエネルギッシュな人が、夢の中ではライオンとして登場する、みたいなのを聞いたことがあります。それと同じで、浮浪者は何かしらの人物、事実、あるいは感情の象徴だったんではないかと」

「……なるほど」

「だって、夢ですしね」

 主人は声に出している内に自分の考えに自信を持ったらしく、どこか嬉しそうに続けた。

「主人公が〝夢に出ているから、現実にもいたはず〟と頑なに考えているのは、やはり変だと思いますよ。まるで何かしらの真実に気付くのを避けているような。無意識にね」

――脳は自分にとって都合の悪い事実をシャットアウトする

 つまり、浮浪者が象徴している何かは、私にとって都合の悪い、私が無意識に封印した記憶ということか。

――抑圧された記憶、あるいは解離された記憶は、一体どうなると思う?

 自分の記憶の一部があまりに辛いもので、自分の日常生活に極端に妨げとなる時、脳は自己防衛としてその記憶を封印することがある。それを抑圧された記憶と呼ぶ。また解離とは、脳が日常生活を支配している自己の意識と、ある精神活動――感覚、知覚、記憶、思考、意図などを隔離してしまうことだ。その極端な例がいわゆる多重人格であり、もう少し身近な例でいえば気付いたら相手を殴っていたとか、ストレスである期間の記憶をなくす、といった事がある。抑圧と解離は似て非なるものだが、もちろん私はその道の専門家ではないので、その私の夢の中であの男が厳密な定義をもって使った訳では無いだろう。

 いずれにせよ、私は何か重要な事を忘れているのだ。

 私はグラスを掴んで、その中身を勢いよく飲み干した。

「お客さん、そんなに無茶に飲むとこの前みたいに潰れちゃいますよ」

「いや、いいんです」

 喉の奥を流れるアルコールの感覚に浸りながら、私はグラスに残った氷を見た。

 溶ける、か……

「じゃあ、最後のシーン、風呂敷の中身が海鳥になったっていうのは、どういう意味だと思いますか?」

「ああそれですけどねえ」

 主人は拭いたグラスを綺麗に並べ終えてから、真面目な顔つきになった。

「主人公はどうして、その鳥を海鳥と表現したんでしょうか」

 はっとした。

「正直僕は海鳥といっても何が海鳥で具体的に普通の鳥とどう違うのかも分からないんですよ。海で見たならいざ知らず、そんなに不思議な状況から現れた鳥を、どうして海鳥だと思ったんでしょうか」

 あれは確かにユイの町で飛び、鳴いていた海鳥だった。真っ白な体に、羽としっぽにだけ黒が混じっている。あの町で私は何度も見かけた鳥だ。

「それは、その海鳥の印象が強かったから……」

「ふむ」

「ユイ――その少女といる時に、主人公は海鳥をよく見かけました。最後の日、灯台の周りでさえ。だから、印象が強かったのかも。少女が、あんなふうに飛びたい、なんて言っていたくらいだし」

「ああ――」

 主人は納得したような、少し不思議な表情を見せて、

「――色々思いつきました」

 と言った。

「まあもちろん、僕の無責任な推論、というより想像ですけどね。……語っても?」

 主人の言い方は決して重々しいものではなかったが、妙な緊張感がそこにはあった。

 私は頷いた。


「では。まず少女の身体の痣ですが、これはほぼ間違いなく父親によるものでしょう。妻を亡くしていることや、娘への異常な熱愛ぶりからも伺えます。浮浪者の存在を無視したなら納得のいく説だ、と主人公も認めていますしね。そして先程言った通り、浮浪者は少なくとも浮浪者の姿としては存在していなかったとします。そうすると、灯台から少女が消えた理由は単純明快」

 主人は私の反応をうかがうように一呼吸置いた。

 私は、酷く喉が渇いていた。

「海に身を投げたのでしょうね」



「いや待ってください」

「はい」

「ユイは――少女はその直前まで主人公と戯れていたんですよ。灯台に行ったのだって主人公に綺麗な景色を見せるためだったし、そんな人間が自殺するだなんてありえないですよ」

 主人は目を丸くした。しかしそれは私の発した言葉の内容にではなく、私の妙に激しい反応に、だった。無理もない。昔読んだ小説の話だと偽っているのだから。私は高ぶる感情を必死に押さえつけて、何とか平静を装った。

「……どうして、自殺だと?」

「もちろん、これは私の偏見が多大に含まれた考えであるかもしれませんけどね、殺人とか自殺って、ほとんど衝動的なものなんですよ。かっとなって、あるいは勢いに任せて、人は禁断の境界を飛び越えてしまう物なんです」

 主人は言ってから、自分の仰々しい表現が恥ずかしくなったのか、頭をぽりぽりと掻いて「まあこれは、ある小説の台詞なんですけどね」と呟やいた。

「それに、身を投げたのだと結論付けたのには理由があります。例の海鳥ですよ」

 海鳥……まただ。私とユイとの間には、いつも海鳥がいる。

 都会の深夜のバーで、私はあの鳴き声を感じた。

「浮浪者が抱えていた風呂敷の中身、それを父親は〝ユイ〟だと言いました。主人公も途中でそういう認識を抱えます。実際に、風呂敷から出てきた海鳥はユイなんですよ」

「それは、どういう」

「ああ、そうだな。ごめんなさい、自殺とはニュアンスが違いますかね。客観的に見れば同じでしょうが。多分ね、少女は灯台に上って、頂上の回廊に出て、大海原を飛ぶ、灯台の周りを飛ぶ海鳥の群れを見て、また彼らと同じ高さから海と地面を見下ろす自分を認識して――」


「――飛ぼうと思ったんです」



    ***



 螺旋階段を駆け上がって頂上にたどり着く頃には、私の息はすっかり上がっていた。開かれた扉の外、回廊で私に背を向けて立っているユイに声をかけようとした。やっと追いついたよ、と。

  海鳥が灯台の周りを、私達の周りを囲んでいた。

「ユイ――」

 そして、私はその光景を眼にする。



 ユイは回廊の柵に足をかけ、

 

 

 勢いよく、



 飛んだ。



 それは、一瞬だった。


 わけがわからなかった。


 ユイの身体はそのまま上空へと――




――飛翔することは、無かった。


 地面から、嫌な音がした。



 私は頭が真っ白になって、一心不乱に階段を駆け下りた。

――どうして

 途中で足を踏みはずしかけたが、危ないなんて思う余裕もなく、

――ユイ

 ただただ下へと足を進めた。


 ユイは、地面が途切れるぎりぎりの所、崖の淵で、うつ伏せになって倒れていた。私はそれを見ただけで、頭の中が爆発するようだった。ふらふらと、機能しない思考とともにユイの元へ歩み寄る。


「ユイ」

 私は、恐る恐るその身体に触れた。分からない。生きているのか、死んでいるのかなんて、それだけでは幼い私には分からなかった。私は懸命にユイの身体を揺らした。身体が反転し、顔面が露わになった。今考えると、ユイは足から着地して、頭への衝撃は、最悪のものではなかったのだろう。髪の毛を、額を伝って鮮血が流れていたが、ユイの顔は美しいと言えるままだった。

「ユイ……ねえ起きてよ。ねえってば……!」

ゆっくりと、彼女の瞼は開いた。

「……よかった、ユイ……どうして」

 ユイは右手をぷるぷると震わせながら空へと突き出し、まっすぐに指差した。私は空を見上げた。

 

 海鳥。


「……あ…し、……う……」

ユイはぱくぱくと口を動かして、必死に何かを伝えようとしていた。

「……あたし……と……たい……」

「分かんないよ、ユイ」

「……おいえ……」

ユイの焦点の定まらない眼の奥で、しかしそれは強く輝いた。

「おひえ……」

「何……?」

 ユイの口は、なおもぱくぱくと壊れた人形のような動きを続ける。

「おひて……」

 ユイは、ゆっくりと両腕を動かし、這いつくばって自分の体重を支えようとした。そうしてゆっくりと、上手くはいかないのだが、前に進もうとする。

「……動けるの、ユイ……?でもそっちは――」

――崖

「駄目だよ」

「おひて……」

「ユイ、駄目だって」

「おして……」




  




   ***



 押したのか……?

「お客さん?酔っちゃいました?」

 まさか私は、押したのか……?

「あの、大丈夫ですか?」

 そうか、だからあの浮浪者は……

「大丈夫?聞こえてます?」

「浮浪者の正体は、主人公自身なんです」

「はい?」

 私の声は、酷く震えていた。

「小説の真相を思い出しました。やっぱり僕は、最後まで読んでいたんです」

 主人の推測は正しかった。

「灯台から飛び降りた、いや飛んだ少女は、ぎりぎりで海に落ちることなく、陸地の、崖の先で止まりました。少女は幽かながらも意識を保っていました。そして自分で再び崖から飛び降りようと、いや飛ぼうとするのですが、身体は思うように動かず、私にこう頼みます。押して、と……」

「〝私〟ですか……?」

「私は、本当に押したのか、押していないのか、わかりません。押していないとしても、あの崖の淵では、ユイに残されたほんの僅かな力だけだも、海に身を投げることはできたのかもしれません。でも、そうだとしても私はユイを見殺しにしました。私が殺したんです。彼女を引き止めて、助けを呼んでいればあるいは彼女の命は助かったかもしれない。だから、私が殺したようなものなんです」

――お前が、私の愛する娘を、ユイを奪い去ったのだ。

 そう、あの浮浪者は私の懺悔と穢れの象徴なのだ。言い換えるなら、魂を貶めた末の私の姿なのだ。だから私は糾弾された。だから私はユイの父親に殺された。だから私はユイの死体を――灯台から飛ぼうとして飛ベなかった海鳥の死骸を風呂敷で包んだのだ。だからあの海鳥は、私の血潮を、私の懺悔をもってして蘇ったのだ……


 ユイの身体は海に沈んだ。潮の流れが強い場所だった。彼女の死体はきっとすぐに、遠い所へ流されてしまったのだろう。


 私はその記憶を閉じ込めた。


 私は一人で帰ろうとした。


 そして、知らない道に迷い込んだ……


 ああそうだ。その通りだ。何もかもを思い出してしまった。ユイはそのまま帰らぬ人となった。警察の捜査は打ち切られた。ユイの町から地元へと戻った私達にもその連絡が来た。父は私を優しく慰めた。そして時は流れ、私はユイの事すら忘れかけて、微塵の罪の意識もなく、のうのうと、今まで生きてきたのだ。


「それで、結末はどう迎えるんです?」

  溢れ出る涙を拭ってどうにか視界を元に戻すと、主人は神妙な面持ちで私を見つめていた。

「その小説はどんなエンディングを迎えるんです?まさか、主人公が悲しんで終わりなんて、そんなつまらない幕引きはないでしょうね」

「私は、ユイを殺したんだ」

「主人公は彼女を殺したんじゃありません。彼女は自ら、海鳥になったんです。もし彼が崖の上で彼女をひきとめていたら、彼女はその後生き永らえたとしても、間違いなく大きな傷を残し、彼女を虐待していた父親と二人で生きなければならなかったのですよ」

――お前は私を裏切らない、裏切ってはならないんだ!

――ここにいると、私は死んでしまうから。

「だから彼女は、鳥になることを選んだんです。自らの枷を外して、自由になるために」

「そんな……」

 胸に突き刺さるのは、ほんの僅かな日々だったが、純粋に幸せを感じていた木漏れ日のようなユイとの時間。あの少女には何の罪もなかった。彼女が死ななければならない理由などなかったというのに。

「私は、ユイに生きていて欲しかった。もう一度抱きしめて 欲しかった、夢を聞いて欲しかった。そばにいて欲しかったんだ……!」

「それはもう、終わってしまったことです。過去の事象は変えることはできない。変えられるのは解釈だけだ。貴方は今生きている以上、彼女の死を認めて、前に進むしかないんです。その先がその小説の結末なんです」

「ああ……ああああああ……!」





 グラスの氷は溶けきってしまった。思い出はすっかり溶けて、私の心を染め上げ、蝕んでしまった。これを再び凍らせて、胸の奥底にしまっておくことなど、私にはできない。ならばせめて、彼女への弔いを送ろう。海鳥となって空へ羽ばたいた彼女に私のできる全てを捧げよう。例えばそうだな、小説を書いてみようか。幼い頃に志して、投げ出してしまったあの夢の続きを。

――素敵だと思って。

 それならユイもきっと喜んでくれるはずだ。海鳥となった姿で、力になってくれるかもしれない。

――一緒に仕事ができるね

 なあ、ユイ――


 グラスの底にたまった水は、照明の暖かな光を反射していた。

 遠くなる意識の中で、海鳥の鳴き声とともに、凄く懐かしい笑い声が聞こえた気がした。


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夢を 鴉乃雪人 @radradradradrad

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